今、まとまった原稿を書いているのですが、文章を長時間書いていると、日本語自体がゲシュタルト崩壊して、「果たしてこれで相手は理解できるのか?」に全然自信が持てなくなります。
日本語の規則がすごく気になって、内容よりも、文章として破綻していないかどうか、そんなことばかり考えています。
「が」を使うべきか、「を」を使うべきかで悩み、「お話しました」なのか、「お話ししました」なのかで悩みます。
それは名詞として扱うのか、動詞の連用形として扱うのか、他の言葉に言い換えて、ようやく「これでいいのかな」と思います。
私は理系出身ですので、国語は専門ではないという意識があるし、反対に文系というのは、規則よりもフィーリングみたいなイメージが強かったのですが(文系の皆様、完全な偏見です。ごめんなさい)、こうやって日本語に悩んでいると、文法というのは、自然法則とまではいかないまでも、かなり理系なのではないかと思うのです。
法則性を瞬時に応用できる理系的な頭がないと、正しい日本語なんて話せないのではないかと思う。いや、そうじゃないかな。文系というのは、とても理系的な学問なのかもしれません。いやいや、そうでもないな、うーんと、理系も文系もなくて、学問というのは、すべて法則性や普遍性を追求するものなのだと思いました。あれ、当たり前か……。
上手く言えないのですが、日本語を上手く操るためには、数学的思考が不可欠なのではないかということです。
さらに、最近のワードは、文章を勝手にチェックしてくれて、「○○の方が効率がいい」という文章を書くと、「が」のところに印がついて、「助詞の連続」と怒られます。
「違和感を感じます」などと書くと、「重ね言葉」と怒られます。
なおさなくても相手も理解してくれるだろうし、もしかしたら文法的に問題があることに気づかない人の方が多いかもしれませんが、色つきで指摘されると、「まぁいいや」とはいかず、なおしたくなります。
「友達のノートパソコンの画面の隅のアイコンの色が」などという文章を書くと、「の」の連続でおかしいのですが、いざ、なおすとなると、結構悩みます。「の」の使用を最低限にして書き換えるとすると、どうすればいいのだろう?
(うう、変な例文書いちゃった。どうすればいいのかな。悩む時間がもったいないので、これはスルーします)
「の」は何連続まで許されるのか、などと考えていると、もう、2連続でもおかしい気持ちがしてしまって、完全に手が止まってしまいます。かといって、「の」を避けようとすると、逆に回りくどい文章になってしまうし。
ワードが日本語を校正してくれるのは、正しい日本語について考えるきっかけになるので、良いことだと思います。仕事でワードを使っている人は、嫌でも自分の日本語の間違いに気づかされますから、時代が進めば、ゆっくりと、日本人の使う日本語が矯正されて、正しくなっていくように思います。
しかし、その反面、外資系企業のマイクロソフトに、日本語を委ねていいのかという疑問もあります。おそらく、マイクロソフトの中には、日本語を専門に勉強してきた超エリートたちがいて、その人がアルゴリズムを組んでいるのでしょうから、彼らがワードを通して私たちに作らせる日本語が間違っているとは思いません。
それでも、一部の人たちの理解している「日本語」が、標準になってしまうのは、怖いことのように思う。
また、言葉は時代とともに変化していくものですから、このように矯正されると、新しい表現は生まれてこなくなるのかもしれませんし、不必要なひっかかりを毎日感じることになるのかもしれません。
以前は「違和感を感じる」と言われても何とも思わなかったのですが、最近、ワードのせい(?)で、「違和感を感じる」という人に、ものすごく違和感を覚えます。(^^;;
ミニストップのせいで「食べれる」は市民権を得た気もしますが、それでも、「ら抜き言葉」や「い抜き言葉」が気になります。
子供のころ、言葉をしゃべれる(あれ? ら抜き言葉? いや、あっているみたいです)ことには何の疑問も感じませんでした。自分の感じていることを言葉で表現できないなんて、あり得ないと思っていましたし、実際に上手く表現できなくて悩んだという記憶はありません。
そして英語を勉強すると、外国語を習得するのは難しいと感じました。思ったことを、いつも上手く表現できなくて、あっているのかも自信がありませんでした。
年をとるごとに、日本語が、まるで英語のように感じられるようになりました。いつもではありませんが、ときどき、上手く表現できないし、あっているのかも自信がありません。
あー、逃げてないで、原稿書かなくちゃ!
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