以前から何度も不可解な童謡について書いてきましたが、童謡「やぎさんゆうびん」に対するフラストレーションも相当なものです。そうです、黒やぎさんが、白やぎさんからきたお手紙を食べてしまい、仕方がなく、「さっきの手紙のご用事なあに?」と白やぎさんに手紙を送ると、今度は白やぎさんがその手紙を食べてしまう、という、あの歌です。
いくつかの疑問が残りますが、まずはじめに理解ができないのは、「やぎたちはなぜ、そこまで飢えているのか?」ということです。そしてこの疑問は、「飢えているにもかかわらず、なぜ自分の書いた手紙は食べないのか?」というふたつ目の疑問にも繋がります。
この童謡を聴くと、やぎたちは条件反射的に手紙を食べているように思えますが、そうではありません。彼らはしっかり、「これが誰から来た手紙か」を理解した上で食べているのです。確信犯です。
そして、そもそもはじめの白やぎさんの手紙には何が書かれていたのでしょうか。
真相は何もかも、闇の中なのです。
今日は、童謡「クラリネットをこわしちゃった」で「パキャマラド」と歌いだす主人公の精神性について書こうと思っていたのですが、小説「ノルウェイの森」で、学生が「ギリシャ悲劇よりもっと深刻な問題が現在の世界を覆っているのだ」と語ったのと同じように、途中で、「クラリネットをこわしちゃった」よりもっと深刻な問題が「やぎさんゆうびん」を覆っていることに気がつきました。
何も訴えかけてこないような、中身のない歌は現在でもたくさん作られています。いや、むしろ大量生産されていると言っても良いかも知れません。しかしそれでも、童謡の中にみられる理不尽さ、不可解さに比べれば、予測範囲内です。「あなたを愛している」という気持ちをメロディにのせて歌いたい気持ちは多少なりとも伝わってきますし、そうではなかったとしても、奇をてらいたい気持ちは理解できます。
しかし、「クラリネットの音が出ない、怒られる、どうしよう」と、延々とメロディにのせて歌いたい気持ちは、僕には理解できません。
もちろん、童謡の中にも優れたものはたくさんあります。例えば「アイスクリームの歌」です。この曲の完成度は非常に高い。もしかしたら数ある童謡の中で、一番文学的に優れているかもしれません。
「僕は王子ではないけれど、アイスクリームをめしあがる」……哲学さえ感じます。
「喉を音楽隊が通ります」……素晴らしすぎます。
実際、彼はクラリネットをとても大切にしており、壊しはしませんでした。クラリネットは、ただ、「壊れた」のです。
そして今日も、やぎたちは手紙を書きつづけ、食べつづけます。
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