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ブログ 2014年

エッセイもお読みくださいね。

<2014-12-31>
 皆様、良いお年をお迎えください。

<2014-12-25>
 世の中には、小豆を煮る人と、小豆を煮ない人がいます。
 小豆を煮る人は、定期的に「小豆煮たーい!」という欲求が起こりますし、おそらく、小豆を煮ない人は、今までの人生で、一度も小豆を煮たことがありません。
 この違いは、例えば、パンを焼く人と焼かない人の違いとは異なります。
 パンを焼く人の見ている世界も、パンを焼かない人の見ている世界も、ほとんど変わりはありませんが、小豆を煮る人の見ている世界は、小豆を煮ない人の見ている世界とは、根本的に、何かが違っているのです。
 僕は小豆を煮ません。
 なんだか「関白宣言」の歌詞みたいですが、これからも、多分煮ないと思います。
 でも、ときどき、小豆を煮る人生だったら良かったのに、と思うことがあります。
 メリークリスマス。

<2014-12-23>
 年末は大好きなのですが、それでも、年末特有の寂しさとか、年末にのみ襲ってくる憂鬱感とかがあって、今日は一日、若干、沈んだ気持ちで過ごしました。
 こういうときは、無理に元気になろうとしないで、静かに、いい子にしています。

<2014-12-21>
 もし、「練馬区」が、「ねぎま区」だったとしたら、「練馬大根」は「ねぎま大根」になって、ねぎなのか、大根なのか、よく判らなくなってしまうから、練馬区で良かったです。

<2014-12-18>
 「二酸化マンガン」と「過酸化水素水」は、どちらも語呂が良くて、声に出して読みたい化学物質ですが、僅差で、「過酸化水素水」の方が好きです。
 「二酸化」と「過酸化」はいい勝負ですが、「マンガン」と「水素水」だと、「水素水」の方が、言っていて気持ちがいいからかもしれません。
 あ、でも、「二酸化マンガン」の方が強そうですね。
 「過酸化水素水」は、なんだか、お公家さんみたいな感じがするので、ケンカをしたら、「二酸化マンガン」の圧勝な気がする。
 ちなみに、「過酸化水素水」に「二酸化マンガン」を入れると、「二酸化マンガン」が触媒の役目をして、「酸素」と「水素」が発生します。

<2014-12-14>
 一生一緒にウィキペディア。
 ガリガリガリクソンは、もっと評価されるべき。

<2014-12-13>

 泣いてすねる彼女も、それを見て、慌てて急に優しくなる彼も、そんな彼にごまかされてしまう彼女も、他人にしてみれば、本当にどうだっていいのですが、こうやってメロディにのせて、森高千里みたいな綺麗な人に歌われると、しゃくだけど、つい、許してしまうの。

<2014-12-12>
 原始人って、爪とか髪とか、どうやって切っていたんだろう。
 切っていなかったのかな?
 そもそも、なんで人間は、爪と髪とヒゲだけは伸び放題なの?
 他の動物は、そんな手入れしなくても平気なのに……。

<2014-12-9>
 特に何をしているわけではないけれど、12月の夜って大好きです。

<2014-12-7>
 映画「桐島、部活やめるってよ」を観ました。
 4人グループの女の子が出てくるのですが、4人は恐らく、高1のときは同じクラスで、高2の現在は、ひとりだけ別のクラスになったようです。
 で、その別のクラスになった子(実果)と、3人のうちのひとり(沙奈)が、言い争いというほどではありませんが、ちょっとピリピリとした空気になるシーンがありました。
 ケンカになるのを避けるように、実果はその場所を離れ、残された沙奈は、こんなことを言います。

 「あの子、2年で違うクラスになってから、変わったよね」

 僕はその台詞を聞いて、相手が自分にとって都合が悪くなると、「あの人は変わった」的なことを言う人って多いなぁと思いました。
 実果は、決して変わったわけではなく、我慢ができなくなっただけなのです。
 人って、1年でそんなに簡単に変わってしまうものではありません。
 もし、自分にとって都合の悪い方向に変わって見えたとしたら、それは今まで、本当のその人を見てこなかったか、その人が本当の自分を出せないように威圧してきたか、もしくはその両方なのだと思います。 

<2014-12-2>
 逃げる様を、「スタコラサッサ」と初めて表現した人は、天才だと思います。

<2014-11-30>
 昨日は久しぶりに、「村上春樹の読書会」というのに参加してきました。
 課題になった作品は、「中国行きのスロウ・ボート」と「タクシーに乗った男」です。
 僕は高校のときに初めて「風の歌を聴け」を読み、ものすごく衝撃を受けて、それ以来、彼の作品を片っ端から読んでいきました。
 すぐに、出版されている作品はすべて読んでしまい、それからは何度も、何度も、作品によって回数は違うけれど、まるで音楽を聴くように読み返し、暇さえあればページをめくっていました。
 確か、大学3年のときに、「国境の南、太陽の西」という新刊が出版されました。
 学食で昼食を食べた後、大学生協で平積みにされているのを発見し、早速購入。
 午後の熱力学の授業を一番後ろの席で受けながら、我慢ができなくなって、授業中に読み始めたのを覚えています。
 村上春樹を読み始めてから、初めての新刊。
 はじめてのハードカバー。
 安定の村上節が序盤から炸裂していて、物語に引き込まれていきました。
 しかし、読み進めていくうちに、少しずつ、魔法がとけていくような、些細な感情の変化を感じました。
 あれ? 何か違う。
 僕の求めていた村上春樹はこれじゃないし、好きだった女の子は島本さんじゃない。
 僕は同じような違和感を、今まで何度か経験したことがありました。
 すなわち、好きになる前に発売された作品は無条件に受け入れられるのに、好きになってから発売された作品は、なんだか別物に感じる、といった違和感です。
 例えば、尾崎豊ですが、僕が好きになったときには、「十七歳の地図」「回帰線」「壊れた扉から」が発売されていました。
 しかし、なかなか次のアルバムが発売されず、ようやく発売となった「街路樹」からは、最初の3枚のアルバムに感じた、強烈な没入感を、ついには感じることができませんでした。 そしてその後の「誕生」も、遺作となった「放熱への証」も、悪いアルバムではありませんでしたが、それは僕の好きだった尾崎ではありませんでした。
 同様に、尾崎ほどの落差はありませんでしたが、浜田省吾で言えば「誰がために鐘は鳴る」、佐野元春で言えば「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」以降のアルバムも、それ以前のアルバムと比べると、「あちら側」と「こちら側」といった感覚を、感じないわけにはいきませんでした。
 尾崎ファンと話すと、生前からのファンは、やはり初期の3枚と後期の3枚を別物と捉えている人が多いし、好きな曲の話になっても、大抵は初期の作品があがります。
 だから、もしかしたら、好きになる以前だから、好きになった以後だからといった理由は関係なくて、本当に初期3枚の評価 は高く、たまたま僕が好きになったのが、そのタイミングだっただけなのかもしれませんが、実際のところは良く判りません。
 話を村上春樹に戻します。
 「国境の南、太陽の西」で意識してしまった「コレジャナイ感」は、はじめは無視できる程の大きさでしたが、以後、新刊が出るたびに、大きく膨らんでいきました。
 「ねじまき鳥クロニクル」は、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」をベースに書かれていますので、かろうじて踏みとどまる(?)ことができましたが、「スプートニクの恋人」「海辺のカフカ」「アフターダーク」は、1回しか読んでいませんし、内容もほんとんど覚えていません。
 そして、「1Q84」も「多崎つくる」も、「読まなきゃ」とは思っているのですが、未だ手を出せていません。
 短編も同じで、村上春樹を読むようになったときに既に発売されていた、「パン屋再襲撃」までの短編は、何度も読み返しています。初めて新刊として買った「TVピープル」も 、好きな作品はありましたが、若干雲行きが怪しくなり、「レキシントンの幽霊」以降は、まったく印象に残っていません。
 ですから、僕は村上春樹が好きだと言いつつも、現在の、新刊が出るたびにファンが大騒ぎするような村上人気が、正直、理解できません。
 過去の遺産にしがみついているような人気だったとしたら、これほど長期間、人気が持続するとは思えないし、ますますファンが増えていくことも、海外で人気が爆発することも、ノーベル賞にノミネートされることもあり得ません。
 だから、世の中の人たちは、僕が「コレジャナイ」と感じている村上春樹を、いや、僕が「コレジャナイ」と感じている村上春樹こそ、「面白い!」「すばらしい!」って感じている のかもしれないし、そう考えると、僕はすでに、アンチ村上春樹なのかもしれない。
 以前にも書きましたが、僕が村上春樹に感じた魅力のひとつは、登場人物に名前のないところだったのだと思います。
 主人公は「僕」で、女の子は「彼女」で、誰の物語でもない代わりに、誰の物語でもあり、どこにでもありそうな日常を描いていそうで、主人公の視点を通して見る日常は、とても奇妙で、 洒落ていて、非日常的な感じがします。
 そこには、見方を少し変えれば、そして生き方を少し変えれば、自分の歩んでいるこの凡庸な人生も、この物語の世界みたいな場所に変わっていくのではないかと感じさせる力が 、確かにありました。
 初期の作品は、緻密に練られたストーリーが魅力なのではなくて、まるで絵画のような印象に残る一場面が、連続して描かれていて、その連なりが、結果的にストーリーを紡いでいるような印象を受けます。
 どのくだりだけ抜き出しても面白いし、どのくだりが抜けたところでストーリーに影響なんてない。
 「ノルウェイの森」で、主人公が、「グレート・ギャツビー」のどのページを適当に開いて読んでも面白い、というようなことを語っていますが、初期の作品から感じる凄みは 、まさにそれでした。
 その後、少しずつ登場人物に名前が与えられていきます。
 おそらくきっかけは、「羊をめぐる冒険」で、無名であった猫に「いわし」という名前がつけられたことでしょう。
 この出来事はとても象徴的で、村上春樹の決意表明だったのかもしれません。
 でも、なぜ村上春樹はそんなことをしたのか、僕には理解ができません。
 次作の「ダンス・ダンス・ダンス」では、早速、「羊をめぐる冒険」に出てきた耳のモデルの女の子に、「キキ」という、的外れな名前がつけられます。
 彼女は決して「キキ」なんかじゃありませんし、もし、「風の歌を聴け」の「鼠」が「五反田君」で、女の子が「ユミヨシさん」という名前だったら、世界観が台無しなのです。
 今回の読書会で話し合われた2作品は、両方とも初期の作品です。
 一度の例外を除くと、登場人物には名前が与えられず、比喩も皮肉も悪意も冴え渡り、どこか思わせぶりで、救いはありませんが、それは大した問題ではない、だって、人生ってそういうものでしょ?、といった空気が流れています。
 出てくる女性は、美人ではないというレッテルを必ず貼られながらも、上品だったり、情熱があったり、こざっぱりしており、主人公はちゃんとそんな魅力を理解してくれます。
 そして彼女たちは、みな適度に都合よく、主人公に好意を寄せたり、心を開いていきます。
 しかし、主人公は決して自分の殻を破ろうとはしません。
 関係がうまくいかなくなると、「君は悪くはない、全部僕の責任なんだ」と理路整然と相手に語る一方で、本気で自分が間違っているとは思っておらず、反省や後悔をしている気配もありません。
 こうやってまとめてしまうと、なぜそういった作品を、昔の僕は、繰り返して読まずにはいられなかったのか、少し不思議な気もしますが、きっとそこには、共感であったり、代弁であったり、発見であったりがあったからなのでしょう。
 村上ファンの情熱に影響されて、いろいろなことを思い出した一日でした。  

 <2014-11-23>
 子どもの頃、「高利貸し」という単語を聞いたときに、真っ先に頭の中に浮かんだのは「氷」でした。
 なぜ大人は、氷の貸し借りをするのだろう?
 そして、氷を借りると、なぜ人生が滅茶苦茶になってしまうのだろう?
 大人になった今でも、「高利貸しからお金を借りていた」といった話を聞くたびに、大きな氷を受け渡すイメージが、一瞬だけ、頭に浮かびます。

<2014-11-17>
 日曜日の昼間に、見るものもなく、 Disco Train をつけっぱなしにしていると、なんだかソワソワしてきます。

<2014-11-14>
 高校生のころに「晩秋」という、えらく悲しい映画を観たせいかもしれませんが、僕は晩秋が、結構好きです。
 同じく、浜田省吾の「J.BOY」というアルバムに、「晩夏の鐘」という曲があるので、晩夏も、なんか好き。
 晩春は、お日柄がいいので、やっぱり好き。
 晩冬は、ちょっと白々しい感じがするので、あんまり好きじゃないかも。

<2014-11-13>
 当たり前のことなのですが、まだ亡くなっていない人は、一人残らず、今、この瞬間、地球のどこかで、息をしながら、何かをしているのだと思うと、途方もない気持ちになります。
 みんな、何をしてるのかな。

<2014-11-11>
 以前、爪を耐水ペーパーで磨いたらピカピカになったという話を書きましたが、それ以来、親指の爪を、人差し指で触って、ツルツル具合を確認するのが癖になってしまいました。
 2週間くらいすると、爪の根元の方が、なんとなくデコボコしてきて、気になってくるので、その頃にまた、磨いています。
 最初は耐水ペーパーを使っていたのですが、磨きづらいので、ちゃんとした爪磨きを買ってしまいました。
 海外ドラマをぼんやり眺めながら磨くのが楽しくなってきて、今までネイルにはまる女性の気持ちが理解できませんでしたが、今ではすごく良くわかります。
 気がつくと、爪が自分の体じゃないみたいにピカピカ光っていて、すごくいい気分。
 爪って、体の中で唯一、短時間で新品のようにきれいにできる場所なのだと思います。きっと爪を磨くことで、僕は失った自信(?)を回復したいのかもしれません。
 男性の爪がピカピカしているのは、気持ちが悪いと感じる方もいらっしゃると思うので、あんまり光らせすぎるのもどうかと思うのですが、多分、これは一種の中毒のようなもので、やり始めたら、ピカピカに光らせずにはいられません。(^^;;

<2014-11-9>
 だけどカッコイイ、つもりなんだってさ。

<2014-11-8>
 「女子力」という言葉を最近よく目にしますが、いまいち、どういう意味なのか解りません。
 「電力」なら、数式で表すことができます。
 電力(P)とは、電圧(E)と電流(I)の積です。
 つまり、P=E I です。(電力=電圧 X 電流)
 これを、女子力に当てはめると、どうなるでしょうか?
 すなわち、「女子力」とは、「女子圧」と「女子流」の積、 女子力=女子圧 X 女子流 で表すことができるはずです。(ほんとか?・笑)
 「女子圧」と「女子流」を理解できれば、自ずと「女子力」は導き出されるのです。
 「女子流」とは、おそらく、純粋な「女子っぽさ」のことだと思います。
 ファッションだったり、女子っぽい才能、振る舞い、内面などのことでしょう。
 一方、「女子圧」というのは、「女子のグイグイくる感じ」のことじゃないかな。
 女子特有の自意識、自己顕示欲、面倒見の良さ、気配り、ある種の押し付けがましさなんかのことではないでしょうか。
 それらをまとめて考えると、「女子力」とは、「女子っぽさをグイグイ表現することによって生じる能力」ということになります。
 いくら女子っぽくても、周りにそれが伝わらなければ女子力は低いし、女子力を高くしようと表現に力を入れても、そもそも女子っぽくなければ、やっぱり女子力は低いということなのかもしれません。
 うーん、あってるのかな。(^^;;

<2014-11-7>
 いつの日か、「我が国は、四方を海に囲まれているからねぇ」という台詞を、日常生活の中で自然に使ってみたいと狙っているのですが、なかなかそんなチャンスはありません。

<2014-11-6>
 「どこもかしこも駐車場」の衝撃。

<2014-11-2>
 先日、ダイエットでセッションにいらっしゃった方から、メールを頂きました。
 転載の許可をいただきましたので、体験談としてご紹介いたします。

---ここから---
まだ1日しかたっていませんが、今のところ順調です。
不思議なことに、空腹にはなっても、それに振り回されるかんじがぬけました。
催眠中に肩を押された時、何かスイッチが入ったようです。
ただ、私としては、催眠前のカウンセリングで、
あなたの身に起こったことは、理にかなっていて異常なことではない、とおっしゃっていただいたことがことのほか嬉しく、救われたような気がいたしました。食欲や食べる事に振り回されている自分が異常者で病気なのでは、と怖かったからです。
やっと自分で自分の行いが理解でき、晴れ晴れしました。
ダイエットが上手くいかない時は意志薄弱で駄目な私だと思い落ち込んでばかりでしたが
無意識がそうさせるのだ、と解りやすく説明していただき目から鱗というか、今まで納得できなかったモヤモヤが一度にスルスルほどけて、すっきりしました。
しくみがわかると俄然やる気がわいてきます。
本当にありがとうございました。
--ここまで--

<2014-11-1>
 学生のころの友人と話すと、「昔から同じこと言ってるよね」と言われて、すごく恥ずかしい気持ちになることがあります。
 そこには明らかに、「全然成長していない」というニュアンスが含まれているからです。
 自分では、ずいぶん昔と今とでは考え方や価値観が変わったし、古い問題は解決して、新しい問題に向き合っているような気持ちでいるのですが、周りから見れば、僕は中学生くらいから、ずっと同じところをグルグル回っているように見えるらしい。
 では、僕はどこをグルグル回っているのか?
 それは、「この人生は空っぽなのかどうか?」というテーマの周りを、です。
 中学2年生くらいから、自分の人生がどうしようもなく空っぽで、どこにいても、一人ぼっちな気がしていました。(そして同時に、自分以外の人には、ちゃんと満たされた人生があって、理解しあえる集団に所属しているように感じました)
 いやいや、自分だけ空っぽでいいわけがない、一人ぼっちでいいわけがない、と、せっせとその穴を埋めるために何かを放り込み、一人にならないように誰かと時間を過ごすのですが、穴はいつまでも埋まらず、かえって誰かといるときの方が、理解されず、理解できずに孤独を感じたりする。
 あぁ、やっぱりこの人生は空っぽで、僕は一人ぼっちなんだ。
 でも、このままじゃダメだ。
 ……というところをグルグル回っているのです。
 もちろん、誰の人生にも、空っぽに見える角度があるのかもしれないし、ふと孤独を感じる瞬間があるのは、そんなに珍しいことではない。
 しかし、そういった一般論は何の慰めにもならなくて、他人がどうであろうと、問題は、この、空っぽな人生であり、この、孤独感なのです。(英語だと、The がつきます)
 そして、状況はあのころより悪くなっているのかもしれない。
 10代のころは、「人生なんて、所詮、空っぽなんだぜ」って、ちょっと格好つけて、斜に構えていられたし、むしろそう言ってみることで、空っぽではないことを確認していたようなところがあったけれど、この歳になると、もうずっと空っぽで、ずっと一人ぼっちなのかもしれないと、ちょっと怖くなります。
 そんなことを、躊躇いもなくこうやって文章にしたり、話したりしてしまうので、「成長していない」って思われるのでしょう。
 きっと、大人になるということは、人生のどこかのタイミングで、知らないうちに、空っぽであることも、一人ぼっちだということも、前提として受け入れて、その上に人生を組み立てていくことなのでしょう。受け入れられない場合は、それらを見ないで上手に生きていくスキルが身につくことなのでしょう。いや、そう感じていても、むやみに空っぽだとか、孤独だとかを口にしないのが、大人のたしなみなのかもしれません。

「私はこの部屋にある最も神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのは、そもそもの始まりにおいては、それはまるっきりの空っぽではなかっからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまったのだ。」
           (デレク・ハートフィールド「虹のまわりを一週半」1937年 より)

 ふぅ。
 秋の夜更かしは危険。
 こういうの、書いちゃうから。(^^;

<2014-10-30>
 あの人とあの人は似てるなぁって思うことがあって、似てるから、まだ相手のことをよく知らないのに好感を持つこともあれば、反対に、「なんか、合わないなぁ」と感じることもあります。
 そういうのは、すごく不公平だと思うけれど、世の中に5千個くらいある、仕方のないことのひとつだと思っています。

<2014-10-21>
 急速に、ある種の考えに傾倒していくのは、洗脳されているパターンよりも、洗脳から解放されているパターンの方が多いような気がします。
 洗脳って、矛盾を無意識的に無視しつづけなければいけない状況で起こるので、一度その矛盾を自覚すると、もう止められなくなってしまうのでしょう。
 恋愛なんて、その際たるものかもしれません。 

<2014-10-14>
 爪の表面がボコボコしているなぁと思い、工具箱の中にあった、2000番の耐水ペーパーでこすってみました。
 テレビを見ながらこすっていたら、気づいたときには光が反射するほどツルツル、ピカピカになり、自分でも軽く引いています。

<2014-10-5>
 ふと、何故おじいさんは「山へ芝刈り」に行ったのかなぁって思いました。
 おばあさんが「川へ洗濯」に行ったのは理解できます。
 でも、庭の芝刈りなら解るけれど、山に芝がはえているのも良く解らないし、それを刈りに行く理由も解りません。
 絵本を見ると、おじいさんは、到底芝刈りとは関係のなさそうな機材を背中に背負って出かけていきます。それも謎です。
 で、調べて見たところ、僕は大きな勘違いをしていたことに気がつきました。
 おじいさんは、「山へ芝刈り」に行ったのではなく、「山へ柴刈り」に行ったのです。
 「柴刈り」とは、「山野に自生する小さな雑木を刈り取ること」だそうで、薪を集めに行ったということなのでしょう。
 きっと、こういった勘違いを、僕はまだ、250個くらいしているんだろうな。

<2014-9-28>
 「ただし、紙の厚さは考えないものとする」的な世界で暮らしていけたら、生きるのもずいぶん楽なのだと思います。

<2014-9-23>
 以前にも、全く同じことを書きましたが、佐野元春の「アンジェリーナ」に出てくる「ポップコーンガール」という造語が大好きです。

 世の中には、望みを失くしていないポップコーンガールも、おそらく山のようにいるのだろうけど(「そもそもポップコーンガールとは何か?」という問いは、ここでは考えないことにします。個人的には、熱を加えると、ポンポン弾け出すような女の子を想像しています)、アンジェリーナを聴いていると、すべてのポップコーンガールは、結局は望みを失くしているんじゃないかって気がする。

  佐野元春の曲の中には、「ジャスミンガール」も登場します。

  ジャスミンガールは、ポップコーンガールに比べると、ずっと前向きです。
  髪をひとつに束ねて風に揺れたり、曇り空を見ても仕事に出かけたり、人込みの中を歩きながら虹を歌ったりします。
  そうです。
  仕組みこそ良く解りませんが、彼女は「虹を歌う」ことができるのです。

  プロムナードにたむろして、望みを失くしていたポップコーンガールから、虹を歌うのがきれいなジャスミンガールへ。
  大人になるとは、そういうことなのでしょうか。

<2014-9-22>
 物語をハッピーエンドで終わらせないのは作者のエゴだと思う。
 視聴者は、細部のリアリティを求めてはいても、バッドエンドなんて求めていない。

<2014-9-16>

 去年から、屋外で、発泡スチロールの箱でメダカを飼育しています。
 ほぼ1年間、大掃除をしていなかったので、メダカを全部バケツに移し、床に敷いている土を洗いました。
 今までも、それほど汚れているとは感じなかったのですが、こうやって掃除をすると、ずいぶん汚れていたんだなぁと感じます。
 写真では水が入っていないように見えるくらい、水がピカピカになりました。
 大きなメダカは、石の陰に隠れて見えませんが、水面に写っているのは今年生まれた稚魚です。
 数えてみたら、大小あわせて、40匹ほどいました。
 この他に、さらに小さい稚魚や、生まれたての稚魚を入れているケースが3つあります。
 これ以上、増やしても育てられないのは解っているのですが、冬を越せないで死んでしまうメダカがたくさん出るんじゃないかと思うと、ついつい卵を集めてしまいます。
 メダカを飼っている人たちは、増えたメダカをどうしているんだろう? 

<2014-9-12>
 捕らぬ狸の皮算用が日課です。

<2014-9-11>
 千原ジュニアが、佐野元春の「情けない週末」がすごい、と絶賛している動画をYoutubeで見て、久しぶりに聴きたくなり、高校のときに作って、棚の中で眠っていたカセットテープを引っ張り出してきて、デッキに入れました。
 カセットで最後に音楽を聴いたのは、いつだったのか、思い出せないくらい昔で、少しだけワクワクしながら再生ボタンを押すと、当たり前のようにテープは回転を始め、音楽が流れました。
 カセットはCDに比べると音が悪いというイメージがありましたが、全くそんなことは感じられず、懐かしさに鳥肌が立ちっぱなし。
 ……が、突然音が乱れ、止まるカセット。
 テープは無残にも、デッキの中でローラーに巻き込まれていました。
 その後、テープを巻き取って再生してみたのですが、何回やっても止まってしまいます。
 「聴けない」となると、どうしても聴きたくなるもので、カセットでしか持っていなかったアルバムを、全部借りてきました。
 というわけで、今、PCのスピーカーからは、「悲しきRADIO」が流れています。



 まだ高校生だったころ、意味は良く判らないけれど、「きのう買ったばかりのレッド・ローヒール・パンプス」というのが、すごく大人に感じて、あと10年くらいしたら、僕も「レッド・ローヒール・パンプス」とやらを、当たり前のように買ったりするのだろうか?、と真剣に思っていました。

 ♪彼女は踊っている。踊っている。彼女はトランジスタ制御の踊り子。

<2014-9-9>
 フリースタイルのラップがあるなら、グレコローマンスタイルのラップがあってもいいと思う。

<2014-9-8>
 覚悟を決めている人は、なんだか怖いし、覚悟のない人は、どこか信じられません。
 じゃあ、どうすればいいのかって言われても、答えることなんてできません。
 ただ、一度そんな風に感じてしまうと、出口なんてどこにもないのです。

<2014-9-5>
 夕暮れに、長ネギがのぞいているレジ袋を持って歩いている人の生活感。

<2014-9-1>
 「馬鹿にしないでよ。そっちのせいよ」と山口百恵は歌っていますが、交差点で気ままにハンドルを切って、隣の車にミラーをこすっておいて、それはないんじゃないかなぁと思います。
 馬鹿にしているわけじゃないんです。事実を言っただけなんです。

<2014-8-30>
 道徳って、ある程度、普遍的でなければ意味がないと思うのですが、世の中には、自分と違う道徳を使って生きている人はたくさんいるし、ひとたびそれを認めると、もう「道徳的ではない」という批判の仕方はできなくなると思います。
 国によって法律が違って、ある国では犯罪でも、ある国では犯罪ではない、というのと似ているかもしれません。
 だから僕は、(自分の使っている)道徳は普遍的であるという前提で話をされると、「長い夜になりそうだな」って思います。 

<2014-8-21>
 キャベツは、下のほうの葉で光合成をするわけでもなく、種を遠くまで届けてもらおうとするわけでもなく、ただ、むやみに食べられようとしている気がします。

<2014-8-16>

 街角の白い街灯の優しい光を、「負けないでってささやくあの子のように見えた」と形容した瞬間が、詩人、尾崎豊の頂点だった気がします。

<2014-8-14>
 2月の寒い日に、「暦の上では春」って言われると、なんだか前向きな気持ちになれますが、この時期に言われる「残暑」は、まったく認められません。
 暑さ、残りすぎ。

<2014-8-13>
 センチメンタルな気持ちじゃ、悔やんでばかりです。

<2014-8-3>

 2014年、これまでのうちで、一番衝撃的だったのは、この「ポイ捨て禁止!」(4:07)です。
 「アイドルとメタルの融合」ばかり言われていますが、むしろ「メタルと合いの手の融合」の方が、遥かに斬新だったのだと思います。
 イントロで全力疾走するチビッコふたりもかっこいい。
 正直、BABYMETALをはじめて聴いたときは、「両側、いらなくね?」と思いました。
 しかし今では、ヴォーカルのSU-METALばかり映っていると、 「ええい、ホワイトベースはいい、ガンダムを映せ!」と叫んだテム・レイのように、「ええい、SU-METALはいい、ゆいもあを映せ!」と、ついつい思ってしまいます。(^^;;

<2014-7-9>
 「散歩」や「日向ぼっこ」、「夕涼み」を意識的にしている人が、僕は大好きです。

<2014-7-2>
 「四十にして惑わず」と言いますが、40を超えてから、迷ってばかりな気がします。
 今までの人生の、因果関係みたいなものを、ここ数年、痛感しているせいか、選ぶこと自体を躊躇してしまうことがある。
 迷わずに選んで、失敗したらしっかり反省すれば、それでいいのは解っているのですが、それがなかなか難しい。
 きっと、靴箱の中ででも生きていれば、こんなに悩まなくて済むのだろうけど、そうするわけにもいきませんから、「エイ、ヤー!」と気合を入れて、自動販売機のボタンを押すみたいに、今日も生きています。

<2014-7-1>
 村上春樹の小説を読んでいると、舞台が日本でありながら、遠い外国の物語を読んでいる気分になります。
 外国へ行くと、そこは自分にとって当たり前の場所ではなく、アウェーであり、自分の常識が通じないことによる緊張感を絶えず感じることになりますが、村上春樹の小説には、日本だって当たり前の場所ではないし、自分の常識が通じない可能性だってあるのだということが描かれているように思う。
 そしてその違和感が、読者を惹きつける要素になっていると思うのです。 
 ピンボールか何かに、「ハンバーガースタンドで、オレンジ・ジュースを立て続けに2杯飲んだ」みたいな文章が出てくるのだけれど、この1文だけでも、僕の知っている日本じゃない。
 きっと、すべては「ハンバーガースタンド」っていう単語のせいなのでしょう。
 いや、それとも、「オレンジ・ジュースを立て続けに2杯飲む」という行為のせいなのかな。
 キュウリとハムとチーズのサンドウィッチを食べ、魔法瓶に入れたアイスコーヒーを飲み、週末にサンタナのコピーバンドで踊るだけで、自分の人生も変わるのではないかと思わせるところが、村上春樹の才能なのかもしれません。

<2014-6-28>
 「もう今年も半分終わっちゃったんだ」って、言ったら負けな気がします。

<2014-6-26>
 今日はこんな感じ。

<2014-6-25>

 24日に降った雹に打たれて、柿の木の葉っぱがかなり落ちてしまいました。
 残った葉も、穴だらけで痛々しいです。
 今年は実が結構ついていたのですが、2つを残して、実も落ちてしまいました。


 地面はこんな感じで、固まった雹と、ちぎれた葉で埋まっています。
 まだかなりの雹が残っているため、外はひんやりしていて、息を吐くと、白くてビックリ!


 こちらはブルーベリーの苗です。
 春に、植木鉢に植えたのですが、ほとんど葉がおち、枝も折れ、このまま枯れてしまいそうな雰囲気です。
 地植えにしているブルーベリーも、残念なことに、たくさんついていた実が、すべて落ちてしまいました。
 今年は、剪定が上手くいったのか、例年になく、大きな実がたくさんついていたので、非常に残念です。
 デライトという品種と、ブライトウェルという品種は、初めてちゃんとした収穫ができる予定だったのに……。
 葉も、柿のように、かなり落ち、残ったものも穴だらけでした。
 枯れることはないと思いますが、ダメージは大きそうです。

<2014-6-24>
 生まれてから一度も、金のエンゼルはおろか、銀のエンゼルさえ見たことがありません。
 子供の頃、おもちゃの缶詰がすごく欲しくて、いつか手に入るんじゃないかと、ずっと夢見ていました。
 金のエンゼルを見つけたら、きっと眠れないくらい嬉しかったんだろうなぁ。

<2014-6-23>
 「たくさん寝ている人は、いい人」が持論です。

<2014-6-22>
 キノボリウオが、実際は木に登ることがないという衝撃は、カニクイザルが、それほど蟹を食べないという衝撃を超えています。
 名前をつけた人たち、適当すぎ。

<2014-6-21>
 それ、すごいわかるー!

<2014-6-20>
 「私はいつでも、あなたの三鷹だからね!」
 それはあれか、「終着駅的な存在」ということか。
 それとも、「吉祥寺よりは、少しだけ家賃がリーズナブルよ」っていう意味だろうか。

<2014-6-19>
 ルナマリアとメイリンだったら、断然、メイリン派です。

<2014-6-18>
 ホラン千秋に正論を言われたら、勝てる自信がありません。

<2014-6-17>
 窓を網戸にして、夜風にあたっていると、夏を感じます。
 外から色んな街の音が聞こえてきて、ベッドに寝転んで目を閉じているだけで、どこか遠くへ、旅行に行った気分になります。
 風鈴の音なんか聞こえてきたら、たまらないだろうなって思いますが、もう久しく、風鈴の音を聞いていません。

<2014-6-16>
 「親子丼」っていうネーミングの残酷さは、もう食事に支障が出るレベルだと思います。

<2014-6-15>
 ジャイアントコーンのコーンの部分が、「サクッ」ではなく、「シナッ」としていると、すごく損をした気持ちになります。

<2014-6-14>
 「きっと本当の、あるあるなんて、自分ひとりで言うものさ」
 RGの才能、ぱねぇです。

<2014-6-13>
 野菜カゴには大根。
 冷蔵庫にはベーコン。

<2014-6-12>
 「言の葉の庭」というアニメ映画を観ました。
 観ながらずっと胸を締め付けられている感じがして、クライマックスでは静かに泣いて、観終わった後には、軽く鬱にもなりましたが、非常に美しい話でした。
 僕は新宿高校出身で、新宿高校は、新宿御苑の一角にあります。
 ですから、雨の日の新宿御苑の描写が流れるだけで、高校の頃を思い出して、余計に感情移入してしまったのかもしれません。
 

<2014-6-11>
 今日、新しい台所洗剤をあけたら、初めて買った洗剤だったので、いつもと違う、とてもいい匂いがしました。
 せっかくだからと、スポンジも新しいのをおろして、新品の泡立ちを満喫しました。
 そうしたら、もっとキレイにしたくなって、コップや湯のみをハイターにつけて、その間に冷蔵庫の霜取りをしました。
 テストの前に掃除をしたくなる現象を、心理学用語で「セルフ・ハンディキャッピング」と言うそうです。
 もし、テストで悪い点数を取ってしまっても、「掃除をしちゃって勉強できなかったから仕方がない。本気で勉強すればできたはずだ」と思えるように、あらかじめ、言い訳を作っておくわけです。
 テストだけではなく、忙しいときに、現実逃避のために、今やる必要のないことを始めてしまい、なぜか捗ることもありますよね。
 僕はテストを受ける予定もないし、今日はそれほど忙しくもなかったし、潔癖症なわけでもありませんが、ときどき、掃除をやめられなくなることがあります。
 やればやっただけ、すぐに結果が出るところが好きなんだと思う。
 逆に考えると、僕は普段、すぐに結果の出ないことばかり追いかけているのかもしれません。

<2014-6-10>
 現在、放送されている「ピンポン」というアニメに、スマイルというあだ名の高校生が出てきます。
 あだ名とは裏腹に、滅多に笑顔を見せず、感情も表に出さず、まるでロボットのように、正確で、ときには残酷な卓球をします。
 僕はスマイルを見ていると、なんだか自分に、少しだけ似ているなぁと思うことがあります。
 もちろん、彼ほどストイックではなく、彼のように才能もありません。
 あそこまで突き抜けた考え方はしないし、感情も表に出します。
 それでも、人類を大雑把に半分に分けたとしたら、僕は間違いなく、ペコではなくて、スマイルの側の人間なのだと思う。
 先ほど、なんとなく、以前書いた日記を読み返していました。
 1年に1回くらい、ネタに困ったときに読み返すのですが、昔は、自分の書いたものを読み返すと、さすがに自分で書いているわけですから、「こんなことを書いていたんだぁ」と共感したり、「我ながらこれは良く書けた」と思ったりすることができました。
 だけど、なぜだか今日は、書かれている文章から、まったく血の通った感じを受けませんでした。
 なんだか、ロボットのように、当たり障りがなく、どこに行き着くわけでもない文章を、ひたすら書き綴っているだけのように感じました。
 誰が読んでいるかわからないし、僕もいい大人だし、一応、客商売をしているわけですから、あんまり誤解を受けそうなことや、心象の悪くなるようなことを書くべきではないと、無意識的にいつも思っていて、その結果がこれなのでしょう。
 でも、お読みいただいている方たちは、きっとこれらの日記を読みながら、今日、僕が感じたのと同じように、ロボットみたいに人間味のない人物を連想していたのだろうし、果たしてそんな人間に、悩みを聞いて欲しいと思うのだろうか?
 いや、問題は、よそゆきの文章を書こうとしていることにあるのではなく、そもそも、僕には人間味があまりないし、子供のころから、本能的に、「ロボットのように正確で、感情に左右されないこと」を求めてさえいて、そんな人間味のない自分をよしとしてきたことにあるのかもしれません。
 うー、自分で書いていて、なんだか暗い気持ちになってきた。(^^;;

<2014-6-9>
 今日、出逢った声に出して読みたい日本語。
 トリクル充電。

<2014-6-8>
 大雨の日に、家でじっとしていると、とっても守られている感じがします。
 屋根って偉大!

<2014-6-7>
 「しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん」っていう歌、そこの部分しか、歌詞も、メロディーもわかりません。

<2014-6-6>
 

 この曲、マッキーがカバーしていたなんて、知りませんでした。
 これを聞くと、冬の幸せ切ない気持ちでいっぱいになります。

<2014-6-5>
 ライ麦畑でついに迷子。

<2014-6-4>
 天才子役のダメ人生。(by ホリケン)

<2014-6-3>
 信じられないことばかりあるの。
 もしかしたら、もしかしたら、そうなのかしら?

<2014-6-2>
 先日、近所の花屋さんで、ホテイアオイを売っていたので、メダカを飼っている発砲スチロールの水槽に浮かべてみました。
 メダカは、ホテイアオイの根に卵を産みつけるそうで、今日、持ち上げてみたところ、たくさんの卵がついていました。
 今までは、マツモという水草に卵がつくことを期待していたのですが、室内の水槽では発育旺盛のマツモも、なぜかこの発泡スチロールの水槽では育たず、卵もほとんどついていませんでした。
 これで、毎朝の卵をとる作業をしなくてすみそうです。
 ホテイアオイの根はぎっしり生えているので、生まれた稚魚の隠れ家にもなりそうで、ちょうど良い数の稚魚が、自然に生き残ってくれるのではないかと期待しています。

<2014-6-1>
 カツカレーって、1+1が、3にも4にもなった好例だと思います。

<2014-5-31>
 好きなセンチは、15センチです。

<2014-5-30>
 AppleやGoogleのCMが、ちょっと苦手です。
 全く同じ理由で、Facebookも、ちょっと苦手です。

<2014-5-29>
 ハイジの言う「クララの意気地なし!」は、なんか口ごたえしたくなりますが、しずかちゃんの言う「のび太さんの意気地なし!」は、ハッと目が覚めた気持ちになります。

<2014-5-28>

 去年から飼っているメダカが、最近、毎日のように産卵しています。
 そのままにしておくと食べられてしまうので、見つけ次第、卵だけ別の小さな水槽に移しているのですが、数日前から卵が孵り、稚魚が泳ぎ始めました。
 数えていませんが、たぶん、すでに50匹くらいの稚魚が泳いでいると思われます。
 このペースで卵を隔離していると、夏が終わる頃にはメダカだらけになりそうです。
 そんなに増やしても仕方がないですし、放っておけば、卵も稚魚も大人のメダカの餌になり、増えないのですが、食べられてしまうのがしのびなく、また、メダカが増えるのが単純に楽しくて、ついつい、今日も卵を採取してしまいました。 

<2014-5-27>
 童話「浦島太郎」の玉手箱のくだりは、いらなかったんじゃないかと思います。
 浜に戻ってきたときに時代が変わっていたとしても、老人になれば問題が解決するわけではないし、そもそも善行をした浦島太郎が、物語の最後で欲深い人間のように描かれているのがかわいそうです。

<2014-5-26>
 うなぎの蒲焼よりも美味しい食べ物って、あるのかなぁ。

<2014-5-25>
 さきほど、久しぶりにパソコンがブルースクリーンで落ちました。
 OSはVistaで重いし、CPUがCore2Duoのマシンなので、そろそろ買い換えたいなぁと、去年くらいから思っていました。
 せっかくだから、インテルの新しいCPUが出たらにしようと、Haswell が出るのを待っていたのですが、メモリの値段は高騰しているし、やっと登場した Haswell は、評判があまりよくないしで、ずるずると今のパソコンを使い続けています。
 Broadwell が出たら、今度こそ買い換えようと思ってはいますが、それまで持つかなぁ。
 新しいパソコン用にと思って、安かったときに買っておいた Windows8 を使わないまま、Windows9 が来てしまいそうです。

<2014-5-24>
 僕は自分でも、自分のことを「理屈っぽいなぁ」と思うのですが、その原因の半分は、法廷物の洋ドラを見過ぎていることにあるのではないかと思っています。
 「合理的な疑いを超えた証明がされているか?」という視点でドラマを見なくてはならないため、知らず知らずのうちに、実生活においても、「合理的な疑いを超えているか」に照らし合わせて、物事を判断してしまうのです。
 ですから、何かを認めさせようとして、中途半端な説得をしてくる相手には、「合理的な疑い」を山のように投げつけて嫌がられますし、反対に、相手に何かを認めてもらいたくても、相手に話す前に、自分の中にたくさんの「合理的な疑い」が浮かんできてしまい、何だか面倒くさくなって、「もう認めてくれなくてもいいや」という気持ちになったりもします。
 刑事裁判において、「合理的な疑い」が重要視されるのは、裁判の目的が、真実を明らかにすることにではなく、被告の保護にあるからです。
 ですから、ニュースを見ていても、被告を犯人だと決め付けたような報道はおかしいと感じるし、どうしても、被告の立場でその事件を見てしまいます。
 これは一見、公平を気取っているようにも見えますが、本当はとっても怖いことなのかもしれません。
 大げさな言い方をすると、僕の中の判断基準は、「正しいかどうか」ではなく、「妥当かどうか」なのだと思います。
 つまり、正しくなくても妥当だと思われることは認めてしまう可能性がある、ということです。
 文章にすると、何だか怖いですね。(^^;;
 ……とは言っても、人々は皆、「自分は正しい」と言いますから、そんな「正しさ」よりも、「理屈が通っていること」の方が、やはり価値があると思う。
 バラの花が咲いていたら、いくら名札に「ぶどう」と書いてあっても、それはバラの木なんじゃないかな。

<2014-5-23>
 完全な憶測ですが、「ABCD包囲網」の名付け親は、思いついたとき、「よしっ!」と小さくガッツポーズしたんじゃないかな。
 上手すぎるもの。

<2014-5-22>
 夕日が沈んでから、暗くなるまでの、美しくて、切ない、ほんの短い時間が、僕は大好きです。
 「当たり前なんてどこにもないんだ」っていう気持ちになれるからだと思います。

<2014-5-21>
 先日、CASIOのソーラー電波時計を買いました。
 以前使っていたのもソーラー時計でしたが、充電池がへたってきて、十分に光をあてても、すぐに止まってしまうようになったため、買い換えました。
 そして、せっかくなので、電波時計にしてみました。
 時計というのは、正確な時刻が表示されることが存在理由だと思いますが、どうしても、時間とともに、進んだり、遅れたりします。
 時計を合わせなくても、たえず正確な時刻が表示されているというのは、予想以上に楽というか、安心感があります。
 この勢いで、壁にかけてある時計と、目覚まし時計も、電波時計にしてしまおうかと思っています。

<2014-5-20>
 「雷様におへそをとられる」という言葉がありますが、「おへそを取られちゃったら大変だ!」って思う子供って、どれくらいいるのでしょうか。
 僕は子供の頃、「おへそなんて、全然とられて構わない」と思っていました。
 むしろ、体の中で唯一、とられても困らない場所はおへそだと思っていました。
 普段は服の下に隠れている部分だし、見た目が他人とは違ってしまうだけで、おへそがないと生きづらくなるとも思えません。
 ない方が、かえってスッキリする気さえします。
 本当に、「おへそをとられるぞ!」で、言うことを聞く子供なんて、いるのかなぁ。

<2014-5-19>
 先日、井の頭公園に行ったら、NHK BS で放送されている「COOL JAPAN」に出演されている、オーストラリア人のジニーさんを見かけました。
 僕はこの番組が大好きなので、声をかけたかったのですが、ジニーさんは自転車だったため、声をかけられませんでした。
 以前、井の頭公園で、同じく「COOL JAPAN」に出演されているロシア人のユラさんを見かけたこともあります。
 井の頭公園は、外国の方に人気なのかもしれません。
 今度はノルウェー人のオレさんと、イギリス人のポールさんに会いたいなぁ。 

<2014-5-18>
 皆さんは、九九では何が好きですか?
 僕はやっぱり、「ゴックシジュウゴ」かな。
 「ハッパロクジュウシ」も捨てがたいけど。
 一番嫌いなのは、「ハチシチゴジュウロク」です。
 語呂が悪すぎるから。

<2014-5-17>
 日が長くて、天気はおおむね良くて、暑すぎず、寒すぎず、夜風は爽やかで、蚊に悩まされることも少ない5月って、最強なんじゃないだろうか。

<2014-5-16>
 高校のとき、社会科で習った「ウパニシャッド哲学」が、僕は大好きでした。
 ウパニシャッド哲学とは、「宇宙の根本原理ブラフマンと、自己の本質アートマンは同一である」という思想です。
 なんのことやらよく解りませんが、すごい説得力です。
 「ウパニシャッド」、「宇宙の根本原理」、「ブラフマン」、「自己の本質」、「アートマン」……、出てくる単語が、いちいち大仰です。
 さらに、この思想をあらわした、「梵我一如」という四字熟語さえ存在します。
 これほど簡潔に表現できて、出てくる語のすべてに力がある哲学って、他にないんじゃないかな。
 「宇宙もあなたも根本は一緒なのよ」という、ものすごく単純なんだけど、それがどういう意味なのか考えると、つかみどころがなくて、深い感じもする。
 あれだけの影響力を誇ったヒトラーが掲げたのは「優勢民族思想」でしたが、宗教とか思想を広めるためには、単純化することと、意味をどうとでもとれることが重要なのかもしれません。
 こういった、「理解できるけど意味の解らない言葉」を振り回す人に、僕は弱いです。

 「私、それは宇宙の根本原理に反すると思うの」

 「宇宙の根本原理がそうしろって言っているのよ」

 なーんて言われてしまったら(すみません、女性を想像しています)、言いたいことは山ほどあっても、結局僕は、諦めて全部飲み込んでしまう気がする。
 反対に、相手を煙に巻きたければ、こういった単語を連発すればいいのかもしれません。
 相手の意見に対して、否定するわけでもなく、肯定するわけでもなく、「それ、まさに梵我一如だよね」って返したら、インテリっぽく、かませそうです。
 大切なことは、何を言うかではなくて、どう言うかなんだなぁと、僕はウパニシャッド哲学を通して、高校時代に始めて意識したのだと思います。
 そしてそれ以来、僕の心の中には白の全身タイツを着た「アートマン」がいて、宇宙空間には、同じく全身タイツを着た「ブラフマン」がいて、実はそのふたりは双子なのだという、訳の解らない妄想に、ときどき悩まされるのです。

<2014-4-15>

 最近、一十三十一(ひとみとい)ばかり聴いています。
 僕が学生の頃は、こういった音楽が溢れていて、そういうのはいつまでも続くものだと思っていましたが、気がつくと、ニューミュージック(シティポップ?)は、ほとんど姿を消してしまいました。
 だから、この曲を偶然ラジオで聴いたときは、イントロから猛烈に引き込まれました。
 彼女の曲を聴いていると、当時の雰囲気に近づけることを目的に作られたような、パロディのような作品に感じますし、それっぽい単語をひたすら集め、無理に糊付けしたような歌詞は、薄っぺらくも感じます。
 EPOが本物だったとしたら、一十三十一はニセモノなのだと思います。
 ただ、ニセモノと言っても、とても良質なニセモノで、僕は悪質な本物よりも、良質なニセモノが大好きなのです。
 それはもう、「飲み干したジンジャーエールがフラッシュバックさせるパラダイス!」なのです。

<2014-2-2>
 子供の頃、買ってくるケーキと言えば、バタークリームのケーキでした。
 家で作るケーキは、生クリームを使っていたので、それをして「ケーキは手作りが一番!」的な風潮が、我が家ではありましたが、僕は結構、バタークリームのケーキが好きでした。
 いつの頃からか、当たり前のように生クリームのケーキが売られるようになり、反対にバタークリームのケーキを見なくなりました。
 もう何年も食べていないので、バタークリームのケーキを、ときどき、無性に食べたくなります。
 子供の頃に食べたきりなので、いま食べたら、思っていたほど美味しく感じられないのかもしれませんが、今年中に、一度は食べてみようと思っています。  

<2014-1-9>
 良い音楽というのは、まるで映画を観ているような気分にさせてくれる音楽なのだと思います。
 そして、良い映画とは、まるで音楽を聴いているような気分にさせてくれる映画なのだと思います。

<2014-1-7>
 今年は、「今を生きる」ってことをテーマにしてみようと思います。
 過去の出来事をいつまでも振り返ったり、まだ来てもいないし、来るかもわからない未来のことばかり考えていないで、目の前の出来事をしっかり感じたい。
 それらが無駄だとは思わないし、むしろ有用なことの方が多いような気もしますが、せっかく生きているのに、過去や未来ばかりに気をとられていたら、生きている意味なんて、ほとんどなくなっちゃうのではないかな。
 そして、僕は今まで、ずいぶんとそれをしてきたように思います。
 もちろん、今をしっかり生きたら、果たして生きている意味があるのかどうかは、まったく別の話なのですが、猫のように、昨日も明日も考えず、今日だけを生きていけたら、少なくとも、この体が機能していることが無駄にならないんじゃないかと思います。

催眠療法で癒しを体験してみる部屋