ひとりごと
2009年 1〜4月
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<2009-4-26>
あるマジックの本で、著者が、「もし自分に超能力があったら、その超能力を使って手品をする」というようなことを書いていました。
今日、カウンセリングルームで「Derren Brown研究会」というのを開催したのですが、僕はDerrenのパフォーマンスを見ていると、ときどきこの台詞を思い出します。
Derren自身は、完全な超常現象否定派で、著書の中でも科学的に物事を見極めることを啓蒙していますし、テレビ番組でも、オカルトから脱洗脳するような内容のものを積極的に作っています。そして僕自身も、気がつけば彼の影響か、完全な超常現象否定派になっていきました。
それにも関わらず、彼のパフォーマンスはどう捕らえれば良いのか悩むものが多いのも事実です。
心理誘導にしては鮮やか過ぎるし、マジックにしては、ある意味、地味すぎる。(サクラがいれば簡単に再現できてしまう)
彼のパフォーマンスは超常現象ではない、と解っていても、前述のマジシャンの言葉のように、「もしかして、彼には本当にそういう能力があるにもかかわらず、あえてオカルトを否定し、手品を装うことで煙に巻いているのではないか?」と、考えたくなる瞬間が、正直、あるのです。
今日は皆さんと、「The System」という特番を観たのですが、まさしくその内容は、人はいかにして、妄想をいだくようになるか、というものでした。
参加者の皆さんには、「お前は今日、何を観ていたのだ!」と怒られそうですが、この特番を観た後でさえ、Derrenは秘密のテクニック(もしくは能力)を持っているのではないか、という考えが、ときどき頭をよぎります。
いや、本当にときどきだけどね。(^^;;
<2009-4-24>
明日の「催眠体験会」ですが、まだ残席があります。
朝の10時くらいまででしたら、お申し込み可能ですので、突然暇な土曜日になってしまった皆様、雨で予定が流れてしまった皆様、是非、ご参加くださいね。(^^)
<2009-4-21>
ガンダムも名台詞が多いですが、ナウシカも名台詞が多いです。
「行こう、ここもじき、腐海に沈む」(ユパ)
「汚れているのは土なんです!」(ナウシカ)
「今使わずにいつ使うのだ!」(クシャナ)
「腐ってやがる……。早すぎたんだ」(クロトワ)
「世界が燃えちまうわけだぜ」(クロトワ)
「あんなものにすがって生き延びてなんになろう」(大ババ様)
あ、巨神兵登場前後の台詞ばかりだ。(^^;;
<2009-4-20>
「仕事中に気持ちを盛り上げたい時のガンダムの名ゼリフランキング」ですが、ガンダムはすべてが名台詞なのではないかと思うくらい、台詞が素晴らしいですね。
個人的には、
「こいつ……、動くぞ」(アムロ)
「まだだ、たかがメインカメラをやられただけだ!」(アムロ)
「貴様だって、ニュータイプだろうに!!」(アムロ)
「戦いは数だよ兄貴!」(ドズル)
「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」(ジオング整備兵)
「戦いの中で戦いを忘れた」(ランバ・ラル)
「見えるぞ!私にも敵が見える!」(シャア)
「こういう時、臆病なくらいがちょうどいいのよね」 (カイ)
「慣れて行くのね…自分でもわかる…」(セイラ)
あたりも、気持ちが盛り上がります。
<2009-4-18>
昨日に続き、言葉の響きについて。
昔から、「たっぷり」という言葉が表す「たっぷり感」には感心します。一番最初に言った人、すごすぎ。
同様に、「抜群」という言葉が表す「抜群感」も、なかなかなものだと思います。
<2009-4-17>
「ハレンチ」は英語っぽいけど実は日本語で、「ジレンマ」は日本語っぽいけど実は英語なんですね。
だから何?、って言われると困るのだけれど……。
<2009-4-13>
マジンガーZのリメイク(?)を観ました。
まだ1話しか観ていないのですが、1話はダイジェストのような感じで、正直、よく解りませんでした。
マジンガーZと言えば、出てくる造語に力がありますね。
歌に出てくる「マジンゴー」もそうですし、「パイルダーオン」というのも、何だか知らないけれどすごくかっこいいです。
世間に訴えるためには、意味はともかく、言葉の響きって、とても大切だと思います。
<2009-4-11>
今日はカウンセリングルームで、「大江千里オフ会」を開催しました。
大江千里の悲劇は、男性ファンがつかなかった(正確に言うと、男性ファンの数より圧倒的に女性ファンの方が多かった)ことにあると思います。
実際、当たり前ですが彼は男性ですので、男性の気持ち(しかも、あまり格好良くない、ナイーブとはまた違う、ずるくてひ弱な気持ち)を歌った曲が多く、男性こそ本当に理解できるミュージシャンだと思うのです。歌詞は面白いし、情景描写も綺麗で、例えば「魚になりたい」なんて、何も起こらずにあれだけの曲を作れるなんて、天才だと思います。
逆に、女性が聴いたら、理解したくもないであろう歌詞がときどき出てきます。
そういうの、女性ファンはどういう気持ちで聴いているのだろうと、以前から気になっていて、今日、女性参加者の皆様に質問してみたのですが、どうも、曲を歌詞で聴いているわけではなく、メロディやアレンジ、そして大江千里と言うキャラクターを含め、パッケージで聴いていらっしゃるようです。
よって、大江千里がやたらと心変わりする(もっというと、二股だったり、今の彼女がいるにも関わらず昔の彼女に未練があったり)曲を書いても、そういった意味ではひっかかりもなく、通り過ぎてしまう。
JANUARY も
MAN ON THE EARTH も
塩屋 も
LOVE
REVOLUTION も、本当に自分の彼がそれでいいわけ?って思うんだけれど、そもそもそこまで自分に当てはめて聴いてはいないのかもしれません。
昼休みの公園で昔の彼女に会って、運命が回りだす音を何度も聞いてしまったり、何処かの人ごみで偶然変わった君に会いたかったり、街で見かけた細い肩を呼び止めることもせず、指が覚えた市外局番を何度もまわしては切るような、そんな男で本当にいいのか、と。渋滞のスクランブルで見覚えあるシャツを見つけても、やっぱり声もかけず、心の中で「時は戻せないけど変わらないで欲しい」、とわがまま言いますけど、よろしいのですか、と。彼女のことばかり気にしちゃ騒げませんが、何か問題でも?、と。引っ越すことも気づかずに、フェンス越しの女の子とゲーム楽しんじゃいますよ、と。
僕は男だから、そういう気持ちは理解できますが、女性は本当に、そういった男性の姿に「素敵!」なんて思うのだろうか? 否、思うわけはなくて、やはりそれは、大江千里だから、なのでしょう。
つまり、こんなことを書いたら女性ファンに怒られちゃいそうですが、彼のメッセージは、あれだけ洗練され、ある意味完成されていたにも関わらず、正しい受け取り手に届いていなかった、ということなのです。
それこそ、尾崎豊や浜田省吾、佐野元春のように、熱狂的な男性ファンが多くついていれば、彼は今以上に評価されていたのではないかと思うのです。
90年代の懐かしい映像を観て、普段はあまりそういうことは思わないのだけれど、もう一度、2000年になる前の、土曜日がずっと続いているような、あの時代に戻ってみたいと思いました。
もう一度、VOCATION NO! って踊りたいなぁ、と。
<2009-4-10>
今まで、当たり前のようにブラウザは IE を使っていたのですが、USBメモリに入れて使えるブラウザがあることを知り、Firefox と
Google Chrome を試してみました。
表示が速いこともさることながら、環境そのものをUSBメモリで持ち運べると言うのが大変便利だなぁと思いました。
<2009-4-9>
「顔が好き」は名曲だと思います。
昨日の日記じゃないけど、細切れに分解して理解しようとすると本質が見えなくなるんだなぁと、この曲を聴きながら思いました。
<2009-4-8>
「奇跡のリンゴ」という本を読みました。
農薬を使わずにリンゴを育てる、という、リンゴ農家にとっては「絶対不可能」なことに挑戦した木村秋則さんを取材したノンフィクションなのですが、木村さんや家族の生き様が壮絶で、読んでいて何度も目頭が熱くなりました。
以下、本文からの引用です。
「木村が学者と百姓の違いをことさら強調するのは、皮肉でも謙遜でもなく、方法論の違いを言っているのだと思う。
自然を細切れに分解して理解しようとするのが自然科学の、つまり学者の方法論だとするなら、自分がなすべきはその正反対のことだと木村は言いたいのだろう。
自然は細切れになど出来ない。それは、木村があのドングリの木の根元で悟った重要な真理だった。自然の中に、孤立して生きている命など存在しない。自然をどれだけ精緻に分析しても、人はリンゴひとつ創造することは出来ないのだ。バラバラに切り離すのではなく、ひとつのつながりとして理解すること。科学者がひとつひとつの部品にまで分解してしまった自然ではなく、無数の命がつながり合い絡み合って存在している、生きた自然の全体と向き合うのが百姓の仕事なのだ。だから、百の仕事に通じなければならない。
これは言葉で語るほど簡単なことではない。何かを理解するときに、物事を分析的に見るのは、人間の癖のようなものだからだ。だから木村も、リンゴの幹の導管をインクで染め、電気抵抗を計って、水分の移動量を分析したりする。ただ、彼はそういうことをして得た知識を、自分の直感によってリンゴの木の世話に結びつける。それが正しいか正しくないかは、一流の学術誌に掲載されるかどうかではなく、リンゴ畑の姿で、リンゴの木がどれだけ良い果実を実らせるかで決まる」
読みながら、心の世界も全く同じだと思いました。
細切れにする学者の方法論ではなく、ひとつのつながりとして理解すること。
カウンセラーに求められているのは、そういうスキルなのではないかと思いました。
<2009-4-7>
バクは「夢を食べる動物」と言われていますが、なんて素敵な表現なんだと思います。
<2009-4-6>
童謡「森の熊さん」に出てくる女の子の、「あら熊さん、ありがとう。お礼に歌いましょう」も自意識過剰ですが、「アルプスの少女ハイジ」の、「あの雲は何故、わたしを待ってるの」も、かなり自意識過剰です。
自分中心に世界が回っていると思ったら、大間違いです。
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<2009-3-15>
アイロンは熱いという教育だけは、どの家庭でも成功していることが不思議でなりません。
家電には、原理がなんとなく判るものと、全然判らないものがありますね。
例えば石油ファンヒーターなんかは、石油を燃やして、その熱をファンの力で拡散しているんだなぁと、素人でも想像できます。
一方、テレビが何故映るのかは、少し難しくて、電波に映像がのっているわけですが、どうやったら電波に映像がのるのかとか、そもそも電波ってなんなのかとか、理解しなければいけないことがファンヒーターに比べればとても多いです。
これが携帯電話になると、更に難しくて、基本は電波に声がのっているのだろうけれど、大勢の人が使っているわけだから、周波数はどうなっているのかとか、さっぱり理解できません。
技術が進歩すればするほど、原理がすぐには理解できない製品が増えていって、使用する方も、もはや理解することを諦めてしまっているように思います。
原理が判るって、とっても大切なことです。
原理が判るからこそ、うまく動かないときに何がいけないのか想像がつくし、間違った使用をして事故を起こすこともなくなります。
アイロンというのは、ハイテクに汚染されずに残っている、数少ない牧歌的家電のひとつだと思いますが、このまま時代が進んで、「家電の原理が判らなくて当たり前」という時代がやってくると、原理を知ろうとする気持ちが衰えて、アイロンでさえ、どういう原理で皺をのばすのか、理解していない人が増えていくのかもしれません。
よく判らないけれど、電源を入れて、布にアイロンを押し当てると皺がのびる、という理解をする人が出てくるのではないかと。
つまり、「熱」が皺をのばすファクターであることが、理解の上で飛ばされる可能性がある。
もちろん、使用する上で「熱」を感じるはずですから、使っている人は否が応でも原理を知ることになるのかもしれません。では、それをそばで見ている子供はどうでしょうか。
アイロンが皺をのばすための機械であることは理解するでしょうが、それが熱せられた鉄によるのだということを知らないし、教えられても理解できず、興味も持たない。親も家電の原理なんて興味がないから、「熱いから触ったら駄目よ」的な、子供がすぐに忘れてしまうような形の命令しかできない。
そうなると、アイロンで火傷をする子供も激増しそうですが、今のところ、そのような気配はありませんね。
万引きは悪いことだとか、電車ではお年寄りに席を譲るべきだという教育には失敗しても、「アイロンは熱い」という教育だけは、どの家庭でも成功しているわけです。
親の言うことを聞かない子供も、好奇心旺盛な子供も、反抗的な子供も、「アイロンは熱いから触ってはいけない」という親の命令だけは守っている。
何でこんな話を書いているかと言うと、「電気アイロンでやけどをする事故が2003年度以降、5年間で165件発生しており、このうち77%は10歳未満のこどもである」というニュースを読んだからです。
僕はこのニュースを読んで、小さな衝撃(形容矛盾・笑)を受けました。
このニュースは恐らく、アイロンが意外に危険であるし、事故も多発しているのだ、ということを訴えたかったのだろうけれど、僕の受けた印象は、「たったそれだけ?」というものでした。
5年間で165件ということは、1年間に33件です。1ヶ月では3人以下です。
アイロンと言うのは恐らく、最も危険な家電だと思います。
安全対策なしに、むき出しの高温の鉄板が立てかけてあるのですから。
ちょろちょろ走り回る子供のいる中にそんな物が置いてあることを考えれば、この事故件数の少なさは、ほとんど奇跡にすら感じられます。
「アイロンが熱い」教育成功の神秘は、「望遠鏡で太陽を見てはいけない」教育成功の神秘に匹敵するほど、不思議でならないのです。
<2009-3-8>
僕はラジオを聴くのが大好きです。
学生の頃から好きだったかというと、全然そんなことはなくて、突然ラジオに目覚めたのは2002年くらいだったと思う。
好きな芸人のラジオを聴きたいなと思ったことがきっかけで、当時はMDに予約録音をして聴いていました。
ただ、ラジカセでは予約が2件しかできなかったし、MDを入れ替えるのも管理するのも面倒だし、車の中でしか聴かなかったので、録音する番組は週に2つくらいでした。
その後、テレビを簡単にレコーダーに保存できるように、ラジオももっと簡単に録音・管理できないかとネットで検索すると、フリーソフトでできそうだということが判明。使っていなかった古いパソコンをラジオサーバー用に仕立て上げ、ラジカセのヘッドフォン端子からパソコンのマイク端子にコードを繋ぎ、ラジオをパソコンで録音するようになりました。
快適さは格段とアップし、録音した番組はいつでもパソコンで聴けるし、MP3プレーヤーに転送すれば、外でも、車の中でも聴くことができます。
録音する番組も日ごとに増えて、毎週10時間分くらいの番組を録音するようになりました。(いくらどこでも聴けるからと言っても、この量は到底消費できる量ではなく、録画したテレビ番組がレコーダーのHDDに溜まっていくのと同じ様に、聴かない番組がパソコンの中にどんどん溜まっています。w)
ラジオを好きなときに聴けるようになると、生活が少しだけ変化します。
出かけるとき、車でも歩きでも、以前は音楽を聴いていましたが、今はもっぱら録音しておいたラジオを聴いています。
番組はいくらでもありますから、飽きることもなく、思いがけない情報に出逢えたりして、移動中が楽しくなりました。
ここ数年、USBに接続するラジオチューナーが発売されるようになりました。
僕がラジオをパソコンで録音しようと思った当時は、そのような製品はほとんどなく、仕方なくラジカセを繋いでいましたが、その頃から、USBラジオチューナーがあって、直接予約録音ができたらさぞかし楽だろうなぁと思っていました。
今は苦労して作ったシステム(というほどでもありませんが)が快適に番組を録音してくれていますので、改めて買おうとは思わなかったのですが、現状に不満がないわけではありません。何より、今のままでは場所がもったいないのです。ラジオ録音のためだけに、パソコン一台とラジカセを置かなければなりません。仕事用のパソコンで録音できれば良いのですが、マイク端子に入力している関係上、システムのボリュームを変化させるだけで、録音される音が割れたり小さくなったりしてしまいますし、録音中はパソコンから音が流れてしまいますので、兼用できないのです。また、新しい番組を予約するのも非常に面倒で、まずはラジカセの予約を行い、次に録音ソフトの予約、更には、タスクスケジューラでスリープから復帰するように設定する必要があります。ラジカセの予約件数は相変わらず少ないので、「毎日」のような設定をすることになり、予約したくない日や時間まで、ラジカセの電源が入り続けており、ちょっと気持ちが悪いし、自由度が低いのです。
ものすごく前置きが長くなりましたが、先日、念願のUSBラジオチューナー、プリンストンPCA-RCUを購入しました。
これがもう、今までの苦労が何だったのかと思うくらい快適で、パソコンのUSBに接続するだけで、ラジオが録音し放題なのです。
「AMFMラジオ録音さん」と組み合わせると、まるでテレビのレコーダーのように、番組表をクリックするだけで予約が完了。タスクスケジューラでスケジュールしなくてもスリープから復帰可能ですし、録音中に音もなりません。これで古いパソコンとラジカセを片付けられます。
これから更に快適なラジオライフがおくれると喜んでいたところ、「松本人志の放送室」が終了してしまうというニュースを聞き、とても残念です。松ちゃんの話はテレビで聞けるとしても、高須ちゃんとの会話を聞けなくなるのが寂しいなぁ。
ラジオの良さって、テレビと違い、何か作業しながらでも楽しめるところにあると思うんですよね。
ラジオなんてほとんど聴かない、と言う人は多いと思いますが、移動中や仕事中に音楽を聴く習慣のある人は、USBラジオチューナーで新しい世界を開いてみてはいかがでしょうか。
映像がないせいか、ラジオの中の世界はのんびり時間が流れており、人間味があります。
誰がこの番組を聴いているんだろうって考えると、変な一体感みたいなものを感じて、それがまた、とても良いです。
<2009-3-4>
直接暗示はすぐに解けるけれど、間接暗示に失敗はない、というような考えを持っている専門家は非常に多いですが、それは大きな間違いです。
もし、催眠をどこかで習っている人で、先生がそう言っていたとしたら、その先生は催眠を全く理解していません。
また、催眠療法を受けていて、セラピストがそういう説明をしていたとしたら、そのセラピストも催眠を全く理解していません。
間接暗示だって場合によってはすぐに解けるし、直接暗示だって強力に作用することは多いです。
きっと、直接暗示は失敗すると格好悪いし、解けたかどうかもはっきりしてしまうので、催眠が下手な専門家は使いたがらないし、それ故、生徒やクライアントにもそう説明するし、自分でも、その考えが正しいと信じたいのでしょう。
そもそも、直接暗示と間接暗示って、何でしょうか?
例えば相手にリラックスして欲しいとき、「3つ数えるとあなたはとてもリラックスします」というような言い回しで暗示する方法を、直接暗示と言います。「それは暗示ではなく、明示だ」と言う人もいますが、僕は明示と言うのは、「3つ数えたらリラックスしてください」というようなものだと思いますので、やはり、暗示と呼んでいいと思います。
一方、「そう言えば先月、軽井沢に旅行へ行ったんですよ」と何気なしに、軽井沢の美味しい空気や、爽やかな風、青い空なんかの話をすることで、相手のリラックス感を喚起する方法を、間接暗示と言います。
なるほど、確かに間接暗示の方がスマートですね。
でも、軽井沢の話で相手が本当にリラックスするかどうかは未知数です。もし相手が、軽井沢に嫌な思い出があったとしたら逆効果ですから、間接暗示に失敗はない、と言う考え方はナイーブ過ぎます。そして仮に相手がリラックスしたところで、その状態がずっと続くわけでもありません。失敗が少なくリラックス出来たということは、他の間接暗示にも失敗が少なく反応してしまうということですから、当然、いつかは解けます。むしろ、そういった意味では、誘導した人が暗示を解くまでその状態が続く可能性がある直接暗示の方が、解けにくいとさえ、言えるのではないかと僕は思います。
誰か好きな人に、その気持ちを伝えることを想像してみてください。
直接暗示とは、目を見つめて「好きだよ」と告げるようなものです。
一方、間接暗示とは、花を贈ったり、親切に接したりするようなものです。
気持ちを伝える上で、どちらの方法がより優れていると思われますか?
いくら言葉で「好きだよ」と告げられたところで、行動が伴っていなければ、気持ちは伝わりません。
同様に、いくら行動で示したところで、「言わなくても解ってくれるはず」と何も告げないのは、独りよがりだと思います。その行動が的外れだという可能性だってありますし、やはり、はっきりと言葉で伝えてくれるのは嬉しいものです。
好きな気持ちを直接的に伝える方が相手に伝わるのか、間接的に伝える方が伝わるのか、という議論は不毛ですよね。
それは相手との関係にもよるし、タイミングにもよる。
意外な優しさに心が揺れることもあれば、意外な告白にグッと来ることもあるのです。
暗示もそれと全く同じことだと思います。
間接暗示がもてはやされるようになった原因のひとつは、それがアメリカ由来だということもあると思います。
アメリカ人は、日本人よりもストレートに感情を表現しますし、気持ちを伝え合います。気軽に「I Love
You」が言えてしまうのです。ですから言葉はいつもインフレ気味。
だからこそ、間接的な表現に影響されやすいのかもしれません。
伝統的な催眠からエリクソンの催眠に急速にシフトして行った背景には、そのような国民性が大きく関係しているように思われますし、大きな効果を実際に生んでいるのも、国民性の影響は大きいと思います。
一方、日本人は感情をなかなか表に出さないかわりに、行動から気持ちを読みあう民族です。それ故、普段から「I Love
You」が言えない分、ここぞという時のストレートな表現が、驚くほどの効果を生むのかもしれません。
間接暗示を無理に使ったところで、日本人はその意図を読み取ってしまう可能性がありますし、読み取れないまでも、不審に思う可能性もある。むしろはっきり伝えた方が安心する場合が多いのではないでしょうか。
アメリカでは最先端だから、という理由だけで、日本人にそのまま有効だと考えるのは短絡的だと思います。
エリクソンは僕も大好きですし、現代催眠もNLPも素晴らしい技術だと思いますが、そればかりをありがたがっている昨今の風潮は、何だか木を見て森を見ていないような気がしてなりません。
まぁ、個人的には、みなさん、どんどん現代催眠に行っちゃってください、と思っています。伝統的な催眠や直接暗示は捨てちゃってください、と。
ジャイアント馬場が、格闘技の隆盛をみて、「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」という名言を残したのと同じ様に、伝統的な催眠は僕が独占します。(^^)
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<2009-2-27>
明日の、催眠体験会ですが、あと1名参加できます。
目を閉じて、ひたすら心の中を旅する1時間となります。
ご興味のある方、是非ご参加ください!!
<2009-2-25>
脳機能学者、苫米地英人氏の本は2冊しか読んだことがなかったのですが、Amazonの『努力はいらない!
「夢」実現脳の作り方』のカスタマーレビューがあまりにも良かったので、思わず注文してしまいました。
苫米地氏と言えば、以前読んだ本の「気」についての考え方が、ちょっとトンデモ系な感じがして、それ以来避けていたのですが、最近の著書はどうなのか、とても楽しみです。
それにしても、Amazonでカスタマーレビューにいいことが書いてあると、無性に欲しくなりますね。
ある種、「友達のジョン話法」みたいな効果があるのでしょう。
<2009-2-20>
ゆず(雑種猫・1歳・メス)は、ときどき写真のように、両手を広げてぺたーっとしていることがあります。
カーペットの上でもぺたー。椅子の上でもぺたー。ベッドの上でもぺたー。
最初はスフィンクスのように座っているのですが、気がつくとぺたーっとして、眠っていることもあれば、「つまんないなぁー」という顔をしていることもあります。
マロンがぺたーっとしていることはほとんどないので、ゆずお得意のポーズなのかもしれません。
ゆずにはもうひとつ、「猫マフラー」という得意技(?)があって、抱き上げて首の後ろにマフラーのように巻きつけると、そのままダラーンと体重を預けて、マフラーになってくれます。
マロンも出来るかと思ってやってみたら、マロンは暴れて駄目でした。
最近、ようやく自分で部屋のドアを両方向とも開けられるようになって、まだまだ成長中みたいです。
<2009-2-17>
「R-1ぐらんぷり」を観ました。
バカリズムは、「ネタ職人」の名の通り、無から有を作り出すような発想でとても面白かったです。
あのまま優勝できなかったのは残念でした。
個人的には今年のR-1には、ゴー☆ジャスが出るんじゃないかと期待していたのですけどね。
<2009-2-16>
2月28日(土)に、催眠体験会を行ないます。
カウンセリングも、悩みに特化した暗示もありませんが、時間いっぱい、ひたすら心地の良い催眠状態を体験していただければと思っています。
定員が少ないので、早い者勝ちです。
お昼寝しにいらっしゃる感覚で、是非、いらしてください!
<2009-2-13>
「とてもつもない日本のはっぱ隊」と言う動画を観ました。
何故、世界中の人がこの歌を知っているのかとても不思議。
そして、意味なんて解らないだろうに、みんなで踊っているのが更に不思議。
久しぶりに観ましたが、笑いよりも、何故か胸が詰まって涙が……。
<2009-2-12>
マイ・フレンド・ジョン テクニック(my friend John
technique)のことを、何かの本で、「友達のジョン話法」と訳しているのを以前に読んだ気がして、以後、僕はこのテクニックのことを「友達のジョン話法」と呼んでいました。
心理学用語でもコンピューター用語でもNLPの用語でもそうなのですが、僕は英語をそのままカタカナで表記している用語があまり好きではありません。日本語にはせっかく「漢字」という表意文字があるのですから、読むだけで内容を連想できる訳語があった方が、本を読むのでもひっかからずに済むと思っています。訳語を考えずに、そのままカタカナにしてしまうのは、ある意味、翻訳者の怠慢ではないかと。
というわけで、「マイ・フレンド・ジョン
テクニック」は、「友達のジョン話法」と呼んでいたのですが、googleで、「"友達のジョン話法"」と、ダブルクォーテーションつきで検索すると、うちのページしか表示されません。
あれ? なんで??
もしかしたら、どこかで読んだというのは勘違いで、勝手に自分で訳して使っていたのかな?
でも確かに、エリクソン関係の本を読んでいて、「友達のジョン話法」っていう訳が出てきたと思うのだけれど……。
どなたか、「友達のジョン話法」という訳語が出てくる本をご存知の方がいらっしゃいましたら、こっそり教えてください。
関係ないけど、僕の友達のジョンが、一風堂のラーメンはとても美味しいと言っていました。(^^)
<2009-2-10>
佐野元春がアンジャッシュのコントを見たら、「すれ違いのありふれたコメディ」って言いそうです。
<2009-2-7>
「ありふれた奇跡」第五話を観ました。
以前は否定的ダブルバインドを中心に、加奈のコミュニケーションや、それに対する翔太の反応について書きましたが、今回は、短い会話の中に、分離法、驚愕法、友達のジョン話法、治療的ダブルバインド、ドアインザフェイステクニックなど、多くのテクニックが凝縮されたシーンがありましたので、ご紹介したいと思います。
加奈 「気になってたの」
翔太 「何するか判らない人だな」
加奈 「謝った方がいいと思って」
翔太 「あのときの俺にとっては、あれがベストだった」
加奈 「でも、謝った方がいいと思った」
翔太 「解るけど……」
加奈 「片がつくことは、片をつけておきたいの」
翔太 「うん」
加奈 「片がつかないことがあるでしょう。片をつけたくても」
翔太 「うん」
加奈 「だから、片がつくことは片をつけておきたい」
翔太 「うん」
加奈 「そうじゃないと、ストレスでいつの間にかへたばってくる」
これは、翔太の作業着が原因で言い合いになった喫茶店の店長に、加奈が謝罪した直後の会話です。
翔太にしてみれば、加奈に登らされた梯子を外された格好ですから、多少は複雑な心境だったのでしょう。「あのときの俺にとっては、あれがベストだった」と、自分はそんな気にはなれないことを告げていますし、加奈が謝ったことについて、「解るけど(謝る必要なんかないのではないか)」と、納得していない様子です。
加奈は「片がつくことは、片をつけておきたいの」と、自分の行動について説明しています。
これは分離法の一種だと思います。
分離法とは、本来、ひとつに見えているものを、あえて分離させることで、相手に受け入れやすくさせるテクニックです。
第二話でも解説しましたが、例えば、相手の「気持ち」が自分の気持ちと違う場合に、気持ちが違うことは認めつつ、「でも本心はそうではないんじゃない?」と言うことで、「気持ち」と「本心」を分離し、例え「気持ち」は違っても、「本心」は私と同じ意見なのだ、と相手に認めさせるような方法です。
つまり加奈は、店長に対する「悪かった」という気持ちもなければ、自分のしたことに対する後悔もないけれど、「(形だけ謝ることで)片がつく(=今後もこの店を利用できるようになる)ことは、片をつけておきたいの」です。
謝ってはいるけれど、それは形だけのこと、片をつけただけのことなのだ、と。
このように分離法を使われることで、翔太は加奈の行動に納得せざるを得ないのです。
翔太は「うん」と納得しているのですから、この話はここで終わっても良かったはずですが、加奈は「片がつかないことがあるでしょう。片をつけたくても」と話を続けます。
加奈はここで、「片がつかないことがある」とわざわざ強調することで、店長の話から、自分の中にある「片がつかないこと」に話をシフトしようとしています。しかし彼女は決して、自分からその「片がつかないこと」の話をしようとはしません。翔太の方からそれについて質問するのを、じっと待っています。
一緒にいる人が、「最近寝てないんだぁ」「睡眠時間が足りないと、疲れるよね」「本当はゆっくり眠りたいんだけれど」などと言っていたら、「どうして眠れないの?」と質問すると思います。本当なら、自分から眠れない理由を話してくれればいいのですが、自分からは決して理由を言わず、ただ「理由を聞いて欲しい」オーラを出しまくる人は結構いますね。
加奈もここで、それと同じことをしています。どうしてそんな回りくどいことをするのでしょうか。
実は、「どちらがその話題を始めたのか」というのは、相手と自分の上下関係を決める上では、とても重要なことなのです。
例えば、「自分の趣味」について話すとしても、自分から「私の趣味はね」と話し始めるのと、相手の「あなたの趣味は何ですか?」という質問を受けて答えるのでは、意味合いが全く違います。前者は相手の方が立場が上ですし、後者は自分の方が立場が上です。つまり、自分から話しはじめた方、もしくは、質問している方が、立場は下になるのです。逆に、話を聞かされる方、質問される方は、立場が上になります。
初対面の相手といるとき、どちらも話しかけないで気まずく沈黙してしまうことがありますが、これは、緊張しているからだけでなく、上下関係がグレーな段階で、自分から話しかけることでわざわざ自分の立場を下げたくない、と無意識的に思っているからでもあります。
加奈は翔太に、「片がつかないこと」について質問させることで、自分の立場を上に置こうとしています。
この「立場が上」というのは、上になれば良いという単純なものではもちろんありません。愛する人と愛される人では、愛する人の方が立場は下ですが、愛する人の方が幸せな場合は多々あります。
加奈は人と接するとき、自分の立場を上に置き、絶えず自分が状況をコントロールできないと、不安で仕方がないようです。
翔太 「何?」
加奈 「ん?」
翔太 「片がつかないことって」
加奈 「結婚したら……」
翔太 「結婚?」
翔太は、加奈の思惑通り、片がつかないこととは何のことなのか、質問をします。
この、加奈の「結婚したら……」ですが、驚愕法(混乱法)と呼んで良いと思います。
驚愕法とは、びっくりすると頭が真っ白になり、一時的に周りの影響を受けやすくなるという人間の性質を利用した、暗示を入れる方法です。
頭が真っ白になると、正常な状況判断ができず、次にどんな行動をすれば良いのか判らなくなってしまうことがあります。そんなときに、近くにその状況に飲まれていない人がいたら、自分の頭は使い物にならないわけですから、その人の頭(状況判断能力)をそのまま借りて、状況に対処しようとします。その人に対して無批判になるし、主導権をそっくり預けてしまいます。
見知らぬ外国でトラブルに見舞われたら、現地に長く住んでいる友人の意見には何でも従います。オレオレ詐欺で、家族のふりをしている犯人の「事故をおこした」「警察に捕まった」という言葉を信じてパニックになったら、言う通りにお金を振り込んでしまいます。これらはすべて、主導権を相手に預けた結果です。
ついこの前まで、加奈は翔太に対して「デートではなく会いたい」と、恋人になることを拒否していました。それが突然、恋人を通り越して結婚ですから、翔太は相当驚いたはずです。翔太の頭は一時的にオーバーロードし、立ち直るのに時間がかかります。そして加奈は、翔太の頭の復旧をまたずに、矢継ぎ早に次のしかけをしていくのです。翔太は加奈に、影響され、無批判になり、主導権を握られます。
加奈 「仮によ。仮に、誰かと結婚したら」
翔太 「うん」
「仮に、誰かと結婚したら」という言い方は、友達のジョン話法(マイ・フレンド・ジョン テクニック=my friend John technique)の一種です。
友達のジョン話法というのは、自分の意見を、まるで他人の意見や体験のように言うことで、相手に否定できなくさせるテクニックです。
例えば、「○○さんって、歌が上手いよね」と言われたら、○○さんは謙遜して「そんなことないですよ」と否定することができます。しかし、「僕の友達のジョンが、○○さんは歌が上手いって、感心してたよ」と言われたら、○○さんはそれを否定することはできなくなります。○○さんを褒めているのは僕ではなく、ジョンなわけですから、否定のしようがないのです。
ここで加奈が、「私と結婚したら……」という話をしたとしたら、翔太はその会話に、ストップをかけることも出来たはずです。結婚の話をする前に、この関係は一体何なのか、もう先に進んでも良いのか、その準備は加奈にできているのか、翔太には確認したいことがたくさんあるからです。
しかし加奈は、「誰かと結婚したら」と仮定することで、これらの質問をすべて回避しています。そして、回避しつつも、自分と結婚することを翔太にイメージさせることで、それを暗示しているのです。
加奈 「子供、6人は多すぎる?」
翔太 「6人?」
加奈 「じゃあ、5人は?」
翔太 「5人て、そんな甲斐性、俺ないし」
「子供、6人は多すぎる?」というのは、治療的ダブルバインドです。
「結婚したら、子供は欲しい?」という質問だったら、翔太は、子供が欲しいのか、欲しくないのか、欲しいとしたら、何人欲しいのか、自分の思ったことを答えることができたと思います。
しかし、「子供、6人は多すぎる?」という質問は、子供が欲しいか、欲しくないか、ではなく、6人は多いか少ないかを聞いていますので、子供を作ることが前提になっています。つまり、この質問に、YESと答えても、NOと答えても、翔太は子供が欲しいことを認めることになるのです。
更に、「6人」というのは、ドアインザフェイステクニックにもなっています。
ドアインザフェイステクニックとは、わざと大げさな提案をし、それを相手に否定させることで、相手に罪悪感を感じさせ、こちらの本当の要求を飲み込みやすくさせる方法です。
それほど親しくない会社の同僚に、「どうしてもお金が必要だから、10万円貸して欲しい」と頼まれたとします。10万円はちょっと貸すことができない、と断った後、「ならば、5千円でもいいから貸して欲しい」と言われたら、さすがに2回連続では断りにくいですよね。そして、「5千円くらいなら」と貸してしまうのではないでしょうか。
実際この後、翔太は「3人くらいなら何とか行けそうな気がする」と言っています。「でもこういうことは相手のある話だし、産むのは俺じゃないんだから、その人次第で、5人でも6人でもいい。子供、嫌じゃないし、俺は一人っ子で淋しかったから、子供は兄弟がいた方がいいと思ってる」と、子供を多く持つことに対し、積極的にさえなっているのです。
加奈は子供を産むことができません。
「罠にかけたようになって、ごめんなさい」と自分で認めているように、加奈は子供が産めないのに、「子供、6人は多すぎる?」と、翔太に鎌をかけていたのです。
彼女は翔太に「子供がたくさん欲しい」と言わせることで、何がしたかったのでしょうか?
この後のメールで加奈は、「子供を産めないこと、どうってことないって言ってくれたの、嬉しいけど、子供が好きで、5人でも6人でもいいとも言ったんですよ」と、翔太を責めています。でもこの主張は間違いです。翔太は自分の意思で「5人でも6人でもいい」と言ったわけではなく、加奈の誘導尋問でそう言わされたのです。そして、彼は一度も「子供が好き」とは言っていません。「子供、嫌じゃないし」と言ったのです。それがいつの間にか、加奈の中では「子供が好き」にすり替わっているのです。
加奈は、そんな必要は全くないのに、わざわざ翔太に失言をさせて、それを責めることで、改めて二人の関係の主導権を握ろうとしているように思えます。
もちろん、誘導尋問を潜り抜けて、「俺は子供なんて欲しくない」と翔太が答えることを、加奈は初めから期待していたのかもしれません。(ただ、これだけの心理誘導を使われては、例えその気がなくても、「いずれは子供が欲しい」くらいのことは言ってしまうと思います)
もしかしたら加奈は、自分でも自分が何をしたいのか、何を求めているのか、判らないまま、結果的に翔太を翻弄しているのかもしれません。
いずれにしても、興味深いのは、恋人ですらない二人が(事実はどうであれ、二人の間では、恋人ではないということになっています)、恋人になることや、結婚することを飛び越えて、子供のことでぎくしゃくしている、ということです。
そして、この状況自体が、大きな意味での治療的ダブルバインドになっています。ふたりはすでに「きれいだとか、そういうこと言う付き合いじゃない友達」では決してありません。恋人かどうかなどはすでに話し合いの議題にもならず、結婚するかどうかを考えていく段階、いや、それさえ通り越して、「片をつけられない問題」に対し、ふたりでどう折り合いをつけて一緒に生きていくのかを考えていく段階に来ているのだという空気が、二人の間にはあって、翔太は好むと好まざるとに関わらず、この状況から逃げ出すことすらできなくなっているのです。
この空気は、すべて加奈によって作られたものです。
加奈はまるで、自分で勢力や行き先を決める事の出来ない台風のように、翔太を有無を言わせず巻き込み、進んでいるように見えます。
観ていてちょっと恐ろしいのは、翔太のまっすぐな気持ちに比べると、いつまでたっても、加奈の気持ちは気まぐれに見えてしまうところです。
そこに巻き込めるものがあったから巻き込んでみた、誰でも良かった、そんな雰囲気がいつまでも消えないのは、彼女の美しさ故でしょうか。
加奈が、救いを求めているのは確かです。
しかしこのままでは、こんなにも優しい翔太でさえ、加奈を救えないかもしれないし、加奈が救われないだけでなく、翔太まで一緒に落ちて行ってしまうのではないかと思いました。
本来、この人生は、すべて自分のものです。
どんな風に生きても自由。どんな風に生きなくても自由。
やりたいことは何でもやっていいし、やりたくないことは、何もする必要はないはずです。
それが解っていても、自分の人生が、多くのしがらみや、逃げ出せない状況、理由なく背負わされている義務で埋め尽くされており、身動きが取れない現実に、呆然とすることがあります。
もし、そのような閉塞感を感じている方がいらっしゃったら、自分が誰かの無責任な台風に巻き込まれていないか、考えてみてください。
子供の話が出た途端に、翔太と加奈の関係が、翔太の意思とは関係なく、何段階も先に勝手に進んでしまったのと同じ様に、誰かによって作られた状況が、自分の心に勝手に刷り込まれ、自由な行動や発想を奪い、自分を行きたくない場所に行かせ、やりたくないことをやらせ、あたかもそれを、自分で選んでいるかのように錯覚させる。
そんなことが起こり得るのだということを、是非、覚えておいてください。
どんなに心地よい関係においても、いつでも逃げ出せる「非常口」を作っておくことは、自分を守るために必要なことだと、僕は思っています。
<2009-2-6>
「○○さんは、△△について、『□□モデル』という独自の理論を展開」みたいな文章をときどき読みますが、この「独自の理論を展開」という表現をするとき、ライターは、心のどこかで○○さんのことを、少しだけ馬鹿にしているというか、批判しているというか、上から目線なのではないかという気が、しないでもありません。
「独自」というのは、悪意を感じるか感じないかの、ギリギリのラインだと思います。
<2009-2-4>
「森の熊さん」を筆頭に、童謡には理不尽な歌が多いですが、「およげ!たいやきくん」もちょっと理解しがたい歌ですね。
歌の最後で、この「たいやきくん」は、釣り上げられ、おじさんに食べられてしまいますが、これ、歌っているのは「たいやきくん」ですよね?
「ぼくを うまそに たべたのさ」って、誰目線なんだろう?
食べられちゃった後に、霊的な存在でこの曲を歌っているのでしょうか。
<2009-2-3>
森を歩いていて、泉に間違ってPerfumeを落としてしまい、泉の精が現れて、「あなたの落としたのは、金の のっち ですか? それとも銀の
かしゆか ですか?」って聞かれたら、「いいえ、私の落としたのは、普通の あ〜ちゃん です」と答える自信は、僕にはありません。(^^;;
そうです。僕は断然、のっち派です。(^^)
<2009-2-2>
眠るって、よく考えると、とても不思議なことですね。
生まれたときから毎日寝ているので、当たり前のことのように感じますが、「数時間意識がなくなって、その間に仮想現実を体験している」というのは、言葉にすると、とてもオカルト的で非科学的に聞こえます。
しかもそれを、自分の意思でコントロールすることすらできないのです。
眠りと覚醒の境を見極めることすら、自分ではリアルタイムにできないのです。
眠ると疲れが取れて元気が回復するというのも、お腹が減って食べ物を食べることに比べれば、メカニズムを直感的に理解しにくいです。
夢を観る、というのもとても不思議。
覚醒しているときは、「これは夢ではなくて、自分の人生だ」と断言できますが、夢の中でもなかなか「ははーん、この展開、これは夢だな」とは気づけませんから、夢を観ているときも、ほぼ、それが現実だと思っているわけです。
僕は心のどこかで、いつかこの人生から目覚めて、本来の生活に戻る日が来るんじゃないかと、そんな気持ちになることがあります。
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<2009-1-31>
今日はカウンセリングルームで「Derren Brown研究会」というのを開催しました。
Derrenのパフォーマンスだけでなく、「ありふれた奇跡」の加奈のコミュニケーションのとり方、Perfumeの「チョコレイト・ディスコ」のPV、40年間じゃんけん無敗のママのじゃんけんしている映像、怪しい(?)気の映像など、いろいろな動画を観ながら、それらに使われている心理誘導を、判る範囲で解説させていただきました。
口で理屈を説明するのは簡単ですが、実際にそれらがどれくらい有効なのか、次回からは少しずつ、実験的なこともしていけたらと思っています。
今日、一番びっくりしたのは、参加者のほとんどの方が、「気」がある、と信じていらっしゃったことです。
僕自身、「気」の存在については、どうしても催眠的視点でみてしまうので、限りなく懐疑的なのですが、結論を急がず、もう少し、研究会で議論してみたいと思っています。
参加者の皆様、お疲れ様でした。
これに懲りず、また遊びに来てくださいね。(^^)
<2009-1-28>
吉祥寺の楳図かずおさんの自宅が「景観を破壊する」という理由で訴えられていましたが、無事、楳図さん側の勝訴で終わったようです。
実際に吉祥寺を散歩しているときに赤白の建物を見ましたが、とても素敵なおうちでした。
建築中から近隣住民に建設の差し止めを求められたり、完成したら訴えられたりと、せっかくの新居なのに、楳図さんもさぞかし気分が悪かったろうと思います。
大江千里の「AVEC」という曲の歌詞を思い出しました。
リビアで午後 始まった戦争は
争いじゃなく隔たりじゃない
よりそえぬ無邪気さのせい
<2009-1-27>
今日は、クライアントさんと約束した、一日プチ断食の日です。
体の中の老廃物が少しでも出て行けばなぁと思っています。
食を断つと、その分、頭の回転が良くなるという噂を聞きますし、以前断食したとき、言われてみればそんな気もしました。(暗示?)
今回も、クリアな頭で新しい発想が生まれないかと、期待しています。
<2009-1-25>
RGがHGの真似をして出てきたときは、全く面白いとは思いませんでした。
しかしその後、ラジオで滝川クリステルのモノマネをしているのを聞いて、「もしかしたらこの人には才能があるのではないか?」と思い始め、先日のリンカーンの「歌舞伎あるある」では大笑いしてしまいました。
どんなにすべっても、嫌われても、彼には稀にみる心臓の強さがあり、「継続は力なり」を体現している人だと思います。
誰にも認められなくても、とりあえず3年くらいは続けてみてもいいんだと、とても励まされました。
<2009-1-22>
「ありふれた奇跡」第二話を観ました。
第一話(まだお読みでない方は、こちらからお読みください)を観たときは、加奈のダブルバインドぶりにただただ、圧倒されてしまいましたが、回が進むにつれ、少しずつ、加奈や翔太が育ってきた環境がはっきりしてきた感じがします。
翔太の家庭は、翔太、お父さん、おじいちゃんの3人とも、お互いにとてもストレートなコミュニケーションの取り方をします。もちろん、分かり合えないこともあるし、隠していることもあるのだけれど、基本は本心をぶつけあっていて、ぶっきらぼうな中に、人の温かさを感じます。
一方、加奈の家庭は、加奈、お母さん、お父さんの3人とも、お互いにストレートなコミュニケーションができません。本当は理解して欲しいのに、本心を隠し、一見スマートで、問わず語らず理解しあえている風を装いつつ、実は皆が孤独を感じている。何と言うか、温かい感じがあまりしません。
加奈が対人関係において、無意識的に自分を優位に導こうとするのも、会話の主導権を握らずにはいられないのも、全然引くことができないのも、この家庭の中で生きていくための術なのかな、と思いました。
このドラマはフィクションのはずですが、ここまで人間と、その環境と、人間関係を描ける山田太一の表現力には、本当に驚かされます。
今回も当然のように、加奈は否定的ダブルバインドを連発します。
一番象徴的なのが、「デートじゃなく会いたい」という発言です。
デートの定義ってなんだろう、ということにもなるのですが、あまり難しいことは考えず、年頃の男女が、完全なプライベートで約束して会うのは、それが恋人同士だろうが、そうでなかろうが、僕はデートと呼んでいいと思うし、少なくとも、誰かがそれをしてデートと思っているのであれば、自分はそうは思っていなくても、認めてあげても良いように思います。
恐らく翔太から観ても、周りの人から観ても、待ち合わせて、ふたりでコーヒーを飲もうとしているその姿は、デート以外の何ものでもないのではないかと思うのです。
しかし加奈は、きっぱりと「デートなんてしていません」と、それがデートであることを否定します。これはデートじゃないし、デートなんてしたくない。だけれど、会いたいし、私に関心があるのなら、私と向き合って欲しい、と。
翔太にしてみれば、加奈の要求通りに会えばデートをすることになるし、会わなければ相手の要求を否定することになります。どちらを選んでも、加奈に否定される(否定的ダブルバインド)わけです。
前回は、加奈がいかに、否定的ダブルバインドを連発しているかをご紹介しました。
今回は、否定的ダブルバインドに直面すると、人はどのような反応をするのか、見て行きたいと思います。
基本的には、否定的ダブルバインドに直面すると、人間はどうにかして矛盾した状態から、矛盾を取り除こうとします。その過程で以下のようなことが起こります。
注意していただきたいのは、以下の反応は、すべて無意識で行なわれ、意識的にはそれが、あたかも本心であるかのように感じられる、ということです。(それ故、洗脳が容易に起こるのです)
1.<両方の命令が矛盾しない状況に身を置こうとする>
例えば上司が部下を昼食に誘っている所を想像してください。
上司
「今日はわしのおごりだ。何でも好きなもの食わせてやるぞ。何を食いたい?」
部下 「ありがとうございます。……それでは、お蕎麦でも」
上司 「蕎麦か。昨日食べたんだよな」
部下 「そうでしたか。それでは駅前の居酒屋のランチはいかがでしょう?」
上司 「せっかくわしがおごると言っているんだ。遠慮するな」
部下 「はぁ。それでは……」
上司 「天ぷらはどうだ。天ぷら」
部下 「天ぷら、いいですね!」
一見、何の問題もない会話に聞こえますが、この上司の発言は否定的ダブルバインドです。「好きなもの選べ」と言いながらも、部下が何を選んでも、それを否定しています。発言と行動が矛盾しています。
部下にとって、「好きなものを選べ」という命令に従いつつ、上司に否定されずにすむ唯一の方法は、「上司の勧めた物が好きなものになる」ということです。
先ほども書きましたが、この反応は無意識的に起こります。ですからこの部下は、天ぷらを選んだ瞬間から、本心で「自分は初めから天ぷらが食べたかったのだ」と思い始めます。否定的ダブルバインドの怖いところは、まさにここなのです。
逆に言うと、「何だよこの上司、矛盾したこと言いやがって」と心の中で反論しながら、「天ぷら、いいですね!」と愛想よく合わせただけだとしたら、「自分は初めから天ぷらが食べたかったのだ」と思い込むことはありません。しっかり逃げ出せる状況があるので、否定的ダブルバインドは成立していないのです。
2.<どちらかの命令が無効になる状況に身を置こうとする>
今度は上司が部下に、「仕事で起こった出来事は、些細なことでも報告しろ!」と部下に命令したとします。
部下は命令通り、些細な出来事、ひとつひとつを報告しに行くと、上司は「こんな簡単なこと、わざわざ報告するな!自分で処理しろ!」と怒り出しました。
そこで部下は、今度は簡単な案件は報告せず、自分で処理を始めます。しばらくすると、上司が席を通りかかり、「何故報告しろといったのに報告に来ないんだ!」と、怒り出します。
報告しろという命令と、報告するなという命令が、矛盾しながら同時に出されているわけです。
この矛盾から解放されるには、そもそも報告するものがなければ良いわけです。つまり、仕事がなければ報告自体がなくなる。
となると、部下は、「病気になって仕事から離れる」という選択肢を選ぶかもしれません。
もちろん自分の意思で病気になるわけではありませんし、仮病でもありません。
無意識が本当に自分を病気にすることで、上司の「仕事で起こった出来事は報告しろ!」という命令を無効にでき、「報告するな!」の命令には従うことが出来ます。矛盾はなくなるわけです。
3.<どちらかの命令にのみ従うことで判断することを放棄する>
「愛している」と口では言う恋人が、頻繁に暴力を振るう場合を想像してください。
言語的メッセージと、非言語的メッセージが矛盾しています。
「愛している」という言語的メッセージに応えようと思えば、愛を返すことになりますし、暴力という非言語的なメッセージに応えようと思えば、恋人から離れることになりますが、ふたつを同時にすることはできません。そこで、自分にとってより都合の良いメッセージにだけ応え、あとは考えることを放棄してしまうことがあります。つまり、愛しているという言葉にのみ固執し、暴力については目をつぶってしまうわけです。
4.<正解が判らないために相手に服従しはじめる>
夫婦間で、奥さんが理由も言わずに怒った態度をとっていたとします。旦那さんが「何を怒っているの?
何か悪いことしちゃったかな?」と聞いても、「怒っていない」の一点張りで、理由を教えてくれません。だけれど、彼女の怒った態度はエスカレートするばかり。
怒っている事実を認めてくれないことには話し合いが始まりませんし、ご主人は、その怒りの原因が自分にあるのか、他にあるのかさえ判りません。
そういった状況が続くと、ご主人は不安感が募っていきます。
もし、奥さんに内緒にしていた後ろめたい思いがあれば、それがばれたのかもしれない、と不安になりますし、何も後ろめたいものがない場合、もしかしたらあれについて怒っているのではないか、これが嫌だったのではないか、などと、勘ぐりはじめます。
そしてどちらにしても、奥さんの怒りに堪えられなくなった時点で、旦那さんは、心当たりのあることも、ないことも、白状し、謝りはじめます。もしかしたら奥さんの怒りと何の関係のないことにまで、許しを請うようになります。
これは犯人に自白させるテクニックに通じるものがあるのですが、人間は、辛い状況から抜け出したいとき、抜け出す条件や、自分が何を求められているのか、判らなければ判らないほど、多くの情報を自ら与えようとする傾向にあるそうです。下手な鉄砲数打ちゃ当たる、という心理になるのかもしれません。
話を加奈と翔太に戻しましょう。
「デートじゃなく会いたい」と言われた翔太は、作業着で加奈に会うという行動に出ます。
この行動には、上記の4つ、すべての側面があると思われます。
作業着の自分を見せることで、(1)自分自身に対して「自分は加奈とデートできるような人間ではない」ということをはっきりさせ、「デートではなく会う」ことを可能にしようとしているのかもしれませんし、もしかしたら、(2)作業着の自分を加奈が見て、「会いたい」という気持ちがなくなることを期待していたのかもしれません。また、作業着とは直接関係はありませんが、(3)「会いたい」という命令に単純に従うことで、これがデートかどうかや、今後の二人の関係がどうなるかなどを考えることを放棄しているようにも見えます。更に、(4)本当は隠しておきたかった自分の職業を、自ら話し始めています。
このときの台詞も観てみましょう。
翔太 「でも、おたく立派で、ご家族も華やかで」
加奈 「ちっとも」
翔太 「とても違いすぎて、勝負にならないと解って」
加奈 「何の勝負?」
翔太 「育ちとか、生活とか」
加奈 「違うといけない?」
翔太 「いや、だから、こうやって会うのはいいんだけれど」
加奈 「うん」
翔太 「きれいだとか、そういうこと言う付き合いじゃなくて、ただ、その、会うというか……」
加奈 「友達として?」
翔太 「あぁ、そう。そういうことなら、会ってもいいというか」
加奈 「そのつもりだけど」
翔太 「あは、もちろん」
加奈 「それ以上の感情は、まだ無理でしょう」
翔太 「あぁ、だから、その、まだとかいうこともなしで、ずっと、その……」
加奈 「友達で?」
翔太 「そう」
短い会話ですが、興味深い点がいくつかあります。
まず、加奈の発言に注目してください。一連の会話の中で、加奈が翔太に気持ちよく同意したのは、相槌のような「うん」1回きりです。後は全て、質問で返すか、否定で返すか、自分の意見を言っています。
誰かに言葉を投げるとき、打ち返してくれることを期待することももちろんありますが、反対に、しっかりと受け止めて欲しいときも多いと思います。
しかし加奈は、基本的にこの「受け止める」ということをしません。だから会話にちぐはぐな感じがあるし、相手は疲れていくのではないかと思います。
そしてこの、「相手の言葉を受け止めない」会話術が、結果的に自分を優位な立場に導いてくれることを、どうも加奈は本能的に知っているようです。
唯一「うん」と答えたのは、翔太の「会うのはいいんだけれど」という発言に対してのみです。
これは一種の飴とムチで、何度も否定されたり、理解されなかったりを繰り返された後で、このようにポンと肯定されると、肯定された出来事だけが必要以上に特別に感じられるようになります。例えば美術の授業で絵を描いて、教師から散々駄目だしをされた後、「でもあなた、配色だけは悪くないわね」って褒められたら、その人の中に「自分は配色は上手いのだ」という価値観が植えつけられます。
それと同じで、加奈は巧妙に、基本は相手を否定しつつ、自分にとって利益になることだけピンポイントで肯定することで、相手のその気持ちをより強固にしようとしています。
この会話で面白いのは、加奈が言っていた「デートじゃなく会いたい」という提案に、翔太は、「じゃあそうしましょう」という感じではなく、「僕もそう思うようになりました」ということでもなく、「きれいだとか、そういうこと言う付き合いじゃなく、ただ、友達として会う。そういうことなら、会ってもいい」と、まるで自分発信の意見のように、加奈の発言がなかったかのごとく言っている、ということです。
決して翔太は真似をしたとか、合わせたとかではないのです。元々翔太は、綺麗な加奈とデートできたことを喜んでいたし、それを望んでいたのですから。
しかし加奈の否定的ダブルバインドによって、翔太はそういった考え方に「洗脳されてしまった」のです。
蕎麦を食べたかったはずの部下が、上司の否定的ダブルバインドで、本当は天ぷらを食べたかったことに「気づいた」ように、まるでその発想が、自分の中から沸いて出てきたかのように感じているのです。
加奈はここで、分離法も使っていますね。「それ以上の感情は、<まだ>無理でしょう」と言っています。<まだ>無理ということは、完全に無理ではなく、いつか可能になるかもしれない、という意味がありますね。
これは否定的ダブルバインドでもあります。加奈は自分から、「デートはしたくない」と言い、翔太もそれに対してようやく「友達として会いたい」と応えてくれたのですから、本来ならば思い通りになったことを喜ぶべきです。しかし加奈は、友達関係を求めるようになった翔太に対し、「それ以上はまだ無理だ」と、必要のない否定で返しているのです。
さらにこの発言は、治療的ダブルバインドでもあります。この発言を言い換えると、「(あなたには)それ以上の感情(があるけれど、私に)は、(それに応えることは)まだ無理」だ、ということです。加奈がそれ以上の感情に今はなれないことを語ることで、翔太の側には「それ以上の感情があること」が前提として刷り込まれているのです。
このシーンの前に、この喫茶店に来たときの会話にも、いくつか加奈らしい心理誘導があったので、紹介したいと思います。
加奈 「すいません無理言って」
翔太 「ちっとも」
加奈 「5分前のつもりだったけど」
翔太 「7分前ですよ」
加奈 「コーヒー、もう半分」
翔太 「少し早くついて」
加奈にとって、待ち合わせで相手よりも先に来る、ということは、精神的に優位に立つ上でとても大切なことなのでしょう。だからこそ、「5分前のつもりだったけど」と言うことで、自分は遅れてなんていないことを宣言しておく必要があったのだと思います。更に、「コーヒー、もう半分」という発言は、そんなに待たせてしまったことを申し訳なく思っているわけではなく、逆に、「あなたは私に会うことが待てなくて約束の時間よりもずっと早くついてしまったんですね」ということを指摘し、翔太が自分を思っているのだということを、刷り込んでいるのかもしれません。
加奈 「自分が死のうと思ってて、そんなことしますか?」
翔太 「するかも」
加奈 「するかもって、人間生きてなきゃいけないって思ったから、あの人とめたんじゃないんですか?」
翔太 「そう簡単でもないような」
加奈 「簡単じゃないんですか?」
翔太 「気持ちって、もう少しいろいろだから」
加奈 「気持ちはいろいろでも、本心はしたことで解るんじゃないですか?」
最後の、「気持ちはいろいろでも、本心はしたことで解るんじゃないですか?」というのは、分離法ですね。
「気持ち」は翔太の言う通り、複雑でいろいろかもしれないけれど、「本心」はそんなはずはない。そもそも、「気持ち」と「本心」の定義って何なのか、どういう風に違うのかも不明なのですが、とっさに分離法をされると、なかなか反論できません。
加奈は、どうしても否定できないときに、分離法で逃げる傾向があるように思います。
翔太 「はっきり言います。本当の気持ちを、はっきり言います」
加奈 「いいの。本当のことなんか、いいの」
解りやすいですね。(^^)
散々、「本当のあなたはもっと熱い人のはずだ」と言って本心を求めていたにも関わらず、翔太がそれを言おうとすると「本当のことなんか、いいの」です。
ナウシカなら、「どうしたんだろう、急に心を閉ざしてしまった……」って思ったかもしれません。
翔太 「俺は、今、はっきり、人生は素晴らしいと思ってます」
加奈 「嘘ばっかり」
翔太 「本当!中城さんと、こうして……」
加奈 「加奈でいいです」
このタイミングで「加奈でいいです」は、普通あり得ないと思うんですよね。
逆ならばあると思うのです。
ずっと下の名前で呼んでいたのに、突然、上の名前に変えることで、ふたりの距離が開いてしまったことを表現するとか、「馴れ馴れしく下の名前で呼ばないでよ!」と怒るとか。
でも加奈は、こんな感情的は会話の途中で、「中城さん」ではなく「加奈」と呼ぶように言っています。
表面的には、「中城さん」なんて気を使ってくれなくて構わない、と言うことなのでしょうが、「下の名前で呼んでください」というのは、通常は仲が良くなった証拠です。この状況でそのようなメッセージを送る。やはり、これも否定的ダブルバインドです。
翔太はこの場を沈めようとパニックになっていますので、この提案には反射的に従います。結果、彼の混乱はピークに達し、以後、4.<正解が判らないために相手に服従しはじめる>のように、翔太は加奈が言って欲しいだろうことは何でも口にしはじめます。
個人的には、今回一番衝撃的だった台詞は、この「加奈でいいです」でした。素でやっているとしたら、末恐ろしいです。
シャア・アズナブルなら、「このタイミングで呼び方を変更させたという事実は古今例がない」って言ったかもしれません。(すみません、アニメネタはこの辺でやめます。w)
翔太 「加奈さんと、こうしていることにびっくりしてます」
加奈 「どうして?」
翔太 「きれいで」
加奈 「急に、そんなこと言ったって」
翔太 「いや、ほんとに、きれいです」
加奈 「誤魔化さないで」
翔太 「今、こみ上げるように、この世は素晴らしいという気持ちが」
加奈 「慌てて、心にもないこと……」
翔太 「こんな綺麗な人と、俺は今、デートしてて」
加奈 「デートなんかしてません!」
確かに「きれいで」は急な言葉かもしれませんが、それでも、僕は翔太は、誤魔化しているとは思わないし、慌ててはいるけれど、心にもないことを言っているとは思いません。すべて、本心でしょう。
「気持ちって、もう少しいろいろだから」という先ほどの発言ももちろん、嘘ではないでしょうが、「こんな綺麗な人と、俺は今、デートしてて」「こみ上げるように、この世は素晴らしいという気持ちが」本当に沸いてきたのだと思います。
そしてそれを、「デートなんかしてません!」、とばっさり切り捨てる加奈……。
相手を操作する、という点からみれば、翔太は加奈の足元にも及びません。
しかし、今回の話を見て、翔太の方が、人として加奈よりもずっとまともだと思いました。
翔太は人の心の多様性を理解していますが、加奈は自分の感じていることが全てだと思っているような印象を受けました。
ドラマの中だけでなく、実生活においても、それは言えることだと僕は思います。
世の中には、人の心を操ることが、とても上手い人たちがいます。
思い通りに人を楽しませたり、泣かせたり、好きにさせたり、動かしたり、利用したり、契約させたりすることができる人たちです。
そのような人を見て、「人の気持ちを理解しているからこそ、ああいうことができるんだろうなぁ」って思うかもしれませんが、それは間違いです。
人の心を操ることと、相手の気持ちを理解できること、そして心の仕組みを知っていることは、3つとも全くの別物なのです。
宗教家が聖人なわけではなく、教師が人格者なわけではなく、心理学者が有能なCMプロデューサーなわけではありません。
思い通りにあなたを楽しませてくれる人が、実はあなたの気持ちを全く理解していないという現実は、普通にあり得ます。
ところで、デートの定義って、何でしょうね??
<2009-1-15>
久しぶりに形容矛盾を見つけました。
「2桁の九九」
<2009-1-13>
童謡「ドレミの歌」は、2番のネタ切れ感が異常です。
「ミ」と「ファ」と「ソ」と「シ」が1番とかぶっちゃってるし、「ラ」は誤魔化しちゃってるし、なんでこんなやっつけ仕事なんだろう?
合わせるなら合わせる、変えるなら変えるで、もっとちゃんと考えようよ。
そもそも、1番の、「ソは青い空」というのだって、ギリギリアウトだと思うんですよね。
<2009-1-12>
フジテレビで放送が始まった「ありふれた奇跡」の第一話を観ました。
仲間由紀恵が演じる中城加奈のコミュニケーションの仕方が、否定的ダブルバインドの連続で驚きました。
心に傷を持っているらしい加瀬亮が演じる田崎翔太が、今後、彼女に惹かれ、自信をなくし、振り回されていくであろうことは、容易に想像がつきます。
以下、加奈のダブルバインドが象徴的なワンシーン。
翔太「メールとか、教えてもらっていいですか?」
加奈「あぁ、メールねぇ……」
翔太「どうせ、しないと思うけど」
加奈「じゃあどうして?」
翔太「ただ、じゃあこれで、って言うよりいい様な気がして」
加奈「そっか」
翔太「いいの、終わり」
加奈「いいの?」
翔太「うん」
加奈「私が今、ちょっとためらったから、そう言ってる?」
翔太「そうかな」
加奈「プライド高いんだ」
翔太「気が弱いの。ビクビクしてる。いいのいいの、メール、いいです」
加奈はこういったやり取りで、メールアドレスを教えることをためらうのですが、その後、駅で別れる際、「ちょっといいですか?」と翔太を止め、電車に乗らずにもう一駅、一緒に歩くことを提案します。
加奈はメールアドレスを教えないことで翔太を否定しておきながら、「いいの、終わり」と言って諦めた翔太を、「いいの?」と言って逆に否定しています。そして「プライド高いんだ」と追い込みます。
また、メールアドレスを教えないことで「あなたには興味がない」というメッセージを送りつつ、電車に乗らず歩くことを提案することで、「あなたともうちょっと一緒にいたい」という反対のメッセージを送っています。
このように、矛盾する二つのメッセージを同時におくることを、否定的ダブルバインド、と呼びます。
翔太が諦めた後の、「いいの?」という加奈の発言は、別の意味でもダブルバインドになっています。(治療的ダブルバインド)
この「いいの?」は、「(あなたは私に興味があるのに、こんな簡単にメールアドレスをきくことを諦めて)いいの?」という意味であり、翔太が「いい」と答えても、「よくない」と答えても、どちらにしても、加奈に興味があることを彼は認めることになります。
続きを観てみましょう。ふたりは線路沿いを歩きながら、こんな会話をします。
加奈「メールのアドレス、すぐ教えなかったのはね……」
翔太「当然ですよ」
加奈「なるべく教えないようにしてるから」
翔太「俺も、そうです」
加奈「嘘!」
翔太「どうして?」
加奈「すごく、積極的でしょ?」
翔太「俺が?」
加奈「あの時も、パッと走って止めたし、私さがして戻ったり、思ったことはどんどんやるタイプじゃない?」
翔太「そう見える?」
加奈「見えないけど」
翔太「ほら」
加奈「でも行動はそうよね。メールだってすぐきいちゃうし」
翔太「今日の俺、変なんだな。無理して正反対の人間やってるのかも」
加奈「どうして?」
翔太「どうしてかな」
加奈「私みたいに、暗い人間からみると、あぁ、こういう人がいるんだ、って」
翔太「そちらが、暗い人間?」
加奈「えぇ」
翔太「全然。それこそ全然そんな風には見えない」
加奈「でも、そうなの」
メールアドレスを交換するシーンがなかったので不明ですが、「メールのアドレス、すぐ教えなかったのはね」と言っているところをみると、恐らくこの時点では、すでにメールアドレスの交換をしているのでしょう。
ここで、「なるべく教えないようにしてるから」というのも、実に暗示的な言葉です。
そう言うことで、「自分は簡単に心を許す人間ではない」ことを示唆しているのかもしれないし、「そういう自分がメールアドレスを教えたということは、あなたは特別なのだ」と言いたいのかもしれません。
ここで注目していただきたいのは、あえてもう一度メールの話を持ち出すことで、加奈は「あなたが私を求めているのだ」と言うことを強調し、翔太との関係は、自分の方が優位であることを確認しているということです。
人は、理由づけされると無批判になる、という性質があります。その理由が正しいかどうかは関係なく、「○○だから××」という構文自体が、人の心を動かすのです。これは、結合法と呼ばれる手法です。
例えば子供に新聞をポストから取ってきて欲しいとき、「新聞をとってきてくれる?」と頼むよりも、「もう新聞が来ている時間だから、新聞をとってきてくれる?」と頼む方が、言うことを聞いてくれる確率は高くなります。新聞を取りに行かせるのだから、新聞は来ているのは当然のことですし、この理由は少しも子供が新聞を取りに行かなければならない理由にはなっていないのですが、それでも、そういう理由づけをされると、子供は嫌だとは言いにくくなります。
「なるべく教えないようにしているから教えなかった」というのは、例えば「携帯を持っていないから」とか「今、恋人がいるから」という理由に比べれば、理由として全く説得力がありません。「教えないようにしている」というのは、加奈のさじ加減ひとつだからです。それでも、この発言で加奈は更に精神的に優位に立つことになります。
一方の翔太は、「俺も、そうです」と、取ってつけたようなことを言いますが、説得力がありません。翔太は初めから、何度も加奈と背を並べられるように奮闘しているのですが、かわいそうに、加奈には全く歯が立ちません。
加奈は「嘘!」と即座に翔太を否定します。
自分がメールアドレスを教えないようにしているのは正しいが、翔太はそんなはずがない、と決めつけているのです。
そしてその理由は、翔太が「すごく、積極的」だからです。何故積極的かと言うと、「私をさがして戻った」からです。
ここでは2回、結合法が使われています。
「あなたは私をさがして戻ったから、積極的なのだ」
「あなたは積極的だから、メールアドレスを簡単に教える人間だ」
翔太は加奈の、「あなたは積極的で、メールアドレスを簡単に教える人間だ」という決めつけを、否定しづらくなっています。そして加奈はサラッと「私をさがして戻った」ことを言うことで、もう一度、「あなたが私を求めているのだ」ということを強調しています。
更に翔太が「そう見える?」とたずねると、今度は「見えないけど」と、加奈はあっさり否定します。否定的ダブルバインド炸裂です。
そしてすかさず、「でも行動はそうよね」と続けます。
これは分離法と呼ばれる手法で、翔太の「自分は積極的ではない」という主張を、「気持ちは積極的ではないけれど、行動は積極的だ」と分離することで、翔太の言い分を認めつつも、半分は自分の意見を認めさせているわけです。そしてここでも、「メールだってすぐきいちゃうし」と畳み掛けるように「あなたが私を求めているのだ」と言うこと強調しています。ある意味、追い込み暗示だと思います。
それに対して翔太は、「今日の俺、変なんだな。無理して正反対の人間やってるのかも」と、再び取ってつけたようなことを言います。翔太は何とかして、加奈が作り出そうとしている、自分が加奈を求めている、という図式を崩そうとしています。行動が積極的だったのは、今日の自分が変なせいだし、それは本来の自分とは正反対の行動だったのだ、と。
ここで加奈は、その言葉をそのまま受け取ることはせず、「どうして?」と問い詰めることで、翔太の主張を無効にしています。
彼女は自分では結合法を連発し、逆に人の結合法には決して引っかからないのです。
そして、加奈は自分のことを「暗い人間」だと言います。しかしこれも、ある意味、ダブルバインドです。
何故なら、翔太が、「そちらが、暗い人間?」と驚いているように、外見からしても、性格からしても、加奈は全然暗い人間には見えないからです。言語的な主張と、非言語的な主張が矛盾しているのです。
そもそも、暗い人間は、自ら「暗い人間」などと言うでしょうか?
もちろん、時と場合によっては言うこともあるでしょうが、少なくとも、初対面の男女が水面下で駆け引きをしながら会話をしている状況においては、むしろ逆にとらえるべきでしょう。
頼まれてもいないのに、自分で自分のことを「変わっている」という人ほど、驚くほど平凡な場合があります。予定があって忙しいという人は大して予定なんてないし、外見に自信がないという人は自信があるのです。良く見せようとして反対の事を言う場合もあれば、否定して欲しくて反対のことを言う場合もあります。
加奈の場合、翔太が「全然。それこそ全然そんな風には見えない」と否定すると、「でも、そうなの」と、とても満足そうな顔をします。「暗い人間」という発言を、否定して欲しかったわけです。この辺りは、Noセット(相手にNoを連続して言わせることで、それを条件付ける手法。例えば、さんざんNoと言わせた後で、「だってあなたは私のこと嫌いなんでしょ!」と言うことで、惰性で相手に「そんなことはない!」と言わせるような手法)を使っているようにも感じられます。
加奈の否定的ダブルバインドはその後も続きます。
メールアドレスを聞いたのは翔太でしたが、それ以降、加奈の方から積極的にメールをし始めます。
かと思えば、再会したときに、彼の発言は「知らない」と取り合わないし、提案はことごとく否定。翔太に興味があるはずなのに、決して自分からはそれを認めません。大事なことは翔太の方から言わせようと、Noセットを使いまくります。
否定的ダブルバインドを繰り返されると、どう行動して良いのかが判らなくなります。
相手の要求をのめば否定されるし、のまなくても否定されるわけですから、当然、自分の価値観に自信がなくなります。通常は、そのような態度を取る相手は不快ですから、自分の方から離れていくのですが、家族や会社の上司、そして自分の好きな異性など、逃げ出せない状況では、自分を守ることができず、混乱し、精神的にやわになって、最後には相手の望むものは何でも差し出すようになるのです。
対人関係のハウツー本を読むと、ダブルバインドとして、治療的ダブルバインドが紹介されていることがあります。
例えば誰かをデートに誘うとき、「ディズニーランドに行かない?」ではなく、「ディズニーランドとディズニーシーだったら、どっちに行きたい?」と質問するような手法です。そう質問することで、「デートをする」ことは前提となるので、相手はディズニーランドを選ぼうが、ディズニーシーを選ぼうが、こちらの要求を受け入れることになります。
こんなに素晴らしいテクニックがあるのなら、何故世の中は、その本を読んだ人の思い通りになっていないのでしょうか?
何故、成功する確率はあがるにせよ、それでもうまく行かない場合があるのでしょうか?
何故なら、それらのハウツー本には、ダブルバインドが成功する重要な条件が書いていないからです。
その条件とは、上にも書いた「逃げ出せない状況」です。
闇雲にダブルバインドを使っても、うまくは行かない。
もちろん、うまく行く場合はありますが、もしかしたらそれは、「逃げ出せない状況」がすでに出来あがっていたからかもしれません。そしてその「逃げ出せない状況」というのは、永続的なものかもしれないし、一時的なものかもしれない。飲み会の席でダブルバインドがうまく行ったとしても、それは「逃げ出せない空気」がそこにあったからかも知れず、飲み会が終わってしまえば、その空気はなくなってしまうかもしれません。
加奈は、否定的ダブルバインドや治療的ダブルバインド、結合法、分離法など、さまざまなテクニックを、恐らく無意識的に使っています。
小悪魔、という言葉がありますが、まさしく加奈は小悪魔です。
そして小悪魔が小悪魔たる所以は、決して無意識的に上記のテクニックを使っているからではありません。
大前提として、外見が魅力的だから、なのです。
魅力的だからこそ、相手のことを何も知る前に、翔太は「逃げ出せない状況」に追い込まれているし、逃げ出せないからこそ、加奈のテクニックがバシバシ決まっていく。
この加奈の心理誘導は、翔太だけではなく、当然、翔太に感情移入する視聴者にも有効です。
回が進むにつれ、そういった視聴者は加奈に、ある意味、洗脳され、このドラマから離れられなくなることでしょう。
心理テクニックの本を読んでも、どんなセミナーに出席しても、ちっともうまくいかない人は、この「逃げ出せない空気」の重要性に気がついていないのではないかと思います。
<2009-1-11>
料理の「さしすせそ」ですが、醤油あたりから雲行きが怪しくなります。
<2009-1-10>
今日は催眠研究会の日でした。
Derren Brownのパフォーマンスをいくつか観たのですが、初めてDerrenを観たある方が、「これはショー催眠ですよね?」という質問をされました。
もちろん、バラエティですから、ショー催眠的なものなのですが、彼の質問の意図が判らなかったので、「ヤラセという意味でですか?」と聞くと、そうではなく、事前にカメラのまわっていないところで予備催眠があるのではないか、ということでした。
テレビの催眠術では、誘導シーンはほとんど放送されないし、「事前に予備催眠を受けています」という説明がされることもありますから、「いわゆる催眠術」しか観たことがない人にとっては、当然の質問かもしれません。
僕は彼の質問には、ふたつの大きな誤解があるのではないかと思いました。
ひとつ目は、「暗示に反応するには催眠にかかる必要がある」という誤解です。そしてこの誤解には、「催眠誘導とは、時間のかかるものだ」「催眠状態とは、目がトローンとした、居眠りのような状態である」「こんなに簡単に暗示に反応するわけがない」という誤解も含まれていると思います。
ふたつ目は、「催眠に入れば、どんな暗示にでも反応する」という誤解です。もちろん、彼は直接そう言った訳ではありませんが、言葉のニュアンスから、「予備催眠とは、事前に時間をかけて、誰かを操り人形にしておくこと」という前提が感じられました。だからこそ、予備催眠の終わっていない、ほとんど素の状態の人が容易に暗示に反応した様子を見て、驚いたのだろうし、これはガチではなく、何もかもがセットアップされたショー催眠だ、と思ったのでしょう。
でもこれらふたつの考えは間違いです。
Derrenのパフォーマンスは、カットされているシーンはあるにせよ(そしてそこで、会話的なアプローチがあるにせよ)、事前に予備催眠などしていません。ステージ催眠でさえ、したとしても、握手誘導をして終わりです。そして、いわゆる催眠術的なトランス抜きでも、十分に不思議な現象を起こしています。(もちろん、催眠とは関係のない、純粋なトリックもたくさんあります)
「予備催眠」という考え方は、とてもテレビ的な考え方で、それ自体がひとつの暗示になっていると思います。
つまり、テレビの催眠術のバラエティで、わざわざ事前に予備催眠をしていることを報告することは、「タレントが不思議な経験をしているのは十分な予備催眠があるからで、番組では予備催眠のシーンは省いているので視聴者は催眠にかかることはない」という暗示になっているわけです。予備催眠と言う名のブラックボックスがあって、それをテレビ局が見せるわけがないので、どうぞ皆さん、安心して催眠術バラエティを楽しんでください、ということなのでしょう。
同様に、「この番組を観て、視聴者の皆様が催眠にかかることはありません」というテロップが流れることもありますが、こちらも視聴者が催眠にかからないための暗示です。
予備催眠なんてなくても、テレビで放映されてしまっている誘導部分だけで、十分視聴者は催眠にかかりえます。また、一切誘導のシーンがなかったとしても、暗示に反応しているタレントを見るだけでも、被暗示性が高まって、同様のことが起こる可能性はあります。
僕は決して、催眠状態なんてない、と言うつもりはありませんが、「入った」とか「落ちた」とか、催眠状態そのものにこだわっているうちは、催眠はうまくならないと思っています。
催眠状態にならなくても人は暗示に反応するし、催眠状態になっても、反応しない暗示には反応しない。
それだけのことなのです。
<2009-1-9>
U字工事、栃木っぽいのはむしろ向かって左ですね。
<2009-1-6>
「絹」とか「こし」というのは、人を悩ませますね。
写真を現像しに行って、「光沢」と「絹目」という選択肢を提示されると、必要以上に悩んでしまいます。
そんな選択肢がなければ、光沢で仕上がってきても、絹目で仕上がってきても何も感じないと思うのだけれど、選択肢を提示されるだけで、どちらが良いか考えなければいけないし、その選択に、必要のない責任感を覚え始めます。実際に写真が出来上がってきた後も、本当は光沢にするべきだったんじゃないか、などと考えてしまいます。
和菓子を買いに行って、「つぶあん」と「こしあん」を選べるときにも、悩みます。誰かがお土産でお饅頭をくれて、それがつぶあんでもこしあんでもどっちでも良いのですが、いざ、自分で選択できるとなると、自分はどちらが好きなのか、行動で示さなければなりません。
豆腐を買いに行って、「木綿」と「絹ごし」が並んでいるときも、やはり悩みます。料理に詳しければ、この場合は木綿、などと自動的に決められるのかもしれませんが、例えば子供の頃、親からおつかいを頼まれて、豆腐売り場で初めてそんな選択肢があることを知ったときには、どちらでも良いのか、間違った方を買ってしまうと怒られるのか、怒られないまでも「本当はあっちが良かったけれど、こっちでもいいわ」的な、感謝が取り消されるような結果になるのか、豆腐の前で途方に暮れてしまいました。
もちろん、写真が趣味の人や、和菓子が好きな人や、料理が得意な人は、悩まないだろうし、そういった選択肢がないと困るのかもしれません。
でも、そうでない人にとっては、こういった強制的な選択肢は、適当にすませられる人もいるでしょうが、苦痛な人も多いのではないかと思う。
それこそ極端に言えば、全く何も知らないし、興味もないのに、今すぐ、テレビ中継で全世界に向けて、自分は「パナマ運河」が好きなのか、それとも「スエズ運河」が好きなのかを発表しなければならないような、そんな気持ちになるのです。
選択する側も苦痛でしょうが、選択させる側も、同じ様に苦痛な場合もありますね。
例えば、電気製品に詳しくない人に、「テレビを買いたい」と相談されて、液晶とプラズマの違いを説明するときなんかもそうです。「どっちがいいの?」って聞かれても、一長一短ですから、違いを説明して、どちらかを選んでもらう必要があります。そしてその重要な選択が、自分のつたない説明だけにかかっていると思うと、ヒヤヒヤします。「液晶は残像が気になる場合がある」とか、「プラズマは画面が焼けることがある」とか説明したところで、その意味を正確に相手が理解できるとは限りません。
そして、自分がその選択に立ち会ったが故、その後も変な責任を背負わされる可能性があります。いや、もちろん、そんな必要はないのだけれど、自分の説明の結果、液晶テレビを買った人が、「やっぱりスポーツを見ると残像があるね」なんて、責めているわけでもなく、ボソッと言ったとしたら、やはり、責任を感じてしまう。
選択肢がある、というのは、自由だし、幸せなことだと思いますが、もしかしたら、選択肢がない方がずっと自由だし、幸せなこともあるのかもしれないと思います。
<2009-1-2>
冷蔵庫の卵の賞味期限が迫っていたので、クックパッドでレシピを検索し、ケーキを焼いてみました。
僕は小学生の頃、お菓子作りが好きだった時期があり、ケーキやプリン、クッキーなどを良く作っていました。
元々、何かを作ることが好きで、今はパソコンを作ったり、挿し木をしてブルーベリーの苗木を作ったりすることが好きですが、お菓子作りを覚えた頃は、「売っているお菓子が、家にある材料で自分で作れる!」という事が単純に嬉しくて、姉の持っていたお菓子作りの本を開いては、今日は何を作ろう、とワクワクしながらページをめくっていました。
もちろん、「ぐりとぐら」の影響もあったと思います。
あの絵本の中に出てくるスポンジケーキは、本当に美味しそうで、小さい頃から刷り込まれていたのだと思う。
僕にとってお菓子作りは、プラモデルを作るのと何ら変わりませんでした。
レシピ通りに分量を量り、粉をふるい、卵をかき混ぜ、オーブンで焼くだけで、望み通りのものができるのです。
ほとんど、失敗らしい失敗もしたことはありませんでした。
そしてもし失敗したとしたら、それは純粋に、読解力の問題でした。
例えば、クッキーを作ったとき、「生地を耳たぶくらいの柔らかさになるまでこねる」とレシピにあったのですが、僕は自分の耳たぶを、それこそ腫れあがるまで触りながら、最後まで、本当にこの柔らかさでこねるのを終了して良いのかどうか、確信を持つことができませんでした。
僕にとって、お菓子作りに必要なものは、決して才能ではなく、いかに指示通りに工程を終えていくことができるか、でした。
ですから、大人ならば、行間を読んで、適当に済ませられるような部分も、死活問題のように感じられました。一歩間違えば、すべてがゴミになってしまうような、そんな緊張感を持っていつもお菓子を作っていました。だから「耳たぶのやわらかさ」という表現は僕にとっては曖昧すぎたし、一般家庭にないような材料や調理器具を要求するレシピを見つけると、そこから先には進めないような、何だか取り残された気分になりました。
小学校4年生くらいのことだと思いますが、一度、近所の子供が誕生日だと言うことで、ケーキを焼いて持って行ったことがありました。
僕がケーキを差し出して、「誕生日だからケーキを作ってきました」と言うと、その子のお母さんはとても驚いた顔をして、「ひとりで作ったの?」と言いました。僕は作業工程を思い出しました。材料を量ったのも、ふるいにかけたのも、混ぜたのも、泡立てたのも、飾り付けたのも、全部自分でしたが、ボールや量り、ふるいなどを用意してくれたのは母だったし、オーブンを温めておいてくれたのも母でした。
だから素直に、「母が手伝ってくれました」と答えました。
すると彼女は、「お母さんと一緒に作ったのね」と、すごくほっとした顔をして言いました。「すごく上手にできたわね。ありがとう」
僕はその表情の変化を見て、子供ながら、この人は大きな勘違いをしている、と思いました。
きっとこの人は、このケーキのほとんどはうちの母が作り、僕はただ、母の指示通りに、作られた「お手伝い」をいくつかしただけなのに、得意になって「自分で作った!」と言っている、と思っているのだろうなと思いました。そして、その虚栄心を尊重して、褒めてくれているのだろう、と。
改めて、「そうじゃないんです、母はほとんど何もしてなくて、僕が全部作ったんです!」と弁解したい気持ちでしたが、うまく言えるわけもなく、お辞儀をしてそそくさと帰ったのを、覚えています。
今日、久しぶりにケーキを焼いてみて、昔のようにできるかなぁと初めは不安だったのですが、難しいことは何もなく、やはり、レシピにあることを一行一行、忠実に行なうだけで、気がつくとオーブンからいい匂いが漂っていました。
このケーキは、みかんの缶詰と桃の缶詰のケーキです。
子供の頃、ケーキを焼いても、イチゴが家にあるはずもなく、かといって何も載せずに生クリームだけでは淋しいので、棚の奥で見つけたみかんや桃の缶詰を使っていました。冷静に考えれば、そんなケーキはケーキ屋さんでみたこともないし、みかんや桃が生クリームにそれほど合うとも思えないのですが、背に腹は変えられなかったのでしょう。それ以来、自分でケーキを作るとなると、みかんと桃が頭に浮かびます。
久しぶりのみかんと桃のケーキは、懐かしく、とても美味しかったです。
今度は、こちらも定番だった、キウイとチョコレートのケーキを復刻しようと思います。
<2009-1-1>
あけましておめでとうございます。
毎年大晦日の夜は、テレビを見ながら家で年を越し、そのまま寝てしまうのですが、今年は夜中に近所を散歩してみました。
年末年始の、街がシーンとしていて、空気が張り詰めているような感じは、非日常的で、結構好きです。
オリオン座がとてもきれいに見えていて、お寺や神社には、夜中なのに多くの人が集まっていました。
家に帰り、ふと、自分が80歳になって、家族も友達も亡くなったり、遠く離れたりして、ひとりで大晦日の夜を過ごすことを想像してみました。
誰もが、ひとりで生まれてきて、ひとりで死んでいくことは解っているつもりですが、それでも、大晦日だけは淋しいだろうなぁと思いました。
そんな淋しさを、楽しめないまでも、ちゃんと味わえる人間になりたいです。
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