子供の頃、テレビで催眠術の特番を見ていると、テレビに映されている演者が、何もないスタジオで、完全に別の世界にいるように振舞っているのが、不思議で仕方がありませんでした。
催眠を勉強するようになって、「人間にとっての現実は、物理的な体験だけでなく、ほとんどは心の中で作られるものなのだ」、ということを意識するようになっても、どこかで、「それは理屈で、それでも目の前の触れる世界が現実だよね」と思っていました。
心の世界を変えてしまうような暗示は、被催眠性の高い人にしか入らないと思っていた時期がありましたし、「暗示に反応する」というのは特殊な現象で、簡単なものではないと感じていました。
しかし次第に、被催眠性の高さに関係なく、「どうしようもなく人間は、すぐに心の中の現実を書き換え、それに従って体が反応し、行動してしまう生き物なのだ」と思うようになりました。
例えば、毎回宝くじを買っているあなたの家族が、抽選日の夜に電話をかけてきて、興奮気味に「1等が当たった!」と告げたとしたら、そしてその言葉を疑うだけの理由が何もなかったとしたら、あなたも興奮するかもしれません。「もし、何か買ってくれることになったら、何を買ってもらおう?」などと考え始めるかもしれません。
この反応は、目の前で1億円の札束(もしくは1億円の残高のある通帳)を見せられたときと、本質的には同じものです。
情報を信じたことで、目の前の世界は何も変わっていないのに、「家族が宝くじを当てた現実」を体験してしまいました。
1億円の札束と、「1等が当たった」という音声情報(それが事実か嘘かにかかわらず)が、心の中では、ほぼ同じように扱われたのです。
「何を当たり前のことをコイツは書いているのだ」と思われるかもしれませんが、催眠でしていることはこれと同じなのです。
ハワイを楽しむためには、ハワイに行く必要はありません。「自分は今、ハワイにいるのだ」と信じることさえできればいい、ということです。
幸せになるためには、物理的に幸せな状況に身を置く必要はありません。「自分は幸せだ」と信じることさえできればいい、ということです。
「信じる」とは、決して「思い込む」ことではありません。そして、努力で出来ることでもありません。
「自分は今、ハワイにいるのだ」と信じようとしても、上手くは行きません。なぜなら、そう信じようとしていること自体が、「自分は実際にはハワイにいないのだ」と認める行為だからです。
「信じる」ことが自分で出来ないのと同じように、「信じない」ことも自分では出来ません。
「コーヒーを飲むと眠れなくなる」と信じている人は、ついコーヒーを夜に飲んでしまうと、本当に眠ることができません。「コーヒーを飲むと眠れないのが科学的事実」だから眠れないのではなくて、「コーヒーを飲むと眠れないと信じている」から眠れないのです。(ちなみに私は、コーヒーを飲んでも、関係なく眠れます)
ここでいくら「コーヒーと不眠には因果関係などない」とその人を説得したところで、その人は信じることができません。それは、その人にとっては「コーヒーを飲んでも眠れる」と信じようとする試みですから、上手くは行かないのです。
私は決して、「目の前の、手で触れられるものだけが現実だ」と言いたいわけではありません。「当たり前だと信じていることは、本当に事実かどうかなどわからないのだから、すべて疑ってかかるべきだ」と言いたいわけでもありません。
おそらく、あなたの信じている「事実」は、すべて本物です。そして例え、それが誰かの嘘だったり、あなたの勘違いだったり、間違いだったとしても、あなたはそれを知ることができないし、指摘されてもなかなか受け入れられないので、やはり、あなたにとっては、すべてが「現実」です。
そしてその「現実」によって、あなたは世界を感じています。
その世界が心地よいものならば、そのままでいいと思います。
しかし、もしそれが心地よいものでないのであれば、「実際にそれが目の前で起こるまでは保留にしておく」というのも、ひとつの方法です。
いつも理不尽なことをいう嫌な上司がいたとして、家に帰ってからもずっと、「あぁ、明日もあの上司に理不尽なことを言われるのか」と悩み続ける人と、実際に明日、理不尽なことを言われるまで、そのことをすっかり忘れている人とでは、状況は同じでも、経験する「現実」は違います。前者は、心の中で「理不尽」な現実を、明日になる前から感じ続けているのです。
もちろん、「明日もあの上司に理不尽なことを言われるのか」と悩むからこそ、状況を変えようとして頑張れるし、対処法が見つかるのかもしれません。それを忘れている人や、気持ちの切り替えの早い人が、将来、より幸せになっているとも限りません。
ただ、あれもこれも、まだ何も起こっていないうちから悩みすぎていては、心は押しつぶされてしまいます。
今、この瞬間、肉体的に痛くなくて、苦しくなくて、お腹もすいていなくて、物理的には何も起こっていないとしたら、それ以上感じていることは、信じることであなたが作り出した「現実」です。
その現実が楽しくないのであれば、思い切ってそれらを無視したところで、誰も困りません。
自分の生きる世界は、自分で決めてよいのです。
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