椎名林檎に見る天才型の没落

「めざましテレビ」に椎名林檎が出ていました。

「男の性の対象になるのが嫌で、デビュー当時はスカートも履きたくなかった」と語っていましたが、この人ミュージシャンになる前にアイドルのオーディション受けて、審査で水着まで着ていたのに、それはないんじゃないかなぁと思ってしまった。

以下、僕の勝手な思い込みですので、みなさんと意見が合わないこともあると思いますが……。

アーティストには大きく分けて、天才型と凡才型がいると思います。

椎名林檎は間違いなく、天才型だと思うけれど、それは「型」であって、決して本物の天才ではない。

インタビューの言葉を聞いて、普通の女の子が一生懸命、どうやったら受けるかを考えながら試行錯誤しているんだなぁって思いました。

彼女がすごかったのって、「無罪モラトリアム」と「勝訴ストリップ」だけだと思う。この2枚はホンモノ、完成度はすごく高いし、こういったアルバムはそうそうあるわけじゃない。

でも勢いはそこで完全に止まってしまった。きっと、自分で自分を超えられないのを意識してしまってから駄目になってしまったのでしょう。

天才型のアーティストって、そういう人たちが多いように思う。

例えば尾崎豊。やはりみんな、「十七歳の地図」「回帰線」「壊れた扉から」までが強烈に好きだったのではないかな。その後の「街路樹」も「誕生」も、遺作となった「放熱への証」も、決して悪くはなかったけれど、はじめの3枚に比べると足元にも及ばない。

小沢健二もそう。結局、小沢健二は「LIFE」なんだと思うのです。

これら天才型のアーティストは、簡単に燃え尽きてしまう。言葉は悪いですが、今までの人生でコツコツと溜めてきた才能を、デビューと同時に無駄に撒き散らしてそれでおしまい。はじめは本人も周りも、彼/彼女の中には無尽蔵に才能のかけらが詰まっていると信じていますが、結局無尽蔵ではない。作品をつくり上げるのではなく、自分の中に溜まったものを切り売りしているだけなので続かないのです。

中身が空っぽになった後も、ファンに期待されているイメージに応えようと無理をするのだけれど、もうニセモノしか出てこない。

一方、凡才型のアーティストというのは、才能の切り売りをするのではなく、非常にシステマティックに作品をつくり上げていく。天才型のアーティストのように、周囲に過度の期待を持たれることもないけれど、ちゃんとヒット作も生まれるし、ファンの望む物をコンスタントに世に送り出すことも出来る。職業的アーティスト、と呼んでもいいと思います。

浜田省吾とか佐野元春とか大江千里とかはこの範疇じゃないかな。(小沢健二は、フリッパーズギター時代、および「犬は吠えるがキャラバンは進む」までは凡才型だったと思う)

中には、非常に数は少ないですが、本物の天才もいると思います。まるで永久機関のように、天才的な作品をつくり続けることができるアーティスト。ジョンレノン(およびビートルズの面々)なんかは間違いなく天才でしょう。

音楽ではないですが、村上春樹は天才型ですが、決して天才ではない。(本人が読んだらすごく怒りそうだけれど)

天才なんてそうそういるもんじゃありませんし、ホンモノなんて、星が燃え尽きるみたいに天才型のアーティストの才能と引き換えにしかお目にかかれない。

でもね、矛盾して聴こえるかもしれませんが、最近の音楽がつまらないのは、決して天才がいないからでも天才型のアーティストが少ないからでもないです。一番の問題は、質の良い職業的アーティストが激減しているからじゃないかな。

天才型ばかり崇拝される傾向があり、継続的に良い作品をつくり続けることのできるプロが育っていないのではないかと。

それがホンモノかどうかは別として、ちょっと才能があれば、天才型的な手法でそこそこの作品を世に出すことは可能なのかもしれません。だからスピードの速い現代社会では、誰も時間をかけてアーティストを育てようとしない。話題先行でバーっと売れて、スーッといなくなってしまう。昔からそういう人たちはいましたが、最近、特にその傾向にあるように思う。

話は戻りますが、椎名林檎のようにイメージが確立しているアーティストは、インタビューなんかに答えてはいけませんね。幻想は情報が少なければ少ないほど、守られ、膨らむもの。

素顔を見たいファンもいるでしょうが、それで底が見えてしまうのは非常に残念。

アーティストは、作品で語ればそれでいいと思うのです。

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