ひとりごと
2011年 5〜 8月
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<2011-8-30>
夜中に食べるヨーグルトが、妙に美味しく感じられます。
いや、夜中は何でも美味しいのだけれど。
<2011-8-28>
突然起こる不幸はいくらでも想像ができますが、突然起こる幸福を想像するのは、ちょっと難しいですね。世の中には、幸福の種類よりも、不幸の種類の方が多いのかなぁ。
<2011-8-25>
理性的な人は、理性的に間違ったことをする可能性があり、本能的な人は、本能的に正しい行いをする可能性があると思います。
<2011-8-22>
「外で食べると美味しいね」という人がいますが、僕は逆で、外で食べると、食べ物の味が良く判らなくなります。
バーベキューでもオープンテラスでもよいのですが、外で食事をすると、もうその雰囲気に圧倒されてしまって、意識がその圧倒的な非日常感に全部持っていかれて、食べ物の味なんて全部同じに感じてしまう。オージービーフも和牛も、違いなんてどうでもよくなってしまうのです。
だから、それほど美味しくないものでも外で食べると味が誤魔化せるという意味なら、「外で食べると美味しいね」と言えなくもないですが、本当に美味しいものは、外ではなくて、気が散らない部屋の中でじっくりと味わいたい。
例えば僕は、学生の頃、森高千里が好きでしたので、もし彼女とふたりで食事をすることになったとしたら、もうその空間にいるだけでいっぱいいっぱいで、とても食事の味まで意識できないと思う。彼女と二人でいることが楽しいのであって、何を食べるかなんて大した問題ではない。
しかしだからといって、「森高千里と食べると美味しいね」にはなりません。
僕にとって、外で食べるとは、そういう感覚です。あまりの非日常感に、味なんて飛んでしまうのです。
外で食べると美味しいのではなくて、外で食べるという行為の特殊性にのまれているだけなんじゃないかなぁ。
<2011-8-21>
マロンが喋る夢を見ました。
以前、「あぼぼん」というチンチラ(小動物のほうです)を飼っていて、マロンが来たときはまだ生きていたのですが、夢の中のマロンは、「あぼ君、いないなー。いないなー」と言いながら、あぼぼんを探していました。
夢から醒めた後も、マロンのかわいい声が耳に残り、ひとりで萌え死にしそうでした。
<2011-8-20>
墾田永年私財法っていうかわいい制度(ひなの風)があれば、めちゃくちゃ利用するんだけどなぁ。
<2011-8-19>
問1:以下のような選択肢のアンケートをとる人は、世の中の仕組みを何もわかっていないと思う。
1. とてもそう思う
2. そう思う
3. どちらとも言えない
4. そう思わない
5. 全然そう思わない
<2011-8-18>
わーい、ロペの新作!
<2011-8-17>
海外ドラマを観ていたら、ある男の子が誕生日にサプライズパーティーをしてもらうシーンが出てきました。
僕はサプライズパーティーをされたことはありませんが、されたら全然楽しめないタイプの人間だと思います。
喜ばせるためとはいえ、パーティーまでの時間、嘘をつかれるのも嫌だし、周りの人たちが秘密を共有しているのも自分ひとりだけ仲間はずれな感じがするし、「祝う」という目的が、いつしか「誰かの誕生日を理由に盛り上がる」に変わってしまっている気もする。
「サプライズ!!」と言われた瞬間に、そんな思いが頭の中を駆け巡ったら、とても複雑だし、準備をした分、参加者の「喜ぶ顔」の期待値も高まっているのに、それを超えたリアクションなんて、とてもできそうにありません。
我ながら、つまらない人間だなぁ。(^^;;
<2011-8-16>
恋愛の相談をメールで受けていて、何となく解ってきたことがあります。
その人のことをもっと愛したいのならば、その人の悪いところを思い出せばいいのかもしれません。
その人のことをもっと嫌いになりたいのならば、その人の良いところを思い出せばいいのかもしれません。
逆じゃないからね。
<2011-8-7>
「勝ち目のない戦い」でも場合によってはしなければなりませんが、「勝ちのない戦い」はしてはいけないと思います。
勝ちのシナリオが描けないのだったら、失うばかりです。
<2011-8-3>
俳優の高岡蒼甫さんがフジテレビの韓流偏重を批判した結果、プロダクションを解雇された件が方々に波紋を呼んでいますが、この騒動について芸人のふかわりょうさんがラジオで語っていました。
同じ音楽を流すのでも、CMとして流すのであれば視聴者はCMとして受け取る。
しかし番組で「流行っている」という体で流してしまったら、視聴者はそれを事実として受け取ってしまう。
今のテレビやメディアの問題を、的確に語っていると思いました。
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<2011-7-25>
今シーズンはじめて、ブルーベリーを収穫しました。
今年は例年に比べると、何故か実のつき方が悪く、大収穫とまではいきませんが、しばらくは楽しませてくれそうです。
ブルーベリーは、青くなってもまだ酸っぱいことがあり、青くなってから1週間くらいしてから収穫すると良いのですが、そうしていると鳥に食べられてしまいますし、どれが完熟で、どれが酸っぱいのか見分けるのも面倒なため、今回は青くなっている
ものをすべて収穫しました。
そして、酸っぱいのは食べたくなかったので、アイスクリームのトッピングにすることにしました。
アイスクリームと一緒に食べると、適度な酸味がアイスクリームの甘みを引き立て、とても美味しいです。
ちなみに今日収穫したのは、ホームベル、バルドウィン、パウダーブルーという品種です。
<2011-7-24>
幸せを感じられないのは、「本当に不幸だから」だけではなく、「はっきり求めていないから」というパターンもあるように思います。
「海外旅行へ行くことが何よりも幸せ」と思っている人は、海外旅行へ行けないと不幸ですが、行けば幸せです。
しかし海外旅行に興味がない人は、たとえ海外旅行へ行けたとしても幸せを感じません。
たくさん求める人にたくさん与えられるのは、与えられたと感じるチャンスが多いからなのかも。
そして、何も求めない人には何も与えられないのだと思います。
だって、実際に何を与えられても、「与えられた」って感じられないのですから。
<2011-7-12>
奇をてらった人ばかりが集まったら、その中にいる普通の人も、「あいつは敢えて、普通にすることで奇をてらっているのだ」って思われるのかもしれません。
<2011-7-10>
カウンセリングルームにおいてある冷蔵庫は、中古品の古いものなので、冷凍室にびっしりと霜がつきます。
3月の計画停電のときに、霜取りをしたのですが、またついてきたので、今日も霜取りをしました。
僕はこの、霜取りという作業が結構好きです。
冷蔵庫の電源を抜いて、しばらく放っておいたあと、傷つけないように注意しながら、マイナスドライバーでグリグリと霜をつつくと、とても気持ちよく、パカっと取れるんです。
一箇所どこかが取れると、あとは手でバリバリとはがしていくことができます。
村上春樹の小説に、「クール」なものの例として、「年中霜取りをしなければならない冷蔵庫」がでてくるのですが、うちの冷蔵庫はまさにそれです。
それがクールとどう関係があるのか、正直、よくわからないけれど。
<2011-7-7>
今、日本に必要なのは、愚民の多数決ではなく、賢明な独裁者による独裁ではないかと、松本前復興相の映像を見て思いました。
何だか、こんな人たちが国の中枢にいること自体、民主主義は間違っていたことの証拠なんじゃないかと思う。
問題は、「賢明な独裁者」は得がたいということかなぁ。
<2011-7-1>
今日は映画の日だったので、「アンダルシア」を観てきました。
黒木メイサは相変わらず、時代の生んだ泡の匂いがしましたが、とても面白い映画でした。
織田裕二はかっこいいし、ロペの新作も見られたし、テレビで観るのもいいけれど、やっぱり映画館はいいなぁと思いました。
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<2011-6-30>
デレク・ハートフィールドの「気分が良くて何が悪い?」は、是非読んでみたかったです。
小説のタイトルとして、完璧だと思います。
<2011-6-28>
もう、何をやってもうまくいかないんじゃないかと悲観的になる日が、年に2回くらいあるのですが、今日がそれです。
気分転換してしまいたいけれど、それをしてしまっては、結局遠回りになってしまいそうな気がするので、先ほどから空間の一点をじっと見つめながら、「あー」とか「うー」と唸っています。(^^;;
<2011-6-27>
ミニチュアダックスの迷い犬を見つける夢を見ました。
とても人懐っこい犬で、撫でていると、とつぜん手を噛まれる夢でした。
……なんて書くと、心理学を勉強している人には、とても象徴的な夢みたいに受け取られそうですが、そうではなくて、それは柚子(ネコ)のせいです。
柚子はときどき、人を起こそうとしてあまがみすることがあり、おそらく僕がぐっすり眠っているときに、「起きてくれ〜」と噛んだのでしょう。
それでも僕は起きず、夢を見たのだと思います。
最近、野良猫になつかれる夢や、知らない猫が家に入ってきてしまう夢などをよく見るのですが、そういうのはみんな、柚子のせいなのだと思います。
<2011-6-22>
今日が1年で一番日が長いと言われると、「え? もう?」って思います。
明日からは、どんなに暑くても、毎日日が短くなっていくというのは、少し寂しいですね。
無限に長くなって、いつか夜がなくなってしまうのも困りますが、夏至も冬至も2ヶ月ずれていて、十分季節を感じた後だったら、このような寂しさは感じないのかもしれません。
昨日、久しぶりに外食をしました。
店の空調が故障中とのことで、外のテラス席を案内されました。
食べ始めた頃はまだ明るかったのですが、だんだんと暗くなっていき、夜風も気持ちよく、外で食べているだけで、何だかリゾート地にいるような気分になりました。
あまりにも雰囲気があったので、それに気持ちがのまれてしまい、料理の味に集中できないくらいでした。(^^;;
<2011-6-21>
この曲をはじめて聴いたとき、冒頭の「街の歌が聴こえてきて」が、「街のウタガキ越えてきて」に聞こえました。
街の中にある「ウタガキ」を、ぴょ―んと跳び越えて来たようなイメージでした。
でも、「ウタガキ」って何だろう? 生垣的なものかな、なんて思ってました。
今では、街の歌が聴こえてきたんだなってわかるのだけれど、それでもやっぱり、心の中では佐野元春がウタガキを越えてきます。
<2011-6-20>
21世紀になんて、ならなければ良かったのに。
<2011-6-19>
タレントのローラと友達で、一緒に時間を過ごしていたとしても、すごく一人ぼっちな感じがするんだろうな。
<2011-6-16>
さんざん逃げまわるくせに、無理に捕まえて膝の上に載せると、妙に落ち着いてゴロゴロいいはじめる柚子(うちの猫です)に、愛されているのか、愛されていないのか悩む毎日です。
今も膝の上で寝転び、ゴロゴロいいながら、ときどき僕の胸で爪とぎみたいにして登ろうとします。
「柚子」と呼ぶと、声を出さずに口だけ広げて返事をします。
こうやって甘えているかと思うと、膝からおろした瞬間に逃げてしまって2度と捕まえられなかったりするので、訳がわかりません。
前にも書きましたが、柚子が人間の女の子だったとしたら、完全に振り回されて自分に自信をなくしていたと思います。(^^;;
柚子が猫でよかった。笑
<2011-6-7>
ずっと、あえてパグ犬を選ぶ人の気持ちが理解できませんでしたが、最近、パグ犬もありだな、と思うようになりました。
少しずつ色んな意味が解りかけていますが、決して授業で教わったことではありません。
<2011-6-2>
「さもなくば」という言葉は、もう銀行強盗するときくらいしか使えないのではないでしょうか。
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<2011-5-25>
昔は春は苦手な季節でしたが、今は春が一番好きな季節です。
特に、梅雨前の今の時期が好き。
蚊もほとんどいないし、昼間は暖かいし、夜は布団が気持ちが良いし、日は長いし、植物はめきめき成長するし、とにかく爽やか。
夕暮れに、開けっ放しのお店から聞こえてくる人々の笑い声や食器の音を聞きながら吉祥寺の街を散歩するのが大好きです。
夜になって、いせやで買った焼き鳥を食べながら、ひと気の少なくなった井の頭公園を散歩するのも大好きです。
いつまでも手の届かない夢をみているような、そんな気持ちになります。
<2011-5-24>
「お盆を頭の上に載せたまま、上を向くことはできない」という言葉が僕は大好きです。
以前、約束を破ることについて考えていたとき、「教えて!goo」に投稿された「遅刻する人の心理は一体??」という質問を読みました。
質問者は、「しょっちゅう遅刻する人の心理を教えて欲しい」と質問していました。
様々な回答が寄せられる中、僕はある回答者の回答に驚愕しました。
「会社の用事の時は待ち合わせの一時間以上前に着くように行動します、だって仕事だもん。……友人と遊ぶ時は別です。……遊びに行くのにそんな時間にキッチリしようだなんて思わないですし、キチキチにしてたら肩こりますし、休日くらいゆったり過ごしたいから。……私の友人は既に諦めてる感じです。プラス1時間は平気に待ってくれます。気長な友人で私は大好きです」
何という自己中心! もう、理屈が無茶苦茶です。
しかし、これを読んだ次の瞬間、「いや、この回答者の考え方は間違っていないのかも」と思い直しました。
この回答を自己中心だと感じるのは、僕が時間は守るという生き方を選んでいるからに過ぎません。おそらく、日常的に遅刻をして、それを大して悪いことだと思っていない人は、この回答を読んでも「あー、わかるわかる!」と共感するだけで、決して無茶苦茶だとは思わないことでしょう。
この回答者に論理的に間違いを認めさせることはおそらく不可能です。なぜなら、これは生き方の問題であり、善悪の問題ではないからです。この回答者は間違ってはいないのです。
「休日くらいゆっくりしたいから遅刻しても良い」というのは論理が破綻しているように見えますが、「プラス1時間は平気に待ってくれる気長な友人」の登場で、論破する術が失われてしまいました。
そしてこの回答者は、自己中心ですらないのかもしれません。もしかしたら、1時間は平気で待ってくれる気長な友人が、事情があって2時間遅れて、結果的に回答者が1時間待つことになったとしても、この回答者はまったく怒らないかもしれないからです。
もし質問者が、遅刻する人の心理を知ることで、友人の遅刻を解決できるのではないかと考えていたとしたら、残念ながら諦めるしかなさそうです。
質問者にできることは、友人の遅刻を毎回許してあげるか、自分も「休日くらいゆったり過ごし」て、待ち合わせ場所で待ったり、待たせたりという付き合いをするか、遅刻を許せないのならばその友人との関係を終わらせるかのいずれかだと思います。
お盆を頭の上に載せたまま、上を向くことができないのと同じで、自分は変わらないまま、友人との関係を維持することはできないと思います。
自分が変わるか、関係を終わらせるか、好きな方を選ぶしかありません。
友人が時間を守ってくれれば一番いいですが、それは相手が勝手にやってくれることであり、こちらから強制することはできません。
これ、遅刻がテーマですから、遅刻を許せない人も、遅刻してしまう人も両方います。遅刻を許せない人は許せない人同士で自然と仲良くなれば平和だし、遅刻する人は遅刻する人同士、のんびり生きていけば平和です。
先ほども書きましたが、これは正しい、正しくないの問題ではなく、生き方の問題です。同じ生き方の人と仲良くすればそれで良いと思います。
ちょっと怖いなぁと思ったのが、テーマが遅刻ではなく、他の何かで、同様にそれが生き方の問題で、さらに自分と同じ生き方をしている人がひとりもいなかった場合です。自分を変えない限り、誰とも仲良くすることができないとしたらこれは辛いだろうし、誰も自分の生き方を認めてくれないのも辛いだろうし、生き方の問題だと理解されずに間違っていると糾弾されたらやはり辛いだろうなぁと思います。
ひとりぼっちで生きていく事を選ぶのか、我慢して生き方を変えて周りに合わせるのか……。
僕はひとりぼっちで生きていくだろうと今は思いますが、もしかしたら淋しさには勝てないのかもしれません。
<2011-5-22>
立場が偉い人ほど難しい言葉を使いたがりますが、大切なのは、簡単なことを非凡な言葉で語ることではなく、難解なことを平凡な言葉で語ることだと思います。
ジョンレノンのイマジンが名曲なのは、難しいコードを使った技巧的な曲だからではなく、平凡なコードを使ったシンプルな曲だからです。
難解なことを平凡な言葉で語れる人になりたいです。
<2011-5-21>
カウンセリングルームにいらっしゃる方からときどき、あまりにも部屋が殺風景だというご意見を頂くことがあります。
確かに殺風景な部屋で、ソファと机と椅子と電気スタンドくらいしかありません。
「物があるから汚れるのだ」というのが、僕が人生の中で学んだ掃除哲学であり、余計なものは極力おかず、シンプルな部屋が好きなのでこのような部屋になったのですが、言われてみれば確かに少し淋しい。
そこで、観葉植物をいくつか買ってきました。
この部屋は日当たりも良くなく、使っていないときはほぼ真っ暗ですので、ちゃんと育ってくれるのか心配ではありますが、大事に育てていきたいと思います。
これで少しは、カウンセリングルームっぽくなったかな。
<2011-5-20>
解り合うことを諦めることが、真に解り合うことなのかも。
<2011-5-16>
体を動かさないで考えてみてください。
ヒジはアゴにつくでしょうか? つかないでしょうか?
自分の体のことなのに、僕はそんなことさえ、実際に体を動かすまで確信を持って答えることができませんでした。
エリクソンがクライアントの女の子に、「君は解決の方法をすでに知っている。ただ、知っている、ということを知らないだけだ」と言ったことがあります。
頓知のような言葉ですが、「知っていることを知らない」からこそ、希望があるし、それを知らせることが、カウンセラーの仕事なのかなぁと思っています。
ところで、「北海道」という単語を、上の唇と、下の唇をつけないようにしながら言ってみて下さい。
そして今度は、普通に「北海道」と言ってみて下さい。(^^)
<2011-5-11>
小学校1年生か2年生の頃のことです。
算数の授業中、担任の高橋先生という初老の女性教師が、「算数は、位取りさえわかれば簡単です」と言いました。
僕はその、「クライドリ」という耳慣れない言葉を聞いたとき、まったく意味がわかりませんでした。
言葉の雰囲気から、そういった種類の鳥を想像し、鳥と算数にはどんな関係があるのだろうと思いました。
その言葉の本当の意味を知ったのは、もっとずっと高学年になってからです。
あぁ、あのとき高橋先生が言いたかったのは、数字の桁のことだったのか、と。
意味はわかっても、今でも算数のことを思い出すと、「クライドリ」という名の鳥が心に浮かびます。
イメージは年々変化し、最近では、「クライドリ」は、完全にフライにされています。
想像の中の「クライドリ」のフライドチキン(ややこしいですね)は、とても美味しそうです。
<2011-5-9>
自分のこと以外は無関心な人が、結局は一番幸せなのかもしれません。
他人の発言や行動に振り回されてしまう人は、自分の気持ちをコントロールしにくいので、幸せではないのでしょう。
自分の世界があって、誰にも邪魔されずにその世界に没頭できる人が、一番幸せを感じられるのだと思います。
他人は他人、自分は自分と、はっきり境界線を引き、干渉もしないし、干渉もさせないという生き方をしないと、嫌ったり、嫌われたりの人生になってしまいます。
僕はパズルをしているときに安らぎを覚えるのですが、それはその間、他人を必要としていないし、必要とされてもいないからなのかもしれません。
人はひとりでは生きていけないと言う人もいますが、他人と繋がっているからといって、それで何かが楽になるわけではないように思います。
<2011-5-6>
ラジオを聴いていたら、こんなエピソードが紹介されていました。
北野武さんがあるインタビュアーに、「武さんは暴力描写の多い映画をたくさん撮っていらっしゃいますが、世間への影響をどうお考えですか?」と質問を受けた際、武さんは「世界には感動的な映画はたくさんあるけど、それで世界は平和になったかい?」と答えたそうです。
もう、かっこ良すぎ。
<2011-5-4>
「これは当てられたバッターも痛いですけれど、当てたピッチャーも痛いですよ」と、野球中継の解説者が「上手いこと言ったった感」たっぷりで言うの、嫌いじゃありません。
<2011-5-2>
どうでもいいことを憶測で書きます。
僕は男ですから、男性が女性に惹かれる気持ちは理解できますが、いまいち、女性が男性に惹かれる気持ちが理解できません。
もし、性別が女性と男性というふたつだけではなく、第三の性別があって、全部で3つだとしたら、男性は変わらずに女性に惹かれると思いますが、女性は男性ではなく、その第三の性別に惹かれるのではないかと思う。
いや、全く何の根拠もないのだけれど、ふと、そんな気がしました。
女性は選択肢が無いから、仕方なく男性を選んでいるのではないかと……。
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