ひとりごと
2003年 1〜4月
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<2003-4-30>
買おうかどうしようか迷っているもの、「メモニ」。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20011101/toy41.htm
このページを読んだら、無性に欲しくなってしまいました。
こんなおもちゃでも、もう人並みの会話ができるんですね。驚き!
でもこれ、一昨年発売の割には全く話題になっていません。
まだ売っているのかな。
<2003-4-29>
先日知ったマメ知識。
誰かのホームページを許可なくリンクすることって、なんとなくいけないことなんじゃないかと思っていました。(僕がネットをはじめた頃は、リンクするだけで著作権にふれるだとか、無許可のリンクはエチケット違反だとか言われていた気がします)
だから、この「ひとりごと」のページでも、みなさんに紹介したい面白いページがあっても、躊躇っていました。
そんな中で発見したページ。
「リンクに許可は不要です」
http://www.matsusaka-u.ac.jp/~okumura/link.html
なーんだ、リンクって勝手にして良かったのね。うちのページはフレームも使っていないので、法律的には問題ないみたい。
ということで、これから面白いページを見つけたら、どんどん紹介していきますね。
<2003-4-27>
最近、若手のお笑いが異様に面白いです。
最近はまっている若手芸人は、
いつもここから
スピードワゴン
ドランクドラゴン
おぎやはぎ
はなわ
長井秀和
です。その中でも一押しは、今だとスピードワゴンかな。
木曜の深夜3時からTBSラジオで番組やっているのですが、それがメチャクチャ面白いんです。
上にあげた芸人、思えば全員関西系ではないですね。
関西芸人も嫌いじゃないですが、二人揃って面白い若手コンビってなかなかいません。
面白いピン芸人もいないしね。
<2003-4-26>
映画「クレイマークレイマー」で、
「あなたが一番長く続いた人間関係というのは7年なんですね?」
「そうです、でも……」
「以上です、裁判長」
というシーンがあって、ドキッとしたことがあります。
今までいろいろと我慢したり、自分なりに関係をよくしようと思ってがんばってきたのに、やっぱりもう耐えられなくなって、あっさりとその関係から逃げ出してしまったことが、僕にはよくありました。というか本当によくあります。人でも、仕事でも、状況でも、です。
そのときどきでは、ちゃんと理由があり、どうしようもないといえる状態だとは思っているけど、こういうの、端から見ると、ただのそういう人に見えるんだろうなぁ。
「たった〜年でなに言ってるの!」って。
でも、その〜年が死ぬほど長いんだけどなぁ。
<2003-4-25>
ふたつの対立する概念が共存している言葉ってありますよね。
「甘辛い」とか、「痛痒い」とか、「へたうま」とか……。
こういうの、他にもあるかなぁとずっと考えていたのですが、なかなかないんですよね。
「暑寒い」とか「暗明るい」とか「楽苦しい」とかふつう言わないしね。
……と思って Google で検索したら、なんと、この3つとも普通に使っている人たちがたくさんいました。こういう言葉、ありなのかなぁ。
だいぶ昔になりますが、ビールのコマーシャルで、「コクがあるのにキレがある」とかいうのがありましたが、果たして「コク」と「キレ」って対立概念?
通常、コクがあるものにキレってないのだろうか?
キレがあるものにはコクってないのだろうか?
そもそも、「コク」とか「キレ」って、何?
<2003-4-21>
戦後フィリピンに潜伏していた旧日本兵の小野田さんのことは皆さん、ご存知かと思いますが、小野田さんをフィリピンで発見した「鈴木さん」というフリーターのことをご存知の方は、きっと少ないでしょう。
かねてから「パンダと小野田さんと雪男を見つけるのが夢」とうそぶいていた鈴木青年は、本当にフィリピンまで行って小野田さんを見つけてしまいました。何度も調査隊が組織されながら発見できなかった小野田さんを、しかも単独で……。
未だ眼光鋭い旧日本兵の小野田さんとざっくばらんに語り合い、記念写真までしてひとりで日本に帰ってきた鈴木氏。
その後、本当に雪男を探しにヒマラヤへ行き、遭難して死んでしまったそうです。
僕はこの話を知ったとき、猛烈に感動しました。人生って、こうあるべきだよなって。
「パンダと小野田さんと雪男を見つけるのが夢」
即座に3つの夢を列挙できる人って、今の世の中、何人いるんだろう。
<2003-4-20>
ときどき無性に食べたくなるものがあるんです。
亀田製菓の「サラダうす焼」。これに、マーガリンを塗って、味のりを巻いて食べるともうやめられません。
あと、チクワの穴にチーズを入れて、それに醤油につけて食べるのも最高においしいです。
騙されたと思ってお試し下さい。
<2003-4-19>
ホームセンターへ行って、プルーンの苗を買ってきました。
サンプルーンとシュガープルーンを買い、鉢植えにしたのですが、いよいよ置く場所がなくなってしまいました。
果樹の多くは、受粉のために別品種が必要なのですが、プルーンは自家受粉するため、1本でも結実するらしい。園芸本によると、プルーンは育てやすく、おいしく、豊産だそうで、これ以上理想の果樹はないのではないかと思います。
場所をとらない、というのであればブルーベリーも育てやすいです。うちのブルーベリーは今年も花が満開。ただ、実になっても粒が小さいので食べた気がしないんですよね。ブルーベリーは、ハイブッシュ系の品種は自家結実しますが、ラビットアイ系の品種は自家結実しませんので注意が必要です。
アルプス乙女という小型リンゴも花を咲かせています。こちらも自家結実します。去年は10個ほど収穫できました。味は普通のリンゴですが、小さくてかわいいです。
果樹といっても、鉢植えで十分収穫できるので、興味のある方は是非、園芸店に行ってみて下さい。
それほど僕も知識があるわけではありませんが、園芸関係でも質問があれば、メール下さいね!
<2003-4-18>
昨日、通りがかりの不動産屋の窓に張ってある物件を見ていたら、1億3千万円でワンルームマンションが一棟売っていました。10部屋あり、推定年収が1千万円だそうです。
結局、お金を持っている人のところにはお金が転がり込む仕組みなんだなぁと思いました。
13年で元が取れて、14年目からは何もしなくても年収1千万円。
まぁ、そう単純にはいかないのでしょうが、「風の歌を聴け」(村上春樹著)の鼠のセリフを思い出しました。
「もちろん金持ちになるには少しばかり頭が要るけどね、金持ちであり続けるためには何も要らない。人工衛星にガソリンが要らないのと同じさ。グルグルと同じところを回ってりゃいいんだよ。でもね、俺はそうじゃないし、あんただって違う。生きるためには考え続けなくちゃならない。明日の天気のことから、風呂の栓のサイズまでね。そうだろ?」
<2003-4-17>
森高千里が歌っていた「ロックンロール県庁所在地」を、ミニモニがカバーしていますね。
僕は森高の曲が結構好きで、昔は良く聞きました。
この曲もそうだけれど、他にも面白い歌がたくさんあったんです。
ハエ男も、ロックお姉さんも、オムレツも……。
「非実力派宣言」の頃の、ミニスカートはいてブリブリだった森高が一番好きでした。
ところで、ミニモニバージョンでは、ちゃんと「埼玉の浦和」が「埼玉のさいたま」って変っていたけれど、東京は変っていませんでした。本当は、「東京の新宿」って歌わなければいけないんじゃないかなぁ。
<2003-4-14>
今年は気合を入れていたイチゴの花がたくさん咲いている反面、去年花が咲いて実も収穫できたバレリーナツリーというリンゴが花を咲かせず、一昨年から育てていて、「今年こそは!」と思っていたプルーン(スタンレー)も花を咲かせず、かなり残念です。木は両方かなり大きくなっているので、なんだかこのまま花を咲かせない木になってしまうのではないかと心配しています。2年目、3年目でも花を咲かせている人はたくさんいらっしゃるので、ちょっと焦りを感じます。
実家のリンゴの木はもう10年以上も経って、木も立派に育っているのに、土が合わないのか、気候や日当たりの問題なのか、一度も花を咲かせたことがありません。
僕は観賞目的で園芸をしているわけではなく、例え少量でも収穫の楽しみを味わいたくて園芸をしています。だから、何年も花を咲かせない木を見ていると、リストラしたくなります。
ネットで読んだのですが、何年も花を咲かせない木があって、お母さんがその話をしたら、幼稚園児の子供が、「そんなの簡単だよ」と言って、木に向かって「はやく花を咲かせないとちょん切るよ」と言ったそうです。そうしたら次の年から嘘のように花が咲いたそうな。(猿蟹合戦の話からこの発想はきているのでしょう)
なんとも微笑ましい話ですが、植物にも感情はあるというのはよく言われる話ですよね。褒めながら育てるときれいな花を咲かせるとか、クラシック音楽を聞かせるといいとか。
実際に植物に電極をつけて測定すると、人間の語りかけにちゃんと反応するそうです。(ほんとか?)
僕も昨日、「来年花が咲かなかったら、切って多品種を植えるからね」と木に念を押しておきました。
「かわいそう……」って思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、こっちも道楽でやっているわけじゃないですからね。(嘘です。まったくの道楽です・笑)
<2003-4-13>
僕は基本的には毎日夢をみます。しかも、平気で3本立て、4本立ての夢です。
明け方みた奇妙な夢。
笑福亭仁鶴から電話があり、笑福亭鶴瓶の携帯番号を教えろ、とのこと。
夢の中の仁鶴はとても怖いおじさんでした。
<2003-4-11>
ビデオにとっておいた「藤岡弘の探検隊シリーズ第2弾」を観ました。
「ベトナム奥地ラオス国境密林地帯に呪われた竜の使い人食いヅォンドゥーは実在した!」というタイトルからして、「もしや、大きな蛇を捕まえてお茶を濁すのでは……」と思っていましたが、果たしてその通りでした。
今回も隊員がコブラに噛まれたり(隊長の「血清っ!」の声に大笑い)、川に落ちてヒルに噛まれたり(ヒルは無理に剥がしてはいけないらしい)、ニシキヘビに脚を絡まれたり、用意されたハプニング続出!
隊長の壊れっぷりも相変わらずで、今回は「危機センサー」がお気に入りの模様。
トラを見つけて隊長を呼ぶ隊員の下へ、トラに気づかれそうなくらい音を立てて近づいておきながら「大きな声を出すな」と叱りつけたり、前回同様、密林をバッサバッサと意味なくナタで切り開いたり……。
関係ないのに毎回登場してはゲテモノを食べさせられる藤森夕子にも、どこか哀愁が感じられました。
今回のオチのしょぼさはジュンマ以上でした。ニシキヘビをヅォンドゥーと言い切ってたけど、ヅォンドゥーにはツノがあるのではなかったのか?
ヘビと言えば、「ワレワレハ地球人ダ」の「スネークハンター」。
今回のヅォンドゥーが8mしかなくて、ちょっと胸を撫で下ろしている自分がいました。
<2003-4-9>
本日午後7時より、「藤岡弘の探検隊シリーズ第2弾」が放送されます。
前回の、「今夜復活!!
伝説の探検隊が帰って来た アマゾン奥地1500キロ! テラプレータの密林に謎の猿人ジュンマは実在した!」も怒涛の展開に笑いっぱなしでしたが、今回の「ベトナム奥地ラオス国境密林地帯に呪われた竜の使い人食いヅォンドゥーは実在した!」も、もうタイトルからしてファンタジー全快です。
「呪われた竜の使い人食いヅォンドゥー」っていったい??
答えは今晩の放送に期待しましょう。
<2003-4-8>
ビーチボーイズの曲に、「カリフォルニア・ガールズ」という曲があります。
(そう、村上春樹の「風の歌を聴け」で、コンタクトレンズをなくしてしまった女の子が貸してくれたレコードです。)
その曲の中に、「I wish they all could be California girls.」って歌詞があるんだけど、これってどういう意味なのかなぁ。
小説の中では「素敵な女の子がみんな、カリフォルニアガールズならね」と訳されていましたが、つまり、中西部の農家の女の子とか、北部のキスの上手な女の子とか、そういった素敵な女の子たちが、みんなカリフォルニアにいたらいいなぁという意味なのか、それとも(2番で歌っているように)世界中旅行したけれど、カリフォルニアの女の子が一番なわけだから、世界中の女の子がみんなカリフォルニアの女の子だったらなぁって意味なのか……。
高校のころからずっと、この曲を聴くたびにどっちだろうって思ってて、今日も悩んでしまった。
僕は前者の方がいいです。後者だったら、きっと疲れてしまう。
カリフォルニアの出てくる曲って、どれも僕にとって思い出深い。時々ですが、歌詞カードも見ずに英語がすっと入ってくることがあるのだけれど、そういうのは強烈に心に残ります。
イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」で言えば、「これは天国?、それとも地獄?」って自分に問いかけるところとか、メルセデスベンツをに乗っている女の子が、タッキー&翼のような(「タッキー&翼」は僕の勝手なイメージですけど)キュートな男の子を何人も連れながら、彼らを「友達」と呼んでいるところ。
ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」で言えば、教会でひざまずいて祈るふりをするところですね。
短い歌詞のなのですが、情景がぱーっと心に浮かび、気がつくとその世界にどっぷりはまってしまう。
僕はこういった、「心地のよい退廃さ」が好きです。
<2003-4-4>
最近の音楽がつまらなく感じられるのは、僕がおじさんになったからでしょうか。
先日、MDの搭載されたラジカセをはじめて買いまして、学生時代から聴いていたEPOのテープをMDに落としました。我が家からテープを再生できる機械がなくなって久しいので、EPOの曲を聴くのは実に久しぶりでした。
早速そのMDを車に乗せてドライブしながら聴いたのですが、もうすごいんですよ、EPO。
アレンジが非常に凝っていて、出し惜しみなくオーケストラが使われていたり、「え? ここで木琴使っちゃうの?」と驚かされたり、これぞプロの仕事、といった感じでした。
歌詞もぶっ飛んでいて、あの時代の明るさがそのまま伝わってきます。
「ひとつやふたつの過ちだったら、Profileになる♪」なんて、そんな能天気なこと、今は誰も歌いませんよ。
近頃のアーティストで「プロ」を感じることってあんまりないんですよね。アレンジも単調だし、だからといって歌詞が共感できるわけでも面白いわけでもない。どこにでもいるお兄ちゃん、お姉ちゃんがぽっと出てきて、事務所からオーラをふりかけられてデビューしている。
日本の音楽シーンがつまらなくなった原因って、僕はミスチルだと思うんです。彼らの音楽は確かに素晴らしいかもしれないけれど、彼らが出てきてから、アコースティックなものが流行りだしたように思う。
僕もアコースティックなサウンドは好きですが、アコースティックであることが、結果的に「ニセモノ」が紛れ込んでくる原因になってしまった。
EPOのような音楽って、やはり才能がないとできないと思うのです。(もちろん、本人だけではなく、アレンジャーやスタジオミュージシャンすべての才能です)
でも、今の音楽って音楽の部分で勝負していない。
キャラクターとか、雰囲気とか、そういうのだけで売ろうとしているように思う。
ゴスペル(黒人霊歌という意味ではなく、雰囲気としてのゴスペル)みたいなのが流行ったり、ケミストリーなどの「歌が上手くてすみません」みたいな感じの人たちがどっと出てきたりは、個人的には非常に残念です。
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<2003-3-31>
昨日、BSで井上陽水のライブを観ました。
K-1がはじまるまでの時間つぶしのつもりでしたが、すっかり見入ってしまいました。
「最後のニュース」を久々に聴いたのですが、陽水、歌いながら泣いているんですよ。
サングラスの下から涙が伝っていました。
僕は学生の頃、学園祭でこの曲を弾き語りしたことがあります。
狭い教室で、お客さんもほとんどいなかったけれど、ステージに立つごとに、いつも一曲目には「最後のニュース」を歌いました。
その頃を思い出し、とても懐かしい思いがした。
関係ないけれど、今は「大きな古時計」と言えば平井堅ですが、あの頃はPSYSが、FMのダイキンのコマーシャルで「大きな古時計」を歌っていたんですよ。平井堅よりもずっとアレンジがシンプルで、胸に訴えてくるものがありました。初めて聴いたときには、全身に鳥肌が立ちました。(だから平井堅ではあまり感動できませんでした。) この曲も学園祭で歌いました。
<2003-3-30>
セミは土の中で7年間生活し、地上では7日間しか生きることができません。
これを人間に当てはめると、70年もの間ひとりぼっちで土の中で暮らし、やっと地上に出ても2ヶ月ちょっとで死んでしまう計算になります。
そう思うと、むしろ土の中でじーっとしている方こそ、セミの本当の人生なのかもしれません。
地上でミンミン鳴いたり、子供にオシッコをひっかけたりするのは、彼らの人生にとっては、死ぬ前の老人ホームでの生活みたいなものなのかもしれない。
いや、でも違うのかな。やっぱりその2ヶ月が、彼らにとっては人生のすべてな気もする。やっと好きなところに行けるようになり、繁殖相手も見つけ、カラスに追われるスリルも味わい、だんだんと力が衰えて飛べなくなる……。
2ヶ月なんて、あっという間ですよね。忙しさのうちに気がつくと2ヶ月経ってしまうことなんてよくあります。でも、もしセミならば、それが人生のすべてなのです。
もし人類がセミと同じライフサイクルで生きていたとしたら、文明は今とは全く違った形をしていたことでしょう。
その方がみんな、ずっと幸せだったのかもしれませんね。
辛い時期は誰にでもあると思いますが、まずは2ヶ月我慢してみましょう。
そして2ヶ月経ったらこう思いましょう。
あぁ、セミだったら、もうこれで終わりだったのだな、と。
<2003-3-29>
一昨日書いた、エレベータのキャンセルの話ですが、今日実験したところ、ダブルクリックというのは嘘でした。
正確には、一度押すと点滅、その後もう一度押すと消灯しました。
つまりは、ゆっくりダブルクリック、ですね。
<2003-3-28>
昨日の「スポーツえらい人グランプリ」で、神社(?)を一周まわる競争で、ずっと3番目を走っていた人が、ゴール直前で1番目と2番目の人が転んだため、1位になったシーンが放送されました。
1番目の人が転んだのはアクシデントだと思いますが、2番目に転んだ人は、1番目の人の転倒に「つられて」転んだように思います。
これはまさに、ミラーリングですね。
人は知らないうちに周りの人と同調しようとします。仲の良い恋人を見ていると、同じリズムで呼吸をしています。近くの人が欠伸をすると、自分も欠伸をしたくなります。友達が大笑いをしていると、おかしくもないのに笑ってしまいます。お茶を口に運ぶと、一緒にいる人もお茶を口に運ぶことがあります。気がつくとふたりとも腕を組んでいるときがあります。
2番目に走っていた人は、無意識のうちに1番目に走っていた人に同調していたのでしょう。脚を出すリズムから呼吸まで、ぴったりとあっていたのだと思います。だから1番目の人が転んだとき、引きずられるように自分も転んでしまったのでしょう。
催眠でもこのミラーリングというのは非常に重要です。相手が自分にどれだけ同調しているかを知ることもできますし、逆に同調していないときは同調させていくこともできます。
誰かの気持ちを理解したいのなら、まずはその人と同じ呼吸をしてみて下さい。呼吸の場所(胸、お腹)、呼吸の深さ(長さ)を合わせていくと、次第にその人の感情に自分の感情も近づき、相手の言葉に共感できるようになります。
<2003-3-27>
ここ数年完成したビルのエレベーターって、間違った階を押してしまったらキャンセルできるの、知ってました?
もし間違った階を押してしまったら、ダブルクリックの要領でその階のボタンを押し、表示が点滅したのを確認してからもう一度押してみて下さい。これで、不要な階で扉が開くのをふせげます。
<2003-3-26>
最近暖かいですね。
ユスラウメはだいぶ満開に近づいてきました。
プランタのイチゴも、小さなつぼみをつけ始めています。
ブルーベリーもリンゴも、芽吹く直前。
園芸をやっていると、この時期が一番わくわくします。
今年こそ、大収穫!
<2003-3-25>
学生時代、好きな女の子の女友達に一度でいいから
「あなたって、相当鈍感ね」
って、言われてみたかったな。
<2003-3-24>
「スピードワゴン」の小沢さん、面白いですね。
ハリガネロックとかアメリカザリガニは好きじゃないです。
「ますだおかだ」だったら「おぎやはぎ」かな。
<2003-3-22>
昨日は「サスケ」を観ました。
TBSのこの手の番組って、だらだら観てしまいます。
最近やらないけど、「フードファイト」とかもやっていると観てしまいますね。
そして観終わった後、必ず変な虚しさを感じます。
すごく時間を無駄にした気がする。
いや、いつも下らない番組たくさんみて笑っているんだけれど、そういう番組ではこういった虚しさは感じない。
出演者のこれからの半年とかを考えちゃうからかもしれません。
<2003-3-21>
これは果たして戦争なのでしょうか?
戦争って、もっとこう、戦争っぽいのではないかと思うのです。
高校生が幼稚園児を殴っているのを見て、「喧嘩だ!」って思う人はいないでしょう。
イラク攻撃もそれと同じで、ここまで持っている武器が違うと、戦争というより、ただの殺人ではないかと。
「広島、長崎級の破壊をもたらす攻撃を、核兵器を使わずに行う用意がある」とアメリカの報道官が伝えていましたが、死ぬ側にしてみたら、どっちでも同じですね。
<2003-3-20>
今回のイラク攻撃には、英国、オーストラリア、ポーランドなどが参戦を表明している、とニュースで読みました。
ポ、ポーランド?
<2003-3-19>
いつもここから著「悲しいとき2」を読みました。
とても面白かったです。
ネタもよかったけれど、インタビュー、そして日記もよかった。菊池ってなんていい奴なんだろうと思いました。
本屋さんで平積みされていると思いますので、まだお読みでない方は、是非。
<2003-3-18>
どこどこの何々がおいしい、という話をよく聞きます。
一日限定何個しか作らないとか、何分も並ばないと買えないとか。
時々そういうのを貰うことがありますが、正直、苦手です。
なんかね、食べるときに緊張して落ち着かないんです。
その一口に、何分も並んだ苦労とか、一日何個の貴重さとかを感じてしまってリラックスできない。
さらに、そういう理由がちょっと押し付けがましい。
本当においしいのか、めったに食べられない気持ちがおいしく感じさせているのか判らなくなってしまう。
僕はあまり食べるものに執着ってないんですよ。
昔ダウンタウンの松ちゃんが、何かの番組で、「もし明日、世界が終わるとしたら、最後の食事はぺヤングソース焼きそばがいい」って言っていたのですが、その気持ち、よく判る。
そういうのと全く同じ理由で、旅行とかディズニーランドとかも、僕、ダメなんです。
「楽しまなくては……」って気負ってしまって全然リラックスできない。
大してきれいじゃない景色でも、「きれいだなぁ」って思わなくては来た意味がなくなってしまうように思う。それで「きれいだなぁ」なんて実際に言うと、周りからは「そう? 思ったよりしょぼくない?」なんて言われたりして。「この人、あまり見る目ないみたい」なんて思われたりして……。
大して乗りたくもない、「カリブの海賊」に並んでいる自分も切ないですね。
なんかディズニーランドのアトラクション乗ると、天井見ちゃうんですよ。どこも天井だけはあまり作りこまれていなくて、学園祭みたいな雰囲気があるんです。ディズニーランド、必死だな、というか……。
何でこんな文章を書いているかというと、先日たまたま辿り着いたホームページを読んでいたら、「最近どこどこの何々にはまっている」、というようなことが書いてあったんです。でね、その文面から、実際にはその人はそれにはまっているわけでもなんでもなく、必死でそのような「こだわり」を持とうとがんばっているだけなんだろうなぁって思っちゃったんです。
「あぁ、多分この人、そのお店でそれ食べながら、そういうこだわりを持った自分に酔っているんだろうなぁ。わ、何かキモっ!」って。
だってさぁ、まるでグルメ雑誌の紹介記事をそのままぱくったみたいな書き方で、全然その人の思いが伝わってこないんですよ。店長がひとつひとつ仕上げているから一日何個しか作れないとか、契約農家から産みたて卵を毎朝送ってもらっているとか、だから何?って思う。
僕、おいしければ工場で大量生産でも近所のスーパーで買ってきた特売の卵でも全く関係ないですけどね。
結局この人にとっては「味」が問題なのではなく、そのプロセスやこだわり、ウンチクが大切なのかなぁ、と。もちろん味というのは主観的なものなので、そのような事前情報によって「おいしく」感じるというのはあると思いますが、その文章では肝心な味については「とにかくおいしい」という一言で片付けてしまっているところを見ると、やはり味は問題ではなかったのでしょう。
こだわりを持った人って、なんか苦手。真っ赤な顔で怒られそう。
「これじゃなきゃダメだ」という考え方は、自分の人生を自分で狭くしていることになるし、そういう雰囲気をして「自分は本物を知っている」とうそぶいている姿は、とても薄っぺらく感じます。肩をポンポンと叩いて、もっと気楽にやりなよ、って言ってあげたくなる。(すみません、お節介です)
カシオペアのギタリスト、野呂一生はレコーディングでアメリカへ行ったとき、ふらっと入った楽器屋さんに置いてあった一番安いギターを買って、それでレコーディングしたそうです。
本物って、そういうことじゃないかな。
関係ないけど、さっき「うみたてたまご」で変換したら、「産みたてた孫」って第一候補で出てきました。(^^;;
<2003-3-17>
ヒョードル強すぎ!
昨日のPRIDEは、ほぼ応援していた方が勝ったのでとても楽しく見ることができました。
ランペイジジャクソンも、いつもの面白いファイトではなかったけれど強かったです。是非シウバにも勝って欲しいな。
桜庭はもう限界ですね。PRIDEの日本陣営はもっと新しい人にチャンスを与えて欲しいです。
横井もまた見たいし、坂田、耕平(?)もどこまでやれるのか見てみたい。
<2003-3-16>
何だか3月になっても全然暖かくなりませんね。
せっかく洗車したのに雨降りそうだし……。
今日はこれからPRIDEです。
<2003-3-15>
「コラボレーション」って言葉、最近よく聞くけど、なんかこの言葉を聞くと背中がゾクっとします。
ええかっこすな、って思う。
なんかこう、歪んだ選民意識みたいなのを感じてしまうんですね。
すみません、全部偏見です。
<2003-3-13>
今度の日曜日はPRIDEがあります。
一番PRIDEにはまっていたときは、何日も前からこのイベントが楽しみで、とても特別な日でした。でも森下社長も死んでしまったし、感情移入できる日本人選手もいないし、ボブチャンチンもいなくなっちゃったし、以前の熱は完全に冷めてしまった。
真剣勝負はアタリハズレがあるからかもしれません。本当に熱狂できる試合って、ひとつかふたつだし。
PRIDEの先行きも怪しいですね。もしかしたら、今度の興行が最後になってしまうのかもしれません。
<2003-3-12>
「海辺のカフカ」を読み終わりました。
正直、全然面白くなかったです。
「さくら」は重要人物なようでほとんど出てこないし、戦争中の子供たちが意識を失った事件の真相もよく判らない。カーネルサンダースは都合が良すぎるし、白い訳のわからないものを殺すくだりも、筆者の情熱が空回りしている気がしました。
思い切り消化不良です。
村上春樹、というネームバリューがなければとても売れなかったでしょうし、こういう小説がもし内容だけで売れているとしたら、それはそれでこの国の将来は危ういのではないか、と思います。
これ、本当に村上春樹が書いたのかな?
どうも村上春樹は、ワープロで原稿を書くようになってから急速につまらなくなっている気がするのですが……。
<2003-3-11>
鉢植えで育てているユスラウメの花が咲き始めました。
まだまだ寒いけれど、少しずつ春が近づいているんですね。
<2003-3-10>
パズルって大好きです。
最後にパズルをしたのは7年位前のことですが、この7年という年月は「たまたま」パズルをしないうちに7年過ぎてしまった、などという生易しいものではありません。
怖かったんです。
パズルを一度始めると、僕はもう、パズルのことで頭が一杯になってしまうから。
途中でやめることができない。
夜中何時まででもやってしまうし、人付き合いもどうでもよくなってしまう。
僕にとってパズルとは、それくらい重いものです。そう、まさに麻薬です。
だから新しいパズルを買うことができなかった。
この7年間、何度もパズルが僕の心をとらえたけれど、僕は首をすくめてそれが通り過ぎるのをじっと待ちました。今はまだ、危険すぎる、と。
わざわざ完成された絵や写真を切り刻んでバラバラにし、もう一度それを組み立てる。
パズルという概念を持たずに成人した人にとって、その行為を理解することは不可能でしょう。
何故パズルをするのか?
パズルは僕らをどこへも連れて行ってはくれません。
得られるのは完成したときに感じる得体の知れない達成感のみ……。
しかしこの達成感は、大学合格にも匹敵する達成感なのです。
パズルの魅力を一言で言うならば、この得体の知れない達成感にあると言えます。
人はいろいろなものから達成感を感じます。大抵の場合、達成感とは、目的成就によって得られる副産物。しかし時には達成感があまりにも大きいため、そもそもの目的など、どうでも良くなってしまうこともあるのです。
片思いだったときにはあれだけ好きだったのに、付き合い始めた途端に気持ちがさめてしまうことはありませんか? あれだけ欲しかったものなのに、苦労して手に入れた途端、それほど興味がなくなったものはありませんか? 希望の大学に浪人してやっと入学できたのに、目的を失ってしまう新入生はそこらじゅうにたくさんいるのです。
パズルから得られる達成感はとても純粋。求めるべきものは完成されたパズルではもちろんなく、この達成感のみなのです。もし完成された絵や写真が欲しいのならば、素直にポスターや絵画を買えばよい。
よく、完成したパズルをパネルに入れて飾っている人がいますが、そのような気持ちの悪い自己顕示欲は捨てるべきです。完成したパズルに用などないのです。
パズルはひとりでするべき、孤独な作業です。誰かが既に始めているパズルを途中から手伝うなんて言語道断。全く意味のない行為です。それはひとりで乗り越えるべき試練であり、誰かの手を借りてしまうとせっかくの達成感も台無しです。
断言しましょう。パズルに必要なのは情熱のみ。テクニックでカバーできる範囲はあまりにも限られています。早く完成できれば良いというものではない。いや、むしろ、完成までに時間がかかればかかるほど、費用対効果は大きくさえなるのです。
「この前、友達とパズルをしたの」
高校の頃に付き合っていた恋人は僕にそう言いました。
僕はその頃、無口なことがクールなんだと思っていたふしがあり、彼女もおしゃべりな方ではありませんでした。デートをしても、電話で話しても、ときどき沈黙が訪れ、その度に僕らは少しだけ居心地の悪い思いをしました。
彼女がパズルの話題を持ち出したのは、そんな沈黙の後でした。
「パズル?」と僕は聞き返しました。
「そう。パズル、嫌い?」
僕はパズルは大嫌いでした。イライラするし、時間がもったいない。パズルが好きな人の気が知れない。そのような忍耐力は、尊敬に値するとさえ思っていました。
「あまりしないな。パズル、好きなの?」
「好きかな。パズルすると間が持つのよね。話したいときはいくらでも話せるし、黙っていても不自然じゃないし……。だってパズルをしているわけでしょう」
彼女の意見には不思議な説得力がありましたが、それが僕らの沈黙を解決するための提案なのか、ただの一般論なのか、最後まで僕にはよく判りませんでした。
その彼女とは別れてしまいましたが、彼女のパズル談義はいつまでも僕の心に残りました。
そしてその言葉はまるで呪いのように、大学に入った僕をデパートのパズル売り場へと導きました。
パズルとの出会いは、まさに神の啓示だったのかもしれません。
僕は大学時代からプー太郎時代まで、本当によくパズルをしました。
その頃の僕は、することはなく、時間だけは腐るほどありました。決して比喩ではなく、実際に僕の時間の下の方はちょっと腐っていたのです。お金はなく、人ともあまり会いたくはありません。テレビを観ると虚しくなるし、本を読むと悲しくなりました。まさにパスルをするのにはうってつけの状況でした。
パズルにとりつかれた僕には、もうパズル以外にするべきことはありませんでした。僕はパズルのために存在していたし、デパートに行儀よく並んでいるパズルは、すべて僕に組み立ててもらいたがっていました。
来る日も来る日も僕はパズルをしました。
いくつもの日が沈み、いくつもの朝がパズルとともに明けました。
パズルだけが僕を理解していました。
僕はもう孤独ではなかったし、退屈ではありませんでした。
ただ、パズルが完成した後の激しい気持ちの振るえが収まると、次のパズルを始めるまでの少しの間、僕はどうしようもなくひとりぼっちになりました。
パズルはある種、宗教的な行為です。
BGMはなくても良いが、あれば尚よい。ショパンやベートーベンのピアノ曲などをチョイスしましょう。ついでに森永のチョイス・ビスケットがあれば尚可。
仕事をしている人は金曜日の夜、お風呂に入り、パジャマ姿になってからパズルを開封しましょう。パジャマ姿こそ、パズルをするときの正装なのです。
誰かからの週末の誘いには断る勇気が必要です。
「何か予定があるの?」と相手は聞くでしょう。
「ごめん、実は今、パズルをしているんだ」
その一言で相手はもう、何も言ってはこないでしょう。
友情のひとつくらいは失われるかもしれない。しかしそれでいいのです。
パズルはそれくらい、危険と背中合わせな行為なのです。
電気ポットがあれば完璧です。ときどき紅茶とビスケットでブレークしましょう。
パズルを始めると時間の流れが歪曲します。気がつくと頭は真っ白になっているし、また気がつくと、遠い思い出の中を心が彷徨うことでしょう。パズルのピースがはまった瞬間、人生の意味が見つかるかもしれません。
パズル……。
この文章を読んで、パズルを無性にやりたくなった人が一人でもいるならば、この上ない喜びです。
もしかしてふざけているのか?
いえいえ、ちょっと頭がおかしそうに見えるかもしれませんが、僕は大真面目でこれを書きました。
あぁ、僕はもう限界。
7年ぶりに禁断のドアを開けてしまいそうです。
<2003-3-9>
近所のラーメン屋さんへ行って、ラーメン食べてきました。
そこは替え玉が無料なので、替え玉を頼んだら、予想以上にお腹一杯になってしまった。
日曜の夜は、なんか憂鬱です。
<2003-3-8>
マイケルジャクソンの反論番組を観ました。
前回日本テレビで放映された番組があまりにもすごかったので、今回は比較的冷静に観られました。
残念なのは、日本語訳の声優さんが日テレと違ったこと。
今回のマイケルの声ははっきりし過ぎていて違和感がありました。
やっぱり前回の、あのふわふわした語り口じゃないとなー。
インタビューって難しいですね。
切ったり張ったりするだけで、まったく同じ素材からまったく違う印象の番組を作ることができる。
僕たちがいつも観ているテレビ番組、そういった作為的な編集ばかりなのでしょうね。
僕は今回の反論番組がすべて正しくて、前回のものがすべて間違いだとは決して思いません。
だけど、マイケルを擁護するならば、せっかく1年にも渡って心を開き、協力してきた結果があの番組だとしたら、そりゃ誰だって怒りますよ。
<2003-3-6>
今、村上春樹の「海辺のカフカ」を読んでいます。
ちょうど上巻が読み終わったあたりですが、春樹ファンの人たちにとって、この路線は「あり」なのでしょうか?
確かに面白いけれど、僕の好きだった村上春樹はこれじゃないんですよね。
無意味に残酷で、無意味に女の子が都合よくて、無意味に主人公が悩んでいる。表現が直接的でひどく下品。
初期の作品もそういう無意味さで溢れていたけれど、そこには何故か変な説得力があった。だけど最近の作品は、すべてがプロットに見えてしまう。
村上春樹自身が、自分の初期の作品のパロディをやっちゃっている気がする。そして全然そこに近づけていない。
「ねじまき鳥クロニクル」でも思ったけれど、こういう書き方で世の中が残酷であることを訴えたいのかもしれませんが、読者はそんなことどうでもいいのです。
例えば「1973年のピンボール」にでてくる、荷物をまとめて田舎に帰る女の子が食器一式をくれるくだりとか、「中国行きのスロウボート」で山手線の反対周りに女の子を乗せてしまうくだりの方が、よっぽど訴えてくるものがあると思う。
芸術家の才能が枯渇していく様子を見るのは、辛いものです。
<2003-3-5>
先日の内村プロデュースからの1コマ。
「修学旅行のときに持って行くものといえば?」
「まず、行くという意思」(ドランクドラゴン 塚地)
<2003-3-4>
昨日の夜も今日も風が強いですね。
春一番らしいです。
僕は「季節風」って言葉、好きです。季節風が吹き荒れる国が好き。
モンスーンもハリケーンもサイクロンもウイリーウイリーもヤマセも春一番も好き。ついでにタレントの春一番も嫌いじゃない。
名前のついちゃう気象状況って、風しかないですよね?
いや、「梅雨」とかもあるけど、漢字の中に「雨」が入っているから説明くさい。
それに比べると……、
モンスーン、なんか暖かく湿ってそう。
ハリケーン、チョップとか出しそう。
サイクロン、純粋に強そう。
ウイリーウイリー、荒くれ者っぽい。
ヤマセ、ナマハゲみたいな顔で迫ってきそう。
春一番、雪がとけて川になって流れて行きそう。
なんだか風って、動物扱いのような気がするんです。だから好きなのかもしれない。名前で呼んであげるだけで、そこに意思のようなものの存在を感じる。古き良き時代の、人間と地球との親密な関係が、そこにだけ残されているような気がするのです。
関係ないけど「風」っていう漢字、よく見ると、睨まれているような気がしてきません?
漢字って不思議ですよね。記号として書いているときは何も考えずに書いたり読んだりしているけれど、同じ漢字を何度も何度も書いていると、だんだんとそれが気持ち悪くなってくる。この漢字、あってるっけ?って悩みだす。この字を他の人も同じように読んでくれるのか不安になってくる。変な気恥ずかしささえ感じる。
「風」という漢字を書くたび、僕は何故か、他の文字とは違って、この文字は生きているように感じます。今は呪われて紙の上に、そしてディスプレイの上にへばりついているけれど、へばりつきながらも、こちらをじーっと睨んでいるような、そんな気がしてしまいます。
<2003-3-2>
もう3月なんですね。
3月って、何かが終わりそうな空気と、何かが始まりそうな空気で落ち着きません。
何故かこのままじゃいけない気がする。
無意味に年を重ねている気がする。
関係ないけど、大江千里の「平凡」っていう曲、とても好きです。
<< ひとりごと目次
<2003-2-28>
「3つ数えると目が覚めます」
今日、僕が言いたいことはそういうことです。
3つ数えると何故目が覚めるのか? 果たしてこれは暗示なのか、それとも協力なのか?
催眠誘導の際、「目がだんだん閉じていきますよ」という暗示を与えても、意地を張るようにずっと目を開けている方がいらっしゃいます。「目は全然勝手に閉じてこないし、勝手に閉じてこないのなら催眠に入っていないのだから目を閉じるべきではない」、と考えているのだと思う。
そんな場合は、「じゃあゆっくり目を閉じて下さい」とお願いします。すると、目を閉じてくれます。これは暗示ではなく、協力ですね。
でも、一通り誘導した後、「3つ数えると目が覚めます」という言葉には、100%の人がその通りになります。僕は決して、「3つ数えたら目を開けて下さい」とお願いしているわけではありません。言葉だけを見ると、これは「目がだんだん閉じていきますよ」と同じ、暗示なのです。「あなたの意思とは関係なくそうなってしまいますよ」という意味です。もし目が覚めないならば、そのまま閉じていてもいいわけです。でもそんな風に抵抗される方は一人もいらっしゃいません。目を閉じることには抵抗があっても、目を開けることには抵抗はないようです。
暗示、というのは英語では [suggestion]
と言います。直訳すると、「提案」というようなニュアンスです。催眠状態では、意識が通常とは違う「変性意識状態」になっていますので、覚醒時には抵抗のある「目が閉じていく」というような提案も、無意識が受け入れて目を閉じてしまうのです。
暗示は何も、催眠状態でなければ反応しない、というものではありません。日常生活は暗示であふれていますし、言い方を変えれば、コミュニケーションというのは暗示のかけあいのことなのです。
催眠状態に入れなかった、とおっしゃる方も、3つ数えれば目を覚まします。
相手に受け入れて欲しい暗示を、心が受け入れやすいようにオブラートに包んでしまうことができれば、もう催眠誘導なんて面倒なプロセスは必要がなくなるのかもしれません。
<2003-2-27>
今週、数人の方からほとんど同じ悩みについての相談を受けました。
「恋人(友達)をひどく傷つけてしまい、自分との距離が開いてしまった。催眠で相手の心の中のその記憶を消し、元の関係に戻れないだろうか?」という感じの悩みです。
その相手を僕のところに連れてきてくれて、相手が催眠に入ることを了承し、また、記憶の一部を思い出せなくすることにも了承してくれるなら、催眠でなんとかすることも不可能ではありません。しかし気まずい関係の相手からいきなりそんなことを言われて、了承する人はいないと思います。
催眠というのは魔法ではないので、柱の影から力を送って催眠状態に入れることはできません。中には、瞬間催眠と呼ばれる手法を使って、相手に催眠を意識させずに深く入れてしまう人もいるらしいですが、それは相当な技術だと思いますし、それでも100%の人を催眠状態に入れられるわけではないのです。
そんなつもりがなかったのに大切な人を深く傷つけてしまった、その気持ち、辛さはよく判ります。そうせずにはいられなかった事情もきっとあることでしょう。
相手は未だに傷ついているし、自分も相手ともう一度以前のような関係に戻りたい。そのためだったらどんなことでもする……。
相談された方は多かれ少なかれ、そのように思っていらっしゃいました。そしてみなさん、「時間がない」という焦りを感じていらっしゃいました。
非常に残念ですが、過去を消す消しゴムってないんですよね。こちらにもっともな理由があろうがなかろうが、相手の心は現実的に傷つき、血が流れたのです。でもいずれその血は止まり、カサブタができるでしょう。そして長い時間を経て、そのカサブタがきれいに取れる日が、いつか来るかもしれません。
僕たちにできることって、祈るような気持ちで、それを待つことだけだと思うのです。
「相手の気持ちを少しでも癒したい」と中途半端に近づくことは、せっかく固まりかけていたカサブタを無理にはがしてしまうことにもなりかねません。そんなことをしたら、また血が流れ、いつまでたっても傷は癒えません。
相手が離れて行ってしまった場合、求められているのは完全な沈黙だと思う。どんなに反省しようが、償おうという気になろうが、残念ながら、もう相手に対してできることは何もないんです。その現実を受け入れなくてはいけないと思うし、相手の望むとおりに距離をあけることが、結局は一番の近道なのだと思うのです。
元の関係に戻れるならば何でもする!、と思っているのであれば、最低でも1年間、相手の方をそっとしてあげて下さい。その1年間がもしかしたら、二人の関係に完璧なとどめを刺してしまうかもしれない。でもそれは仕方のないことです。それだけのことをしてしまったのだから。
相手から離れる……、これは最後に一つだけ残された「かけ」なのです。どうしようもなく相手を傷つけてしまったのと同じように、相手もどうしようもなく今は離れたい気持ちなのだから、それに従うしかないと思うのです。
うまくいけば1年後、傷は癒え、二人の関係は新しくはじまるでしょう。
「でも時間がないんです!」
いえいえ、時間はいくらでもありますよ。そのタイムリミットを決めてしまったのは誰なのか、考えてみて下さい。
傷が大きければ大きいほど、カサブタが取れるまで時間が必要です。こちらの事情でその時間を短くすることはできないのです。
この相談にはふたつの側面があります。相手の傷を癒したい、ということと、相手との関係を戻したい、ということです。おそらく前者は理性が抱えている悩み、後者は無意識が抱えている悩みだと思う。でもこのふたつ、実はぴったりくっついているんです。
もし傷つけてしまった相手と関係を戻したくなければ、「相手の傷を癒したい」とは思わないかもしれません。本人にとって問題なのは、相手の傷が癒えるかどうかではなく、ふたりの関係が戻るかどうか、なのだと思うのです。でも相手にとって重要なのは、明らかに関係が戻ることではなく、傷が癒えることなんですね。
このギャップに気がつくことができれば、自ずとどうすればよいのかが解ると思います。もしかしたら、もう自分には何もできることはない、というのが答えだという可能性も十分にあります。
僕たちは毎日の生活でたくさんの間違いを犯します。そして多分、その多くは、自分が意図していなかった間違いだろうし、良かれと思ってしてしまった間違いだと思う。
しかし間違いは間違い。その種から育った実は、自分で刈り取らなくてはいけないのです。現実を受け止めなくてはいけないのです。
間違いを犯さないように注意しながら生きていても、ちゃんとそれはどこかで待ち構えていて、誰かとの関係を切り裂いてしまうでしょう。でも「自分は確かにそのときの最善を尽くした」と思えるのと思えないのでは、やはり気持ちの上では全然違うんですよね。
村上春樹の「ダンスダンスダンス」という小説に、このようなくだりがあります。
ユキという中学生の女の子が出てくるのですが、彼女は母親(カメラマン)のアシスタントであるディックノースという詩人のことが好きではありません。「どうしようもない馬鹿だ」と思っているし、日頃から実際にひどく冷たく接しています。
ある日、ディックノースは車に跳ねられてあっけなく死んでしまいます。ディックノースの死に直面し、ユキは「自分がひどいことをしたような気がする」という言葉を漏らします。それを聞いた主人公の「僕」は、溜息をつき、彼女の顔を見てこんな風に言います。
「そういう考え方は本当に下らないと僕は思う」と僕は言った。「後悔するくらいなら君ははじめからきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平になろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかった。だから君には後悔する資格はない。全然ない」
ユキは目を細めて僕の顔を見た。
「僕の言い方はきつすぎるかもしれない。でも僕は他の人間にはともかく、君にだけはそういう下らない考え方をしてほしくないんだ。ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につかない。君はディック・ノースに対して後悔する。そして後悔していると言う。本当にしているんだろうと思う。でももし僕がディック・ノースだったら、僕は君にそんな風に簡単に後悔なんかしてほしくない。口に出して『酷いことをした』なんて他人に言ってほしくないと思う。それは礼儀の問題であり、節度の問題なんだ。君はそれを学ぶべきだ」
(中略)
「いったい私はどうすればいいのかしら?」と少しあとでユキは言った。
「何もしなくて言い」と僕は言った。「言葉にならないものを大事にすればいいんだ。それが死者に対する礼儀だ。時間が経てばいろんなことがわかるよ。残るべきものは残るし、残らないものは残らない。時間が多くの部分を解決してくれる。時間が解決できないことを君が解決するんだ。僕の言うことは難しすぎる?」
<2003-2-26>
先日放送されたマイケルジャクソンの特番は面白かったです。
「一番好きなのは木登りと水風船合戦」と言い切るマイケル。どこまでがピーターパンマイケルで、どこからがキラーマイケルなのか、上質なインチキを見せられているようで、食い入るような2時間でした。
アメリカでは放映後、マイケルに対する非難の声があがり、それに対してマイケル側は反論番組を放送したそうです。
この番組はマイケルの素顔を暴くことが目的だったと思います。その意図はよく判るのですが、「44歳の大人が子供とベッドに入るというのは傍から見るとおかしなことじゃないか?」といった攻撃的なインタビューは、見ていて気分のいいものではありませんでした。聞くならもっとストレートに「子供と寝るのは性行為が目的なのか?」と問いただせばいいと思う。こういった隠喩的な聞き方は、彼からも見ている側からも反論の余地をすべて奪ってしまうので、ちょっと卑怯じゃないかな。
整形疑惑にしても、誰の目にも整形は明らかなんだから、もう放っておいてあげればいいのに。彼のプライベートを暴くことにどれだけ意味があるのか、インタビュアーの情熱が理解できませんでした。
子供の心をずっと持っているのってとても大切なことだと思います。番組では何度も、44歳の大人がすることではない、奇妙だ、と言っていましたが、もしマイケルが本当に子供の心を維持しているのなら、それはそれですごいことです。
でも画面の中ではしゃぐマイケルは、僕は子供には見えなかった。子供に戻れば幸せになれるんじゃないかって、44歳の大人が必死にそれを試しているだけに見えました。
僕はマイケルジャクソンの音楽なんてほとんど聴いたことないし、好きでもないですが、アーティストに本物とニセモノがいるとしたら、明らかにこの人は本物だと思う。本物のクルクルです。
<2003-2-23>
昔友達が、「オレの夢は、いつかドミノピザを一人で注文して、一人で全部食べることだ」と真顔で言っていました。
そういう夢は、どんどん実行に移して叶えるべきだと思います。
<2003-2-22>
昨日久しぶりに本屋へ行きました。
最近Amazonで本を買うことが多かったので、平積みになった流行の本を見ると、とても新鮮な思いがしました。最近こんな本が売れているんだなぁって。
<2003-2-19>
昨年の秋から読み始めた司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(全10巻)を、昨日やっと読み終わりました。
途中で何度も催眠関連の本に浮気したり、このまま読むのやめようかなと思いましたが、西南戦争がはじまってからは結構いいペースで読み進むことができました。
でも、正直、あまり面白くなかったです。「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」を先に読んでいたので、同じような面白さを期待していたのですが、「司馬先生、どうしちゃったの?」っていうくらい筆に勢いがなく、話は一向に進まず、登場人物も「今後重要な役割になるんだろうな」と匂わせるだけでそのまま消えてしまったりして、読みにくかったです。
「解説」を読むと、「竜馬がゆく」は大衆小説であるのに対し、「翔ぶが如く」は歴史小説であり……、みたいなことが書いてありましたが、その捕らえ方もひどくナンセンス。面白くないことの言い訳にしかきこえません。
さて、次は何を読もうかな。
<2003-2-18>
先日放送されたアリーに、フレンズのチャンドラーが出てきてビックリしました。
しかし今シーズンのアリーは、ストーリーの迷走ぶりがすさまじいですね。大して活躍しないままふたりの新レギュラーは姿を消してしまったし(これは正解だと思います)、何故かレイモンドとクレアがレギュラーになっちゃったし。
ジョンはこの前帰ってきたけれど、毎週出なくなったのも意味が判らない。一番必要なキャラなのに……。ビクターは絵に描いたようないい人でちょっと気持ち悪い。
むしろ、レイモンドを雇うのではなくて、チャンドラーを新レギュラーにした方が面白いんじゃないかな。……って、これからそうなるのかもしれないけど。
なんかアメリカのドラマって無鉄砲すぎますね。ハーシュレルムもダークエンジェルも話の途中で終わってしまったけど、こういうの、日本のドラマじゃ考えられません。Xファイルはがんばっていますが、結局モルダーは途中から出なくなってしまいました。アリーでジョンが出なくなったのも、ストーリー上不可欠だからというよりも、役者と監督の間の問題のような気がします。
それがアメリカの自由?
<2003-2-16>
出川哲郎、嫌いじゃないんですよね。
<2003-2-15>
先日ここに書いた花粉症の話ですが、実際に花粉症の方を誘導する機会がありました。
その結果、見事、鼻は止まり、目の痒さもなくなりました!
……が、その効力も数時間で切れてしまって、完全に解決までは行きませんでした。
暗示が長続きしないのは承知済みですが、その人の被暗示性や催眠の深さによっては、催眠で花粉症の症状を(少なくとも1シーズンくらいは)抑えることもできるのではないかという気になっています。
暗示の仕方を研究してみよっと。
<2003-2-14>
今週末からプロレス・格闘技の興行が続きます。15日は田村のU-STYLE旗揚げ興行、16日は新日本プロレス両国大会、23日は全日本プロレス武道館大会、3月1日は長州力のWJプロレス旗揚げ興行と、ノア武道館大会、3月2日はZERO-ONE両国大会、3月16日はPRIDE25……。
これだけ大きな大会が1ヶ月の間に集中するのも珍しい気がします。ノアと新日は地上波で放送されるのでリアルタイムでは観ませんが、残りの興行はどれもすてがたい。スカパーのPPVで全部観ちゃおうかな。
<2003-2-11>
笑う犬に出ているベッキー、なんか苦手です。
<2003-2-9>
昨年テレビ朝日で放映されていた「ダークエンジェル」。セカンドシーズンの途中で放送が終わってしまってものすごく後味が悪かったので、今日、思い切って残りのエピソードをすべてビデオ屋で借りてきました。
早速いくつか観ましたが、やっぱり面白い。観終わった後、完全に観る前と同じ空間に戻ってこられるところがとても気持ちいいです。僕、映画やドラマって、基本的には大衆娯楽であるべきだと思っているんですよね。なんというか、芸術よりも、完成された商品であるべきだと思うんです。
もちろん、感動したり、考えさせられたりする映画やドラマも好きですが、「ダークエンジェル」のように、ただ観ている時間を楽しめて、テレビのスイッチを切ると再び自分の日常に戻れる作品というのは偉大だと思います。いい意味で、頭に何も残らない。だけど観ることによってストレスが発散できる。
もっと若い頃って、やたら感動できる映画を求めていたけれど、最近はそういうの苦手。何でわざわざお金出して悲しい話を観なくちゃいけないのかって思っちゃう。(^^;;
8本も借りちゃったんだけれど、一週間で全部観られるかな。
<2003-2-8>
久々にプロレスの話でも……。
僕は三沢たちが全日をやめる前は、全日オンリーなプロレスファンでした。たまには新日も観たし、小川対橋本などはものすごく興奮したりもしましたが、それでも、全日の安定感はとても好きでした。
全日から選手が大量離脱してノアができてから、何故かノアは好きになれませんでした。川田と渕に特別思い入れがあったわけでもなく、メンバーは一緒なのだからノアを好きになっても良かったのだけれど、ノアで行われる試合を面白いとは思えませんでした。
理由をいろいろ考えると、例えば全日の外人(特にジョニースミス)がノアに来なかったこと、ワイルド2や小川良成が大嫌いなのにノアでは優遇されていること、などが考えられますが、もしかしたら、ネット上の「ノアオタ」と呼ばれる人たちの言動が気持ち悪いから、ついでにノアも嫌いになってしまった、というのが一番の理由かもしれません。
で、今はゼロチューです。
これほどプロレスに面白さを感じているのは、福澤アナが全日の中継をやっていて、三沢がテリーゴディを倒すか倒さないかくらいの時期以来だと思います。
3月2日は両国大会。噂では、すごいことが起こるらしい……。今から楽しみです!
なんでプロレスの話を書きたかったかというと、今でも惰性で(笑)ノアと新日はビデオにとって早送りで観ていますが、星野総裁の魔界倶楽部、あれ、皆さんのれますか? 僕は無理。新日もいよいよ終わりだなぁって思う。
三銃士で蝶野だけが新日に残りましたが、蝶野じゃダメですね。三人の中で一番華がないし、第一ケンカキックとSTF以外技がないのも痛すぎる。
そうそう、長州のWJプロレス、あれもダメだと思うなぁ。長州とか健介とか越中とか、今更見たくないもの。
ZERO-ONEがつまらなくなったときが、僕がプロレスを卒業するときなのかもしれません。
<2003-2-7>
そろそろ花粉の季節ですね。
僕は花粉症ではないのですが、周りには花粉症の人が結構多いです。
NLPの本を読んでいたところ、「催眠は不随意的な体の反応には有効」みたいなことが書いてありました。……ってことは、花粉症も催眠暗示で抑えることができるのかな?
花粉症の方、どなたか試してみませんか? (^^)
<2003-2-2>
「特命リサーチ」、みなさんご覧になりましたか?
ほぼ、僕が本で読んだのと同じ内容だったのですが、このような怪しげな番組構成だと、いよいよ催眠が誤解されてしまうのではないかなぁと、見ていてドキドキしてしまいました。なんか、身内の恥をさらされた気分というか。(^^;;
このケースは番組でも言っていた通り、本当に特殊なケースだと思います。この事件をして、催眠で犯罪が犯せる、というのは早計に過ぎます。7年も催眠で暗示を与え続けられると、催眠というよりは、洗脳に近いものがあったのではないかと思います。
何を持って暗示と呼ぶのかは、難しい問題ですね。何も番組でやっていたような、目を閉じた深い催眠下での暗示だけが暗示ではありません。コマーシャルだってある意味暗示ですし、ヒットラーの演説だって催眠的な要素が盛りだくさんです。人によっては、コミュニケーションというのは暗示の掛け合いのことだ、とまで言う人もいます。
人は生きていく中で、いろいろな物事に影響されます。「人生を変えたひとこと」なんて、そのまま暗示なんですよね。口の上手い人に騙された、というような場合もそうですし、犯罪を犯した人が、「何故あんなことをしてしまったのか判らない」などと言うのもそうです。催眠という言葉は出てこなくても、すべては催眠下で行われたのと本質的には変わりないのではないか、と思います。人間って、想像以上に暗示にかかりやすい生き物なんですよ。
この番組をみて、催眠を誤解して捕らえてしまう人はきっと多いでしょう。「催眠とは人を操る技術」というような印象を見ていた人は受けたと思います。
だけど決してそうじゃない。催眠なんてただの道具です。しかも、直接心を引っ張る車のような道具ではなく、行き先を示すカーナビのような道具なのだと思います。
犯罪にカーナビが使われたところで、「カーナビで犯罪を犯すことは可能か」を議論するのはナンセンスなのと同じように、「催眠で犯罪を犯すことは可能か」を議論するのはひどくナンセンスな気がします。
この事件のように、催眠が犯罪に利用されることはあり得るでしょう。でもそれは、睡眠薬が犯罪に利用されることがあり得るのと全く同じなのだと思います。
<< ひとりごと目次
<2003-1-31>
今度の日曜日、日本テレビ系列で放送されている「特命リサーチ200X
II」で、「催眠暗示による戦慄の凶悪事件を調査せよ!」というリサーチが放映されるようです。これは、有名な「ハイデルベルヒ事件」を題材にしたものと思われます。ハイデルベルヒ事件につきましては、「催眠術入門」(藤本正雄著)に詳しく書かれていて、僕も読んだことがあります。
結局、催眠で犯罪は犯せるか、催眠で犯罪を犯させることはできるか、というのがテーマなんだと思いますし、この話を読んだり、この番組を見たら、「あぁ、やっぱり催眠って怖そう……」ってことになると思う。
まぁ、番組の感想は番組を見てから書きますが、僕は今までの経験から、催眠によって犯罪を犯したり犯させたりするのは、よっぽどの条件が重ならないと難しいのではないか、と考えています。だって、催眠を使わなくたって、犯罪は起きてるでしょ? ってことは、どこからどこまでが催眠の力で、どこからがその人の心の問題なのか、そういうのって誰にも解らないと思うんですよね。誰かの一言がその人を犯罪に向かわせた、なんて場合、その一言は暗示って呼べなくもないですし。
それに、催眠でこんなことができるなら、こういう犯罪ってもっと起こってもよさそうですよね。催眠なんてちょっと勉強すれば誰にでもできるんだから。
ただでさえ胡散臭いって思われている催眠。なんかこの番組を見て、余計にそういう偏見が広まったら嫌だなぁと思っています。
昨日は会社の後、ある方の催眠誘導へ行って来ました。また、ネプチューンの番組の影響か、メールが殺到(ってほどでもないけど)しています。よって、いただいた施術依頼、メールへの返信が滞っております。がんばって返事書きますので、今しばらくお待ちくださいね。
<2003-1-30>
昨日の午後8時45分頃、いつものようにパソコンを立ち上げて、このページのアクセス状況をチェックしました。いつもは一日100件くらいのアクセス数なのですが、アクセス数が300件を超えており、時間別で見ると、午後7時はたったの3件なのに、午後8時は200件を超えていました。
「もしかして誰かがうちのページに攻撃してるの?」と不安になりながらテレビをつけると、ネプチューンの出ている番組で催眠をやっていました。「それでアクセス増えているのね」
それにしてもテレビの効果ってすごいですね。昨日一日で、通常の1週間分のアクセスがありました。僕は残念ながらその番組、本当に最後の方しか見られなかったのですが、もしよかったらどなたか、どんなネタをやっていたか、メールで教えてください。
テレビ効果で、只今問い合わせも増えています。いつもはすぐにお返事を書くのですが、ちょっと間に合わない状態です。必ずお返事書きますので、もうしばらく待っていてくださいね。
それから、いろいろ質問を受けるのですが、ほとんどがすでにこのホームページに書いてあることなんです。できれば、メールをいただく前に、ざっとでよいのでこのホームページを読んでいただけると嬉しいです。
あと、「メールで催眠術のかけ方を教えてください」という問い合わせも多いのですが、簡単なかけ方は「体験してみましょう」にあるとおりです。あのまま誰かに誘導すれば、自分でやるよりもずっと良い結果がでると思います。
また、それ以上の誘導方法を知りたい方は、ネットで検索するとそういったサイトはたくさんありますので、探してみてください。
<2003-1-28>
「翔ぶが如く」ですが、まだ読み終わっていません。(^^;;
このホームページをはじめてから催眠関連の本ばかり読んでいたのもそうですし、話が一向に進まず、読みにくいというのも理由です。けど、7巻あたりからにわかに面白くなってきました。
僕はこういう、途中から面白くなるタイプの小説って好きじゃないんですよね。だったら面白いところから書き始めろよって思う。まぁこれは時代小説なので、ある程度つまらない部分も必要なのかもしれないけれど、純文学作品とかだと許せないかも。ジョンアーヴィングも同じようなことを言っていて、全くその通りだと思いました。
現在、8巻の途中なのですが、いよいよ西郷率いる薩摩軍と政府軍の戦争がはじまります。多分残りの3巻は、あっという間に読んでしまうと思う。
「海辺のカフカ」もハリーポッター最新作もまだ読んでないんですよねー。
<2003-1-25>
昨日読んでびっくりしたニュース。
飼い主が交通事故にあったために、その人が飼っていた60匹の犬が安楽死させられていたそうです。
この飼い主は100匹の犬を飼っていて、10匹は引き取り手がみつかったそうですが、残りの30匹も順次安楽死させられる予定だそうです。
安楽死の是非はともかく、飼い主は100匹もの犬をどうやって世話していたのでしょうか。この飼い主は4年前から犬を飼いはじめたそうで、近隣住民の苦情に耳も貸さず、市役所も飼い方までは指導できなかったとのこと。
100匹の犬に囲まれて生活するのって、どんな気持ちだったのかなぁ。
<2003-1-21>
温泉は好きですか?
日常を離れて温泉へ行くと、心も体もリラックスできて、疲れも癒されますよね。また温泉によってはいろいろな効能があり、病を癒す効果も確認されています。
でも、一度温泉へ行ったからって、もう一生疲れないようになるか、一生リラックスしていられるかといったら、そんなことはありませんね。また、一度温泉へ行ったからといって、病がパタッと治ってしまうことも多くはないでしょう。温泉療法をしている病院があるように、ある程度その場所に滞在し、何回も温泉に入る必要があるかもしれません。
温泉へ行ってもまた疲れてしまったり、一度で病が治らないのならば、温泉へ行く意味ってないのでしょうか?
心と体をのんびりさせるだけで、日頃のストレスから解放され、明日からの生活がまたいきいきしてくるのであれば、温泉には意味があるでしょう。また、他の療法ではまったく効果が得られない病であれば、例え回数がかかっても、温泉療法には意味があるでしょう。
実は催眠も、温泉とまったく同じなのです。
施術を依頼される方とお話をすると、よく、「でも暗示の効果は長続きしないんですよね?」と質問されます。僕もこのホームページでそのように書いていますし、多くの催眠関連の本にもそのように書かれています。
実際に暗示の効果がどれくらい長続きするかについては、個人差や、暗示の内容、心の状態によって全然違いますので、一概に○○日くらい、と言うことはできません。それこそ、施術が終わって僕と別れてすぐに効果が無くなってしまうものもあれば、それを境に何年にも渡って効果を表す暗示もあります。
先生の言葉に勉強をする気が掻き立てられて、その日は熱心に勉強できたけれど、次の日にはその熱が冷めてしまったことは誰にでも経験があると思います。逆に、誰かの些細な一言がスーッと心に入ってしまい、それ以来価値観が変ってしまったこともあるかもしれません。
催眠中の暗示もそれと同じなんです。長続きするものもあれば、しないものもあります。
それでは催眠施術を受ける意味はないのでしょうか?
人は生まれてからずっと、多くのストレスを受け、思いを抑圧し、心をすり減らしながら生きています。もしかしたら僕たちの心は、もうボロボロの状態なのかもしれません。
催眠には、そのボロボロになってしまった心を、もう一度まっさらの新品のようにきれいにする力があります。こびりついてしまったストレスを落とし、まるで今まで背負わされてきた鉛の鎧を脱ぎ去ったみたいに、心も体もスッキリすることができます。
もしかしたら、一度で新品のようにはならないかもしれません。もしかしたら、新品になったところで、明日からの生活は再び僕たちの心を、ボロボロにしていくのかもしれません。
それでも僕は、催眠が無意味だとは思いません。
疲れていたり、ストレスを抱えている心を、少しでも楽にすることができるなら、明日からの生活も確実に変わって行きます。
深い催眠を経験されたことのある方は解ると思いますが、催眠では何でもすることができます。本当に何でも、です。そして同時に、催眠では何もすることができません。
この一見、矛盾して見えるものこそ、催眠なのです。
まだ催眠を経験されたことのない方は、これを読んでちょっとがっかりされたかもしれませんね。でもね、ご自分で経験されると、僕の言っている意味がよく解ると思います。初めは驚くと思いますよ。自分の名前を忘れてしまったり、笑いが止まらなくなったり、悲しくもないのに泣けてきたり、手が固まったり、勝手に体が動いたり……。あり得ないことが次々に自分の身に起こります。
でもそれが当たり前のことなんだと気がついたとき、催眠への考え方が変ってくると思うのです。
<2003-1-18>
心の中にぽっかり穴があいてしまうことがあります。
恋人と別れたとき、ペットが死んでしまったとき、仲の良かった友達が遠くへ行ってしまったとき……。
いつも過ごしていた当たり前の時間が突然なくなってしまうと、とても不安になります。自分だけ世界から取り残されてしまった気になります。何もする気が起きないし、そのくせ時間が流れていくことに焦りを感じることもあります。
そんな状況からどうやったら抜け出すことができるのか。
人間って、心の中にコップがあると思うんです。小さな辛いこと、怒り、寂しさは、そのコップに捨てることによって乗り越えることができます。しかし、大きな出来事にぶつかると、そのコップが溢れてしまう。そうすると心に穴があいたような気分になるのだと思う。
そのコップにたまった水って、黙っていても無くなりません。また一度コップがあふれてその水の存在に気がつくと、その水が無くならない限り、心の穴はふさがらないんです。無理にプラス思考になったり、楽しいことをしてみても、気はまぎれるかもしれませんが、それは逃避に過ぎません。
辛いけど、その水を飲み干す、味わいつくすのが一番の近道だと思うんです。
ウジウジした気持ちになってしまったら、とことんウジウジしてみる。泣きたくなったら涙が枯れるまで泣いてみる。怒っているなら車の中でとことん悪口を言ってみる。
安易な癒しや慰めに頼るのではなく、無意識の叫び声に耳を傾けてあげて下さい。ちゃんと受け止めることができれば、無意識はもう叫ぶ必要がなくなるかもしれません。
<2003-1-14>
僕は根っからの理系人間でして、経済とかまるっきり解っていないのです。
よって、無知をさらけ出す覚悟で以前から疑問に思っていたことを書きます。
「お金」って不思議ですよね。国の借金は600兆円を超えています。国民一人当たり、単純計算で600万円も「国が」「勝手に」私たちに借金を背負わせているのです。でも、「うー、俺は600万円も借金をしている。。。」なんて感じて生きている人いませんよね。
まぁ、それはいいのですが(あまりよくはないけど)、僕が疑問なのは、お金がないならどうして作らないのか、ということなんです。
僕が生まれた時代と今とでは、サラリーマンの給料も物価も全然違います。むしろ安くなったものももちろんありますが、電車の初乗り運賃も、缶ジュースの値段も、新聞の値段も、どれも高くなっています。給料もしかりです。最近は少子化が進んでいますが、それでも人口は微増を続けています。
つまり、市場に流通していなくてはいけない貨幣の量は確実に増えているはずなんです。
でも、国の歳入の内訳をみても、「貨幣増刷」なんて項目はありません。きっと、一般人には理解できない方法で流通貨幣は順次増やされているのだと思うのですが、もしそれができるなら、それを国の歳入にしちゃえばいいのに。
もちろん、いきなり600兆円も増刷したらものすごいインフレになってしまいそうなので無理でしょうが、どのみち歳入の3分の1は借金なのだから、その分位は貨幣増刷で逃げ切ってもよいのではないでしょうか。
いま日本はデフレですね。消費者にとっては嬉しいですが、100円ショップへ行くたびに、これで利益が出ている構造に頭を抱えます。あまり健全な状態とは思えません。仮に貨幣増刷によってインフレになったとしても、極端なインフレでない限りそれは仕方のないことなのではないかと思う。だって、借金しないと日本はやっていけないわけだし、結局借金で公共サービス受けているのは僕たち自身なわけですから。
経済に詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひその辺の事情を教えて下さい。
<2003-1-11>
「I am Sam」を観ました。
僕は本当に涙もろく、「トイストーリー」でも泣けて仕方がなかったので(「どこで?」ってよく言われます)、この作品も気合を入れて観ました。
でも結局、号泣はしなくてすみました。すごくいい映画で、何度もうるうる来たけれど、僕のツボとは違いましたね。
なんだかこの話は、感動というよりも、親子を引き離そうとする人たちに対して憤りを感じてしまい、それが泣きたい感情を追い越してしまったんだと思います。感動する話と、ただのひどい話って違うと思うんですよね。いや、この映画は決してただのひどい話ではなかったけれど。
僕の泣くツボって、子供の無邪気な優しさとか、そういうのなんだと思う。もっとルーシーの視点中心に描かれていたら号泣だったかもしれません。
やっぱりハッピーエンドじゃなくちゃ。これだけ辛かったんだから、最後はもっともっと幸せを描いてくれないとね。
浜田省吾も、「俺が観たいのは、その後のストーリー」って歌ってますが、ほんと、この続きこそ見せなさい、って感じです。
あ、でも、やっぱりいい映画でしたよ。
<2003-1-9>
確か村上春樹の小説だったと思うのですが、
「幸せになるなんて簡単よ。毎日幸せなふりをすればいいの。そうすると、周りの人は『あの子は幸せなんだなぁ』って思うようになって、だんだん本当に自分は幸せなんじゃないかって気になるの」
って女の子が言うくだりがあるんです。(正確な引用ではありませんが、だいたいこんな意味でした。)
僕はこれを読んだとき、なるほどそうかもしれない、と変に納得しました。……が、同時に、幸せなふりなんてしたくないよな、とも思いました。それができないから苦しいんだよ、って。
いま僕は、幸せになれるなら幸せなふりをしてもいいと本気で思います。でも残念なことに、「幸せなふり」って何なのかよく判らない。どうすれば、周りの人は僕のことを「幸せそうだな」って思うのだろう?
「みてみて!
私、幸せなのよ!」的なオーラを振りまいている人はたくさんいます。楽しい予定がびっしり詰まっていて、周りには絶えずとりまきみたいなのがいて、美人で(すみません、女の子を想像しています)、好奇心いっぱいで……。でも、これは偏見かもしれませんが、僕はそういう幸せを演出しているような人はどうしても嘘に見えてしまうんです(嫌な性格ですね)。もっと肩の力抜いて生きればいいのにって(大きなお世話ですよね)。
どういう人を見たら、僕は「あぁ、この人は幸せなんだなぁ」って思うのかな。
いま思いついたのですが、ちょうど今頃の季節、家族が寝静まった台所で、ぺヤングソース焼きそばの湯切りをして、シンクが「ボコッ」って鳴ったのを、赤い半纏を着ながら見つめている、夢多き中学3年生の女の子(元女子バレー部、副主将)を見たら、「この子は幸せなんだろうな」って思うかもしれない。
多分、一生そんなシーンに出くわすことはないと思うけれど……。
<2003-1-8>
ドラマとか映画とかで、「友情出演」ってありますね。
最近なんだかこの言葉が乱発されている気がします。
そもそも、「友情出演」って何? ものすごい大御所俳優ならまだしも、ただのタレントが「友情出演」扱いになっていたりするのを見ると、まったく意味が解りません。
もしかしてギャラ貰ってないの?、とか、はじめは役に決まってなかったのに、友達だからと無理に出演依頼されて皮肉で書いているのか?、とか考えてしまいます。
<2003-1-7>
「形容矛盾」って言葉、大好きです。
形容矛盾について何か書こうと思ってネットを検索したら、面白い形容矛盾続出だったので、今日は手抜きですが、それらを並べてみます。
「明るい数学青年」、「正しい戦争」、「国際派のナショナリスト」、「攻撃的ゴールキーパー」、「特別例会」、「非人道兵器」、「ピンクの白衣」、「フィクションのリアリティを検証する」、「安心してみていられるサスペンス映画」、「ショートフィルムの長いやつ」、「無断引用」、「コスモポリタンな民族」、「有名な秘密兵器」、「強制的ボランティア活動」、「惜しくも惨敗」、「自然な演技」、「新しい本だけを扱う古本屋」、「ちょびっとだけ本格的」、「タイトでルーズな演奏」、「大きくマイナー・チェンジ」、「雇われている事業主」、「招待作品も審査の対象」、「熱気を孕んだクールなサウンド」、「なんとなく白熱」、「液化天然ガス」、「生ジャム」、「役にたつ教養」
笑ってしまったのが、「ショートフィルムの長いやつ」とか「招待作品も審査の対象」とかですね。
<2003-1-5>
新日東京ドーム大会をテレビで観ました。
2時間特番だったのですが、試合はともかく、番組構成は最悪でした。2時間も枠があるのに、2試合しか流さず、あとは延々と過去の名場面集。新日ももう終わりなのかなぁ。
試合内容も決して褒められたものではありません。ジョシュバーネット、高坂剛という、格闘技の選手をあげながらも、きっちり二人を負けさせるあたり、新日本のわがまま爆発でした。このふたり、何で新日にあがったんだろう? 素直にPRIDEに行けばいいのに。
今日は ZERO-ONE USA
がありましたが、さすがZERO-ONE。新日の鬱憤を一遍に吹き飛ばしてくれました。中でもロウキー対AJスタイルズの試合のレベルはめちゃくちゃ高く、永田にも見習って欲しいものです。
<2003-1-4>
年末も格闘技の大会が多かったですが、年始もいくつか興行があります。
今日は新日本プロレスの東京ドーム大会。明日、あさっては、ZERO-ONE USA が後楽園ホールであります。両方ともテレビで観戦する予定。
新日は特に楽しみなカードがあるわけではないけれど、惰性で(?)観てしまいますね。やはり1月のドーム大会と言えば、橋本対小川の頃が一番面白かった。橋本が解雇されてから、新日は急激につまらなくなったように思う。
その反対で、ZERO-ONE はとても楽しみです。特に橋本が好きなわけではないのですが、ZERO-ONE は現在のプロレス団体の中では、ずば抜けて面白いです。
僕が好きな選手は、アメリカ人だとトムハワード。元グリーンベレーという、嘘か本当か判らない経歴の持ち主。得意技(持ち芸?)が、ほふく前進と、相手に当たらないで場外へ飛んでいってしまうフライングニールキック。ZERO-ONE
というと、どうしてもプレデターが注目されていますが、ハワード軍曹は近年まれにみる超優良外人だと思います。
日本人だと、元リングスの横井が好きです。プロレスもやりつつ、リアルファイトできっちり成績を残しているあたり、アレクも高田も桜庭も高山も、誰もできなかったことをやっていると思います。
<2003-1-3>
「世界が平和でありますように」っていう看板をときどき街で見かけますが、これ、まったく意味のない看板ですね。何かの役に立っているわけでもないし、この看板を見て、明日から生活が変る人がいるとも思えない。第一、世界が平和であることを望んでいない人なんているのだろうか?
このような言葉を、「エンプティーワード」と言います。良いこと言っていそうだけれど、良く考えるとまったく中身のない言葉。
選挙の演説とかはほとんどこれですね。「明るい社会作りを目指します!」とかね。何も意味していないし、何も約束していません。
話が長い人って、いますよね。そのくせこちらに話すすきを与えない人。そういう人の話をよく聞くと、かなりの部分がエンプティーワードで構成されていることに気がつくと思います。話に内容がありそうでないため、口を挟むことができないのです。反論するにも材料さえない。すぐに話が脱線する。そのまま本題に戻らない。いつまでも結論がないまま話は延々と進んでいきます。
このような人と話す場合、「エンプティーワード」という概念を持っていると、話しの聞き方が変ってきます。相手の話しているセンテンスに対し、「これはエンプティワード」、「これはエンプティーワードではない」とラベル付けしてみてください。それだけで、相手が本当に言いたいことは何か、比較的楽に理解できると思います。(ただ、会話がはじめから終わりまで、広義な意味でのエンプティワードであることも少なくありません)
議論になった場合、エンプティーワードを巧みに使えるかどうかで勝敗が決まってしまうことも多いです。エンプティーワードを多用されると、なかなか反論できず、頭の中でエンプティーワードを追っかけているうちに、議論の争点がわからなくなってしまうのです。
相手の頭を混乱させ、考えようとする力そのものを衰弱させてしまう方法を、催眠では「混乱法」と呼びますが、それとまったく同じなのです。
<2003-1-2>
「ビートたけしの世界はこうしてダマされた!? 超常現象マル秘ファイル」は例年通り、楽しませてくれました。
今回は、アポロ疑惑が取り上げられていました。「アポロは本当は月には行かなかったのではないか?」という疑惑が根強くあるそうですが、この番組では、「間違いなく行った!」という、らしくない結論を出していました。その証拠に、月にはレーダー反射鏡が設置してあり、つい最近まで日本もその反射鏡を利用して月の正確な位置を測定していたそうです。
しかし! ここで終わらないのがこの番組。月には行ったけれど、そこにはエイリアンの基地がすでにあり、とてもすべてをそのまま発表するわけにはいかず、その結果、まるで捏造したかのような写真を世間に公表するしかなかった、というのです。
さらに、エイリアンを尋問しているという、驚愕のビデオも放映されました。……が、「再現VTRの方がよくできている」(大竹まこと談)ほどのできの悪さ。ハムスターのような目をしている宇宙人、ちょっと間抜けです。
サイババの物質化を、超能力バスターのランディ氏が「下手な手品」とばっさり切っていたのも面白かったです。確かに聖なる灰、ビブーティが手から出るくらいまではいいけど、自分の絵が入ったメダルの物質化はやりすぎ。そのメダルを業者に発注しているであろうサイババ、悲しすぎです。
昔はこの手の番組が好きで、それなりに楽しめたのですが、催眠を知ってから、大抵のことでは驚かなくなってしまいました。全部と言っては大げさですが、結構催眠でそのまま説明ついてしまうことが多いように思う。何もこんなことしなくてもいくらでも催眠で見えないもの見れるのにって。
<2003-1-1>
あけましておめでとうございます。
昨日は猪木祭りを観た後、テレバイダー年越しスペシャルを観ました。
猪木祭りは正直、つまらなかったです。煽り映像ばかりの番組構成にがっかり。たくさん試合があったのだから、純粋にもっと試合を観たかった。特に、アビディ対ジャクソンの試合は楽しみにしていたので、放映されず残念でした。やっぱり総合の試合は難しいですね。秒殺もつまらないし、かといって判定もつまらない。一度寝てしまうと膠着してしまって先に進まない。お互いなかなか手を出さなくて時間だけが過ぎる。。。今はリアルファイト全盛ですが、プロレスが復権する日も近いかもしれないと、猪木祭りを観ながら思いました。
テレバイダー年越しスペシャルは、スペシャルだけどいつもと変らず、安心して観られました。とーっても面白かったです。昨日で最終回とはもったいない。もっともっと観たい番組です。久しぶりに「似て非なるもの」のコーナーが復活したのは嬉しかったです。
山田玲奈は出てきたのに、高橋リナが出なかったのは何故なんだ?
猪木祭りの裏でやっていた「ビートたけしの世界はこうしてダマされた!? 超常現象マル秘ファイル」はビデオにとって今日見ましたが、その話はまた明日。。。
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