「意味」という単語の持つ理不尽な強制力は、もしかしたら数ある単語の中で一番なのではないでしょうか?
例えば、「いろんな意味で○○だ」という言い方があります。
いろんな意味で頭にきた。
いろんな意味で嬉しかった。
いろんな意味で美味しかった。
いろんな意味であいつは頭がいい。
いろんな意味であいつは傲慢だ。
○○に何が入っても、聞く方は、解ったふりをするしかありません。
この言い回しの、優れていて、そして理不尽な点は、この構文に当てはめるだけで、誰でも簡単に、謎かけ的な、あいつできるな的な空気を醸し出せる点にあります。
しかもその答は、聞く側が作り出さねばならず、大抵の場合において、言った本人は、「わかるよな。皆まできくなよ」という威圧的な態度ですから、容易に「いろんな意味ってどういう意味?」などとは聞けません。そんな質問をするのは、ひどく野暮な感じがするのです。
ですから、したくはなくても、「いろんな意味って、どういう意味と、どういう意味のことなんだろう?」と考えることになります。そしてかろうじて出てきた答が、本当に相手が言っている意味と同じかどうか、不安に感じながらも、解ったふりをして話を聞きつづけるしかないのです。
皆さんは今日、どんな日でしたか?
今、浮かんだ「今日は○○な日だった」を、「今日はいろんな意味で○○な日だった」に変えてみてください。
たったそれだけで、聞き流すわけにはいかず、強制的にもうひとつの意味を考えてしまいませんか?
似たような言い回しに、「いい意味で○○だ」というのがあります。
この言葉の強制力(むしろ矯正力?)もすさまじく、○○にどんな悪口が入っても、聞く側にその良さを考えさせる力を持っています。
意味が通らなくても、ほぼすべての悪口が、中和されてしまうのです。
あいつはいい意味で馬鹿だ。
あいつはいい意味で悪人だ。
あいつはいい意味でケチだ。
あいつはいい意味で裏切り者だ。
あいつはいい意味で凡人だ。
あいつはいい意味でニセモノだ。
あいつはいい意味で人を馬鹿にしている。
「いい意味で」がなければ、本当にただの悪口ですが、「いい意味で」を入れるだけで、一気にそれが長所になってしまいます。
「いい意味の悪人」とか、「いい意味のニセモノ」などあるわけがないのだけれど、そう押し切られると、無理をしてでも「いい意味」をあぶりださなければならなくなります。「いろんな意味で」と同じように、素通りを許さない言葉なのです。
また、面と向かって自分に言われても、こういう言い方をされると怒るに怒れません。
「あなたはいい意味で凡人ですね」と言われても、何だかそのあとに、ものすごい深い内容のフォローがあるのを期待させますので、そのタイミングでは「どういう意味だ!」と怒るわけにはいきません。襟を正して、これから語られるであろう、その「いい意味」とやらが、どれだけ自分を気持ちよくさせてくれるのかを待つしかないのです。そして続いて話される内容に、どう好意的に聞いても、期待したようなフォローがなかったところで、一度怒るタイミングを外してしまいましたから、いまさら怒ることはできないのです。
それに怒るにしても、「いい意味で」と言っているのですから、それに対して怒るのは、小さな人間みたいで、やはりばつが悪い感じがします。
「概念」という単語が、びっくりするくらい概念的なことは、以前から不思議でなりませんでしたが、それを遥かに超えて、「意味」という単語が、今は不思議でなりません。
「意味」の意味は、意味的なものだけではないように思うのです。
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