恋人を選ぶとき、見た目で選ぶか、性格で選ぶか、という判断基準があるように思います。
「見た目で選ぶ」と公言する人は、馬鹿でひどい人で薄っぺらで人間ができていないように思われますし、反対に「性格で選ぶ」と公言する人は、物事解っていて優しくて深くて人間ができている、とまでは思われないまでも、そう言わざるを得ない空気を本人も周りも感じているのではないかと思います。
時々テレビドラマなどで「私はあなたと違って人を顔で選ばないのよ!」的な発言をする女の子が出てきますが、この発言には暗黙の主張が感じられます。これ、「私はあなたと違って人を性格で選ばないのよ!」だとしたら、何の説得力もありません。
でも本当にそうなのでしょうか?
本当に顔で選ぶ人は悪い人で、性格で選ぶ人は良い人なのでしょうか?
性格で選ぶことはそんなに正義なのでしょうか?
世の中がこのような風潮にあるのは、人々が「見た目ではなくて中身で判断して欲しい」と思っているからに他ならず、何故そんな風に思うかと言えば、多くの人が、見た目にはそれほど自信はなくても、性格にはそこそこ自信があるからです。また、外見は持って生まれたもので変えられないけれど、性格は努力次第で良くも悪くもなる、と人々が本気で考えているのも理由のひとつでしょう。変えられないものではなくて、変えられるもので判断してくれ、と。
しかし僕は、性格だって持って生まれたものだと思うのです。もしかしたら、外見よりも変えるのはずっと難しいかもしれません。外見はダイエットやエクササイズ、化粧や肌のお手入れ、髪型、服装で変えられます。何なら整形手術という手もあります。でも性格を変えるには、自分の意思で一日に3つくらい魂にとって嫌なことでもしない限り、難しいと思うのです。
ここで2つの会話を考えて見ましょう。
会話1
A「会社の女の子に告白されちゃったよ」
B「どんな人?」
A「優しくていい人だよ」
B「それで?」
A「断ったよ」
B「どうして?」
A「だってブスなんだもん」
B「お前、ひどいな」
会話2
A「会社の女の子に告白されちゃったよ」
B「どんな人?」
A「すごい美人だよ」
B「それで?」
A「断ったよ」
B「どうして?」
A「だって性格悪いんだもん」
B「そりゃ、仕方ないな」
Bさんの反応通り、一般的には会話2のAさんの方が人間としてまっとうな印象を受けますね。しかし、外見が良くない人を愛せないのは間違っていて、性格が良くない人を愛せないのは相手の責任だから仕方がない、という考え方はナンセンスです。もし「人を外見で判断してはいけない」という命題が真であるならば、「人を性格で判断してはいけない」という命題も真であるべきです。外見も性格も持って生まれたもの、全くの等価なのです。
だから僕は、堂々と「見た目で選ぶ」と言ってしまう人の方が好感を持てます。そして実際にその人の選んだ相手を見ると、大して見た目で選んでいないんじゃないかなぁ(笑)なんて思いつつも、結構その相手は性格が良かったりもします。反対に、「私は顔では選ばない」と言っている人に限って好きになる人好きになる人、格好良かったりかわいかったりします。
何故そんなことが起こるのかと言えば、外見派の人は無意識的に、まずは外見が一定ラインを超えている人を候補に選び、その後性格を受け入れられるかどうかで気持ちが決まる(入口が外見で出口は性格)からで、性格派の人は、まずは性格が一定ラインを超えている人を候補に選び、その後外見を受け入れられるかどうかで気持ちが決まる(入口が性格で出口は外見)からではないでしょうか。
「性格で選ぶ」というのは考えようによっては全然偉いことではありません。だって性格で選ぶということは、性格の悪い人を受け入れられないし合わせられない、ということだからです。これはもしかしたら外見を否定されるよりもひどいことだし、相手にとっては辛いことかもしれません。逆に言うと「外見で選ぶ」という人は(もし本当に外見だけで愛せるのであれば)、もうめちゃくちゃ心が広いのではないかと思うのです。
「あなたのこと、顔はすごく好きなのよ。もうずっと見ていたい。……でもね、あなたの性格がどうしても受け入れられないの」
ちょっと言われてみたいけれど、実際に言われたらしばらく立ち直れないかもしれません。
Copyright © Naoya Sakurai.
All Rights Reserved.