ひとりごと
2010年 5〜8月

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<2010-8-22>
 「完全熟睡マニュアル」のオーディオブックが発売になりました!
 執筆中は、まさかオーディオブックにもなるとは思っていなかったので、「声に出して読まれる」ことなど意識しないで書いたのですが、音で聞くのと文章を読むのとでは印象が少し違うなぁと思いました。
 まだサンプルしか聞いていませんが、「読む自己催眠」をオーディオブックで聞くと、かなり効果があるのではないかと思います。
 オーディオブックは、こちらから購入できます。

<2010-8-16>
  異性を顔で好きになることもあれば、そうでないこともありますね。「キレイだから好き」、「カッコイイから好き」ということもあれば、「顔は良くないけれど好き」だって当然あり得ます。
 また、自分の好みの顔というものがありますから、「一般的にはキレイなのだろうけれど、自分はキレイだとは思わない」ということもあれば、「一般的には評価が低いかもしれないけれど、自分はすごくキレイだと思う」ということもあり得ます。
 このふたつが組み合わさると、ちょっと困ったことになります。
 「一般的にはキレイなのだろうけれど、自分はキレイだとは思わない。だけれど、好き」ということが起こり得る。
 すると、顔で選んだわけではないのに、周りから見れば、「あいつはメンクイだ」とか、「顔で選んでやがる」と見られてしまう。
 こういうのは、本人にしてみれば、心外だろうなぁと思います。
 あまりにも暑いので、本当にどうでも良いことを書いてみました。

<2010-8-4>
 昨日の日記にも出てきましたが、僕は「概念」という言葉が異常に好きです。
 もう、お墓に刻んで欲しいくらい。
 「概念」の発見は、「引力」とか「ゼロ」とか「アメリカ大陸」とかの発見と比べても、勝るとも劣らない、大発見なのではないかと思います。
 「概念」という概念はいつごろ発見されたんだろう?
 やっぱり昔は、旧仮名遣いで「ぐゎいねん」とか表記したのだろうか?
 英語の「コンセプト」なんて軽すぎて、全然「概念」っぽくありません。
 この語が生み出す気品、風格は、まるでよく使い込まれた年代物の一枚板のテーブルのように重厚です。

<2010-8-3>
 「意味」という単語の持つ理不尽な強制力は、もしかしたら数ある単語の中で一番なのではないでしょうか?
 例えば、「いろんな意味で○○だ」という言い方があります。

 いろんな意味で頭にきた。
 いろんな意味で嬉しかった。
 いろんな意味で美味しかった。
 いろんな意味であいつは頭がいい。
 いろんな意味であいつは傲慢だ。

 ○○に何が入っても、聞く方は、解ったふりをするしかありません。
 この言い回しの、優れていて、そして理不尽な点は、この構文に当てはめるだけで、誰でも簡単に、謎かけ的な、あいつできるな的な空気を醸し出せる点にあります。
 しかもその答は、聞く側が作り出さねばならず、大抵の場合において、言った本人は、「わかるよな。皆まできくなよ」という威圧的な態度ですから、容易に「いろんな意味ってどういう意味?」などとは聞けません。そんな質問をするのは、ひどく野暮な感じがするのです。
 ですから、したくはなくても、「いろんな意味って、どういう意味と、どういう意味のことなんだろう?」と考えることになります。そしてかろうじて出てきた答が、本当に相手が言っている意味と同じかどうか、不安に感じながらも、解ったふりをして話を聞きつづけるしかないのです。
 皆さんは今日、どんな日でしたか?
 今、浮かんだ「今日は○○な日だった」を、「今日はいろんな意味で○○な日だった」に変えてみてください。
 たったそれだけで、聞き流すわけにはいかず、強制的にもうひとつの意味を考えてしまいませんか? 

 似たような言い回しに、「いい意味で○○だ」というのがあります。
 この言葉の強制力(むしろ矯正力?)もすさまじく、○○にどんな悪口が入っても、聞く側にその良さを考えさせる力を持っています。
 意味が通らなくても、ほぼすべての悪口が、中和されてしまうのです。

 あいつはいい意味で馬鹿だ。
 あいつはいい意味で悪人だ。
 あいつはいい意味でケチだ。
 あいつはいい意味で裏切り者だ。
 あいつはいい意味で凡人だ。
 あいつはいい意味でニセモノだ。
 あいつはいい意味で人を馬鹿にしている。

 「いい意味で」がなければ、本当にただの悪口ですが、「いい意味で」を入れるだけで、一気にそれが長所になってしまいます。
 「いい意味の悪人」とか、「いい意味のニセモノ」などあるわけがないのだけれど、そう押し切られると、無理をしてでも「いい意味」をあぶりださなければならなくなります。「いろんな意味で」と同じように、素通りを許さない言葉なのです。
 また、面と向かって自分に言われても、こういう言い方をされると怒るに怒れません。
 「あなたはいい意味で凡人ですね」と言われても、何だかそのあとに、ものすごい深い内容のフォローがあるのを期待させますので、そのタイミングでは「どういう意味だ!」と怒るわけにはいきません。襟を正して、これから語られるであろう、その「いい意味」とやらが、どれだけ自分を気持ちよくさせてくれるのかを待つしかないのです。そして続いて話される内容に、どう好意的に聞いても、期待したようなフォローがなかったところで、一度怒るタイミングを外してしまいましたから、いまさら怒ることはできないのです。
 それに怒るにしても、「いい意味で」と言っているのですから、それに対して怒るのは、小さな人間みたいで、やはりばつが悪い感じがします。

 「概念」という単語が、びっくりするくらい概念的なことは、以前から不思議でなりませんでしたが、それを遥かに超えて、「意味」という単語が、今は不思議でなりません。
 「意味」の意味は、意味的なものだけではないように思うのです。

<2010-8-2>
 セミの抜け殻を見るたびに、人間も脱皮できればいいのにって思います。
 ずいぶんすっきりするのだろうな。

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<2010-7-28>
 いいえ、マイク。それはアイスカフェラテではなくて、コーヒー牛乳です。

<2010-7-25>
 昨日、男性はみんな 小栗旬 で、女性はみんな 加藤あい だったら、という話を書きましたが、小栗旬 や 加藤あい のことが好きではない人にしてみれば、そんな世界は全然テンションがあがりませんね。
 じゃあ、人間がみんな誰の顔だったら、多くの人が楽しく生きていけるのだろう?
 今なら 三浦春馬 とかかもしれませんが、どこか「流行りもの」みたいな感じがして、案外はやく飽きられちゃうかもしれない。キムタク も違う気がするし、福山雅治 も、好き嫌いがわかれそう。
 女性だと、佐々木希 はかわいいけれど、世の女性全員が彼女の顔だったら、やっぱりなんか辛い。紀香 も想像すると、全然違う。結局は 吉永小百合 あたりかもしれないと思ったりもしましたが、純粋にテンションがあがりません。
 飽きられず、それでいて、無難でもなく、万人に受ける顔となると、なかなか難しいですね。
 男性だと 妻夫木聡、女性だと 江口ともみ あたりでいかがでしょうか、皆様。
 異論は、受け付けます。(^^;

<2010-7-24>
 僕は猫を自分で飼うようになるまで、猫はみんな同じ顔をしていると思っていました。
 もちろん、柄の違いはありますし、丸顔だったり三角だったりという違いもありますが、それらは人間で言えば、洋服の違いや、太っているか痩せているかくらいの違いにすぎず、「顔が違う」というほどのものとは思っていませんでした。
 猫だけでなく、僕は長い間、「何で人間は顔がひとりひとり全然違うのに、動物はみんな同じ顔で生まれてくるのだろう?」というのが不思議でなりませんでした。人間の顔は、本当にバラエティに富んでいて、テレビに綺麗な女優さんや格好いい俳優さんが出てくると、同じ人間とは思えないくらいです。しかし、キャットショーで優勝するような猫と、街で見かける野良猫が、そこまで違うとは思えません。
 猫好きにそんな話をすると、「えー! 全然違うのに。。。」と、笑われたり怒られたりします。猫の顔の違いに気がつけないのは観察力が足りないからだ、と言わんばかりです。
 そんなときは、僕はスズメの話をします。「じゃあ、スズメも見分けることできる?」
 すると大抵の人は、言葉に詰まります。猫は見分けることができるけれど、スズメは見分けることはできないようです。
 でも、おそらくスズメを飼っている人がいたとしたら、顔の違いに気がつくはずです。猫好きが、「でもスズメなんてみんな同じ顔でしょ?」と言ったら、やっぱり笑われたり怒られたりするのかもしれない。
 そんなスズメを見分けられる人も、おそらく昆虫は無理でしょう。このセミはかわいいとか、このセミは目が離れすぎているとか、そんな顔の違いに気がつくことは難しいだろうし、例え気がつけたとしても、人間の顔が与える印象の差に比べれば、その違いは、ほとんど識別のためにしか意味をなさないと思うのです。
 猫を飼い始めて、「動物はみんな同じ顔だ」というのは間違いだったことにようやく気がつきました。やっぱり、驚くほどかわいい顔の猫もいれば、そうでもない猫もいます。でもこれは、猫を好きになったから気がついたことで、相変わらず、スズメは同じ顔に見えます。
 結局、その対象に関心を持っていると、違いに気がつくようになる、ということなのでしょう。猫に関心がある人は猫の顔は全然違って見えるけれど、スズメは同じ顔に見える。スズメに関心がある人は、スズメの違いには気がつけるけれど、猫は全部同じ顔に見える。
 もし人間が、本当に全員同じ顔だとしたら……、例えば、男性はみんな 小栗旬 みたいな顔をしていて、女性はみんな 加藤あい みたいな顔をしていたら、恋愛はもっとずっと楽になるのでしょうか? 外見にはまったくとらわれないで、100%内面だけで人を判断できるようになるのでしょうか?
 それとも、もっと細かいところをみて(日焼け具合とか、細いとか太いとか、肌や髪のお手入れ具合などで)、やっぱり「綺麗」だとか「不細工」だとか言うようになるのでしょうか? その小さな差で、恋に落ちたり、「あの人は私のタイプじゃない」とか言ったりするのでしょうか?
 人間が外見に左右されるのは、あまりにも外見の見方に洗練されてしまったためではないかと、猫に対する見方が変わったことを通して、思うようになりました。昔は猫はみんな同じだと思っていました。どの猫も、かわいさは同じでした。しかし、猫に関心を持っている今となっては、すごくかわいいと思う猫もいれば、そうでもない猫もいます。
 どちらの見方が正しいとか間違っているとかではありませんが、全部同じ顔に見えたほうが、僕は幸せな気がします。猫に、かわいい顔もかわいくない顔もなくて、猫は猫。全部同じ。全部同じようにかわいい。
 人間も同じで、綺麗も、格好いいもなくて、全部ただの人間。同じように愛しい存在。
 その方が、みんな幸せだと思うし、もしかしたら本当に、そんな差なんて元々ないのかもしれない。差のないものを、差があると思い込まされて生きてきたのではないだろうか。
 もし宇宙人がやってきたら、人間は全部同じ顔に見えるのかもしれません。そして、宇宙人からみれば本当に些細な差で、ある人間は大勢から憧れられていて、ある人間は自分の外見に自信を持てないまま生きていることを、不思議に思うのかもしれません。
 いや、でもやっぱり、それとも違うのかな。
 本当に、関心のない人から見れば、猫の顔は大して違わないけれど、人間の顔の違いは、宇宙人から見ても、明らかなほどに違うのでしょうか?
 この年になっても、わからないことはたくさんあります。 

<2010-7-22>
 今週土曜日に開催される、「催眠体験会」ですが、まだ残席あります。
 ご興味のある方、是非いらしてくださいね!

<2010-7-20>
 淋しいのはどっち?
 「夏の夕暮れ」 対 「秋の夕暮れ」
 レディー、ファイト!
 (「お問い合わせ」から、どちらが淋しいか、理由も含めて送っていただけると嬉しいです! ある程度あつまったら、結果をまとめて、匿名でこちらに掲載いたします)

<2010-7-19>

 7/2にご紹介したアイコは、こんな感じで赤くなりました。
 まさに鈴なり!
 このアイコ、4本仕立てにしており、摘芯栽培をしているので、1本につき10花房、ひとつの花房に10個なるとすると、400個くらいとれてしまうと、捕らぬ狸の皮算用をしていました。
 実際には、すべてが受粉するわけではないだろうし、4本仕立てでは栄養不足で思った通りに成長しないかもしれないので、200個くらいとれれば良いかなぁ予想していましたが、この調子だと、本当に400個以上とれそうです。

<2010-7-17>
 「攘夷」という言葉の持つ凄み、嫌いではありません。
 今回の選挙、「今こそ攘夷実行!」というスローガンで戦う政党が出てきたらどうしようと思いましたが、出るわけありません。

<2010-7-8>
 ブルーベリーを初収穫しました。
 これは、ティフブルーと言う品種です。
 このティフブルーの木、何故か今年は元気がありません。
 普通、花を咲かせた後、葉や枝がワサワサと広がっていくのですが、今年は元気のない葉が申し訳程度に出てきただけで、新しい枝(シュート)の発生がなく、葉の色も悪いです。
 もう少し早く気がつけば、花を全部とって、今年は木の回復にあてたのですが、花が咲くくらいまではとても順調だったので、様子を見ている間に手遅れになってしまいました。今から摘果しても効果は期待できそうもないので、かわいそうだけれど、ついている実をすべて収穫するまでは、このままがんばってもらうことにしました。
 経験上、こういう株は、翌年復活することはなく、枯れてしまいます。
 唯一の可能性は、バッサリと剪定することです。
 剪定しても枯れてしまう可能性は高いのですが、うまくいけば、剪定したところから強いシュートが発生して、元気を取り戻すことがあります。
 このティフブルーは、ブルーベリーをはじめた頃に植えた苗で、思い出も多いので、どうにか復活して欲しいと思っています。

<2010-7-2>

 ミニトマトのアイコが、次々に色づきはじめています。
 収穫するのがはやいと甘くないので、とりたい気持ちを我慢して、もっと濃い色になるのを待っています。
 今年は、連続摘芯栽培という方法を試しており、実がついた茎を、捻枝といって、わざと折っています。そうすることで、葉で作られた栄養が、株全体にまわらずに、実に集中するため、実が大きくなるそうです。
 そのせいか良くわかりませんが、ミニトマトというには大きすぎるサイズに成長しています。(アイコはミニトマトだと思っていましたが、中玉トマトと分類されるようです。だから大きいのかな)


 このように、多いところでは1段に20個も実をつけています。
 一度に赤くなったら、食べ切れません!
 ブルーベリーはジャムにすればいいけれど、ミニトマトがとれすぎたときはどうすればいいのか、そろそろ考えはじめないと。(^^;;


 こちらは、ブルーベリー(ホームベル)です。
 ホームベルはラビットアイ系のブルーベリーで、ラビットアイ系は毎年、梅雨明けにならないと色づかないのですが、この3つだけ、もう青くなり始めています。
 日照時間も少ないので、あと1週間くらい収穫を待とうかなと思っています。
 ただ、1週間も放置すると、鳥に食べられてしまうかも。
 悩みどころです。

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<2010-6-16>
 植え付け後、2ヶ月たち、ようやくミニトマトのアイコが色づいてきました。
 株はかなり大きくなり、すでに青い実は50個以上ついているのですが、なかなか実が赤くならず、やきもきしていました。(やきもきって、何か変な言葉・笑)
 本当は今日、とって食べようと思っていたのだけれど、まだ「真っ赤」の一歩手前なので、もう少し待ってみようと思います。
 残念ながら、色づいているのはこの1個だけ。本格的な収穫には、まだ時間がかかりそうです。
 写真の左に見切れているのは、万能ねぎです。
 アイコのために、何かコンパニオンプランツを植えようと思い立ち、ネットで調べたところ、バジルやフレンチマリーゴールドがよさげだったので、早速ホームセンターへ行ってみました。しかしどちらも置いてありませんでした。
 そこで、スーパーの100円市で見つけた万能ねぎを買ってきて、食べた後の根の部分を植えてみました。万能ねぎが、コンパニオンプランツとしてどれくらいの効果があるのかは不明です。(^^;;
 この万能ねぎ、予想以上に成長が早く、毎日、変化がわかるくらい大きくなります。
 アイコの収穫よりも、しばらくは万能ねぎの収穫を楽しめそうです。
 今まで色々な植物を育ててきましたが、間違いなく、万能ねぎは一番簡単に収穫できる植物だと思います。
 ところで、以前にも似たようなことを書きましたが、「万能ねぎ」というネーミングは、大風呂敷を広げすぎだと思います。
 どこら辺が万能なのかも、不明です。

<2010-6-10>
 LIFE is coming back!

<2010-6-8>
 「ウェイヴ」という映画を観ました。
 この映画は、アメリカの高校で実際に起こった事件をもとに制作されています。
 たまたま、西田公昭著「マインド・コントロールとは何か」にこの事件のことが書かれており、興味があったので観てみました。私が要約するより、原文を読んだ方がはやいと思いますので、以下、引用します。

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 一九六九年、ある高校教師が、歴史の授業でナチス支配下のドイツにおける全体主義を教えようとしていた。彼は講義で映画を見せて全体主義を説明したが、学生たちは、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、なぜだれもナチの行動を批判できなかったのかが、まったく理解できないという様子であった。そこで、その高校教師はある試みをおこなった。
 教師は、生徒に「規律と力を作り出せることを証明しよう」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるように指導した。はじめ教師は嫌がられるのではないかと懸念したが、ふだん自由な雰囲気で教育されてきた生徒たちは、嫌がるどころか競争心をもって規則に従おうとした。不気味なことに、生徒たちは規則を覚えるたびに、つぎの規則を欲してゆき、授業終了のベルがなり終わっても、彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。
 つぎの歴史の授業においてもそれは続いていた。教師はとても驚いたが、そこでやめようとはいわずに、逆に彼は「規律の他に共通の目的のためにはたらく共同体に参加しなくてはならない、この運動を『ザ・ウエーブ』とする」と主張した。さらに「この運動の信念に従って行動することが力を得る」と主張した。生徒たちは、運動の旗印を作り、運動員章をつくり、この運動はクラス外の人びとにまでものすごい勢いで広がっていった。
 この教師の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒たちに浸透していった。ナチスの運動とそっぐりであった。彼らは、自分たちの自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」グループに入っていない人に対する優越を得て、差別をし、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようという者はほとんどいなくなり、そうした者は密告され、制裁を受けることになっていった。
 結局、この歴史教師は、メンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映画を見せ、自分たちのやっていることがナチスと同じであったことを示し、だれでもが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のあることを説明した。生徒たちは愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢をくずし、軍旗をすてた。
 このように現実の場面で、高校教師という他者が大勢の高校生のこころと行動を操作してしまった。そして高校生自身は、そのことに操作者自身から告知されるまで気づかなかった。これが永続的マインド・コントロールなのである。
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 映画の方は、ドイツを舞台に作られているのですが、とても面白かったです。
 この教師が、生徒たちをコントロールする為にいろいろなルールを作っていくのですが、そのひとつひとつは特別に過激でもなく、むしろ当たり前のもので、悪用しようと思えば、この映画を観るだけでも、いくつものヒントが隠されているなぁと思いながら観ました。
 これは言い過ぎかもしれませんが、私は人間は、誰でもカラッポな存在だと思っています。
 カラッポな人間が、文化や政府やメディアや友人等にマインドコントロールされて、あたかもそれが自分の考えであるかのように行動しているのだと思います。
 つまり、もし誰かを好きになったとしたら、それが意図的ではなかったにせよ、相手の「何か」が、自分をマインドコントロールした、と考えることは可能ですし、そこには人を動かす(少なくとも自分の気持ちを動かす)ヒントが隠れているわけです。
 ……と言っても、これも特別なことではなくて、自分が優しい人間に弱かったとしたら、「優しさ」は人に影響を与える原動力になり得るということですし、清潔な人に惹かれるのであれば、「清潔さ」もヒントになることでしょう。
 拉致したり、眠らせないようにしたり、延々と人格攻撃をした後に優しくしたり、食事を制限したりする必要はなくて、カラッポな人間に対して、あたかもそこに何かが入っているのだと錯覚させるような振る舞いをすることこそ、マインドコントロールの本質であり、私たちは誰に教わったわけでもなく、当たり前のようにそれを使っているのだと思います。
 無意識的に、社会常識や経験則としてそれを行なっているうちは怖くはありません。
 怖いのは、それらの意味や、与える影響を十分理解した上で、組み合わせてシステマティックに使われた場合です。
 ときどき、セールスの電話がかかってくることがあり、まるで社会心理学の古典のようなテクニックでこちらに「はい」と言わせようと誘導されることがありますが、さすがにそれにはひっかかりません。使っているテクニックは本格的で、かなり高度な心理誘導を仕掛けてきます。マニュアルがあるとしたら(恐らくあるのでしょう)、非常に合理的なマニュアルです。
 しかし残念なことに、電話をかけてくる相手が、自分のやっていることの意味をまったく理解していないのです。なぜこういった流れに持っていけば、相手が「はい」と言うのかを理解しないまま、マニュアルの言葉を繰り返しているだけなので、ちょっとでもマニュアル外のことを言われると、対応できないか、無視して無理やりマニュアルを読み続けるか、どちらかになってしまいます。
 また、そのマニュアルも「あざとさ」丸出しですので、セールスに慣れている人は、初めから聞く耳を持たないでしょう。
 しかし、もし彼らが自分たちのやっていることの意味を理解し、相手に合わせて柔軟な対応をしてきたら、断ることは数段難しくなることと思います。気がつかないうちに「はい」と言ってしまう可能性は高くなります。
 セールスなど、見知らぬ人からの電話ならば、ある程度はこちらも構えますので、あるいは抵抗することができるかもしれません。しかしもし、知人が、十分にこちらのことを調べ、綿密な計画を立て、惜しみなく金銭を投入してきたら、それらがすべて道徳的な方法だったとしても、いや、むしろ道徳的な方法であればあるほど、私たちは「ノー」ということができなくなるのです。
 この映画を観て、決して思想が行動を決定するのではなく、行動が思想を決定するのだと言うことを、改めて思わされました。
 頭の良い悪人には観て欲しくない映画です。
 ただの映画と言えばそれまでですが、本気で学ぼうとすれば、恐ろしい How to 映画だと思います。

<2010-6-7>
 今週の土曜日に、「催眠体験会」を行ないます。
 ご興味のある方は、是非、ご参加ください!

<2010-6-3>
 梅雨前の今の季節が、一年の中で一番気持ちがいいですね。
 日は長いし、蚊も少ないし、夜は涼しくて爽やかだし、空気が新鮮な感じがします。
 僕はときどき、モンスター薄着なので、寒暖の差にやられることもありますが、それでも大好きです。

<2010-6-2>

 育てているアイコ(ミニトマト)の実が、だんだん大きくなってきました。
 苗の方も急成長していて、今のところ、4本仕立てでも問題ないようです。
 今年は、「連続摘芯栽培」というのにチャレンジしています。
 ミニトマトではあまりやる意味がないという情報もありますが、どんな風になるのか、練習もかねて挑戦中です。


 こちらは、アイコと同じ日に購入した、次郎(柿)です。
 棒苗の状態で購入し、植木鉢に植えるときに値を確認したら、細根がほとんどなく、貧相な太根が申し訳程度に生えているだけでした。
 なるべく水はけを良くして植えましたが、待てど暮らせど変化がなく、「やっぱり粗悪な苗をつかんじゃったんだなぁ」と諦めていました。
 ところが数週間前から芽が膨らみだし、写真のように、無事に枝が伸びてきたのです!(見辛い写真でごめんなさい)
 根が今、どんな状態なのか、確認はできませんが、この枝や葉が成長している間は、心配しなくても大丈夫だと思います。 

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<2010-5-25>
 僕は海外ドラマが好きなのですが、これから「メンタリスト」、「フラッシュフォワード」、「ダーティセクシーマネー」や「LOST」や「HEROES」の新シーズンと、楽しみなドラマが目白押しです。すでに始まっている「ゴシップガール」の新シーズンや、「弁護士イーライのふしぎな日常」、Xファイルのモルダー役の俳優が出ている「カリフォルニケーション」も、初回を観たら面白かったので観続けています。
 夏に始まったドラマが終わる頃には、「ブラザーズ&シスターズ」や「ボストンリーガル」の新シーズンも始まり、気がつけば今年も終わるのでしょう。
 元々はPRIDEのPPVを観るために契約したスカパーも、今ではすっかり海外ドラマ専用チューナーになっています。
 スカパーに契約してまで海外ドラマを観ている知り合いがいないので、「GLEEのクィンはゴシガルのセリーナを超えたよね」とか、「イーライにプラクティスのユージーンが出てたね」的な話ができないのが残念です。(^^;; 

<2010-5-23>
 「好き」という言葉、もっとみんな使った方がいいと思うなぁ。
 なんか、「言ったら負け」みたいに思っている人が結構多いように思うのですが、甘んじて負けてあげるのが愛ってもんじゃないでしょうか。
 それに、「好き」と言ってみるだけで、それは魔法のように、もれなく色々なおまけがついてきます。
 決して相手のために言う言葉じゃなくて、めぐりめぐって、自分のために言う言葉だと思います。

<2010-5-20>
 今日、ふと、「二人しか来なかった」という文章を読んで、すごく不思議な気持ちになりました。
 これ、主語は「二人」ですよね。動詞は「来なかった」です。
 ということは、単純にそれらをつなぐと、「二人来なかった」になって、来ていないことになるのだけれど、実際の意味は「二人だけは来た」です。
 「来なかった」って言っているのに、しっかり「来た」イメージをしている。何故?
 これ、日本語を習っている外国人は混乱しないのだろうか?
 間に挟まっている「しか」って、どういう意味なんだろう?
 辞書によると、「体言またはそれに準ずるもの、動詞の連体形、形容詞・形容動詞の連用形、格助詞などに付き、下に常に打ち消しの語を伴って用いる。特定の事柄・条件だけを取りあげて、それ以外のものをすべて否定する意を表す」となっていますが、何だか解ったような、解らないような説明です。
 打消しの語を伴ってそれ以外のものを否定することで、それだけだということを表現したいのは解るのだけれど、何でこんなややこしい言い回しを日本人は普通に使っているのだろう?
 「しか」を強引に他の言葉と置き換えるとしたら、「以外は」になると思います。
 そこで、「打消しの言葉を伴う」というルールを無視して、「二人だけ来なかった」という意味で、「二人しか来た」とすると、やっぱり「二人は来ている感じになってしまう。
 このモヤモヤ感が皆さんに伝わっているか不安ですが、僕が不思議なのは、先ほども書いたとおり、「来なかった」って言っているのに、二人は来ていることです。
 見えない主語が「来なかった」ことで、二人だけは「来た」ことを理解させるという、非常にトリッキーなことをしているにも関わらず、コンピュータの如き正確さでこの複雑な構文を条件反射的に理解しているし、おそらく、「来なかった」って言っているのに「来た」イメージをしている自分にさえ気がついていないのです。
 和英辞書では、簡単に「only」ってなってるけれど、そんな単純な問題ではありません。
 「しか」は「only」だと説明して、外国の日本語学生に「二人しか来なかった」を英訳させたら、反対の意味になってしまうことでしょう。
 こんなことをうだうだ考えていると、時間ばかり経っていって、ふと我に返った瞬間に、「何してるんだろう?」と呆然としてしまいます。もっと生産的なこと考えなくちゃって。
 「うだうだ」って言葉も、何でしょうねぇ。
 あー、考えるのやめた!

<2010-5-18>
 村上春樹のどの作品だったか忘れたけれど、佐々木マキさんが挿絵を描いていて、その中の建物の看板に「Love Me Or Leave Me」と書かれていました。
 そのときはそんな曲があるなんて知りもせず、「ずいぶんと洒落た言い回しだなぁ」と思っていたのですが、それから数年後、たまたま大学の生協でワゴンセールになっていたCDを漁っていたら、ペギー・リーのCDの中に同名の曲を見つけ、どんな曲なのか聴いてみたくて購入しました。
 もうね、こういう曲、たまらないです。
 これでもかと韻を踏みまくる様子は、そんなわけないのだけれど、「日本人よ、韻とはこうやって踏むものなのだ」と教えているようでさえあります。
 「愛さないならどっかいってよ」というメッセージに、生きる強さを感じますし、この拒絶の仕方(歌詞を読むと、決して拒絶しているわけでもありませんが)は、正しいと思います。
 「愛さなくてもいいからそばにいて欲しい」なんて、臆病者の言い訳です。

<2010-5-16>
 「月間モンスター」というページを読んだのですが、これ、面白いですね。
 「俺もお前もモンスターじゃい!」とある通り、どれとは言いませんが、僕も思い当たる節がいくつかありました。
 笑いながら読みましたが、中には、「あ、でもこういう人、好きかも」というのもあって、それは「モンスターハンズフリー」です。
 周囲を気にせずに合理性に走れる人が僕は大好きで、ハンズフリーもそうですし、旅行でもないのにウエストポーチをしている人とか、最近は子供しか使いませんが、キックボードで街を颯爽と駆け抜けている人とかは、心から応援したくなります。(自分はやる勇気がありませんが)
 「え? どうして? 便利じゃん」という人たちがいるからこそ、世界が変わっていくのだと思います。

<2010-5-15>
 昨日は、4月にセミナーでお伺いしたK株式会社の社長様にご招待いただき、吉祥寺でステーキをご馳走になりました。
 5月に入り、セッションの入っていない日はカウンセリングルームにこもり、ひとりで秘密の(?)プロジェクトをしていることが多かったので、久しぶりに街の空気が吸えて、すごく気分が良かったです。
 帰りはタクシーまで呼んでくださり、快適に帰ることができました。
 普段は電車やバスで行けることころは電車やバスを使いますし、遠出するときは車を使いますから、タクシーを利用する機会はほとんどありません。
 久しぶりのタクシーに、ちょっとドキドキ、そしてワクワクしてしまいましたが、タクシーっていいですね。
 当たり前かもしれないけれど、圧倒的に楽。そして、いい気分。
 運転手さんとおしゃべりをしているうちに、あっという間についてしまいました。
 K株式会社様とは、今後定期的にお仕事をさせて頂くことになりそうで、来週は早速、朝の7時から社内の様子を見学に伺うことになりました。

 レストランに向かう前に、吉祥寺の啓文堂によって、「完全熟睡マニュアル」の在庫を確認してきました。
 4月の上旬に行ったときには平積みになっていましたが、今日も変わらず平積み継続中で、ホッとしました。
 置いてある場所が若干変わり、周りの本も4月とは変わっていたので、最低1回は棚差しの危機を乗り越えたのでしょう。
 でも何でビジネス書のど真ん中に置いてあるんだろう??

<2010-5-14>

 先月から育て始めた、ミニトマトの「アイコ」ですが、実が大きくなり始めました。
 4月後半は寒い日が多く、苗の元気もなく、植えるのが早すぎたかなと心配していたのですが、ゴールデンウィークの晴天続きでぐんぐん成長しています。
 本来トマトは、わき芽をとって1本仕立てにするべきなのですが、ミニトマトですし、わき芽をとらないと本当に生育が悪くなるのか一度実験してみたかったので、今年は無理して4本仕立てにしました。思惑通り、収量4倍となるのか、それとも栄養が足りずに株が弱ってしまうのか……。
 ネットでミニトマトの栽培日記を読むと、わき芽をとらずにジャングルのようになって、それでもたくさん収穫していらっしゃる方が多いので、肥料さえ切らさなければいけるのではないかと思っています。


 こちらは「バルドウィン」というブルーベリーの幼果です。
 このバルドウィンは、我が家のブルーベリーの中では超優等生で、放っておいてもワサワサと成長し、毎年大量の実をつけてくれます。
 実は大き目で、味はティフブルーやパウダーブルーなどに比べると若干薄味な気もしますが、比較しなければ十分美味しいです。
 去年はついに食べきれず、ジャムをたくさん作りました。(そのジャムもまだ、冷蔵庫にあります)
 今年はティフブルーの調子がいまいちで、去年地植えにしたデライトの成長もいまひとつ。期待のメンデイトはコガネムシの幼虫にやられて現在療養中と、受難続きですが、だからこそ、このバルドウィンの元気一杯の様子に励まされています。 

<2010-5-11>
 哀しみの裏側に何があるの?

<2010-5-9>
 春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて、と清少納言は言っていますが、僕は、春は夕暮れが好きです。
 夏はつとめて、かな。
 秋は夜。
 冬は昼下がりが好き。

<2010-5-7>
 それで幸せなら、そのままでいいんじゃないかなぁと思います。
 本当に幸せなら。
 それで不幸なら、幸せだって無理に思い込むことは無意味だと思います。
 だって、本当に不幸なのだから。
 「あぁ、不幸だなぁ」って思うことは、悪いことでもマイナス思考でも後ろ向きなことでもなくて、変化のための第一歩です。

<2010-5-4>
 エルトン・ジョンの曲を聴いていたら、以前に観た、「あの頃ペニー・レインと」を思い出しました。
 バスの中で、「Tiny Dancer」を誰からともなく歌いはじめ、最後は合唱になるシーンがとにかく良いんです。

William : I have to go home.
Penny : You are home.

 ゴールデンウィーク最終日、何も予定がない方は、のんびり映画なんていかがですか。
 これ、いい映画ですよ。 

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