ひとりごと
2011年 9〜12月
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<2011-12-30>
お風呂の中で、ふと思った事。
その1
世の中には、奪う側の人と奪われる側の人がいる。
「困ったときはお互い様」は、ただのきれいごと。奪う人は奪い続け、奪われる人は奪われ続けて、入れ替わることは決してない。
その2
世の中の常識をひとつひとつ疑い始めると、こちらの世界に戻って来られなくなる。
<2011-12-7>
4人の男性が仲の良いグループだったとします。
4人には全員、つきあっている恋人がいて、今度お互いのパートナーを連れてバーベキューに行こうということになりました。
8人でバーベキューをしてみると、女性同士もすぐに仲良くなりました。
他人から見れば、4組のカップルで構成されたこの8人は、仲の良いグループに見えます。何の問題もありません。
さて、この8人が、このような出会い方ではなく、まだ誰もつきあっていないうちに偶然に出会い、何となくグループになったとしましょう。
そして出会った瞬間に、8人とも一目惚れをし、潜在的な4組のカップルが出来上がったとします。
しかし、いくら一目惚れをしたからといって、翌日に4組のカップルが成立しているわけではありません。
8人で仲良く時間を過ごしながらも、「自分が相手に気持ちを伝えることで、この和を乱してしまうのではないか?」、「もし上手くいかなかったら、せっかく仲良くなった他の6人とも気まずくなってしまうのではないか?」などと悩み、誰もがなかなか告白することができません。
やがて時間が流れ、どうやら相手も自分を好きなのではないかと、全員が気づきはじめます。そして最初の1人が均衡状態を破り、めでたく1組目のカップルが成立します。残りの6人は、「先を越された」と思いつつ、大いに刺激され、自分はいつ気持ちを伝えようかと考えます。
やがて2組目のカップルが成立します。残された4人は、だんだんと焦ってきます。
しばらくして、3組目のカップルも成立します。
さて、残された2人は、初めからお互いのことが好きでした。しかし、他の6人よりもちょっとだけ勇気がなかったために、今ではグループの中で、残りもの同士のような、逆に気まずい立場に立たされています。「お前らもつきあっちゃえよ」と、冷やかされて顔を真っ赤にしたりもします。
お互い、余計に意識するようになり、ついには男の子が気持ちを伝えます。
「初めから君のことが好きだったんだ」
「私も初めから、あなたしか見えなかったわ」
2人はめでたく、つきあうことになります。
しかし、この「最後の2人」という状況が、関係に小さな影を落とします。
他の6人は、決して口には出しませんが、心のどこかで「あの2人は仕方なく、残りもの同士でつきあったのだ」と思っているかもしれませんし、思っていなかったとしても、本人たちはそう思われているような後ろめたさを感じるかもしれません。
また、本人たちもパートナーに対して、決して口には出しませんが、「この人は私しか残っていなかったので私で妥協したのだ」という思いがいつまでもついてまわるかもしれませんし、ケンカの際、つい「本当は私のことなんか好きじゃなかったんでしょ!」などと相手を責めてしまうかもしれません。そして相手が「そんなことはない」と否定しても、それを信じることができないかもしれません。
彼女には、彼が他の3人よりも後に告白をしたという事実が、彼の迷いを表しているように感じられるのです。
相手を好きになってから、その気持ちを伝えるまでのタイミングは人それぞれです。すぐに気持ちを伝える人もいれば、1年も2年も気持ちをあたためて、それから伝える人もいます。
彼には彼のタイミングがありますので、決してそのタイミングが「迷い」を表しているわけではありませんし、他の6人がいない状況で2人が出会っていれば、彼女はそのタイミングが早いのか遅いのか、考えることもなかったでしょう。
さて、ようやく4組のカップルが成立して、8人でバーベキューへ行きました。
他人から見れば、4組のカップルで構成されたこの8人は、仲の良いグループに見えます。何の問題もありません。
しかし、4人の男性グループがお互いのパートナーを連れて8人でバーベキューをしているのと、8人の男女のグループが、結果的に4組のカップルになってバーベキューをしているのでは、見た目は同じですが、やはり決定的に何かが違います。6人は最後の1組を少し下に見ているかもしれませんし、最後の1組はお互いの気持ちをどこか信じきることができません。
どうでもいいことを長々と書きましたが、見た目が同じでも、順番が違うだけで、物事というのはまったく意味合いが違ってしまうのだと思います。そして、こういった誤解を解くことは、ほとんど不可能なのかもしれません。
本当にそう思っているのに、状況が信憑性を失くすということが、世の中ではいくらでも起こるのです。
<2011-12-5>
テレビ台の高さが低かったので、ホームセンターで木を買ってきて、一段高くしました。
高くした分、下にスペースができたので、そこに水槽を置いて熱帯魚を飼うことにしました。
今まで熱帯魚を飼ったことはなく、何を揃えたら良いのかもわからなかったので、「テトラ
スマート熱帯魚飼育セットSP-17TF」を購入しました。
17cm x 17cm x 17cm の小さな水槽で、ヒーターとフィルターがついています。
台の下は暗かったので、クリップ式のLED照明も購入。
あとはホームセンターで砂利、流木、ウィローモス、温度計などを購入して準備完了です。
調べたところ、水槽を立ち上げてからすぐに魚を入れてはいけないらしく、水をキレイにしてくれるバクテリアが繁殖するまで、1週間は魚を入れずに放置するそうです。
1週間たち、ネオンテトラ、レッドファイヤーシュリンプ、オトシンクルスを入れました。
水槽の前で魚たちを見ていると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。
特にエビが、砂利や水草をツマツマしている様子は見ていて飽きません。
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<2011-11-14>
先日、デジカメを買いました。
購入したのは、SONYの
Cybershot WX10 です。
以前のデジカメは7年前のものだったので、最近のデジカメの進化には驚きました。
暗いところでも、フラッシュを使わずに手振れのない、綺麗な写真が撮れることにまずびっくり。
ズーム倍率も高く、「オート」で撮ると、カメラが勝手に状況を判断してくれるのも便利。
そしてこの大きさで、フルハイビジョンの動画が撮れるなんて……。
昔のデジカメの動画は「おまけ」という感じでしたが、WX10はビデオカメラと言ってもよいくらい、ちゃんとした動画が撮れます。32GBのSDカードに4時間も撮れますので、旅行にはこれ1台持って行けば、写真も動画も十分そうです。
今日はデジカメを持って、近所の深大寺に蕎麦を食べに行きました。
天気もよく、ほんのり紅葉もはじまっていて、とても気持ちの良いお散歩ができました。
<2011-11-4>
トランプで勝つために、いいカードを持っていることは大切ですが、持っているカードをいかに切るかは、もっと大切ですね。大富豪で負けた人が、「2」を使わずに持っているのをみると、そんなことを思います。
人生もそれと同じで、自分の持っているカードの切り時、使い時を心得ている人こそ、勝つことができるし、せっかく切り札を持っているのに、使う勇気のない人は、結局なにも得られないのかもしれません。
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<2011-10-27>
気がつくと、もう、秋の虫は鳴いていないんですね。
ついこの前までは、うるさいくらい鳴いていたのに。
<2011-10-20>
「枚挙に暇がない」っていう表現、日本人っぽさ全開で大好きです。
<2011-10-7>
モーツアルトを聴いていると、スクリーンに映し出された「善良な市民が、よく晴れた昼下がりに、穏やかなひとときを過ごしている様子」を、真っ暗な映画館で観ているような、そんな気持ちになります。
<2011-10-6>
小沢健二の「恋しくて」。
当時は歌詞の意味もよく考えずに聴いていましたが、いま聴くと、すごくよく解ります。
生々しいし、胸につかえているし、だけどもう伝えられない気持ちが、年を重ねるごとに、どんどん増えていっている気がする。
ある種類の思い出は、時間と共に忘れられていきますが、ある種類の思い出は、時間と共に鮮明になっていくんですよね。
きっと、未消化のまま、心に蓋をして、先延ばししていた思いが、まるで定期預金が満期になったみたいに、返ってくるのだと思います。
オザケンの曲は、洋楽のオマージュ(?)であることが多いのですが、この曲は The Bangles の「Manic Monday」が元ネタだと言われています。
僕はこの動画で、はじめて動いているバングルスを観ました。
しかし何だろう、このかっこ良さは。そしてこの、大人の色気は……。
ボーカルのスザンナは52歳です。25年前のライブ映像を観ましたが、まるで別人のようで、今の方が何倍も素敵です。歌い方が違うせいか、別の曲のようにさえ聴こえます。
村上春樹が、「魅力的な中年女性を見ることは、人生の喜びのひとつだ」みたいなことを言っていましたが、この映像を観て、あぁ、年を取るって、全然悪いことじゃないんだなぁと、心から思いました。
<2011-10-4>
僕は雲を眺めるのが昔から好きでした。
子供の頃、ベッドが窓側にあったので、ベッドに横になって、開け放った窓から何時間も雲を眺めることがありました。
雲は、外にさえ出ればいつでも眺められる、一番近い大自然だと思います。
いくら山が削られて、海が埋め立てられ、ビルが乱立しても、まだ空は手付かずで残されているんですね。
これは昨日の夕方撮影した写真です。
クッキリとした夏の雲は大好きですが、秋の夕暮れに浮かぶ、上は明るくて下は暗い、このような雲も大好きです。
雲は芸術作品みたいに見えます。
こんなに大きくて、こんなに綺麗で、しかも時間と共に変化する芸術作品が、毎日、どこにいても、無料で眺めることができるというのは、すごいことだと思うのだけれど、雲に魅せられている人たちがあまりにも少ないのが不思議でなりません。
もっと、立ち止まって、ぼーっと空を見ている人を街中で見かけてもいいはずなのにって。
<2011-10-3>
マルクス・アウレーリウスの「自省録」を読了しました。
本書を要約すると、以下のようになると思います。
「偶然に起こった出来事を認めよ。それは理由なく、ただ起こるのだ」
「自分が幸せであろうと、不幸であろうと、大した意味はない。なぜならば、人生はあっという間に終わってしまうし、自分を覚えていた人たちの人生も、やがて終わってしまうからだ」
「受け取り方次第で世の中はいかようにも変わる」
「公益を求めよ」
彼が国を治めていた頃のローマ市民が幸せだったかどうかは知りませんが、こんな人が治める国に暮らせたらなぁと思いました。
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<2011-9-27>
海外ドラマを観ていたら、「現代では、友達は財産ではなく、借金にしかならない」というセリフが出てきました。
その人と付き合っていて、自分が得たものと失ったものを比べたら、そんな気持ちになることもあるのだろうなと思いました。
ただ、友情とか愛情とは、失っても「失った」とは感じずに、喜んで失い続けることを言うのかもしれません。
ですから、「借金だ」と感じているということは、すでにその相手は、自分にとって、本当の友達ではないのかもしれません。
<2011-9-22>
先日、部屋の模様替えをした際、不要な物は思い切って捨てようと引き出しの整理をしていたら、小学校1年生のときに使っていたホッチキスの針の小箱が出てきました。(1ねん3くみ……と書いてありました)
実に、33年前のホッチキスの針です。
さすがに箱は汚れていましたが、中をあけてみると、肝心のホッチキスの針は錆びることもなく、とても綺麗な状態でした。
おそらく僕の所有している最古の日用品だと思います。
僕は今まで、7回引越しをしました。
その度に不要な物は捨ててきたつもりですし、ホッチキスを使うことなどほとんどないので、33年前のホッチキスの針が、7回の引越しをくぐり抜けて今も引き出しの中に存在していることは、何だか奇跡のように感じました。
小学校1年生のとき、まさかこのホッチキスの針を39歳になっても持っていることになるとは、夢にも思っていませんでした。
もっと他に、取っておくべき物はたくさんあっただろうに、結局時間の荒波にもまれて残ったのは、コレだけです。
子供の頃を振り返ると、大切な物を手に入れるたびに、「これは一生の宝物」的なことを思っていた気がします。
大切だとか、大切ではないとかはあんまり関係なく、偶然の導きで残るものは残るし、残らないものは残らないのだと、強く感じました。
<2011-9-14>
今朝、柚子が亡くなりました。
ここ数日、毎晩のように、今日が最後かもしれない、という気持ちで夜を過ごしました。
日に日に動けなくなり、昨晩からは、前脚と首を少し動かすのがやっとという感じでした。
呼吸が荒くなったり、浅くなったり、ときどき戻したりと、苦しみながらも夜が明け、今日も一日生きられるかもしれないと思った矢先、9時ごろに戻す気配があり、抱き上げて吐きやすい体勢に支えてあげたところ、辛そうな声をあげながら血を何度か吐き、そのまま息が絶えました。
安らかな最後とは程遠い数日でしたので、柚子がやっと楽になったのを見て、よく頑張ったね、という気持ちで、涙が止まりませんでした。
食べられなくなってから、そのことばかり気になって、どうにか食べさせなければ、飲ませなければと思っていましたが、今ふり返ると、柚子はこの1週間、ほとんど眠ることがありませんでした。普段は日中、ずっと寝ていることが多かったので、眠れないだけでも、相当つらかったのではないかと思います。
庭に小さなお墓を作って柚子を入れたあとも、家中、いたるところに柚子との思い出があり、それを思い出すたび、号泣してしまいます。
柚子と一緒に過ごしたこの4年間は、僕にとって、辛いことの多い4年間でした。
投げ出したいような気持ちになることも何度もありました。
そんな4年間、柚子は元気を振りまき、悲しんでいる僕を慰めてくれました。
もしかしたら、柚子は天使だったのかもしれません。本当は普通の猫のようにもっと生きられたところを、惜しみなく自分の命を削って、僕を支えてくれていたのかもしれません。
柚子は最後に、「もう私がいなくてもあなたは大丈夫だよ」というメッセージを残して、いってしまった気がします。
今は頭の中が真っ白ですが、本当に辛いのはこれからなのかもしれません。
柚子が幸せをくれた分、しっかり泣きたいと思っています。
<2011-9-12>
我が家のキジ猫、柚子(メス・約4歳)が餌を食べなくなってから、1週間が経過しました。
病院から帰ってきた後、一度は水を自分で飲むようになり、トイレにも自分で行けるまで持ち直したのですが、今朝から自分で立てなくなってしまいました。
流動食や薬をあげても、すぐに全部戻してしまい、戻すたびに体力が奪われるようで、衰弱が進んでいます。
今日は何回か、戻したものに血も混ざっているようで、お別れのときも近いのかもしれません。
僕は心の奥底ではかなりの楽観論者で、目の前で今にも息を引き取りそうな柚子を見ていても、明日の朝には今まで通り、元気な姿に戻っているのではないかと、どこかで信じています。
だから、元気のない柚子を見ていても、何かの間違いだという気がして、なかなか現実を受け止められません。
流動食をあげなければと思うのですが、そのたびに苦しい思いをして戻すことを考えると、このまま安らかにいかせてあげたほうが柚子のためなのではないかという気もしますし、無理にでも口に入れて、1日でも延命させたい気もします。
ぐったりしている柚子を撫でていると、もらってきたときからの思い出がよみがえってきて、馬鹿みたいに、もっとああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったと、そんなことばかり考えています。
<2011-9-10>
最近、自省することが多いので、勢いでマルクス・アウレーリウスの「自省録」を注文してみました。
〜〜〜
「このキュウリは苦い」
ならば捨てるがいい。
「道にイバラがある」
ならば避けるがいい。
それで充分だ。
「なぜこんなものが世の中にあるんだろう」などと付け加えるな。
〜〜〜
届くのが楽しみです。
<2011-9-9>
我が家のキジ猫、柚子(メス、もうすぐ4歳)が、日曜日あたりから元気がなくなり、月曜日からはパッタリと餌を食べなくなってしまいました。
火曜日に動物病院へ連れて行き、一泊の入院をして調べてもらったところ、肝不全になっていました。
病院で点滴をしてもらって、どうにか生きてはいますが、すっかり衰弱してしまい、先週まで走り回っていたのが嘘のように、一日中ぐったりとしています。
もらった薬を一日に2回あげなければならないのですが、昨日はなかなかコツをつかめず、飲み薬をシリンジであげようとしても半分くらいは口の中に入らなかったり、吐き出してしまったりでした。
しかし今朝は僕も慣れてきて、全量を飲ませることができました。
……が、その後、飲ませた薬を全部吐かれてしまいました。(; ;)
餌を全く食べないため、流動食もシリンジであげているのですが、こちらも嫌がって十分な量をあげることができません。
水も2、3口は飲むのですが、すぐに飲むのをやめてしまいます。
このまま飲まず食わずが続くと、柚子の命はもう、長くはないのかもしれません。
先住猫のマロンは、我が家にやってきたときにはすでに大人で年齢が判らず、それから7年経ちますので、おそらく10歳以上です。
マロンは老齢ですし、ときどき餌を戻したり、便がゆるかったりすることがあったので、いつ具合が悪くなるか気を遣っていたし、ある程度の覚悟はできていました。
しかし柚子はまだまだ若く、マロンよりもずっと元気で、良く食べ、良く遊び、良く眠り、健康すぎるような猫だったため、未だに目の前で衰弱している柚子が信じられません。
柚子は生後2ヶ月くらいで我が家に来ました。
もともとは、スーパーのゴミ箱に、紙袋に入れられて兄弟猫2匹と一緒に捨てられていたのを、ボランティアさんによって保護された猫です。
保護されたとき、兄弟猫は2匹とも動いていたそうですが、柚子だけは意識がなく、ボランティアさんも「この子はダメかもしれない」と諦めていたそうです。
しかししばらくして、息を吹き返し、次第に他の兄弟と同じように元気が戻ったそうです。
すべては推測ですが、もしかしたら、柚子は生まれつき体が弱かったのかもしれません。
食べられない状態がいつまで続くのか、そしていつまで生きられるのか、今は判りませんが、残された時間を大切にしたいと思っています。
<2011-9-8>
この曲を聴くと、夏の終わりを感じます。
そして、セットで「風の歌を聴け」を読みたくなります。
「風の歌を聴け」で主人公がバスに乗って帰ってしまった次の週明けに、全然関係のない日本のどこかのプールサイドで、この曲にある物語が起こったのではないかと、そんな気がするのです。
<2011-9-6>
ユーザー車検に行ってきました。
今回で自分で車検を通すのは6度目。
以前は検査コースで結構緊張したのですが、さすがに6回も行っていると慣れてきて、今日はあっという間に感じられました。
車検が終わった後、近くにIKEAがあったので、用もないのに入ってみました。
展示されているソファに座ったり、コーディネートされた部屋に入って本棚やキッチンを見たりして、最後はホットドックとソフトクリームを食べて帰ってきました。
IKEAの客層は、どこかCOSTCOの客層と似ており、訳の解らない選民意識のようなオーラを誰もが撒き散らしているように感じました。(すみません、全部偏見です)
こういった西洋礼賛的なお店、非日常的な感じがして嫌いではないのですが、行くと何故か、いつもは考えないようなことをたくさん考えてしまって、帰ってくるとどっと疲れます。(^^;;
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