ひとりごと
2009年 9〜12月

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<2009-12-31>
 大晦日に入るお風呂って、大好きです。
 いつもの湯船も、特別に感じられます。
 変わらずに明日も来るのですが、どこかに、「これで最後」みたいな空気があって、そういうのがたまりません。
 皆様、よいお年をお迎えください。

<2009-12-26>
 フォンドボー。
 意味は良く判らないけれど、良い響きです。

<2009-12-25>
 「2010年」というのは、読みなれないせいか、文字のバランスのせいか、インチキくさく感じます。
 2011年も2012年もそれっぽく読めるのに、何で2010年だけ、変な感じなんだろう?

<2009-12-20>
 M-1グランプリを観ました。
 審査員の評価は低かったですが、僕は東京ダイナマイトが一番面白かったです。
 この気持ちを誰に伝えたいですか?、のくだりは、久しぶりに苦しくなるくらい笑ってしまいました。
 笑い飯もさすがですね。鳥人は彼らの漫才の完成系のような気がしました。

<2009-12-18>
 ここ1ヶ月くらい、マロン(オス・年齢不詳)の性格が変わり始めています。
 マロンは我が家に来たとき、すでに成猫で、性格も非常に安定していました。
 ボランティアさんのキャリーから出た直後から、まるで昔からうちで暮らしていたかのような落ち着きぶりで、初対面なのに逃げることも威嚇することもなく、用意しておいたトイレを見つけると、当たり前のようにそこで用を足し、緊張している様子はまるでありませんでした。
 マロンはボイスレスキャットで、ほとんど鳴きませんでした。
 鳴くとしても、本当に小さい声で、「にゃん」程度。
 来客があっても人見知りせずに寄っていくし、窓の外を野良猫が通っても、威嚇することはありません。二匹目のゆずが来たときも、ボランティアさんがびっくりするくらい、はじめからウエルカムで、縄張りを主張することもありませんでした。
 本当に穏やかで控えめな猫で、飼い主としては、若干物足りないほど。ゴロゴロも控えめ。数ヶ月に一度、まるでご褒美のように、チロチロと手を舐めてくれることはありますが、それもすぐにやめてしまいます。呼んで来てくれることも滅多にありません。もっと自己主張してくれれば良いのだけれど、まるでぬいぐるみのように、いつもじっと佇んでいます。それは時々、「うちにはペットがいないのではないか?」と感じるほどで、ゆずを貰おうと思った遠因にもなっています。
 手がかからないのは良いのですが、ほとんど甘えてこないし、人間に対しても無関心で、餌を用意してトイレを綺麗にしてくれる存在としてしか見ていない感じがしました。マロン自身、どこか悟ったようなところがあり、「朝が来て、夜が来て、食べて、寝て、人生なんてそれだけだ」というような顔をして、哲学者然としています。「猫がいたずらをして困る!」という人の話を聴くと、羨ましく思ったりもしました。
 一方のゆず(メス・2歳)は、マロンとはまるっきり正反対の性格で、ピーピーと自己主張が激しく(ドア開けろ!、餌よこせ!、抱っこしろ!、遊べ!)、近寄ってきては痛いくらいに手を舐め、ときどきストーカーのようについてまわり、座っていると自分から膝にのってきてゴローンと寝てしまいます。抱っこも大好き。マロンは抱っこが好きではなく、抱っこすると、気を使ってしばらくはじっとしているのですが、しばらくすると「もういいでしょ。おろしなさいよ」という目をして、もぞもぞします。
 ゆずは少し撫でてあげるだけで、すぐにゴロゴロいいます。忙しくて無視していると、背伸びして右前脚で、「ちょんちょん」と、まるで人間が「ちょっとちょっと」と肩を叩くように、僕の脚を叩きます。呼べば返事をして、しっぽを立てて走り寄ってきます。縄張り意識も強く、窓の前に野良猫が通ると激しく威嚇し、マロンの場所は片っ端から占領。来客があると、おびえて隠れてしまいます。
 で、そのマロンなのですが、もう性格が変わることはないと諦めていました。ゆずは子猫から飼っているので、性格の変化がいろいろありましたが、マロンは来たときから5年間、全く性格が変わっていないし、これ以上なつくこともなければ、嫌われることもありませんでした。これがマロンの性格だし、小さなゴロゴロも、本当にときどきチロチロと舐めてくれるのも、カリオストロの城に忍び込んだルパン3世のように、「今はこれが精一杯」なのかもしれない。甘えるのが下手な、優しさに似たロケンロールなのです。
 マロンは殺処分されそうだったところを、ボランティアさんに「この子ならばもらわれるはず」と救われた猫で、詳しいことは知りませんが、大変な過去を背負っている感じがします。だから、ありのままのマロンを、そのままで愛そうと思っているし、いてくれればそれだけでありがたい存在です。ゆずが悪いことをすると本気で叱るし、頭に来ることもあるのですが、マロンは何をしても、「そのままでいいんだよ、マロン」という気持ちになるのです。
 それが最近、どうもマロンが変わってきたのです。
 まず、よくしゃべるようになりました。昔は鳴いても「にゃん」という小さな声でしたが、今は結構大きな声で、うにゃうにゃ言います。ゆずのように、何か要求があるわけではなく、まるでひとりごとのように、うにゃうにゃしゃべるのです。
 そして、呼ぶと結構きてくれるようになりました。今までは「どうせ用なんてないんでしょ」というクールな感じで見つめるだけで、動きませんでしたが、今は呼ぶと、寄ってきてくれることが増えました。
 更に、一番の変化は、自分から甘えに来ることです。パソコンの前にいると、ぴょんと机の上に載って、スリスリと体をよせてきます。キーボードを打っている手を優しく舐め、僕の方を向いて箱座りして、「僕がそばにいるからね」って励ましてくれているみたいに、ずっと居てくれます。ゆずは気まぐれで、眠くなるとどこかへ消えてしまいますが、マロンは僕が起きている限り、机の上や、マロン専用座布団の上で、待っていてくれます。
 それはもう、「マロン、一体どうしちゃったの?」、という変化で、もちろん嬉しいのですが、理解のできない、突然の変化です。
 やっと僕の愛がマロンに伝わったのか、それとも死期が近いのか、はたまた、ゆずを観ていて甘えることを覚えたのか……。
 ゆずは気まぐれで直接的なツンデレですが、マロンはもっとずっと高度なツンデレで、最近、マロンにメロメロです。

<2009-12-17>
 ビートルズの「Drive My Car」、大好きです。
 この曲に出てくる女の子は、セリフがいちいち格好良いですね。
 「多分あなたのこと、愛してあげるわ」とか、「私なら、もっと良い夢みさせてあげるわよ」とか、「車がなくて悲しいけど、とりあえず運転手は見つかったし、それがはじまりよね」とか……。
 村上春樹の小説に出てきそうな女の子です。
 ついでにライブで踊り狂っている観客も最高です!
 以前も書きましたが、「Working for peanuts is all very fine」は、本来の「あくせく働くのも悪くないけど」と訳すよりも、直訳で「ピーナッツのために働くのも悪くないけど」の方が、状況が目に浮かんで面白いと思います。
 [peatuts] の変わりに自分の会社名とか作っているものの名前とかを入れると、この女の子の魅力が更に身近になります。

<2009-12-15>
 ある弁護士ものの海外ドラマを観ていたら、最終弁論で弁護士が、大おばの格言としてこんなことを言っていました。

 「変なニオイだから食べないわ」 (This smells funny and I'm not going to eat it.)

 冤罪の被告を弁護するための発言で、結果、陪審員は被告に無罪を宣告しました。
 このまま有罪にするには何か"におう"と思っていた陪審員の心を、見事に動かした一言でした。
 これ、座右の銘にしようかな。

<2009-12-14>
 今年は部屋にこもっていることが多いせいか、全然クリスマスの感じがしないので、今日はずっと AccuHolidays! を聴いています。
 さすがに一日聴いていると、同じ曲が、アーティストやアレンジを変えて、何度も流れます。
 クリスマスには家に帰るとか帰らないとか、子供がドラム叩いてラパパッパーとか、シルバーベルシルバーベル、ママがサンタにどーたらこーたら、雪を降らせなさいよ降らせなさいよ降らせなさいよ……。
 もっとクリスマスの歌ってあったと思うけれど、そんな曲ばかりへヴィーローテーションで繰り返されています。

<2009-12-13>
 レンダプスキーフォリオンマヘ

<2009-12-9>
 受験のときに覚えた英語の例文が、未だにふと、心に浮かぶときがあります。
 There is no time to lose. (ぐずぐずしている時間はありません)
 きっと、no time とか、to lose とかが、この例文のポイントなのでしょう。

<2009-12-8>
 先月、「天空の城ラピュタ」が放送された日をきっかけに、当サイトのアクセス数が最大で10倍にも増えました。
 エッセイにある「ラピュタの都市伝説」がアクセス増の原因のようで、映画が放送されてから2週間以上もたっているのに、今もラピュタバブルは継続中です。
 ラピュタの都市伝説を扱ったサイトは多くあるのに、何故ここにまでそんなに来るのかなぁと、「ラピュタ 都市伝説」を google で検索すると、当サイトの「ラピュタの都市伝説」が2番目に表示されていました。「ラピュタ」だけで検索しても、何故か当サイトが2番目。Yahoo! では、「ラピュタ 都市伝説」で検索すると、なんと最上位に表示されました。なるほど、アクセス数が増えるはずです。
 アクセス数が増えたといっても、ほとんどの人がエッセイのページだけ読んで、そのまま消えていくので、あまり仕事には影響はないのですが、多くの人に読まれているのだなぁと思うと、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな気持ちです。

<2009-12-5>
 信じられないことを、「事実だから」と無理に信じる必要はないような気がしてきました。
 信じられるときが来るまで、「事実かもしれないけれど信じられないよね」って、保留にして良いのかもしれません。
 本当にそれが「事実」かどうかも判らないしね。

<2009-12-4>
 世の中には、散歩をする人と散歩をしない人がいます。
 僕は散歩が学生の頃から大好きで、まぁ、人生を通して、ずっと暇人だからかもしれませんが、ちょっと歩いてこようかな、という感じで、用が何もなくても歩くためだけに外に出ることがあります。
 散歩をし始めた頃って、やっぱりどこか緊張していて、何か自分はひどく間違ったことをしているのではないか、という気持ちになったものです。
 無理に例えるならば、缶ジュースをあけて、飲まずにそのまま流しに捨てるみたいな、そんな罪悪感じみたものを感じました。
 缶ジュースをあけて、飲まずに捨てるのは、全くの無意味だし、かといって飲もうが捨てようが自分の自由のはず、だけれど悪いことをしている気分……。
 散歩って、まさにそんな行為です。
 何でこんなに散歩が好きなのか、自分でもよく解らなくなることがあります。あるいは自己を罰しているのかもしれません。
 フワフワした雲でも浮かんでいようものなら、空を見ながらどこまでも歩いてしまいます。
 趣味を訊かれたときに、一瞬の迷いもなく「散歩です」と答える人に逢ったことはありませんが、そんな人に逢える日を、心のどこかで楽しみにしている自分がいます。
 「散歩」に似た概念は他にもありますが、あくまで「散歩」が好きなのです。
 「ウォーキング」は、「あわよくば」という感じがとても下品に感じます。
 「ハイキング」は、目的意識が強すぎて、散歩とは対極の概念です。
 「登山」もしかり。
 同じ散歩でも、「犬の散歩」には、義務感しか感じられません。
 「徘徊」は、本人的には散歩ですが、周りがそう認めてくれないところが辛いところです。
 純粋な「散歩」って、なかなか難しいのです。
 恐らく、生まれてから一度も散歩をしたことがない(全く目的のない外出をしたことがない)人も結構いるのではないかと思う。
 散歩をしたことがない人は、散歩をする人の気持ちなど、きっと理解できないのだろうな。

<2009-12-2>
 日本で一番食べられている魚介類は、イカだそうです。
 2位が鮭で、3位がマグロ。
 鮭とマグロは理解できるけれど、イカってそんなに食べられているのだろうか。
 全然イメージがわきません。
 もしかしたら今年、僕は一度もイカを食べていないかもしれない。

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<2009-11-29>
 思いつくままに雑記。
 マクドナルドの、クォーターパウンダー・レタス&トマトを食べました。トマトが入るだけで、数倍美味しく感じました。
 気がつくと、HEROESのピーター・ペトレリのモノマネが得意です。リクエストがあれば、いつでも全力でやります。
 来年は良いことがあるんじゃないかと毎年思って、結局平凡な一年を繰り返していますが、来年こそ、本当に良いことがあるんじゃないかと思っています。
 ベッキーはやっぱり苦手。見ていると、ニーチェの「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」という言葉が頭をよぎります。
 「太田胃酸」のコマーシャルに流れているピアノ曲は、ショパンの「前奏曲 第7番 イ長調」です。そうです。「胃腸調」です。

<2009-11-27>
 「鷹の爪団」は、前回の放送で初めて、世界征服っぽいことをしたように思います。
 このアニメ、見れば見るほど、人の温かさを感じます。

<2009-11-24>
 毎年同じようなことを書いている気がしますが、僕は晩秋から初冬が一年で一番好きです。
 「いろいろあったけど、今年ももう終わり!」という空気がたまりません。
 もちろん、年が変わったからと言って、何かがチャラになったりするわけではないのですが、自分なりにそういった「区切り」をつけていくのって、生きていく上で必要なことだと思います。
 毎年、フローリングの上にホットカーペットを敷き、その上にコタツを置いていたのですが、今年は「置き畳」を買って、その上にコタツを置いています。
 やっぱり畳はいいですね。匂いもいいし、断熱効果も高く、座り心地も良いです。
 箱で買ったみかんとコタツがあるだけで、何だか幸せです。

<2009-11-20>
 昨日の夜、雨が上がった後に散歩をして帰ってきたら、蚊に刺されていました。
 こんなに寒くても活動している蚊がいるのもびっくりだし、そんな生き残りの蚊に刺されている自分にもびっくりです。

<2009-11-19>
 セッションにいらっしゃった方からメールをいただき、掲載の許可をいただきましたので、久しぶりに体験談として、ご紹介いたします。
 過食嘔吐の悩みで相談にいらっしゃいました、29歳の女性の方です。

<ここから>
 昨日は急な予約にもかかわらず、柔軟にご対応くださり標題にかさねましてお礼を申し上げます。まことにありがとうございました。

 さて、1日たった現在ですが暗示をかけていただいたとおり、異常な食欲がピタリとやんでいます!
 今まではお腹が空いていなくとも、「食べたい、満腹になりたい」という思いが強く結局制御できなかったのですがセッションをうけてから教えてくださったおまじないの効果もあり(吐かない→満腹の状態を受け入れる→少しずつ様子を見ながら食べる→過食できない!)という過食症以前の大切な(クリエイティブな事に関する情熱もふくめ)感覚が戻ってきました。
 茫洋とした夢から醒めたみたいで10年も葛藤していたのが1回のセッションで正してもらえて嘘みたい!
 感謝の気持ちでいっぱいです。

(2日後にいただいたメール)
 セッションから丸一日たった今も、過食嘔吐や異常な食欲がなくいままでの10年間の生活が嘘みたいです!こういう風になおるんだ!
 (なんだかしつこくて申し訳有りません、それくらい感動してます!)

 ところで、体験談についてですが、摂食障害や何かへの依存を断ち切りたい方の助力になるようでしたら、是非是非ご利用下さい!
 切実に悩む方々が、敷居を高く感じている催眠療法について費用対効果を考えたときに確実に効果があるという事を実感してくれたらよいなぁ・・・と、思います。
<ここまで>

<2009-11-15>
 重力加速度は9.8m/s2(9.8メートル毎秒毎秒)ですが、この「まいびょうまいびょう」とうい響き、大好きです。

<2009-11-14>
 手をぎゅっと握ってゆっくり開き、手相を眺めると、シワが動いて見えるのは幻覚なのでしょうか?

<2009-11-12>
 今日はカウンセリングルームに、マジシャンの なか。たつや さんが遊びに来てくださいました。
 目の前でいくつもマジックを披露してくださり、プロのマジシャンの華麗なテクニックに酔いしれてしまいました。目の前でフォークがぐにゃぐにゃになってしまったのを見て、マジックだと解っていても、どこでそんな風に曲げたのだろうと、不思議で仕方がなかったです。原理を頭で理解するのと、それが実際に出来るのとでは、全く別の話なのだと改めて思いました。
 マジシャンの方にお会いするたびに、こんな風にマジックができたら、さぞかし楽しいだろうなぁと思います。そして何よりも、マジシャンがマジックをしている姿は、かっこいいです。例えそれが一瞬でも、常識を覆し、価値観を変え、夢をみさせてくれるのですから。
 今日、とても勉強になったのは、「アウト」という考え方です。正確な定義は判りませんが、「うまくいかなかったときにどうやって立て直すか」というような概念だと思われます。(違っていたらごめんなさい) マジシャンの方は、相手がどんな選択をしても、すべてが成功に繋がるように、緻密な計算でパフォーマンスを組み立てます。ですから、失敗がないのです。
 例えば催眠をしていて、「立てない」という暗示をしたとします。うまく行く場合もあれば、うまく行かない場合もありますが、大抵の催眠の教科書には、うまく行かなかったときの「アウト」など書いてはありません。「うまく行かないかもしれない」と思って誘導すると本当に失敗するので、自信を持って誘導しましょう!、というような、精神論ばかりです。でも、暗示に100%などあり得ないのですから、やはり、うまくいかなかったときにラポールを壊さないフォローの仕方は考えておく必要があると思います。マジシャンのように、すべてを成功に導く完璧な「アウト」は催眠では難しいかもしれませんが、相手の方に、立ててしまったことを気まずくさせないような展開に持っていくことが確実に出来れば、誘導する側ももっと自信を持てると思うのです。
 もっともっと、いろいろなパターンの「アウト」を誘導に取り入れていけたらと思いました。

<2009-11-8>
 日本人はシャイだとか自分を出さないとか意見を言わないとか遠慮ばかりするとか無口だとか言われますが、本当はそれくらいが丁度いいのだと思います。

<2009-11-7>
 今日はカウンセリングルームで2回目の大江千里オフ会を開催しました。
 今回気がついたことは3つ。

 1つ目は、大江千里が好きな単語について。
 彼の歌が醸し出す独特の世界観って、単語選びによるところも大きいと思うのです。「テントのさびくい」とか、「妹の文字コーヒー滲む」とか。
 そして、複数の曲にまたがって登場する単語が多いことに気がつきました。
 魚(魚のような口づけ〜、魚になりたい〜)、バス(夕方混んだ都バスのにおい、空いたバスの後ろに揺られてみた)、空車(空車がなくなるー、空車のタクシーと)、ケチャップ(ケチャップの染み、デルモンテトマトケチャップ)。
 あと、空車もそうだけれど、空の状況やなくなりそうな状況が好きみたい。空き缶で指を切ったとか、残高が少しある通帳とか。

 2つ目は、「魚になりたい」はやっぱり名曲、ということです。
 「見てるだけ」で何も起こらないのに、これだけの曲を作ってしまうのですから。
 ライブ映像を観ていて、あぁ、いつの間にかこういった青春時代は終わっちゃったんだなぁって、何度も思いました。
 ひと目みるためだけに、可能な限り仕事を引き伸ばして、新聞を広げてその瞬間を待とうという気持ちは、「昔もっていた感覚」という気がしてしまった。
 この曲の、「年上だっていい、年下だっていい」とか、見かけよりひとりでいるマドンナとか、恵比寿とか、疲れ果てて眠りこけている様子とか、そういう描写は本当に素晴らしいです。
 ところで「魚になりたい」ってどういう意味なんだろう??

 3つ目は、帰りの電車の中でアルバム「AVEC」を聴きながら思ったのですが、「17℃」、「アリアじャない」、「去りゆく青春」という流れは、「1234」の「ハワイへ行きたい」、「サヴォタージュ」、「帰郷」、「昼グリル」に匹敵する流れだと思いました。一曲一曲も良いのですが、この流れも含めてひとつの作品という気がします。
 中でも「マリアじゃない」は名曲ですね。中学のときに聴いていたときは、大人になれば、ガールフレンドも10人くらいいて、「あなたの右のこめかみの険しさが好きよ」なんて言われたりするのかなぁと漠然と思っていましたが、大人になってもそんなことは全然起こりませんでした。(^^;;
 今ではギアをローに入れることはないし、進駐軍放送はFENではなく、AFNになっちゃいましたが、変わらずにこの曲を聴くと切ない気持ちになります。

<2009-11-4>
 知人の紹介でセッションにいらっしゃる方の中で、一番多いのが禁煙の依頼です。
 催眠療法の効果は、ダイエットや不眠よりも、禁煙が一番周りに対して目立ちやすいのでしょう。仕事の休憩時間に一緒にタバコを吸っていた同僚が、突然タバコを吸わなくなったら理由を聞きたくなりますよね。
 タバコはお金がかかりますし、健康に対する影響も気になります。また、タバコを吸えない場所も増えて来ていますので、喫煙者の方は心のどこかで、禁煙することを「いつかはしなくてはならない宿題」のように考えていらっしゃることがあります。そんな折に知人が簡単に禁煙してしまったわけですから、この際自分もチャレンジしようということになるのかもしれません。
 催眠を、何でもできる魔法のように宣伝しているサイトは少なくなく、「催眠で禁煙は簡単!」というニュアンスで書かれているのを読むたび、それは催眠を買いかぶりすぎだと思わされます。身体が完全にニコチン依存を起こしている場合は、禁煙外来で治療してもうら必要があります。禁煙のセッションを行い、催眠で禁煙ができることを宣伝している催眠療法士自身がヘビースモーカーであるという、笑えない話だってあるのです。
 一方、自分が喫煙者のせいか、「催眠で禁煙などできない」とおっしゃる催眠療法士もいらっしゃいます。とても誠実な意見ですが、それも極端だと思います。催眠など使わなくても、多くの方が、「タバコをやめよう」という意思だけで、禁煙に成功しています。僕の知り合いも、長年チェーンスモーカーで指先が黄色くなるほどでしたが、「やめよう」と決めたら完全に吸わなくなりました。意思だけでも禁煙に成功する人がいらっしゃるのですから、催眠でサポートしてあげれば、成功率は高くなるし、より楽にタバコと決別できる可能性だってあるのです。
 実は、タバコを吸っている人すべてがニコチン依存ではありません。ですから、ニコチン依存でない方は催眠療法で禁煙できる可能性があります。また、ニコチン依存の場合でも、離脱症状の現れ方は人それぞれ、そしてその受け取り方も人それぞれなので、暗示を入れることでそれらを回避できる可能性があります。
 ニコチン依存は、ニコチンパッチやニコレットなどのニコチンガムで対処することができます。しかし、もしそれでもやめられない場合は、身体的なニコチン依存とは違うところでタバコが止められないのですから、催眠を試してみる価値はあるのです。
 禁煙のセッションを行なうと、終わった途端にタバコに触れなくなったり、匂いをかぐだけで気持ちが悪くなってしまう方が多く、その反応はこちらが驚いてしまうほどです。
 好きなものほど、悪い面もよく知りながら目をつぶっていることがあるので、一旦「嫌い」の側に天秤が振れると、どこまでも嫌いな気持ちが大きくなっていくのかもしれません。

<2009-11-3>
 マロンにはマロン用の座布団があって、大抵はそこで寝ています。
 柚子には柚子用の座布団はなくて、何でないのかと聞かれれば、マロンは先住猫だからとしか言いようがありません。(それじゃあ柚子がかわいそうではないか!、というお叱りがあれば、甘んじて受けます)
 マロン用の座布団と言っても、マロンは優しい猫なので、柚子が座布団の上にやって来ると、しばらくは頑張るのですが、最終的には柚子に座布団を譲って自分はおりてしまいます。
 今は座布団の上でマロンが寝ています。
 ときどきマロンが、「そうだよ。僕が友達だよ」と言っている気がするのは、また別のお話です。

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<2009-10-23>
 数ある童謡の中で、「森の熊さん」についで不可解なのは「山寺の和尚さん」ではないかと思います。
 この歌の不可解さは、3つの点に集約されます。
 1.和尚にとって鞠を蹴ることが日常的であるという設定。
 2.代用品を作ってまで鞠を蹴らなければならないという強迫観念。
 3.猫をかん袋に入れれば鞠の代わりになるという発想。
 童謡とはいえ、和尚という立派な身分のある大人が、「さて、暇だから鞠でも蹴るかな」と思っていることがまず理解できません。そして、鞠がないのならば諦めれば良いのに、鞠の代わりになるものを作ってでも蹴りたい衝動にかられているのも理解に苦しみます。更に、猫を袋に押し込めば鞠のようになるという発想はどこから生まれたのか、こちらも理解できません。袋につめれば鞠になりそうなものはいくらでもあるのに、何故に猫なのでしょうか。うちにも猫がいますが、袋に入れて蹴るというのはかなり残酷な行為です。
 そして一番不可解なのは、楽しげなメロディにのせてまで、何でこのような歌を歌わなければいけなかったのか、ということです。
 ついでに「森の熊さん」の不可解さについても書こうと思ったのだけれど、不可解さのスケールが大きすぎて、挫折しました。(^^;;

<2009-10-22>
 ベランダに地デジのアンテナを建ててみました。
 ベランダ用の地デジアンテナでは、YAGIアンテナの「UwPA」の評判がとても良かったのですが、カタログ上の利得があまり高くなかったので、若干スペックの高い、BUFFALOの「BSATD02」というアンテナを購入しました。
 このアンテナは、ベランダ取付金具やケーブルがすべてセットになっており、値段も3,000円以下と激安です。(通常、ベランダ取付金具とケーブルを別々に買うだけでも3,000円以上はします。ちなみに「UwPA」のベランダ取付セットは6,000円ほどです)
 組み立ても取り付けもあっという間に終わり、実家から借りてきた地デジチューナーに直接つなぐと、MXを除く全局が綺麗に映りました。更に、元々使っていたブースターを間に挟むとMXも映るようになりました。
 元々この近所は、電波障害があるということで共同アンテナでした。
 しかし、地デジの電波は強いという理由で、共同アンテナはアナログ停波のタイミングで撤去されることが既に決まっていました。
 ときどきケーブルテレビのセールスがやって来て、「アンテナを建てたところで映らない可能性があるからケーブルテレビに入った方がいい」と勧誘されていましたので、地デジのアンテナをどうするかは2011年までの宿題という感じで気が重かったのですが、今回、とても簡単に地デジ化が終了してホッとしました。これでいつテレビを買い換えても大丈夫です。
 今後、地デジアンテナを建てる予定、もしくは地デジを観るためにケーブルテレビに加入予定の方は、一度ベランダアンテナを試してみてください。うちは三鷹市ですが、少なくとも23区内で、東京タワー方面に障害物がなく、見晴らしが良ければ、ベランダアンテナで十分観られる可能性があります。僕の購入した「BSATD02」はいかにもアンテナという形ですが、「UwPA」などは外観を損ねることもなく、手軽で良いと思います。
 もちろん、うちがたまたまロケーションが良かっただけかもしれませんので、絶対に映るという保証はできませんが、高いお金を出してアンテナ工事をする前に、試す価値はあると思います。

<2009-10-11>
 植木に水をあげながら、秋の心地よい日射しを感じていたら、突然「海岸通」を聴きたくなりました。
 移動手段に当たり前のように船を選ぶことができるのって素敵だなぁと思います。きっと時間はゆっくり流れていくのでしょうね。

<2009-10-7>
 台風接近中ということで、夕食にコロッケを食べました。
 「台風の日はコロッケ」という風習が僕は大好きです。
 「年越しそば」や「土用のうなぎ」、「クリスマスのケーキ」も好き。行事としてみんなが同じものを食べている状況が好きなんだと思います。
 「引越しそば」はそんな行事が特定の日に固定されていないのは魅力ですが、そうそう引越しがあるわけではないし、自分の周りだけなので盛り上がりに欠けます。
 「台風の日のコロッケ」は、突然やってくるドキドキ感も良いし、一年に一度は楽しめそうだし、自分ひとりじゃないし、大晦日や土用やクリスマスは無関係に過ごそうと思えば過ごせますが、台風は、その地域の住民全員の共通イベントなので、一体感が桁違いで、そういうのがたまりません。
 「台風の日はコロッケ」という風習がもっと広まって、台風が来ると当たり前のようにスーパーのお惣菜コーナーに人が群がるようになったら、とても微笑ましいなぁって思います。
 「何で台風の日はコロッケ?」と思った方は、是非「台風 コロッケ」で検索してみてください!

<2009-10-5>
 送迎のため、成田空港まで行ってきました。
 出発前に給油し、帰りに家の近くでもう一度給油したのですが、燃費を計算してびっくり!
 18km/l も走りました。
 車(MAXという軽自動車です)を買ってから、毎回計算しているのですが、こんなに燃費が良かったのは初めてです。
 軽自動車は燃費が良いイメージがありますが、最近の軽は、エンジンは小さいのに車体が大きいため、決して燃費は良くありません。そしてこの車はターボ車ですので、更に燃費は悪く、いつもは街乗りということも重なって、普段の燃費はだいたい 10km/l くらいなんです。
 今回は、ほとんど高速に乗っていたとはいえ、こんな結果が出て驚きました。

<2009-10-2>
 「もっと遊びたかったらしい」と、「もっと遊びたいらしかった」というのは、似たような文章ですが、意味が微妙に違いますね。
 外国人から、このふたつの文章の違いを説明して欲しいと言われても、すぐにパッと答えられる人は少ないのではないかと思います。
 一度、頭の中で解釈する時間が必要です。
 一方、感覚的には、文章を読んだ瞬間から違いを感じていますね。決して説明は出来ないかもしれないけれど、同じ意味でないことは解っています。また、そういった状況になれば、このふたつを完璧に使い分けることも出来ます。
 理解する能力と説明する能力って、本当は全く別の能力なのですが、「理解しているのならば説明できるはずだ」という幻想を多くの人たちが持っていることは、必要のない誤解や争いをうむ原因となっていると思います。「何でこんなことしたの!」と怒られたとき、例え正当な理由があったとしても、それを相手に伝えられなければ、「正当な理由もなく、そんなことをした」とみなされるわけですから。
 また、一般的に、説明する能力に長けている人ほど「理解している」と思われがちですが、それも幻想だと思います。説明できないけれど理解力に長けている人も、もちろんいます。5で理解したものを5で説明できる人と、10で理解しているのに1でしか説明できない人がいたとしたら、前者の方が理解していると思われるのは仕方のないことですが、本当にパフォーマンスを発揮できるのは、後者でしょう。
 何かを感じることと、それを言語化することは別なんですよね。愛情表現の下手な人が愛していないわけではないし、愛情表現の上手な人が愛しているわけでもありません。
 もしかしたら、理解力のある人は説明する必要なんてないからどんどん説明が下手になっていくし、理解力のない人は言葉で確認しないと理解できないのでどんどん説明がうまくなっていくのかな。
 さて、皆さんが冒頭のふたつの違いを説明するとしたら、どんな風に説明しますか?

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<2009-9-29>
 「イギリス英語」っていうのも、二重形容ですね。
 こう考えると、必要悪的な二重形容って、結構多い気がします。

<2009-9-25>
 新幹線の乗車率を表すときに「120%」というのは全く問題ないのですが、自信や可能性を表すときに「120%」を使う人をみると、何だか信用なりません。
 「120%大丈夫です!」なんて言われると、逆に心配になるのです。
 まず、こういう場合に100%より大きい数字を言ってしまう人は、「パーセント」の意味を解っていません。
 「パーセント」の「パー」は、「〜につき」という意味で、「セント」(ラテン語でcentum)は、「100」という意味ですから、「パーセント」は、「100につき」という意味があります。つまり、百分率を表します。
 百分率ですから、自信や可能性などを表す場合は、最大が100になるはずです。
 それなのに、絶対に自信があることを伝えたくて、「120%大丈夫です!」なんて言ってしまうのは、頭の悪さ丸出しです。
 「100%大丈夫です!」で良いのです。
 以前、「絶対条件が許せない」でも書きましたが、これ以上ゆずれない状況を表すために、「絶対条件」だとか、「絶対必要条件」だとかいう言葉を使いたがる人がいます。でもそんな言葉は日本語にありません。「必要条件」が正解です。「必要条件」だと、なんとなく言葉にインパクトがないから、「絶対条件」などと言ってしまうのだろうけれど、この言い方をされるだけで、「この人のいっている絶対条件というのは、本当に必要条件のことなのだろうか?」と悩んでしまい、言葉の意味も解らない人が言っている「条件」が、合っているのかどうか、全然確信が持てなくなります。
 それと同じで、「パーセント」の意味さえ解っていない人が言っている数字に、果たして意味があるのかと、信用できなくなるのです。
 仮に、この人は完全に自信があることを「120%」と呼ぶのだと仮定したら、今後この人が「100%」と言っても、何だかそれは100%じゃないような気がするし、83%くらいの気持ちで聞かなければいけないような気がする。
 言葉にインパクトを持たせたいのは解りますが、絶対条件だとか、120%だとか、雰囲気だけで数学的な言葉を使う人をみると、ついつい、話半分で聞いてしまいます。

<2009-9-23>
 明日の深夜2時(9/25 2:00)より、フジテレビにて、「デーブ」という映画が放送されます。
 僕はこの映画が大好き。今まで観た映画の中で、今のところNo.1です。
 笑いあり、涙あり、ロマンスあり、勧善懲悪で、完璧な映画です。
 シガニー・ウィーバーがとても素敵です。
 ご覧になったことのない方は、騙されたと思って、是非みてみてください。

<2009-9-20>
 童謡「サッちゃん」。
 1番と2番は、サチコって呼べないだとか、バナナは半分しか食べられないだとか、能天気なテイストの歌だったのに、3番の悲しさはガチ過ぎます。

<2009-9-18>
 ビートルズのアルバムがリマスターされた関係で、最近、ビートルズ関連の番組を良く観ます。
 今日、録画しておいたNHKの番組を観たのですが、その中で、ジョンが「I am the walrus」について語るシーンがありました。

「私はエッグマン」というのはどういう意味なのか、深読みしようとする人もいるけど、別に「プリンの容器」だって構わないんだよ。
言葉遊びであって、まじめに考えることじゃないんだ。

 こういうことをサラッと言えてしまうジョンは、本当に格好いいと思います。
 この曲、僕は大好きです。
 歌も小説も、歌われ、語られている内容よりも、文章としての面白さ、言葉としての面白さに、僕は惹かれる傾向にあるみたい。
 何を語るかは問題ではなくて、どんな風に語るかこそ、問題なのだと思っています。

<2009-9-17>
 秋になると、条件反射のようにオフコースを聴きたくなります。
 オフコースに一番はまっていたのは、中学のときなので、どうしても中学の頃を思い出してしまいます。
 まだ、愛とか恋とかよく判らなかったけれど(今も判っているかどうか怪しいけれど)、こういう曲を聴いていると、本当にひとりだけ取り残された気がして、そういう気持ちは大人になった今でも、全然変わりません。
 たった3年間の中学生活でしたが、あの頃の1年間は、今の10年間分くらいの密度があった気がします。
 大人になってからずっと、いつかもう一度、あの頃に戻ることになるんじゃないかって、そんなわけないのだけれど、思い続けています。

<2009-9-16>
「仕事、何してるの?」
「牛泥棒さ」
「牛泥棒? 大変なお仕事ね」
「みんなには内緒だぜ」

 こういった文章から醸し出されるような空気って、決して現実には存在しませんよね。
 小説の面白みって、この空気なのだと思います。

<2009-9-13>
 「湯沸かし器」や「万能ねぎ」といったネーミングは、なんとなく愛を感じないので好きではないのですが、その系列である「人造バター」というネーミングは、結構好きです。
 「人造バター」が死語だからかもしれませんが、人類の叡智みたいなものを感じます。
 「マーガリン」なんて外行きな顔しないで、悪の組織に改造された仮面ライダーのように、「人造バター」として、暗い過去を背負いながら闘っていって欲しいものです。

<2009-9-9>
 昨日、「20世紀少年」を吉祥寺まで観にいきました。
 気合を入れて午前中の回に、しかも1時間も前に行った所、ぶっちぎりで1番の客となることができました。(^^;;
 誰もいない映画館に入ったのも初めてですし、こんなに良い席で映画を観たのも初めてです。予想外に客入りが悪く、僕が入ってから30分くらいは、誰もやってこなくて、まさか貸しきり状態で始まるのではないかと、ドキドキしてしまいました。
 その後、少しずつお客さんが入ってきましたが、それでも全部で30人くらいだったと思います。
 いくら人気作品と言っても、吉祥寺の平日の午前中の回だと、こんな感じなのかもしれません。
 映画自体は、非常に濃い作品で、しっかり結末まで描かれており、大満足の最終章でした。
 映画と原作では、結末が異なるということで、今度は原作が読んでみたくなりました。
 ただ、全24巻なんですよね。集めるには多すぎる……。マンガ喫茶でも行こうかなぁ。
 誰か、お持ちでしたら貸してください。(^^;

<2009-9-8>
 僕たちが他言語を習得するときって、もともと日本語を知っていることに非常に助けられている気がします。
 つまり、辞書を見れば、その意味が判るわけですし、文法だって、日本語の経験があるからこそ、理解できるわけです。
 ところが、赤ちゃんのとき、日本語を習得したときはどうだったかと言うと、全く他の言語は知らないのに、「勝手に」日本語を覚えてしまったわけです。
 もちろん、ある程度大人になれば、国語辞典を引くことで、新しい単語をどんどん習得することは可能ですし、親や先生から新しい単語を習うことももちろんありました。
 ただ、基本的な部分は、やっぱり「勝手に覚えてしまった」としか言いようがありません。
 外国人にしてみれば、なぜ、1のときは「ぽん」で、2のときは「ほん」で、3のときは「ぼん」なのか、理解は出来ないだろうし、これは覚えるしかないのですが、僕たちはそんな違いがあったことさえ、言われてみなければ気がつかない。それくらい自然に、覚えてしまっている。
 僕はそのように、言語のない状態から日本語を覚えられたのは、赤ちゃんのときだからこそ、と思っています。
 つまり、今、突然知らない国に迷い込み、辞書もなく、日本語が出来る人もいない状況になったら、その国の言語を覚えることは不可能な気がするし、例え出来たとしても、それは赤ちゃんが覚えたように覚えるのではなくて、きっと理屈に頼って、より多くの努力を必要とするのではないか。
 むしろ、日本語を知っていることが、邪魔になる気がする。
 何でこんなことを書いたかと言うと、僕は英単語が判らないとき、辞書を引きますし、文脈から、大体こんな意味じゃないかなぁと想像することもあります。これは、日本語がベースにあるからこそ出来る覚え方です。
 しかし、唯一、例外があって、まだ英語を勉強したこともなかった小学生の頃、アメリカ人が話しているのを聞き、やたらと「ピーポー」という単語が耳についたんですね。もちろん、何を言っているのかさっぱり解らなかったのだけれど、直感的に、「このピーポーは、『人々』のことだ」と、確信したことがあるんです。
 当時は英語の辞書も持っていなかったので、それを確認もせずに数年が過ぎました。そして、初めて英語の授業で people という単語が出てきて、それが「人々」という意味だということを知ったとき、すごくびっくりしたんです。「やっぱりあってたんだ!」って。何で小学生の頃にその単語の意味だけ解ったのか、不思議で仕方がありませんでした。サイド6で、アムロが初めてシャアに出逢ったときの、「初めて会った人だというのに、なぜシャアだってわかったんだ?」みたいな驚きでした。
 僕は自分の人生で、唯一、あの瞬間が、日本語を習得したように、勝手に英語を理解した瞬間だと思っています。
 本当に、ただ、解ったんですよ。
 ニュータイプだから?

<2009-9-6>
 久しぶりに見つけた形容矛盾
 「固まった溶岩」

 同様に、二重形容
 「溶けた溶岩」

<2009-9-3>
 今、椅子の上でペターっと寝ている柚子(雑種猫・メス・1歳)と目があったので、「おいで」と言った所、椅子からぴょんと降りて、ゆっくり歩いてこちらに来ました。
 そして僕の目の前でゴローンと横になり、ゴロゴロ言うので、抱っこしました。
 柚子は本当に不思議な猫で、こうやって呼ぶと来ることもあれば、目を見ただけで身をかがめ、ちょっとでも近寄ろうものなら逃げ惑うこともあります。
 それはもう、全く別猫のようです。(その点、マロンはいつも安定していて、逃げることもなければ、呼んで来ることもほとんどありません)
 いつかこの性格も安定して、逃げることはなくなるのではないかと期待しているのですが、今のところ、年をとればとるほど、警戒心が強くなっている気がします。
 間違って外に逃げてしまったら、絶対に捕まえられないと思う。
 でも、甘えてくるときは、末恐ろしい甘え方をしてくるんです。
 行く所行く所、ストーカーのようについて歩き、抱っこしないと、前足でチョンチョンと、「抱っこしろー」って催促します。
 これが本当にしつこくて、忙しくて相手をしないと、今度はペターっと寝たまま、すごくふてくされた顔でこちらを恨めしそうに見つめます。
 それでいて、抱っこしてあげると、しばらくはゴロゴロ言っているのですが、「もういい」という感じで飛び降りて、その後は僕が近寄ると慌てて逃げてしまうこともあります。
 柚子が人間の女の子だったら、振り回されっぱなしで、完全に自信をなくしていたと思います。

<2009-9-1>
 「エミリーローズ」という映画を観ました。
 この映画は実話に基づいた、悪魔祓いがテーマのお話です。
 カトリック教会から正式に「悪魔憑き」と宣告された19歳の女性、エミリーローズが、悪魔祓いを受けます。悪魔祓いは失敗に終わり、彼女は栄養失調と自傷行為の結果、死んでしまいます。彼女の死後、悪魔祓いを行なった神父が、過失致死罪で刑事告訴され、その裁判の模様を中心に映画は進んでいきます。神父が悪魔祓いなどをせず、医学的な治療を受けさせ続けたら、彼女は死ぬことがなかった、というのが検察側の告訴理由です。
 ちょうど今、催眠の歴史についてまとめているのですが、近代催眠の源流とみなされている、メスメルの動物磁気術の少し前に、ガスナー神父という人物が登場します。
 彼は、ある種の病気は、悪霊の仕業であると考え、祓魔術(ふつまじゅつ)を行なうことで多くの病人を癒したと言われています。
 これは勝手な僕の推測なのですが、もし、エミリーローズが18世紀に生まれ、ガスナー神父の祓魔術を受けていたとしたら、あるいはエミリーローズは死なずに助かったのかもしれません。
 催眠的現象を起こすために必要なことは、その人の中にある、ビリーフシステムです。
 どういう枠組みで物事を見ているのか、そして何を信じているのか。
 エミリーローズも、悪魔祓いをした神父も、心底、悪魔の憑依を信じていましたが、その一方で、「これは精神病なのではないか」という問いは、当然心の片隅にあったはずです。そしてこの問いは、ガスナー神父の時代よりも、ずっと大きかったはずです。神父は悪魔祓いの際、精神科医を同席させていましたし、はじめ彼女は、病院に入院していたのですから。
 病気か、悪魔の仕業か……。
 彼らのビリーフシステムに迷いがなければ、完全に医学を信用することで生き延びることができたかもしれませんし、完全に悪魔の仕業として、悪魔祓いが成功したのかもしれません。
 エミリーローズのモデルとなった、アンネリーゼ・ミシェルのドキュメンタリーがYoutubeにあがっていたので、それも観てみたのですが、果たして悪魔が実在するとしたら、こんな風に、人間が想像するような「悪魔的な」声を出すのだろうかと、疑問に思いました。
 彼女の無意識が、どうにか「自分は悪魔に憑かれているのだ」ということを認めて欲しくて、どんどん悪魔的な行動をとっていったのではないかと思いました。
 6つの悪魔が祓われたと思ったら、よく理解できない理由で彼らは彼女の体の中に留まり、再び現れるのですが、それが彼女の心の葛藤に思えてなりません。 

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