ブログ 2010年
エッセイもお読みくださいね。
<2010-12-31>
「コナン」と言えば、「未来少年」である。 → Yes / No
<2010-12-28>
35歳を過ぎた頃から、「あぁ、人生がもう半分終わってしまったんだなぁ」って思うようになりました。
もっと若かった頃は、上手く行かないことがあっても、手に入らないものがあっても、そういうのは時間が解決してくれるものと、純粋に信じていました。
人生は、いくらでもやり直しがきくものだと思っていました。
しかしここ数年、このままずっと上手く行かないのではないか、一生手に入らないのではないか、そして、もうやり直しはきかないのではないかと感じることが多くなりました。
こういうことを書くと、後ろ向きだと感じる方もいらっしゃるかもしれませんし、「人生に、遅い、などというものはない」という考え方は僕も大好きで、何歳になっても、新しくチャンレンジすることはできると思っています。
ただ、それとは別に、どうしようもなく失ってしまったものや、どうしようもなく得られなかったものに対し、どうやって折り合いをつけていくのか真剣に考えることは、幸せに老いていくために必要なことだと思っています。
だからこそ、一日一日を大切に生きましょう……、などという、白々しいことを書く気にはなれません。
誰もが、生まれたての魚みたいに、ピチピチと生きていけるわけではないからです。
今、マロンがウニャウニャ言いながら僕の近くにやって来て、こちらをずっと見つめています。
マロンを観ていて思うのですが、猫は人間よりもずっと、生きる意味を知っていると思います。
そしてそれが何なのか、一生懸命、伝えようとしているのに、僕は馬鹿なので、全然読み取れないのです。
一日でもいいから猫語を話せたら、何を言っているのか解るのに。
そして、生きている意味が解るのに。
マロンをぎゅっと抱きしめていると、許されている気がして、もう少しこのまま生きてみようって思います。
<2010-12-27>
映画「ノルウェイの森」を観てきました。
原作を知っていただけに、映画を観ながら、いつの間にか「答え合わせ」をしている自分がいて、ひとつの映画として素直に見ることができませんでした。
実写版ヤマトでも同じ事を感じたのですが、出演者全員が、どうにかこの作品を映画として成立させようと必死に努力した結果、努力もむなしく、ついには映画として成立しなかった……、そんな作品だと思います。ここまで俳優や女優を大根に見せてしまうのは、やはり脚本が悪いのでしょう。
レイコさんはしわくちゃな人じゃないと感じが出ないし、ハツミさんは美人過ぎるし、直子は全然イメージ違うし、緑は演じきれてないし、突撃隊を出すならもっとしっかりと出して欲しかったし、あのマンションはなんか違うし、結局はワタナベ君の白いパンツばかりが印象に残った映画でした。
あ、でも永沢さんは良かったです。
映画を観ていると、永沢さんの事を「どうしようもない俗物」と言ったワタナベ君の方が、何倍もどうしようもない俗物に観えてしまうから不思議。
村上春樹はこの映画を観て、「やれやれ」って思っているのかな。
<2010-12-26>
女性が滅多に使わない単語。「改造」
男性が滅多に使わない単語。「ナツメグ」
<2010-12-24>
War is over if you want it.
<2010-12-23>
逃げ出せない状況でふりかかる矛盾は、人を依存させるなぁと、改めて思う、年末の夜です。
<2010-12-18>
以前、ダイエットでセッションにいらした方から、嬉しいメールをいただきました。掲載の許可をいただきましたので、ご紹介いたします。
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催眠療法から1カ月が経ちましたが、順調に体重が減っています。
今のところ5kgほど減りました。
朝食は普通に食べるようになり、昼食はカロリーコントロールされたお弁当を宅配してもらっています。
夜は、一食置き換えのダイエットプロティンを飲んでいます。
週に5日は通っていた水中ウォーキングは仕事が休みの日と体が疲れていない日に行っています。
まだまだ頑張ります!
不思議なことに催眠療法をしていただいてから心がとても穏やかになった気がしています。
仕事も嫌で嫌で仕方なったのですが、今は・・・そんなに嫌ではなくなりました。
何よりも朝食を採るようになってからは、体の疲れが出なくなりました。
ダイエット中ですが、イライラしたりすることもなく暴飲暴食もありません。
曖昧なダイエットをしていたのは、ダイエットを終わりにすると太ってしまうという気持ちがあったからだと思います。
変にダイエットばかりしていたので、これくらいなら・・という変な自信があったのだと思います。
どうしても見かえしてやりたい人がいるので、それを目標に頑張ります。
ゆっくりと確実に痩せたいと思います。
催眠療法で色んな事が変わった気がします。
ありがとうございました。
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<2010-12-16>
もし、この世の中に魔法があるのなら、僕は「すぐに効く魔法」なんて信じません。
本物の魔法は、時間がかかるものなのです。
<2010-12-15>
実写版ヤマトを観てきました。
改めて、黒木メイサは時代が生んだ泡なんだなぁと思いました。
<2010-12-12>
誰もがナンバーワンになる必要がないのと同じように、誰もがオンリーワンになる必要もないなぁと思います。
独創的なことが、何か良いことのように語られることもありますが、村上春樹が言っているように、世の中には独創的じゃないことが必要とされる場合がいっぱいあるし、むしろそういう場合の方がずっと多いのです。
少し変わっていたり、他人ができないことができたり、特別だったりすることは、愛される理由にはなるかもしれないけれど、そういうのはどこか、条件付な気がする。
「自分は一体何者なのか?」というのを背負って人は生きていきますが、そんな肩の荷物をおろせたら随分と楽になれるし、そんな人が、僕は好きです。
<2010-12-11>
確か、「ダンス・ダンス・ダンス」に、主人公の「僕」が、ホテルのロビーでユミヨシさんを見つめながら、「Knowing
she would.」と思うシーンが出てきますね。
明日は、「ノルウェイの森」の読書会へ行ってきます。
<2010-12-1>
「素敵」という言葉は、響きがとっても素敵だと思います。
「汚泥」という言葉は、響きが汚いです。
「たっぷり」はとってもたっぷりな感じがしますし、「ふわふわ」はとってもふわふわした感じがします。
言葉というのは記号ですから、素敵なものを表す言葉が「オデイ」でも良かったはずですし、汚泥を表す言葉が「ステキ」でも良かったはずですが、実際には、偶然なのか、それとも慣れなのか、語感と言葉の意味って、すごくマッチしていると思う。
だって、やっぱり「その帽子、とってもオデイ!」って言われたら、何だか嫌だもの。
大抵の言葉は語感と意味が合っているけれど、もちろん、そうではない組み合わせもときどきあります。
例えば英語ですが、[harm] という言葉は、あんまり害がある感じがしません。むしろ、優しい感じがする。
こういうのはことわざにもあって、「焼け石に水」というのは、すごく効果的な感じがしてしまいます。
皆さん、焼けた石に水をかけたことありますか?
すごい音がして、水蒸気がぶわっと広がって、見た目にはめちゃくちゃ温度が下がっている感じがするんですよ。
どうでもいいけど、「ベランダ」って変な言葉です。
何度も繰り返すと、とても変な気持ちになります。
15回目くらいで、窓の外についている「アレ」のことを意味するのかどうか、自信が持てなくなります。
これはただのゲシュタルト崩壊ではありません。
「ベ・ランダ」なのか、それとも「ベラン・ダ」なのか、そんなことまで考えてしまいます。
やっぱり、「ベ・ランダ」かな。
<2010-11-19>
「完全熟睡マニュアル」の中国語版が、台湾で発売されることが決まりました。
執筆当時は、外国の方が読んでくださることなど考えてもみなかったので、オファーを受けたときはびっくりしました。
根拠はないのだけれど、日本よりも売れてしまうのではないかと期待しています。
<2010-11-13>
目からレーザー光線が出たら、楽しいだろうな♪
日常生活では全く役には立たないだろうけど。
<2010-11-12>
「あげる」と「くれる」の違いを外国人に説明するのはかなり面倒な作業です。
そんなルールに従って使い分けていたなんて、自分でも気がつきませんでした。
<2010-10-29>
キャンドル・ジュン……。
とても破壊力のある名前です。
<2010-10-28>
完璧な人間などひとりもいませんから、矛盾していることはなんら悪いことではないと思います。
その矛盾を、気づいたときに認められないことこそ問題です。
<2010-10-17>
心霊写真や心霊現象を怖がる人と、怖がらない人がいます。
怖がらない人はどういう人かというと、まずは超常現象を信じない人です。すべてが合理的に解釈できるという立場で物事を考えますので、例えその場では超常現象に見えても、何かトリックがあるし、厳密に調査すれば科学的にその現象を証明できるはずだと考えます。次に、心霊現象を完全に信じている人も怖がりません。霊はいると思っているのですから、それが見えても「当たり前」なのです。
それでは、どんな人が怖がるかというと、完全に信じてもいないし、完全に否定もできない、中途半端な、煮え切らない人だと思います。
「すべてを疑うか、すべてを信ずるかは、二つとも都合のよい解決法である、どちらでも我々は反省しないですむからである」という言葉がありますが、信念を持っている人は、都合が良いので強いのでしょう。
僕は今では、かなり都合の良い人間になってしまいましたが、それでも、反省しながら進んでいきたいと思っています。
<2010-10-14>
いつか、「ユリイカ!」って叫ぶ日が来るといいなと、ずっと思っています。
<2010-10-11>
海外ドラマを見ていると、向こうの人は、隠していたことがばれたときや、約束を破ってしまったときなど、[ I can explain! ] と言いますね。
「誤解しているようだけれど、これはちゃんと説明できるんだ」ということだと思いますが、日本人はそんなとき、向こうの人ほど、「これには訳があるんです」とは言わない気がします。
誤解を解くよりも、謝るか、開き直るかのどちらかを選ぶように思う。
日本人は、潔さや、言い訳をしないことを美徳としているからでしょうか。それとも、話し合って分かり合うと言う文化が育っていないからでしょうか。
どちらがいいという訳ではありませんが、[ I can explain! ] というセリフを聞くたびに、往生際の悪さを感じます。
そして、周りの人が何かにつけ、[ I'm sorry. ] ではなく、[ I can explain! ] と言い出したら、鬱陶しいだろうなぁと思います。
<2010-10-9>
平凡なのが一番だと思います。
心がワクワクするような幸せがいいに決まっていると昔は思っていましたが、幸せって、コントラストの中にしか見つからないんですよね。
幸せがずっと続いたら、だんだんとその感覚が麻痺していくし、良いことがあるということは、それがなくなったとき、反動で平凡さえも虚しくなることだと思う。
いま持っている人は、それを失くしたとき、初めから持っていない人よりも苦しみますし、いま持っていない人は、一生持てないのではないかと不安になったり、諦めたりしながら生きていきます。一見、前者の方が幸せに見えるけれど、例え持っていないまま一生を終えたとしても、失くしたときの激しい苦しみがない分、どちらも大して変わらないのではないかなぁ、と。
だったら僕は、心を乱されないで、平凡に生きていきたい。
平凡な日々の中にある、当たり前の幸せを味わえたらって思います。
<2010-10-7>
マロンは長毛のせいか、ブラッシングが大好きです。
毎回、ごっそり取れるので、やりがいがあります。
最後の方で、ぐるっと反対を向いていますが、これは、「こっち側もやってくれ」ということらしい。
聞こえるかわかりませんが、一応、ゴロゴロ言っています。
寺田寅彦は、「私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだくことのできないのを残念に思う。
そういう事が可能になるためには私は人間よりも一段高い存在になる必要があるかもしれない」と言っていますが、ブラッシングをしているときはまさに、「純粋なあたたかい愛情」を、僕はマロンに対して抱いている気がします。
<2010-10-3>
「やらないで後悔するより、やって後悔する方がいい」と言う人がいますが、あれ、嘘だと思う。後になって、「あぁ、やらなければ良かった」って思うより、「あぁ、やっておけば良かった」と思う方が、辛くないもの。
「考えずに動け」と言う人もいますが、そんなことを続けたら、いつか考えられない人間になってしまいます。
「やってから後悔しろ」、「考えずに動け」と言うのは、洗脳の匂いがして、僕は嫌いです。何だか自己啓発セミナーみたいで。
カイさんの言っている通り、「臆病なくらいがちょうどいい」と思っています。
<2010-10-2>
つつじヶ丘の駅前に、オオゼキというスーパーがあって、その前の道にはいつも、自転車がずらーっと並んでいます。
ちょうどその前を歩いていたとき、無理に自転車をとめようとしたおばさんが隣の自転車を倒してしまい、自転車は将棋倒しのように次々に倒れていきました。
僕はとっさに倒れていく一番端の自転車を受け止めて、それ以上倒れないように支えたのですが、台数が結構あったので、そのまま身動きがとれなくなりました。力を抜けば更に自転車が倒れてしまうし、立て直すには重過ぎます。
自転車を倒したおばさんの方を見ると、オロオロするばかりで、倒れた自転車を一台ずつ立て直そうという気配がありません。おばさん、あなたが動かないと、僕はこのまま動けないのですよ、という気持ちでいると、どこからともなく、3、4人の男性が現れて、手際よく、自転車を直し始めました。
最初はオオゼキの店員かと思ったのですが、そうではなく、皆さん、通行人のようです。
僕は、「逆襲のシャア」のクライマックスで、アクシズを支えているアムロのような気持ちになりました。
こういった、何気ない人の優しさに触れると、日本は素敵な国なんだなぁって思います。
<2010-9-29>
人生初カーナビを買いました。
カーナビ購入は、車を買い換えたときに一度検討したことがあります。
当時は、HDDナビが出始めで、ナビよりも、音楽を保存しておいて自由に聴けるようになることが魅力でした。
しかし、価格が30万円近くしたので、さすがに手が出ませんでした。
MP3プレーヤーを購入してからは、車ではCDだけでなく、MP3プレーヤー+FMトランスミッタで音楽を聴くようにもなりましたし、ナビ自体は、1年に2、3度、「ナビがあれば。。。。」と思うことがある程度だったので、ここまで、カーナビの必要性はそれほど感じませんでした。
ただ、不便を感じることがあるのも事実でした。
音楽を聴くとき、毎回シガープラグから伸びている電源をMP3プレーヤーに接続し、ヘッドフォン端子にFMトランスミッタを接続し、電源を入れなければなりません。また、エンジンを切っても内蔵の電池で動き続けるので、手動で電源を切る必要もあります。
知らないところへ出かけるときには、事前に googleマップ
で行き先を調べ、地図を印刷することで、大抵は問題なく目的地につけるのですが、曲がるところを一度間違えてしまうと、迷ってしまいます。また、予定外のところへ行くことになったときにも困ってしまいます。
やはり、ナビがあるに越したことはありません。
今乗っている車は8年目ですので、今から据付型のナビをつけるのはタイミングが悪い気もしますし、かといってポータブルナビは画面も小さく、役に立たないイメージがあり、ナビをどうするかは、ここ数年、ずっと悩んでいました。
今回、思い立ってナビについて調べてみると、ナビも随分と安くなっており、さらにポータブルナビの性能も、据付型に迫るものがあることを知りました。
ナビを買う上で、いくつかの条件がありました。
・FMトランスミッタがついていること。
(僕の車には外部入力がありませんし、音楽をナビ本体の貧弱なスピーカーでは聴きたくないので、これは必要です)
・エンジンのオンオフに、電源が連動すること。
(電源くらい、自分で入れればいいと初めは思っていたのですが、これが意外と面倒なのです。連動すれば、カーステレオ感覚で使えます)
・音楽のレジューム再生が可能なこと。
(いまどき、レジュームが効かない機種があるのかは判りませんが、僕はパソコンで録音したラジオ番組を聴くことが多いので、レジュームが効かないと、いちいち聴いた所まで頭だしをしなければなりません)
・ナビを使いながら音楽が聴けること。
(ポータブルナビには、これができない機種が少なからずあるようです)
・画面が7インチ以上で、解像度が高いこと。
(ポータブルナビは、4.3インチのものが多いのですが、これだと小さいです。また、7インチの製品でも、4.3インチと変わらないものがあります)
・地図データが4GB以上。
(2GBの地図が載っているナビもありますが、最低4GBは欲しいです。これは、ナビを使ったことがないので、根拠のない希望です)
・SDカードが使えること。そして地図データが、SDカードではなく、本体のメモリに内蔵されていること。
(SDカードを大容量のものにできれば、データをたくさん入れられます)
・出来れば、動画再生や、ワンセグがついていること。
(車の中で動画やテレビは観ませんが、せっかくのポータブルナビですから、メディアプレーヤー的に、持ち運んで使えればと思いました)
これら、すべての条件を満たす製品がないかと探したところ、唯一、MANDO
JM-HT700NE というポータブルナビが、条件に適うことがわかりました。お値段も3万円台で、以前から比べれば激安です。
早速、16GB の SDHCカードと一緒に購入し、車に取り付けてみました。
配線は、シガープラグから電源を取るだけ。ワンセグのアンテナも、GPSアンテナも内蔵です。
スタンドは、吸盤式ではなく、接着式だったのですが、ちょうどカーステレオの隙間にスタンドの脚を差し込むことができましたので、接着シートは使わず、100円ショップで購入した耐震ジェルで固定しました。
一週間ほど使ってみましたが、とにかく便利です!
音楽を聴くという目的の方が大きかったのですが、もういちいちコードをつなげたり、CDを入れ替えたりしなくても、持っている音源がすべてナビの中に入っているというのは、すごい進歩です。MP3プレーヤーでも多くの音源を入れておくことができましたが、ナビの大きな画面に曲名リストやフォルダリストを表示できて、画面に触れるだけでそれを選択できるので、操作も格段に楽になりました。
ワンセグは期待していませんでしたが、自宅でもちゃんと映りました。車の中でも、見通しのよい広い道ならば、内蔵アンテナだけで映ります。スカイツリーから電波が出るようになれば、もっと安定するのではないかと思います。
肝心のナビですが、とても便利に使えています。
知っている場所も、ナビを使ってどんな道を案内してくれるのか試していますが、「こんな近道があったんだ!」という発見が結構あり、面白いです。
また、「周辺検索」ができるので、今いる場所の近くにあるレストランとか、コンビニなどを、簡単に探すことができます。
地図上にお店のロゴが表示されるので、事前にこの先にどんなお店があるのか知ることができ、「そろそろどこかでお昼にしよう」というときにも役立ちそうです。今までは、看板をみつけて「どうしようかな、ここにしようか、それとも、先にいくと他のお店もあるのかな」などと考えているうちに通り過ぎてしまうことがあったので、知らない所を走るときには、これは便利だと思いました。
バッテリーでも2時間くらいは動くみたいなので、電車で出かけるときも、これがあれば迷わないですみそうですし、暇つぶしにもなりそうです。
DVDレコーダーを初めて買ったとき、あまりの便利さに、もうビデオデッキには戻れないと思いましたが、そのときと似た感覚を感じています。
MANDO
というメーカーは聞いたことがなかったので、使ってみるまでは不安でしたが、3万円台のナビでここまで使えるなんて、コストパフォーマンスが高すぎだと思いました。
カーナビをご検討中の方がいらっしゃいましたら、是非、JM-HT700NE
も調べてみてくださいね。
<2010-9-24>
先日、近所の電気屋さんで3Dテレビを観てきました。
メガネをのぞくと、当たり前ですが、本当に立体でした。
ただ、それで迫力があるかと言えば、まったく逆で、大画面テレビのはずなのに、映像の世界がおもちゃみたいに、小さく感じました。
同じ大きさの普通のテレビは、大迫力なのに、どうして3Dだと小さく感じるのだろう?
しばらく意味が解らなかったのですが、何度も観ているうちに、理屈が解りました。
おそらく僕の脳は、2Dの画像は「ニセモノ」として観ているのに対し、3Dの画像は「ホンモノ」と勘違いしているのでしょう。
1mのAさんの写真があったら、「大きい写真だなぁ」と思うと思いますが、1mのAさんが目の前に現れたら、「Aさん、どうして小さくなっちゃったの?」と思うと思います。どうも、それと同じことが3Dテレビではおこっている気がする。
ですから、違和感をなくすには、原寸大以上のサイズにしないとダメなのかもしれません。
僕は学生の頃、野球が大好きで、テレビ中継のない日は、ラジオにかじりついて試合終了まで聞いていました。
ラジオで聞く野球は、大部分を自分の脳で補完しなければなりませんので、逆にものすごくリアルでした。
僕はスタンドで、マウンドで、そしてバッターボックスで試合を感じていました。雨が降れば雨を感じ、風が吹けば風を感じました。
途中までラジオで聞いていた試合の続きをテレビで観ると、何とも味気ない感じがしました。
テレビを観るより、ラジオで聞く方が、より想像力を必要とし、その分、空想の世界に没頭することができたのだと思います。
映像が見える(情報が増える)ということは、想像力を使わずにすむということですから、楽ですが、そこにある以上の感動はないわけです。
3Dテレビも、ラジオからテレビほどの変化ではないにしても、情報が増えることで、一層、脳で補完する必要がなくなるのだと思います。
昨年、ベランダに地デジのアンテナを設置したまでは良かったのですが、それに安心して、未だに僕はブラウン管のアナログテレビを使っています。
3Dは流行らない、という専門家もいますが、僕はせっかくなので、3Dテレビに買い換えようと思う。
ついでに3Dで録画できるビデオカメラも買って、我が家の猫を撮りたいと思っています。
まぁ、わざわざテレビで立体の猫を観なくても、隣に立体の猫がいるわけですが……。
<2010-8-22>
「完全熟睡マニュアル」のオーディオブックが発売になりました!
執筆中は、まさかオーディオブックにもなるとは思っていなかったので、「声に出して読まれる」ことなど意識しないで書いたのですが、音で聞くのと文章を読むのとでは印象が少し違うなぁと思いました。
まだサンプルしか聞いていませんが、「読む自己催眠」をオーディオブックで聞くと、かなり効果があるのではないかと思います。
オーディオブックは、こちらから購入できます。
<2010-8-16>
異性を顔で好きになることもあれば、そうでないこともありますね。「キレイだから好き」、「カッコイイから好き」ということもあれば、「顔は良くないけれど好き」だって当然あり得ます。
また、自分の好みの顔というものがありますから、「一般的にはキレイなのだろうけれど、自分はキレイだとは思わない」ということもあれば、「一般的には評価が低いかもしれないけれど、自分はすごくキレイだと思う」ということもあり得ます。
このふたつが組み合わさると、ちょっと困ったことになります。
「一般的にはキレイなのだろうけれど、自分はキレイだとは思わない。だけれど、好き」ということが起こり得る。
すると、顔で選んだわけではないのに、周りから見れば、「あいつはメンクイだ」とか、「顔で選んでやがる」と見られてしまう。
こういうのは、本人にしてみれば、心外だろうなぁと思います。
あまりにも暑いので、本当にどうでも良いことを書いてみました。
<2010-8-4>
昨日の日記にも出てきましたが、僕は「概念」という言葉が異常に好きです。
もう、お墓に刻んで欲しいくらい。
「概念」の発見は、「引力」とか「ゼロ」とか「アメリカ大陸」とかの発見と比べても、勝るとも劣らない、大発見なのではないかと思います。
「概念」という概念はいつごろ発見されたんだろう?
やっぱり昔は、旧仮名遣いで「ぐゎいねん」とか表記したのだろうか?
英語の「コンセプト」なんて軽すぎて、全然「概念」っぽくありません。
この語が生み出す気品、風格は、まるでよく使い込まれた年代物の一枚板のテーブルのように重厚です。
<2010-8-3>
「意味」という単語の持つ理不尽な強制力は、もしかしたら数ある単語の中で一番なのではないでしょうか?
例えば、「いろんな意味で○○だ」という言い方があります。
いろんな意味で頭にきた。
いろんな意味で嬉しかった。
いろんな意味で美味しかった。
いろんな意味であいつは頭がいい。
いろんな意味であいつは傲慢だ。
○○に何が入っても、聞く方は、解ったふりをするしかありません。
この言い回しの、優れていて、そして理不尽な点は、この構文に当てはめるだけで、誰でも簡単に、謎かけ的な、あいつできるな的な空気を醸し出せる点にあります。
しかもその答は、聞く側が作り出さねばならず、大抵の場合において、言った本人は、「わかるよな。皆まできくなよ」という威圧的な態度ですから、容易に「いろんな意味ってどういう意味?」などとは聞けません。そんな質問をするのは、ひどく野暮な感じがするのです。
ですから、したくはなくても、「いろんな意味って、どういう意味と、どういう意味のことなんだろう?」と考えることになります。そしてかろうじて出てきた答が、本当に相手が言っている意味と同じかどうか、不安に感じながらも、解ったふりをして話を聞きつづけるしかないのです。
皆さんは今日、どんな日でしたか?
今、浮かんだ「今日は○○な日だった」を、「今日はいろんな意味で○○な日だった」に変えてみてください。
たったそれだけで、聞き流すわけにはいかず、強制的にもうひとつの意味を考えてしまいませんか?
似たような言い回しに、「いい意味で○○だ」というのがあります。
この言葉の強制力(むしろ矯正力?)もすさまじく、○○にどんな悪口が入っても、聞く側にその良さを考えさせる力を持っています。
意味が通らなくても、ほぼすべての悪口が、中和されてしまうのです。
あいつはいい意味で馬鹿だ。
あいつはいい意味で悪人だ。
あいつはいい意味でケチだ。
あいつはいい意味で裏切り者だ。
あいつはいい意味で凡人だ。
あいつはいい意味でニセモノだ。
あいつはいい意味で人を馬鹿にしている。
「いい意味で」がなければ、本当にただの悪口ですが、「いい意味で」を入れるだけで、一気にそれが長所になってしまいます。
「いい意味の悪人」とか、「いい意味のニセモノ」などあるわけがないのだけれど、そう押し切られると、無理をしてでも「いい意味」をあぶりださなければならなくなります。「いろんな意味で」と同じように、素通りを許さない言葉なのです。
また、面と向かって自分に言われても、こういう言い方をされると怒るに怒れません。
「あなたはいい意味で凡人ですね」と言われても、何だかそのあとに、ものすごい深い内容のフォローがあるのを期待させますので、そのタイミングでは「どういう意味だ!」と怒るわけにはいきません。襟を正して、これから語られるであろう、その「いい意味」とやらが、どれだけ自分を気持ちよくさせてくれるのかを待つしかないのです。そして続いて話される内容に、どう好意的に聞いても、期待したようなフォローがなかったところで、一度怒るタイミングを外してしまいましたから、いまさら怒ることはできないのです。
それに怒るにしても、「いい意味で」と言っているのですから、それに対して怒るのは、小さな人間みたいで、やはりばつが悪い感じがします。
「概念」という単語が、びっくりするくらい概念的なことは、以前から不思議でなりませんでしたが、それを遥かに超えて、「意味」という単語が、今は不思議でなりません。
「意味」の意味は、意味的なものだけではないように思うのです。
<2010-8-2>
セミの抜け殻を見るたびに、人間も脱皮できればいいのにって思います。
ずいぶんすっきりするのだろうな。
<2010-7-28>
いいえ、マイク。それはアイスカフェラテではなくて、コーヒー牛乳です。
<2010-7-27>
ビリー・ジョエルの「PIANO
MAN」。
なんて悲しくて、なんて美しい曲なんだろう。。。。
閉塞感をここまで煮詰めて、芸術に昇華した曲って、他にないのではないだろうか。
そして土曜日の夜の、諦めにも似た人々の陽気さ。
改めて、人生は空っぽだけれど、それも悪いことではないのだという、
とても優しい気持ちになりました。
隣の老人も、友達のジョンも、ウエイトレスも、ビジネスマンも、店のマネージャーも、
誰もが孤独を抱えていますが、
海軍にしがみついているデイビーのくだりが、誰よりも救いようがなくて、
韻の踏み方も含めて、一番好きです。
このビデオを観て、やっぱりいつか、ピアノを始めようと思いました。
すぐには無理だけれど、60歳になるまでには、この子のように、 この曲を自分で弾き、歌えるようになりたいです。
ピアノだけではなくて、高い声が出せるようにボイストレーニングもしないといけませんが、いつか、僕もYoutubeにアップできるまでになりたい。
<2010-7-25>
昨日、男性はみんな 小栗旬 で、女性はみんな 加藤あい だったら、という話を書きましたが、小栗旬 や 加藤あい
のことが好きではない人にしてみれば、そんな世界は全然テンションがあがりませんね。
じゃあ、人間がみんな誰の顔だったら、多くの人が楽しく生きていけるのだろう?
今なら 三浦春馬 とかかもしれませんが、どこか「流行りもの」みたいな感じがして、案外はやく飽きられちゃうかもしれない。キムタク も違う気がするし、福山雅治
も、好き嫌いがわかれそう。
女性だと、佐々木希 はかわいいけれど、世の女性全員が彼女の顔だったら、やっぱりなんか辛い。紀香 も想像すると、全然違う。結局は 吉永小百合
あたりかもしれないと思ったりもしましたが、純粋にテンションがあがりません。
飽きられず、それでいて、無難でもなく、万人に受ける顔となると、なかなか難しいですね。
男性だと 妻夫木聡、女性だと 江口ともみ あたりでいかがでしょうか、皆様。
異論は、受け付けます。(^^;
<2010-7-24>
僕は猫を自分で飼うようになるまで、猫はみんな同じ顔をしていると思っていました。
もちろん、柄の違いはありますし、丸顔だったり三角だったりという違いもありますが、それらは人間で言えば、洋服の違いや、太っているか痩せているかくらいの違いにすぎず、「顔が違う」というほどのものとは思っていませんでした。
猫だけでなく、僕は長い間、「何で人間は顔がひとりひとり全然違うのに、動物はみんな同じ顔で生まれてくるのだろう?」というのが不思議でなりませんでした。人間の顔は、本当にバラエティに富んでいて、テレビに綺麗な女優さんや格好いい俳優さんが出てくると、同じ人間とは思えないくらいです。しかし、キャットショーで優勝するような猫と、街で見かける野良猫が、そこまで違うとは思えません。
猫好きにそんな話をすると、「えー! 全然違うのに。。。」と、笑われたり怒られたりします。猫の顔の違いに気がつけないのは観察力が足りないからだ、と言わんばかりです。
そんなときは、僕はスズメの話をします。「じゃあ、スズメも見分けることできる?」
すると大抵の人は、言葉に詰まります。猫は見分けることができるけれど、スズメは見分けることはできないようです。
でも、おそらくスズメを飼っている人がいたとしたら、顔の違いに気がつくはずです。猫好きが、「でもスズメなんてみんな同じ顔でしょ?」と言ったら、やっぱり笑われたり怒られたりするのかもしれない。
そんなスズメを見分けられる人も、おそらく昆虫は無理でしょう。このセミはかわいいとか、このセミは目が離れすぎているとか、そんな顔の違いに気がつくことは難しいだろうし、例え気がつけたとしても、人間の顔が与える印象の差に比べれば、その違いは、ほとんど識別のためにしか意味をなさないと思うのです。
猫を飼い始めて、「動物はみんな同じ顔だ」というのは間違いだったことにようやく気がつきました。やっぱり、驚くほどかわいい顔の猫もいれば、そうでもない猫もいます。でもこれは、猫を好きになったから気がついたことで、相変わらず、スズメは同じ顔に見えます。
結局、その対象に関心を持っていると、違いに気がつくようになる、ということなのでしょう。猫に関心がある人は猫の顔は全然違って見えるけれど、スズメは同じ顔に見える。スズメに関心がある人は、スズメの違いには気がつけるけれど、猫は全部同じ顔に見える。
もし人間が、本当に全員同じ顔だとしたら……、例えば、男性はみんな 小栗旬 みたいな顔をしていて、女性はみんな 加藤あい
みたいな顔をしていたら、恋愛はもっとずっと楽になるのでしょうか? 外見にはまったくとらわれないで、100%内面だけで人を判断できるようになるのでしょうか?
それとも、もっと細かいところをみて(日焼け具合とか、細いとか太いとか、肌や髪のお手入れ具合などで)、やっぱり「綺麗」だとか「不細工」だとか言うようになるのでしょうか? その小さな差で、恋に落ちたり、「あの人は私のタイプじゃない」とか言ったりするのでしょうか?
人間が外見に左右されるのは、あまりにも外見の見方に洗練されてしまったためではないかと、猫に対する見方が変わったことを通して、思うようになりました。昔は猫はみんな同じだと思っていました。どの猫も、かわいさは同じでした。しかし、猫に関心を持っている今となっては、すごくかわいいと思う猫もいれば、そうでもない猫もいます。
どちらの見方が正しいとか間違っているとかではありませんが、全部同じ顔に見えたほうが、僕は幸せな気がします。猫に、かわいい顔もかわいくない顔もなくて、猫は猫。全部同じ。全部同じようにかわいい。
人間も同じで、綺麗も、格好いいもなくて、全部ただの人間。同じように愛しい存在。
その方が、みんな幸せだと思うし、もしかしたら本当に、そんな差なんて元々ないのかもしれない。差のないものを、差があると思い込まされて生きてきたのではないだろうか。
もし宇宙人がやってきたら、人間は全部同じ顔に見えるのかもしれません。そして、宇宙人からみれば本当に些細な差で、ある人間は大勢から憧れられていて、ある人間は自分の外見に自信を持てないまま生きていることを、不思議に思うのかもしれません。
いや、でもやっぱり、それとも違うのかな。
本当に、関心のない人から見れば、猫の顔は大して違わないけれど、人間の顔の違いは、宇宙人から見ても、明らかなほどに違うのでしょうか?
この年になっても、わからないことはたくさんあります。
<2010-7-22>
今週土曜日に開催される、「催眠体験会」ですが、まだ残席あります。
ご興味のある方、是非いらしてくださいね!
<2010-7-20>
淋しいのはどっち?
「夏の夕暮れ」 対 「秋の夕暮れ」
レディー、ファイト!
(「お問い合わせ」から、どちらが淋しいか、理由も含めて送っていただけると嬉しいです! ある程度あつまったら、結果をまとめて、匿名でこちらに掲載いたします)
<2010-7-19>
7/2にご紹介したアイコは、こんな感じで赤くなりました。
まさに鈴なり!
このアイコ、4本仕立てにしており、摘芯栽培をしているので、1本につき10花房、ひとつの花房に10個なるとすると、400個くらいとれてしまうと、捕らぬ狸の皮算用をしていました。
実際には、すべてが受粉するわけではないだろうし、4本仕立てでは栄養不足で思った通りに成長しないかもしれないので、200個くらいとれれば良いかなぁ予想していましたが、この調子だと、本当に400個以上とれそうです。
<2010-7-17>
「攘夷」という言葉の持つ凄み、嫌いではありません。
今回の選挙、「今こそ攘夷実行!」というスローガンで戦う政党が出てきたらどうしようと思いましたが、出るわけありません。
<2010-7-8>
ブルーベリーを初収穫しました。
これは、ティフブルーと言う品種です。
このティフブルーの木、何故か今年は元気がありません。
普通、花を咲かせた後、葉や枝がワサワサと広がっていくのですが、今年は元気のない葉が申し訳程度に出てきただけで、新しい枝(シュート)の発生がなく、葉の色も悪いです。
もう少し早く気がつけば、花を全部とって、今年は木の回復にあてたのですが、花が咲くくらいまではとても順調だったので、様子を見ている間に手遅れになってしまいました。今から摘果しても効果は期待できそうもないので、かわいそうだけれど、ついている実をすべて収穫するまでは、このままがんばってもらうことにしました。
経験上、こういう株は、翌年復活することはなく、枯れてしまいます。
唯一の可能性は、バッサリと剪定することです。
剪定しても枯れてしまう可能性は高いのですが、うまくいけば、剪定したところから強いシュートが発生して、元気を取り戻すことがあります。
このティフブルーは、ブルーベリーをはじめた頃に植えた苗で、思い出も多いので、どうにか復活して欲しいと思っています。
<2010-7-2>
ミニトマトのアイコが、次々に色づきはじめています。
収穫するのがはやいと甘くないので、とりたい気持ちを我慢して、もっと濃い色になるのを待っています。
今年は、連続摘芯栽培という方法を試しており、実がついた茎を、捻枝といって、わざと折っています。そうすることで、葉で作られた栄養が、株全体にまわらずに、実に集中するため、実が大きくなるそうです。
そのせいか良くわかりませんが、ミニトマトというには大きすぎるサイズに成長しています。(アイコはミニトマトだと思っていましたが、中玉トマトと分類されるようです。だから大きいのかな)
このように、多いところでは1段に20個も実をつけています。
一度に赤くなったら、食べ切れません!
ブルーベリーはジャムにすればいいけれど、ミニトマトがとれすぎたときはどうすればいいのか、そろそろ考えはじめないと。(^^;;
こちらは、ブルーベリー(ホームベル)です。
ホームベルはラビットアイ系のブルーベリーで、ラビットアイ系は毎年、梅雨明けにならないと色づかないのですが、この3つだけ、もう青くなり始めています。
日照時間も少ないので、あと1週間くらい収穫を待とうかなと思っています。
ただ、1週間も放置すると、鳥に食べられてしまうかも。
悩みどころです。
<2010-6-16>
植え付け後、2ヶ月たち、ようやくミニトマトのアイコが色づいてきました。
株はかなり大きくなり、すでに青い実は50個以上ついているのですが、なかなか実が赤くならず、やきもきしていました。(やきもきって、何か変な言葉・笑)
本当は今日、とって食べようと思っていたのだけれど、まだ「真っ赤」の一歩手前なので、もう少し待ってみようと思います。
残念ながら、色づいているのはこの1個だけ。本格的な収穫には、まだ時間がかかりそうです。
写真の左に見切れているのは、万能ねぎです。
アイコのために、何かコンパニオンプランツを植えようと思い立ち、ネットで調べたところ、バジルやフレンチマリーゴールドがよさげだったので、早速ホームセンターへ行ってみました。しかしどちらも置いてありませんでした。
そこで、スーパーの100円市で見つけた万能ねぎを買ってきて、食べた後の根の部分を植えてみました。万能ねぎが、コンパニオンプランツとしてどれくらいの効果があるのかは不明です。(^^;;
この万能ねぎ、予想以上に成長が早く、毎日、変化がわかるくらい大きくなります。
アイコの収穫よりも、しばらくは万能ねぎの収穫を楽しめそうです。
今まで色々な植物を育ててきましたが、間違いなく、万能ねぎは一番簡単に収穫できる植物だと思います。
ところで、以前にも似たようなことを書きましたが、「万能ねぎ」というネーミングは、大風呂敷を広げすぎだと思います。
どこら辺が万能なのかも、不明です。
<2010-6-10>
LIFE is coming back!
<2010-6-8>
「ウェイヴ」という映画を観ました。
この映画は、アメリカの高校で実際に起こった事件をもとに制作されています。
たまたま、西田公昭著「マインド・コントロールとは何か」にこの事件のことが書かれており、興味があったので観てみました。私が要約するより、原文を読んだ方がはやいと思いますので、以下、引用します。
---
一九六九年、ある高校教師が、歴史の授業でナチス支配下のドイツにおける全体主義を教えようとしていた。彼は講義で映画を見せて全体主義を説明したが、学生たちは、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、なぜだれもナチの行動を批判できなかったのかが、まったく理解できないという様子であった。そこで、その高校教師はある試みをおこなった。
教師は、生徒に「規律と力を作り出せることを証明しよう」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるように指導した。はじめ教師は嫌がられるのではないかと懸念したが、ふだん自由な雰囲気で教育されてきた生徒たちは、嫌がるどころか競争心をもって規則に従おうとした。不気味なことに、生徒たちは規則を覚えるたびに、つぎの規則を欲してゆき、授業終了のベルがなり終わっても、彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。
つぎの歴史の授業においてもそれは続いていた。教師はとても驚いたが、そこでやめようとはいわずに、逆に彼は「規律の他に共通の目的のためにはたらく共同体に参加しなくてはならない、この運動を『ザ・ウエーブ』とする」と主張した。さらに「この運動の信念に従って行動することが力を得る」と主張した。生徒たちは、運動の旗印を作り、運動員章をつくり、この運動はクラス外の人びとにまでものすごい勢いで広がっていった。
この教師の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒たちに浸透していった。ナチスの運動とそっぐりであった。彼らは、自分たちの自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」グループに入っていない人に対する優越を得て、差別をし、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようという者はほとんどいなくなり、そうした者は密告され、制裁を受けることになっていった。
結局、この歴史教師は、メンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映画を見せ、自分たちのやっていることがナチスと同じであったことを示し、だれでもが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のあることを説明した。生徒たちは愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢をくずし、軍旗をすてた。
このように現実の場面で、高校教師という他者が大勢の高校生のこころと行動を操作してしまった。そして高校生自身は、そのことに操作者自身から告知されるまで気づかなかった。これが永続的マインド・コントロールなのである。
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映画の方は、ドイツを舞台に作られているのですが、とても面白かったです。
この教師が、生徒たちをコントロールする為にいろいろなルールを作っていくのですが、そのひとつひとつは特別に過激でもなく、むしろ当たり前のもので、悪用しようと思えば、この映画を観るだけでも、いくつものヒントが隠されているなぁと思いながら観ました。
これは言い過ぎかもしれませんが、私は人間は、誰でもカラッポな存在だと思っています。
カラッポな人間が、文化や政府やメディアや友人等にマインドコントロールされて、あたかもそれが自分の考えであるかのように行動しているのだと思います。
つまり、もし誰かを好きになったとしたら、それが意図的ではなかったにせよ、相手の「何か」が、自分をマインドコントロールした、と考えることは可能ですし、そこには人を動かす(少なくとも自分の気持ちを動かす)ヒントが隠れているわけです。
……と言っても、これも特別なことではなくて、自分が優しい人間に弱かったとしたら、「優しさ」は人に影響を与える原動力になり得るということですし、清潔な人に惹かれるのであれば、「清潔さ」もヒントになることでしょう。
拉致したり、眠らせないようにしたり、延々と人格攻撃をした後に優しくしたり、食事を制限したりする必要はなくて、カラッポな人間に対して、あたかもそこに何かが入っているのだと錯覚させるような振る舞いをすることこそ、マインドコントロールの本質であり、私たちは誰に教わったわけでもなく、当たり前のようにそれを使っているのだと思います。
無意識的に、社会常識や経験則としてそれを行なっているうちは怖くはありません。
怖いのは、それらの意味や、与える影響を十分理解した上で、組み合わせてシステマティックに使われた場合です。
ときどき、セールスの電話がかかってくることがあり、まるで社会心理学の古典のようなテクニックでこちらに「はい」と言わせようと誘導されることがありますが、さすがにそれにはひっかかりません。使っているテクニックは本格的で、かなり高度な心理誘導を仕掛けてきます。マニュアルがあるとしたら(恐らくあるのでしょう)、非常に合理的なマニュアルです。
しかし残念なことに、電話をかけてくる相手が、自分のやっていることの意味をまったく理解していないのです。なぜこういった流れに持っていけば、相手が「はい」と言うのかを理解しないまま、マニュアルの言葉を繰り返しているだけなので、ちょっとでもマニュアル外のことを言われると、対応できないか、無視して無理やりマニュアルを読み続けるか、どちらかになってしまいます。
また、そのマニュアルも「あざとさ」丸出しですので、セールスに慣れている人は、初めから聞く耳を持たないでしょう。
しかし、もし彼らが自分たちのやっていることの意味を理解し、相手に合わせて柔軟な対応をしてきたら、断ることは数段難しくなることと思います。気がつかないうちに「はい」と言ってしまう可能性は高くなります。
セールスなど、見知らぬ人からの電話ならば、ある程度はこちらも構えますので、あるいは抵抗することができるかもしれません。しかしもし、知人が、十分にこちらのことを調べ、綿密な計画を立て、惜しみなく金銭を投入してきたら、それらがすべて道徳的な方法だったとしても、いや、むしろ道徳的な方法であればあるほど、私たちは「ノー」ということができなくなるのです。
この映画を観て、決して思想が行動を決定するのではなく、行動が思想を決定するのだと言うことを、改めて思わされました。
頭の良い悪人には観て欲しくない映画です。
ただの映画と言えばそれまでですが、本気で学ぼうとすれば、恐ろしい How to 映画だと思います。
<2010-6-7>
今週の土曜日に、「催眠体験会」を行ないます。
ご興味のある方は、是非、ご参加ください!
<2010-6-3>
梅雨前の今の季節が、一年の中で一番気持ちがいいですね。
日は長いし、蚊も少ないし、夜は涼しくて爽やかだし、空気が新鮮な感じがします。
僕はときどき、モンスター薄着なので、寒暖の差にやられることもありますが、それでも大好きです。
<2010-6-2>
育てているアイコ(ミニトマト)の実が、だんだん大きくなってきました。
苗の方も急成長していて、今のところ、4本仕立てでも問題ないようです。
今年は、「連続摘芯栽培」というのにチャレンジしています。
ミニトマトではあまりやる意味がないという情報もありますが、どんな風になるのか、練習もかねて挑戦中です。
こちらは、アイコと同じ日に購入した、次郎(柿)です。
棒苗の状態で購入し、植木鉢に植えるときに値を確認したら、細根がほとんどなく、貧相な太根が申し訳程度に生えているだけでした。
なるべく水はけを良くして植えましたが、待てど暮らせど変化がなく、「やっぱり粗悪な苗をつかんじゃったんだなぁ」と諦めていました。
ところが数週間前から芽が膨らみだし、写真のように、無事に枝が伸びてきたのです!(見辛い写真でごめんなさい)
根が今、どんな状態なのか、確認はできませんが、この枝や葉が成長している間は、心配しなくても大丈夫だと思います。
<2010-5-25>
僕は海外ドラマが好きなのですが、これから「メンタリスト」、「フラッシュフォワード」、「ダーティセクシーマネー」や「LOST」や「HEROES」の新シーズンと、楽しみなドラマが目白押しです。すでに始まっている「ゴシップガール」の新シーズンや、「弁護士イーライのふしぎな日常」、Xファイルのモルダー役の俳優が出ている「カリフォルニケーション」も、初回を観たら面白かったので観続けています。
夏に始まったドラマが終わる頃には、「ブラザーズ&シスターズ」や「ボストンリーガル」の新シーズンも始まり、気がつけば今年も終わるのでしょう。
元々はPRIDEのPPVを観るために契約したスカパーも、今ではすっかり海外ドラマ専用チューナーになっています。
スカパーに契約してまで海外ドラマを観ている知り合いがいないので、「GLEEのクィンはゴシガルのセリーナを超えたよね」とか、「イーライにプラクティスのユージーンが出てたね」的な話ができないのが残念です。(^^;;
<2010-5-23>
「好き」という言葉、もっとみんな使った方がいいと思うなぁ。
なんか、「言ったら負け」みたいに思っている人が結構多いように思うのですが、甘んじて負けてあげるのが愛ってもんじゃないでしょうか。
それに、「好き」と言ってみるだけで、それは魔法のように、もれなく色々なおまけがついてきます。
決して相手のために言う言葉じゃなくて、めぐりめぐって、自分のために言う言葉だと思います。
<2010-5-20>
今日、ふと、「二人しか来なかった」という文章を読んで、すごく不思議な気持ちになりました。
これ、主語は「二人」ですよね。動詞は「来なかった」です。
ということは、単純にそれらをつなぐと、「二人来なかった」になって、来ていないことになるのだけれど、実際の意味は「二人だけは来た」です。
「来なかった」って言っているのに、しっかり「来た」イメージをしている。何故?
これ、日本語を習っている外国人は混乱しないのだろうか?
間に挟まっている「しか」って、どういう意味なんだろう?
辞書によると、「体言またはそれに準ずるもの、動詞の連体形、形容詞・形容動詞の連用形、格助詞などに付き、下に常に打ち消しの語を伴って用いる。特定の事柄・条件だけを取りあげて、それ以外のものをすべて否定する意を表す」となっていますが、何だか解ったような、解らないような説明です。
打消しの語を伴ってそれ以外のものを否定することで、それだけだということを表現したいのは解るのだけれど、何でこんなややこしい言い回しを日本人は普通に使っているのだろう?
「しか」を強引に他の言葉と置き換えるとしたら、「以外は」になると思います。
そこで、「打消しの言葉を伴う」というルールを無視して、「二人だけ来なかった」という意味で、「二人しか来た」とすると、やっぱり「二人は来ている感じになってしまう。
このモヤモヤ感が皆さんに伝わっているか不安ですが、僕が不思議なのは、先ほども書いたとおり、「来なかった」って言っているのに、二人は来ていることです。
見えない主語が「来なかった」ことで、二人だけは「来た」ことを理解させるという、非常にトリッキーなことをしているにも関わらず、コンピュータの如き正確さでこの複雑な構文を条件反射的に理解しているし、おそらく、「来なかった」って言っているのに「来た」イメージをしている自分にさえ気がついていないのです。
和英辞書では、簡単に「only」ってなってるけれど、そんな単純な問題ではありません。
「しか」は「only」だと説明して、外国の日本語学生に「二人しか来なかった」を英訳させたら、反対の意味になってしまうことでしょう。
こんなことをうだうだ考えていると、時間ばかり経っていって、ふと我に返った瞬間に、「何してるんだろう?」と呆然としてしまいます。もっと生産的なこと考えなくちゃって。
「うだうだ」って言葉も、何でしょうねぇ。
あー、考えるのやめた!
<2010-5-18>
村上春樹のどの作品だったか忘れたけれど、佐々木マキさんが挿絵を描いていて、その中の建物の看板に「Love Me Or Leave
Me」と書かれていました。
そのときはそんな曲があるなんて知りもせず、「ずいぶんと洒落た言い回しだなぁ」と思っていたのですが、それから数年後、たまたま大学の生協でワゴンセールになっていたCDを漁っていたら、ペギー・リーのCDの中に同名の曲を見つけ、どんな曲なのか聴いてみたくて購入しました。
もうね、こういう曲、たまらないです。
これでもかと韻を踏みまくる様子は、そんなわけないのだけれど、「日本人よ、韻とはこうやって踏むものなのだ」と教えているようでさえあります。
「愛さないならどっかいってよ」というメッセージに、生きる強さを感じますし、この拒絶の仕方(歌詞を読むと、決して拒絶しているわけでもありませんが)は、正しいと思います。
「愛さなくてもいいからそばにいて欲しい」なんて、臆病者の言い訳です。
<2010-5-16>
「月間モンスター」というページを読んだのですが、これ、面白いですね。
「俺もお前もモンスターじゃい!」とある通り、どれとは言いませんが、僕も思い当たる節がいくつかありました。
笑いながら読みましたが、中には、「あ、でもこういう人、好きかも」というのもあって、それは「モンスターハンズフリー」です。
周囲を気にせずに合理性に走れる人が僕は大好きで、ハンズフリーもそうですし、旅行でもないのにウエストポーチをしている人とか、最近は子供しか使いませんが、キックボードで街を颯爽と駆け抜けている人とかは、心から応援したくなります。(自分はやる勇気がありませんが)
「え? どうして? 便利じゃん」という人たちがいるからこそ、世界が変わっていくのだと思います。
<2010-5-15>
昨日は、4月にセミナーでお伺いしたK株式会社の社長様にご招待いただき、吉祥寺でステーキをご馳走になりました。
5月に入り、セッションの入っていない日はカウンセリングルームにこもり、ひとりで秘密の(?)プロジェクトをしていることが多かったので、久しぶりに街の空気が吸えて、すごく気分が良かったです。
帰りはタクシーまで呼んでくださり、快適に帰ることができました。
普段は電車やバスで行けることころは電車やバスを使いますし、遠出するときは車を使いますから、タクシーを利用する機会はほとんどありません。
久しぶりのタクシーに、ちょっとドキドキ、そしてワクワクしてしまいましたが、タクシーっていいですね。
当たり前かもしれないけれど、圧倒的に楽。そして、いい気分。
運転手さんとおしゃべりをしているうちに、あっという間についてしまいました。
K株式会社様とは、今後定期的にお仕事をさせて頂くことになりそうで、来週は早速、朝の7時から社内の様子を見学に伺うことになりました。
レストランに向かう前に、吉祥寺の啓文堂によって、「完全熟睡マニュアル」の在庫を確認してきました。
4月の上旬に行ったときには平積みになっていましたが、今日も変わらず平積み継続中で、ホッとしました。
置いてある場所が若干変わり、周りの本も4月とは変わっていたので、最低1回は棚差しの危機を乗り越えたのでしょう。
でも何でビジネス書のど真ん中に置いてあるんだろう??
<2010-5-14>
先月から育て始めた、ミニトマトの「アイコ」ですが、実が大きくなり始めました。
4月後半は寒い日が多く、苗の元気もなく、植えるのが早すぎたかなと心配していたのですが、ゴールデンウィークの晴天続きでぐんぐん成長しています。
本来トマトは、わき芽をとって1本仕立てにするべきなのですが、ミニトマトですし、わき芽をとらないと本当に生育が悪くなるのか一度実験してみたかったので、今年は無理して4本仕立てにしました。思惑通り、収量4倍となるのか、それとも栄養が足りずに株が弱ってしまうのか……。
ネットでミニトマトの栽培日記を読むと、わき芽をとらずにジャングルのようになって、それでもたくさん収穫していらっしゃる方が多いので、肥料さえ切らさなければいけるのではないかと思っています。
こちらは「バルドウィン」というブルーベリーの幼果です。
このバルドウィンは、我が家のブルーベリーの中では超優等生で、放っておいてもワサワサと成長し、毎年大量の実をつけてくれます。
実は大き目で、味はティフブルーやパウダーブルーなどに比べると若干薄味な気もしますが、比較しなければ十分美味しいです。
去年はついに食べきれず、ジャムをたくさん作りました。(そのジャムもまだ、冷蔵庫にあります)
今年はティフブルーの調子がいまいちで、去年地植えにしたデライトの成長もいまひとつ。期待のメンデイトはコガネムシの幼虫にやられて現在療養中と、受難続きですが、だからこそ、このバルドウィンの元気一杯の様子に励まされています。
<2010-5-11>
哀しみの裏側に何があるの?
<2010-5-9>
春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて、と清少納言は言っていますが、僕は、春は夕暮れが好きです。
夏はつとめて、かな。
秋は夜。
冬は昼下がりが好き。
<2010-5-7>
それで幸せなら、そのままでいいんじゃないかなぁと思います。
本当に幸せなら。
それで不幸なら、幸せだって無理に思い込むことは無意味だと思います。
だって、本当に不幸なのだから。
「あぁ、不幸だなぁ」って思うことは、悪いことでもマイナス思考でも後ろ向きなことでもなくて、変化のための第一歩です。
<2010-5-4>
エルトン・ジョンの曲を聴いていたら、以前に観た、「あの頃ペニー・レインと」を思い出しました。
バスの中で、「Tiny
Dancer」を誰からともなく歌いはじめ、最後は合唱になるシーンがとにかく良いんです。
William : I have to go home.
Penny : You are home.
ゴールデンウィーク最終日、何も予定がない方は、のんびり映画なんていかがですか。
これ、いい映画ですよ。
<2010-4-30>
「完全熟睡マニュアル」に付属しているCDの試聴版をYoutubeにアップしました。
「どんなCDか聞いてみたい!」という方は、是非アクセスしてみてください。
こちらでも聞けます。
<2010-4-29>
以前、記憶術を習得したことがあります。
別にどこかのセミナーへ行ったわけではなく、Derren
Brownの本にやり方が書いてあって、その通りにやったら、10分もかからずにマスターすることができました。
こちらの動画を見つけて、僕も見ながら一緒に覚えてみたのですが、参加者が単語を言い終わった時点(6:00)で、すでに覚え終わりました。
あっているかどうか紙に書き出し、講師の方が覚えている映像を見ながら答あわせをしましたが、「乾電池」を「電池」と覚えてしまった以外は、すべて正解でした。
でもこれ、どうなんだろう? すごいのかな?
本気で覚えようと思えば、記憶術なんて知らない人でも、ひとりひとりが単語を言っている時間で、十分に覚えられるのではないだろうか?
おまけにその後、もう一回、はじめから単語を繰り返しているのですから、順不同でよければ、かなりの単語が頭に入っているのではないかと思います。
もちろん、この講師の方は、単語の順番も覚えているし、何番がどの単語かも一緒に覚えているので、ただ20個の単語を覚えるよりもずっと難しいことをしているのは事実です。
「記憶術」を知らない方で、10分ほど時間のある方、この動画の1:00〜8:21までをご覧になり、順番はどうでもいいので、何個くらい覚えられるか、チャレンジしてみていただけないでしょうか? (この講師の方がやっていらっしゃるとおり、書いたりしないで、耳で聞くだけで覚えてみてください)
終わったら、実際に紙に書き出して、答あわせをしてみてください。
結果を、お問い合わせより教えてくださると、非常に嬉しいです!
<2010-4-27>
先週、K株式会社の社内セミナーに講師として招かれ、「サイコロジカル・コミュニケーション・セミナー」と題し、3時間ほど、実践的な心理テクニックを中心にお話させて頂きました。
そのときいただいたアンケートをまとめましたので、ご興味のある方はご覧ください。こちらです。
<2010-4-26>
先日、ダイエットでセッションにいらした方からその後の経過をメールでいただき、掲載許可をいただきましたので、体験談としてご紹介いたします。
---ここから---
その後の経過をご報告したいと思います。
先週は、木曜日から土曜日まで珍しく外食が続いてしまいました。(しかも、アルコールも少々…。)
外食が続くと1、2キロ簡単に増えてしまいますが、なんと、マイナス0.8でした。
セッションを受けた日は、その後、友人との集まりがあり、たい焼きやらチョコレートケーキやらいろいろ差し入れがありました。
いつもなら、いの一番に手にする私ですが、まったく受け付けず、他の人たちが美味しそうに食べてるのを見ても何とも思いませんでした。
そんな私をみて皆、気味悪がってます(苦笑)。
スーパーやコンビニにも行きましたが、いつも最初と最後に行くお菓子コーナーも素通りです。ほんとに不思議です。足が向かないのです。
今まで、お菓子類でいかにお金を使ってたか痛感してます。
この4日間で甘いものは…アイスクリーム1個です。
このアイスクリームは、ずーーっと前から食べたくて、探してもなかなか見つからなかったものです。たまたま見かけたときに、先生に錆を取ってもらった心の天秤をかけ、「このアイスを食べる。」にグッと傾いたので美味しく頂きました。
食事に関しても、半分とはいきませんが8割方で自然に箸をおくことができます。
残ってても、まったく気になりません。
昨日は、お姑さんとの外食でした。残すことを極端に嫌がるお義母様です。
案の定、私のお皿を見て、お叱りを受けました。
でも、いつにない少し強い口調で、きっぱりとお断りすることができました。
凄く、嬉しかったです。
何が嬉しいのか、自分で気づいたことがあります。
私は、嫌なことを嫌とはっきり言えない。
頼まれたことをみんな引き受けてしまう。
相手を喜ばせる返事をしてしまう。
でも、後でいつも後悔してる。
「どうして、あんなこと言ってしまったのだろう…。」と。
だから、勇気をだしてきっぱり断ることが出来て嬉しかったです。
ダイエットのために先生のところを尋ねましたが、自分のことをさらに好きになる術を教わったような、そんな気持ちになれて感謝です。
冷たい雨が降る中、初めて降りた駅で凄く緊張し、少し躊躇い・後悔もありました。今は違う意味での後悔です。
(良く言われてることかと思いますが、)もっと早く先生のところを訪ねておけばよかったです。
また、よろしくお願いします。
---ここまで---
<2010-4-21>
本日21日の読売新聞に、「完全熟睡マニュアル」の広告が掲載されています。
前回、広告を出していただいたときもそうでしたが、早速、Amazonの在庫がなくなってしまいました。
やっぱり新聞広告の威力って、すごいです。(もともと在庫が少なかったせいもあるかもしれませんが)
せっかくランキングがあがるチャンスなのに、在庫がなくなってしまったのはちょっと残念ですが、その分、リアル書店での売り上げが伸びてくれることを願っています。
楽天ブックス、boople、ビーケーワン、紀伊国屋
BookWeb、セブンネットショッピング、TSUTAYA
online、HMVでは、まだ在庫があります。
明日22日と24日にも、読売新聞の西日本版と大阪版で広告が掲載されます。
3ヶ月連続で広告を出していただいて、出版元のこう書房さんには、頭があがりません。
<2010-4-20>
今週、「完全熟睡マニュアル」の広告が読売新聞に掲載されます!
以前はサンヤツでしたが、今回は「5段2分の1」のスペースに、岡野雅行さんの「俺の感性が羅針盤だ!」と一緒です。
掲載日は、以下のとおりです。
・ 4月21日(水)…読売新聞<東日本版>
・ 4月22日(木)…読売新聞<西日本版/大阪版を除く>
・ 4月24日(土)…読売新聞<大阪版>
2面か3面の下に掲載されますので、読売新聞をお読みの方は、ぜひ探してみてくださいね。
<2010-4-17>
今日、久しぶりにホームセンターへ行きました。
予定はなかったのだけれど、外の園芸コーナーを見ていたらたまらなくなって、「アイコ」というミニトマトの苗と、「次郎」という柿の苗を買ってしまいました。
ミニトマトの魅力は、小さかった苗が、太陽の光を浴びてグングン成長するところにあります。
文字通り、日に日に大きくなるのがわかります。
そして、食べきれないくらい収穫できます。
普通のトマトやナス、キュウリ、ピーマンなんかも育てたことがありますが、ミニトマトが一番簡単で、たくさん収穫できるので、ミニトマト大好きです。
柿の苗を買ったのは初めてです。
秋になると、いたるところで、柿の実が鈴なりになっているのを見るので、いつか育ててみたいと思っていました。
今回は植木鉢栽培の予定なので、収穫までたどり着けるかどうか判りませんが、柿の葉の天ぷらくらいは食べれるのではないかと楽しみにしています。
ちなみに、トマトのわき芽も、天ぷらにするととっても美味です!
<2010-4-16>
恋愛の兆候って、「その人の顔をはっきりと思い出せない」ことじゃないでしょうか。
<2010-4-15>
ときどき、わざと相手に試練を与えて、相手の思いを試す人がいますが、そういうのは激しく間違っていると思います。
試さなければならないということは、本当の「その人」を好きなのではなくて、この世には存在しない幻想を追いかけているに過ぎないのです。
相手を試して、相手が自分の思い通りの行動をしてくれないからと、ショックを受けたり、「見損なった」などと言う人は、恐ろしいほど自分勝手で、自分を相手より上に置いており、そんなことをしているうちは、いつまでたっても幸せにはなれません。もちろん、相手を責める資格など、これっぽっちもありません。
恋愛でも、他の人間関係でもそうですが、もしうまくいっていないとしたら、その半分は自分の責任です。
例え、100%相手が悪かったとしても、そんな相手を選んだという意味で、やっぱり半分は自分の責任です。
<2010-4-13>
先日セッションにいらした方に、「日本テレビの羽鳥アナに似ていますね」と言われました。
僕は比較的、「○○に似てる」と言われることが多く、人によってその「○○」が違うし、全然自分ではそう思わないことが多いので、あまり本気にしないのですが、別々の人から同じ人に似ていると言われると、「そうなのかな?」と思い始めます。
で、実は羽鳥アナも、以前ほかの人から言われたことがあったので、今回ようやく(?)、「似てるのかも?」と思うことにしました。
羽鳥アナ、僕は好きなので、すごく嬉しかったです。(^^)
<2010-4-7>
本を出版したことがきっかけだと思いますが、ここ数ヶ月、読みたい本がたくさんあり、休みの日は本ばかり読んでいます。
今日読んだ本は、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」です。
映画「トイ・ストーリー」を観たときも、エンタテインメントとして完璧だと思いましたが、この「もしドラ」も、最初から最後まで、完璧なエンタテインメントだと思います。
読みながら、徐々に何故か胸が一杯になっていき、半分を過ぎた頃から「あれ、やばいな。このままだと、泣くな」という気配が止まらず、新キャプテンが決まったところで我慢ができなくなり、残りは涙をぬぐいながら読みました。クライマックスは本当に苦しいくらいでした。
物語がハッピーエンドであることも、彼女がああなってしまうことも、どの部員がどう活躍するかも、ほとんど予想できたことですし、リアリティとはかけ離れた「御伽噺」であることも承知の上なのですが、そんなことはお構いなしに、圧倒的に感動しました。
感動というと、悲しかったり、かわいそうだったりで「泣かせる」手法もありますが、「もしドラ」の感動はそういった種類の感動ではなく、爽やかで、みんな頑張っていて、一生懸命で、運命もそれに答えてくれて大成功するという、そういった種類の感動でした。
事実、何で高校生が甲子園を目指しているだけでこんなに泣けるのか、自分でも良く解らないし、もしかしたら自分についている涙のスイッチが間違っているのではないかと、多少不安にもなりましたが、こんなに泣いた小説は初めてです。
映画化でも、アニメ化でも、ドラマ化でもいいから、今度は映像でこの話を観たいです。
ご覧の通り、表紙で敬遠される方もいらっしゃると思いますが、この本、売れているだけの理由があると思います。
ドラッカーの「マネジメント」は読んだことはありませんし、期待もしていなかったのですが、所々に登場するドラッカーの引用は素晴らしく、経営者でなくても、それこそ人と関わる全ての状況で生かせるものだと感じました。
<2010-4-6>
吉祥寺の丸井に、啓文堂書店がリニューアルオープンしたので行ってきました。
早速「完全熟睡マニュアル」を探したところ、ビジネス書の棚に平積みで置いてありました。
出版してから早2ヶ月。
まだまだこうやって平積みで販売していただいているのを見ると、著者としては本当に嬉しい限りです。
今、話題の「FREE」や、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」のすぐ近くにあって、「何故ビジネス書のところに??」という疑問はさておき、多くの人の目に付きそうな場所で、それも嬉しかったです。
数は多くありませんが、ネット上のいくつかのブログでも、読者の方がレビューを書いてくださっており、CDをお聞きになって、「最後まで聞けない」、「本当に癒される」と感想を書かれているのを読むと、お役に立ててよかったと、心から思います。
ちなみに、三鷹の啓文堂書店にも、平積みではありませんが、在庫がありました。
また、1ヶ月前に行ったときには、府中の啓文堂書店にも平積みされていました。
今日は天気が良く、井の頭公園はお花見に来た人たちでいっぱいでした。
平日だというのに、駅周辺も、さらに井の頭公園に向かう細い道も、人で溢れ、非常に活気がありました。
僕は、井の頭公園や、通り沿いの、毎日がお祭り騒ぎな感じが大好きです。
帰りに、富士そばで、500円の「ミニヒレカツ丼セット」を「かけそば」でいただき、帰ってきました。
とても良い、春の一日でした。
<2010-4-5>
新雪の上を歩くとき、「高村光太郎状態」って思っている人はいるのだろうなぁと、Googleで「高村光太郎状態」を検索したところ、本当に何人かいて、びっくりしました。
「道程」 高村光太郎
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
<2010-4-2>
小学校低学年の頃(火を使った料理などとてもできなかった頃)に、子供ながら「料理っぽいこと」がふたつありました。
ひとつは、トーストです。
トースターにパンを入れて、焼きあがったトーストにマーガリンを塗り、ジャムを塗ってジャムパンを作ることは、「食材から食べられる状態にした」という、ある種の達成感がありました。
もうひとつは、バターご飯です。(僕の中では、決して「バターライス」ではなく、「バターご飯」なのです)
バターご飯は、熱々のご飯に、バターをひとかけら落とし、ご飯の熱で溶けたバターをご飯によく混ぜ、その上から醤油をかけて、さらに混ぜたものです。
卵かけご飯も好きでしたが、こちらは、「卵を親の許可なく使ってはいけない」という思いがあり、また、うまく卵を割ることも子供の頃はできませんでしたので、自分で作るとなると、やっぱりバターご飯でした。
子供の頃は、このバターご飯が大好きでした。
ふりかけをかける感覚で、バターご飯を作っていました。
ただの白いご飯が、ちょっとした作業でこんなにも美味しい物に変身するのがたまりませんでした。
例えおかずがなくても、ご飯さえあれば、誰にも頼らずにお腹を満たせるのだ、という安心感も、今思えば、たまらなかったのだと思います。
しかし、次第にバターご飯は食べなくなりました。理由はよく覚えていませんが、一緒になってバターご飯を食べていた姉たちが、やがて中学生になり、我が家から「バターご飯ブーム」が過ぎ去っていったのが一番大きかったと思います。バターご飯は、どこか「子供の食べ物」という意識が僕にも家族にもありました。いつまでもそんな物を食べているのが、だんだんと格好悪く感じるようになったのです。
大学に入って自炊するようになると、「気がつくと食べるものがない」ことが結構あり、そんなときには「バターライス」を食べることはありました。
バターライスとは、バターご飯と材料は同じですが、作り方が違います。フライパンで炒めるのです。
冷ご飯が残っていて、おかずがない、という状況が結構あったので、フライパンで炒めながらバターも溶かして混ぜてしまうというのは、非常に合理的に思えました。また、お茶碗の中でバターを溶かして混ぜるというのは、やはり子供じみていて、良い大人がすることではないように思えました。
バターライスも美味しかったし、材料が一緒だという事実から、それ以来、僕の中では、バターライス=バターご飯、という図式が定着していきました。
そして月日は流れ、気がつけば、僕は25年くらい、「本当の」バターご飯を食べることもなく過ごしてきました。
先日、SUBWAYの話を書きましたが、同じラジオで、「熱々のご飯にバターを落として、醤油をちゃちゃっとかけて食べるの、うまいよなー」という話をしていました。
それを聞いた途端、無性にバターご飯を食べたくなり、早速残っていたご飯を電子レンジで温めて、バターご飯を作り、食べてみました。
「うまっ!」
こんなに美味しかったっけ?、と疑問に思うほど、美味しかったです。
そして、僕は大きな誤解をしていたことに、初めて気がつきました。
バターライスとバターご飯は、材料は同じでも、全くの別物なのです。
バターご飯から漂うバターのクリーミーな風味も、ご飯の柔らかさも、バターライスにはありません。
バターライスはなんか雑。バターご飯はちょっと繊細。
何でこんなに美味しいものを、長い間、忘れていたのだろうと、後悔さえしました。
バターご飯はカロリー高そうだし、栄養もなさそうだし、未だに良い大人が喜んで食べるべき食べ物ではないような気もしますが、そんなことはこの際、関係ありません。
美味しすぎるのです。
厚切りの食パンに、バターを塗って食べるのも美味しいですが、ご飯とバターと醤油の奏でるハーモニーも、シンプルな中に深みがあり、決して負けてはいないと思いました。
あぁ、夜中だけど、今から食べてしまおうかな。
<2010-4-1>
今日はエイプリルフール。
自分に、幸せな嘘をいっぱいつこうと思います。
<2010-3-27>
「青春のリグレット」という松任谷由実の書いた曲があります。
元々は、麗美のためにユーミンが書いた曲ですが、後にユーミン自身も歌っています。
(僕は松任谷由実バージョンよりも、麗美バージョンの方が、歌もアレンジも圧倒的に好き)
こんな歌詞です。
笑って話せるね
そのうちにって 握手した
彼のシャツの色が まぎれた人混み
バスは煙残し
小さく咳きこんだら
目の前がにじんだ黄昏
あなたが本気で見た夢を
はぐらかしたのが苦しいの
私を許さないで 憎んでも覚えてて
今では痛みだけが 真心のシルエット
ほんの三月前は 指絡めた交差点
今も横を歩く気がする
夏のバカンスを胸に秘め
普通に結婚してゆくの
私を許さないで 憎んでも覚えてて
今でもあなただけが 青春のリグレット
私を許さないで 憎んでも覚えてて
今では痛みだけが 真心のシルエット
笑って話せるの それはなんて哀しい
だってせいいっぱい愛した あなたを愛した
この曲の凄みは、何と言っても、「私を許さないで 憎んでも覚えてて」でしょう。
僕の義理の兄はアメリカ人なのですが、この歌詞を聴いたとき、「憎んでいても覚えていて欲しい、という感覚は全く理解できない。日本人ならではの発想なのではないか?」と言っていました。
当時、僕は高校生だったのですが、そこまで意味を深く考えて聴いていませんでしたので、彼の言っている意味がピンと来ませんでした。でも今になって改めて聴くと、僕にもこの発想は理解できません。
日本人ならではの発想というより、女性ならではの発想なのかな?
この歌詞を良く読むと、どうも悪いのは、断然、彼女の方ですね。
勝手な推測ですが、彼女は結婚が決まっているにも関わらず、この「あなた」を愛して、夏の間に「バカンス」を楽しみ、彼が彼女との未来を「夢」見はじめても、自分は結婚が決まっているのでその夢を「はぐらかし」、結局は彼とは別れるのです。
「笑って話せるね」
「そのうちに……」
という会話を残して。
そして彼女は、おそらく「せいいっぱい愛した」わけでもない相手と、「普通に」結婚していくのです。
別れて3ヶ月くらいのときは、彼と「指」を「絡めた交差点」で彼を思い出し、切ない気持ちになったりもしました。
しかし時が流れ、いつか、約束の「そのうち」がやってくるのかもしれない。
彼と「笑って」話すことができるまでの関係になっている自分。
自分のことを許さないで欲しい。憎んでいてもいいから、覚えておいて欲しいとまで思った彼と、笑って話している。
「それは」憎まれているよりも、「なんて哀しい」。何故なら、「せいいっぱい愛し」ていたのだから。
これだけ短い文章の中に、しっかりとドラマを描くことができるユーミンの才能に脱帽ですが、それよりなにより、このドラマには救いがないですね。
決して運命に逆らおうとしないで「せいいっぱい愛した」と哀しさに浸るだけの彼女と、そんな彼女を「笑って話せるね」と大人の対応で手放す彼、そして彼女の「夏のバカンス」のことなど何も知らないで結婚生活を送る彼女の夫。
誰も救われない。
でも、こういった「誰も救われない」曲が、人を共感させるのかもしれません。
最後になりましたが、女性の皆様、この「私を許さないで 憎んでも覚えてて」という気持ち、理解できますか?
<2010-3-26>
今日はSUBWAYの日で、サンドイッチが全品290円でしたので、夕食はSUBWAYにしました。
以前はSUBWAYに、苦手意識がありました。
パンや野菜、ドレッシングを選べる自由さが、逆に面倒くさく感じていたのです。
特に後ろに人が並んでいるとゆっくり選べないし、そんな慌しい状態で下した自分の選択のせいで、せっかくのサンドイッチが実力以下の不味いサンドイッチになってしまうのではないかという不安が絶えずつきまとい、色々と考えると疲れてしまいました。
ですから、生まれてから去年まで、僕は2回しかSUBWAYに行ったことがありませんでした。
しかし、あるラジオ番組で、「SUBWAY選手権」が行なわれたのを聞いて、俄然、再チャレンジしたくなりました。
その番組では、出演者が各々、SUBWAYでサンドイッチを自分なりのセンスで注文し、誰のサンドイッチが一番美味しかったかを競うもので、聞いているだけで美味しそうで仕方がありませんでした。
自分ではまず頼まないであろう、「ハニーオーツ」というパンを選ぶ人もいれば、「何故そのサンドイッチにバジルマヨネーズ??」という人もいました。
しかし、できあがったどのサンドイッチも、審査員は「美味しい!」と大絶賛。
それを聞いて、「あぁ、どんな組み合わせを選ぼうとも、基本は美味しいのだな」と確信し、それを聞いた翌日、何年かぶりにSUBWAYに行ってみたのです。
ラジオで出演者が自由に注文していたのを真似て、守りに入らず、ホワイト以外のパンを選び、トーストし、アグレッシブにトッピングを追加し、野菜を増量し、ドレッシングを「オススメ」以外で選んでみたのですが、あれだけ苦手意識があったこの作業が、実に楽しく、いざ食べるときの「答え合わせ」の感覚もたまりませんでした。「今度はパンをトーストしないのを食べてみよう」とか、「トッピングのクリームタイプのチーズは外せないな」とか、「ドレッシングは○○も合いそうだな」などと考えながら食べるのが、とても楽しいのです。
その日、3月26日はSUBWAYの日だということを知り、「次回はSUBWAYの日に行こう!」と決めていました。
今日は新発売の「炭火焼カルビ&チーズ」と、せっかくなので普段は一番高い「ローストビーフ」をベースに注文してみました。
「炭火焼カルビ&チーズ」は美味しくないわけがない組み合わせで、「ローストビーフ」は「これぞサンドイッチ!」という味。
ふたつも食べたのでお腹一杯。
幸せな夜でした。
<2010-3-24>
今日、雨の中、桜が咲いているのを見つけました。
ということで、「桜」です。
「桜」とタイトルについてる曲の中で、これが一番好き。
♪神様は創りかけて やめてしまった こんな気持ちわかんない ぜんぜん♪
川本真琴の曲の中には「神様」がよく出てくるのだけれど、彼女の神観は、そこらへんのゴスペルにかぶれたキリスト教徒たちよりもずっとマトモだと思います。
<2010-3-23>
宮崎駿が、部下のスタッフを怒るときに使うセリフの中で、本当に怒ったときしか使わず、ジブリスタッフの間では、「これが出たらヤバイ」とされているっぽいセリフ。
「もういい。君にトトロは見えないよ」
おぎやはぎ「メガネびいき」より
<2010-3-22>
本日、某カラオケオフ会に参加しました。
僕は普段はほとんどカラオケに行かないので、カラオケに行くと、他では感じることのない、特殊な気持ちになることがあります。
楽しいのだけれど、切ないような、取り残されたような、それでいて温かいような……。
今まで、なんでそんな気持ちになるのか、深く理由を考えたことはなかったのですが、今日、その理由が判りました。
それはあの、カラオケ映像のせいです。
歌詞の裏で延々と繰り広げられているカラオケ映像を、気がつくと僕は食い入るように観ていることがあって、その映像の世界に入ってしまうのだと思います。
カラオケ映像は、大抵は低予算で、安直で、間に合わせで、役者さんもスタッフも、誰もがやっつけ仕事という、シワ寄せの結晶のようなシロモノです。良いものを作っても評価されるわけではないし、おそらく良いものを求められているわけでもないので、当然といえば当然かもしれません。
それでもカラオケ映像の世界には、妙な魅力があるのです。
カラオケ映像の世界では、誰もが基本的に美男美女です。しかし、良い感じに(?)等身大でもあります。テレビドラマのような、「手の届かない人たちの作り物の日常」ではなく、それこそ、隣の部屋を開けたらこの人たちがマイクを持って歌っているのではないかと思わせるような、そんなリアリティがあります。
そして彼らはみんな一生懸命です。一生懸命バイトをしたり、夢を追いかけたり、恋をしたりしています。失敗して怒られても決してへこたれませんし、事実、彼らはしょっちゅう失敗します。
カラオケ映像の世界では、頻繁に男女がぶつかって、物が落とされます。今日みていただけでも、リンゴ、オレンジ、種(!)、手帳、教科書が落とされました。
ぶつかると、彼らは簡単に恋に落ちます。ひとりで部屋にいるときなど、回想シーンでぶつかったところが何度も映し出されます。再会を夢みて同じ場所に行って、結局は会えずに肩を落としたりもします。
そしてもちろん、思いがけないところで2人は再会します。再会すると、2人の仲は急接近。めでたしめでたし、なのです。
カラオケ映像の世界では、頻繁に三角関係に陥ります。
彼が他の人といるところを目撃して悩む女の子もいれば、2人の男の子からチヤホヤされて、その2人の男の子も「良いライバル」みたいな感じで、3人で非常に仲良く青春を謳歌しちゃう場合もあります。
カラオケ映像の世界では、電子メールよりも手紙をしたためることをよしとする傾向があります。
カラオケ映像の世界では、法に触れるか触れないかのスレスレのところで、誰もが待ち伏せをします。
カラオケ映像の世界では、あり得ないことも起こります。
地下室に女の子が拉致され、ロープで縛られているところを、ピストルを持った男の子が助けに行くこともあります。
女の子が待ち伏せをしていて、突然現れたかと思うと男の子の腕に手錠をかけ、手錠の反対側を自分の腕にかけて、鍵は彼の見ている前で飲み込んでしまい、そのまま彼をデートにつれ回したりもします。
ものすごくかわいい女子高校生が、勇気を出して同級生の男の子に手紙を渡すと、その男の子(大した男ではありません)はそれを読みもせず、その場に捨てて過ぎ去るという、「何やってんだよ、おい」ということも起こります。
ラジオ(特にラジオドラマ)を聞くと、映像がない分、頭の中で映像を補完して「現実」を作りますので、余計にリアルに感じることがありますが、カラオケ映像はセリフがない分、同じように、どんな会話が行なわれているのか、頭の中で補完していきます。解釈は人それぞれ。そのプロセスが、テレビドラマでは感じる事のできない没入感を生み出しているのかもしれません。
5分前後の中に、ちゃんとストーリーがあって、まるで短編映画を観ているような気にもなるし、「え? 終わっちゃうの? 続きは??」という気分にさえなります。
カラオケ映像の世界には、いくら安直でも、ご都合主義的でも、そこには確かに、青春があるのです。
誰もが経験する可能性があった青春……。
こんなにも、カラオケ映像の世界にはまってしまったのは、そんな青春を、僕は決して経験することができなかったのだと感じるからだと思います。
冷静に考えると、あり得ない映像のオンパレードなのですが、カラオケ映像には、「こういうの、みんな経験してますけど」的な説得力がどこかにあるのです。
今日みた映像の中で、一番きゅんときたのは、中学生くらいの男女の映像です。
男の子は、好きな女の子にラブレターを書くのですが、なかなか渡すことができません。
何度も待ち伏せしてチャンスをうかがうのですが、いざ渡そうとすると、勇気が出なくて渡せない。
しかし、これじゃあいけないと、男の子は意を決して、彼女に手紙を渡しに行きます。
すると、道の影から突然、相手の女の子が現れます。そして、「これ読んでください」という感じで頭を下げながら両手を差し出して、なんと彼女の方から彼に手紙を渡したのです。女の子は手紙を渡すと、恥ずかしさのあまり走っていなくなってしまいます。
突然のことに、しばし呆然とする男の子。
彼女からもらった手紙と、自分の書いた手紙を見比べています。
そして彼は走って彼女を追いかけます。追いつくと、自分の手紙を彼女に渡し、「実は僕も手紙を渡しに行く所だったんだよ」的な表情を浮かべます。
幸せそうに見つめあう二人。
次のシーンで、2人は初めてのデートで海沿いの岩の上に座っています。
男の子は女の子の手を握りたいのだけれど、手紙を渡せなかったときと同じように、握ろうとしては躊躇しています。
だけど勇気を振り絞って、彼女の手に自分の手を重ねます。
彼女は彼の方を向いて、優しく微笑みます。
そして最後のシーンでは、2人はしっかり手を繋いで海岸沿いを歩くのです。
おわり。
あぁ、こんな幸せなことってあるでしょうか? まるで夢のよう。
こういう青春を、一度でいいから経験してみたかったです。
カラオケボックスで感じる「あの」気持ちは、そんな、失われた青春に焦がれる気持ちなのかもしれません。
自分の中で、確かにひとつの時代が終わってしまったのだという現実を、まざまざと見せつけられた気がします。
<2010-3-20>
マロン、それドロップやない。
<2010-3-19>
今年、小沢健二が何年かぶりにライブをします。
チケットの先行発売があって、抽選に当たった人だけがチケットを購入できるのですが、中野サンプラザのチケットは落選してしまい、がっかりしていました。
その後、NHKホールでの追加公演が発表になり、今度こそと応募したところ、見事当選!
オザケンのライブは初めて観にいくので、今からとっても楽しみです。
あの、異常なほどの多幸感を生で味わってきます。
<2010-3-17>
「逆光」って、写真を撮るときと、車に乗っていたり景色を見ていたりするときでは、意味が反対ですね。
本来なら、写真を撮るときの意味が本当の「逆光」なのだろうけれど、一般的には、「まぶしい」みたいな意味で使う人の方が多いように思います。
……と、ここまで書いて、自分が激しく間違っていることにようやく気がつきました。
意味が違うのではなくて、僕の視点が間違っているのですね。
「写真を撮るとき」と自分で書いておきながら、僕は「写真を撮られるとき」のイメージを頭の中に描いていました。
つまり、自分の背中側に太陽がある状況を、本来の「逆光」だと思っていたのです。
思えば、昔からそうでした。
何でなんだろう?
自分ではあんまり「逆光」という言葉を使うことはなくて、カメラをこちらに向けている人が、「あぁ、これだと逆光だなぁ」とか言っているのを聞くことのほうが多かったからかなぁ。
言葉を正確に理解していないのって、改めて、致命的だと思います。
以前、派遣で働いていたときに、「出社時間は5分単位で記入。5分未満の端数は切り捨て」と指示を受けて、例えば9時7分に出社した際、切り捨てだからと、「9時5分」と書いて提出して注意を受けたことがあります。
考えてみれば、「9時10分」と書くべきなのは当然なのですが、僕は「切り捨て」という言葉から、数学的に切り捨ててしまったのです。
人間は言葉でコミュニケーションをとることが多いですが、その言葉が、自分で意図したとおりに伝わっているのか、そして、相手が意図したとおりに受け取っているのかは、全く保証がないわけで、思った以上に誰とも理解しあっていないのだろうなぁと、年を重ねるごとに思わされます。
<2010-3-15>
今日から、ラジオがパソコンで聴けるようになります!
AMラジオもネット経由で、クリアな音質で聴くことができます。
早速聴いてみましたが、今まで雑音交じりの放送を必死で聴いていたのがなんだったんだというくらい、簡単で、キレイに聴くことができました。
パソコンがあれば聴けますので、ラジオを普段聴く人も、聴かない人も、是非、お試しください。(^^)
http://www.radiko.jp/
地域制限があるようで、聴けない方もいらっしゃるようですし、今日から試験放送開始ということで、サーバーがかなり混みあっているらしく、繋がらないかもしれませんが、そんな場合は、直接リンクで聴けるかもしれません。
例えば、TBSラジオでしたら、こちら。「選局」タブから、他の局も聴くことができます。
このサイトは、「ラジコ」と呼ぶらしい。
ラジオ(ラジ男)に対して、ラジコ(ラジ子)という噂です。
<2010-3-14>
「出入り禁止」という言葉がありますが、別に「出」は禁止しなくてもいいんじゃないかと思います。
「入り禁止」で十分じゃないかな。
いや、むしろ、「出」は禁止したら駄目なのではないでしょうか。
本当にどうでもいいことなんだけれど。
<2010-3-13>
記憶がないという感覚は、不思議ですね。
生まれてから今日までは、部分的には記憶がありますが、当然、生まれる前の記憶はありません。
「気がついたら、いた」という感覚。
はじまりを覚えているわけでもない。
そして、昔の自分を思うとき、もちろん、同じ自分なのだけれど、本当に同一人物なのかも、怪しいような気がしてくる。
それは性格が変わったからかもしれないけれど、自分があの場所に属していたのだとか、あんなことをやっていたのだということが、本当に自分のことなのか、よく解らなくなる。まるで、中の人が変わったみたい。
ということは、20年後の自分は、もはや今の自分ではないのかもしれない。
今の自分は知らないうちにゆっくりと死んでいって、新しい自分に変わっているのかもしれません。
生まれる前を覚えていないのと同じで、死んだあとのことも、当然認識できませんね。
よく、亡くなった人に、「安らかにお眠りください」と声をかけますが、本人はその「安らかさ」さえ、感じられない。
痛かったり、苦しかったり、淋しかったり、辛かったりする人が、それらから「死ぬ」ことで解放されたところで、解放されたことを知ることもできないのは、なんだか非常に残念な気がします。
数日でもいいから、「あぁ、楽になったなぁ」って感じてから、意識がなくなったら、少しは救われるのに。
自分にとっては、生まれるということは、世界がはじまるということで、死ぬということは、世界が終わるということだと思います。
生きるというのは、ほんの数十年、世界をのぞいてみることに過ぎないのでしょう。
そう思ったら、そこでどんな経験をしようと、大した違いはないような気がしてきた。
お金持ちになったり、成功したり、愛されたりしないと意味がないという風潮は、本当に疲れますね。
意味があってもなくてもいいじゃないですか。まぁ、お茶でも飲みましょうよ。
<2010-3-11>
転調する曲って、大好きです。
長調から短調へ転調する曲はちょっと淋しくなるのですが、短調から長調への爆発力はたまりません。
前者は「キャンディキャンディ」の「ひとりぼっちでいる〜と〜」で、後者は「バビル2世」の「か〜いちょ〜ロプロス〜」です。
<2010-3-9>
0歳と5歳は違う気がして、5歳と10歳も、10歳と15歳も、15歳と20歳も全然違う気がしますが、20歳と25歳にはあまり違いを感じません。
25歳と30歳も、それほど違うとは感じない。
だけど、30歳と35歳はやはり違う気がして、35歳と40歳も違う。
しかし、40歳と45歳はあまり違いを感じない。
だけどやっぱり、45歳と50歳は違う。
50歳と55歳も違うけれど、55歳と60歳はそれほど違いを感じない。
法則性がありそうで、なさそうな、不思議な午後です。
<2010-3-8>
先日、「アバター」をTOHOシネマズに観に行ったのですが、その際、はじまる前に、「紙兎ロペ」というショートムービーが流れました。
これがとっても面白くて、検索したところ、youtube
にもいくつかあがっているのを発見!
この、気の抜けた感じがたまりません。
やっぱりモデルはDAIGOなのかな?
観たことがない方は、こちらから。
<2010-3-7>
信じられないことや嬉しいことがあると、「夢じゃないよね?」と、頬をつねるシーンをテレビなどで観ることがありますが、「夢の中で頬をつねる」ことが、子供の頃の僕の望みでした。
というのも、子供の頃、アニメなどでそういったシーンを観るたびに、自分もやってみたいのと同時に、「これにはどういう意味があるんだろう?」と思っていたからです。
起きているときに、「これは夢なのではないか?」と思ったことなど、一度もありません。
「これは決して夢ではなく、現実である」と、ハッキリと判ります。
それでは、夢の中ではどうかというと、夢を見ているときも、「ははーん、これは夢だな」なんて思うことはあまりなくて、大抵は現実だと思っています。(ちなみに、夢の中で「これは夢だ」と気付く夢を、「明晰夢」と呼びます。比較したわけではないけれど、僕は「夢の中で頬をつねりたい願望」が強かったせいか、人より明晰夢をよく見ている方だと思います)
つまり、現実でも、夢の中でも、どちらも僕は「現実だ」と思っているわけです。
ということは、「本当に」今こうやって文章を打っているのが現実だと言えるのかどうか……。
夢の中だって、「これが現実だ」と思っているわけですから、どんなに「でもこっちの方がずっとリアルに感じる!」と言った所で、まったく説得力がありません。夢の中で、「でもこれが夢のはずがない!」と思う可能性だってありますし、実際、僕は夢の中で、「これが夢だったら良かったのに……」と思ったことが何度もあります。
しかし、例えそうだとしても、やはり、今こうやって文章を打っているのは現実です。夢ではありません。
それは何故か? 何で、そんなにハッキリと言えるのか?
何故なら、記憶が連続しているからです。
昨日と今日は連続している。昨日だけじゃなくて、1週間前、1ヶ月前、1年前、10年前からこの人生は連続していて、その結果として今日があることを、認識できるからです。
夢の世界はそうではありません。
夢の世界は、ただ、「現在」があるだけです。
何だかよく解らないけれど、自分が試験を受けなければならない学生だったりして、どうしてその学校を選んだのかなど、全く理由も知らないし、準備だって全くできたいないのに、圧倒的な現実感だけがあって、試験から逃れることができなかったりします。冷静に考えればそんなことはあり得ないのに、夢の中では、いきなりそのシーンに放り込まれても、大抵は疑問も持たずに受け入れてしまうのです。
子供の頃、どうして「夢の中で頬をつねりたい願望」があったのかというと、頬をつねる目的が、子供心に、よく解らなかったからです。
1.夢の中だと、頬をつねっても痛くないはずだから、痛ければ現実、痛くなければ夢、という意味で頬をつねるのか。
2.それとも、頬をつねって痛いと目が覚めるので、目が覚めなければ現実、目が覚めれば夢、という意味でつねるのか。
夢というのはリアルなので、「痛みを感じない以外は、現実と区別ができない」という前提があるのであれば、1.が正解でしょう。
そして、「痛みが夢から脱出するためのトリガーとなる」のでしたら、2.が正解になります。
子供の頃、それこそ毎晩のように、「今日こそ夢の中で頬をつねってやろう」と思って寝ていました。
だけれど、それに成功したことは一度もありませんでした。
どうしてそこまで熱心に、夢の中で頬をつねることを求めていたのか、自分でもよく判りませんが、夢の中で頬をつねることができてはじめて、テレビに出てくる、「夢じゃないかしら?」と頬をつねるシーンはリアリティを持つし、自分だって、信じられないことが起こったときに、堂々と頬をつねっても良いような気がしたのだと思います。
これには複線があります。
子供の頃、同じくテレビなどで、自然の中で「空気が美味しい!」と言っている人をみて、「自然の中ではこういう風に言うんだな」って思ったことがあります。そこで、旅行で山へ連れて行ってもらったときに、「空気が美味しい!」と大きな声で言ったことがあるんです。
すると、周りで聞いていた大人たちは大爆笑。
僕はすごく恥ずかしくなって、「間違ったことを言ってしまったのだ」と思いました。
笑っている大人たちは、「お前に空気の何が解るのだ」と言う目をしていましたし、実際に空気が美味しい感覚など、僕は全く感じていませんでした。僕はただ、テレビで聞いたそのセリフを言ってみたくて、そのチャンスを淡々とねらっていただけなのです。
完全にそれを見透かされた気がしました。
その経験があったので、軽々しく、信じられないことが起こったときに、「夢じゃないかしら?」と頬をつねるわけにはいかない。頬をつねることが本当に有効なのだということを確認してから実践したい、と思っていたのです。
余談ですが、高校の頃、友達が「夢は白黒だ」というのを聞いて、びっくりしたことがあります。
そんなことは考えたこともなかったし、当たり前のように、現実がカラーなのと同じように、夢もカラーだと僕は思い込んでいました。
しかしそう言われると、全く確信が持てませんでした。
「じゃあ、夢の中で何色の何を見たことがある?」と聞かれても、僕は答えることができなかったのです。
そこで、その日からしばらく、夢は白黒かどうかを検証しようと意識して寝るようにしました。
なかなか結果は出ませんでしたが、ある日、夢の中に、当時流行していたMA-1というジャケットの裏地のオレンジ色がくっきりと出てきました。
そして僕は、「僕の夢はカラーなのだ」と確信したのです。
話を元に戻します。
夢の中で頬をつねることは中々できませんでしたが、次第にいくつかのことに気がつくようになりました。
それは、「夢の中では痛みを感じる」ということ、そして、「痛みを感じても目が覚めるわけではない」、ということです。
そして、先ほど書きましたとおり、僕は時々、夢の中で「これは夢だな」と気付くようにもなりました。
気付けたのだから、そのまま頬をつねれば良いのだけれど、そこまでは何故か気が回りません。
さらに、「これは夢だな」と気がつくと、何故かすぐに目が覚めてしまうのです。
「目覚める直前だからこそ、それが夢だと気付くことができた」のか、それとも、「夢だと気付くことが、夢から脱出するトリガーになっていた」のか、それさえ僕には解りませんでした。
さて、長々と書いてきましたが、実は昨日、ものすごくリアルに、「夢の中で頬をつねる」という経験をすることができました。(何年越しなんだろう。笑)
昨日、少し嫌な夢を見ていて、あまりの理不尽さに、「あぁ、これは夢だな」と気がついたんです。
いつもだと、その状態は長く続かないのですが、昨日は珍しく、いつまでたっても目覚めず、一生懸命自分で起きようともしたのですが、起きることができませんでした。非常にリアルで、非常に夢の状態が安定している感じがして、どうすれば夢の世界から逃げることができるのだろうと、だんだんと焦ってきました。
映画「マトリックス」で、それが仮想現実だと解っていても、自由にこちらの世界に戻れないのと同じような、そんな感覚でした。
そんな中、痛ければ起きられるのではないかと思い、頬を叩いたり、つねったりしてみたのです。
そして、頬にははっきりと痛みを感じたけれど、起きることはできませんでした。
「夢の中で頬をつねると痛いし、起きることもできないんだな。この方法は、全くの無意味なんだな」と、夢の中で思ったのを覚えています。
で、何故だか解らないのですが、「自分が寝ているはずの部屋やベッドを思い出すことができれば起きられる」ということが解ったのです。(夢の中では、そういうことは、ただ、「解る」のです)
そこで、「昨日はどこで寝たっけ?」と考えるのですが、それが思い出せない。自分がどんな家に住んでいて、どんな部屋で寝ているのか、全く出てこない。
何度も「こんな感じの部屋かな?」と想像して、その部屋のベッドからガバッと起きるところを想像するのです。そう想像すると、実際にその想像した部屋で起きることができるのだけれど、起きたところもまだ夢の中。「違う、この部屋じゃない」となるのです。
最終的に、昔住んでいたアパートの部屋をハッキリと思い出すことができて(自分は昨日、その部屋で寝たのだと思っていました)、その部屋で起きるところを想像したところ、目が覚めました。
目が覚めて、自分の部屋をみて、「あぁ、間違った部屋を想像してたんだ」と思いました。間違ったけれど、起きられてよかった、と。
夢と解っていながら、ここまで目覚めることができなかったのは、はじめての経験です。
もし、毎晩眠ると、昨日の夢の続きを見るとしたら、これが現実か夢かなど、大した問題ではなくなるのだろうなぁと、目が覚めてから思いました。
これだけリアルな夢や、目覚められない夢を見るのであれば、今後、「夢の連作」を見る可能性も十分にあるし、そんなことを考えると、ちょっとだけ怖くなりました。
<2010-3-6>
これを観ていたら、よく解らないけれど、あぁ、生きるってこういうことなんだなぁ、と思いました。
<2010-3-5>
「完全熟睡マニュアル」ご購入者の皆様に、感謝の気持ちを込めて、もれなくプレゼントを差しあげます。
これからご購入される方はこちら、すでにご購入いただいた方はこちらをクリックしてください。
<2010-3-4>
先日放送された「トリビアの泉」にて、「ご飯に一番良く合うスナック菓子は何か?」、というネタが放送されていました。
第一位が、ポテトチップスのガーリック味だったので、「本当にお菓子で飯が食べられるのかな?」と思いつつも、早速買ってきて試してみました。
炊き立ての白米の上に、ポテトチップスガーリック味を細かくつぶし、ふりかけのようにかけて食べてみましたが、美味しかったです。(^^)
もう、おかずが決められない日はこれで良いんじゃないかと思うくらい。
買ってきてまで試す必要はありませんが、もし、たまたまポテトチップスガーリック味が手元にある方は、お試しください。
僕は、好きでした。
<2010-3-3>
3D映画の「アバター」を観に行きました。
3Dには方式がいくつかあるらしく、IMAX方式が一番良いらしいのですが、川崎まで行く元気がなく、近場の府中に行きました。府中はXpanD方式でした。
「映画を観にいく」という気持ちよりも、「3D映画を体験しにいく」という気持ちの方が強かったため、映画が始まると、まるでディズニーランドのアトラクションにいるようで、ストーリーを追いつつも、奥の映像と手前の映像に視点を動かしたり、メガネを外してぼやけた映像を確認したり、いろいろなことを意識しながら観ました。
他の方式を知らないのですが、XpanDは暗かったです。
メガネを外して映像を観ると、ぼやけているのは別として、すごく明るくて綺麗な映像なのに、メガネをかけるとその良さが半減します。
これだったら、2Dでも良いので、明るい映像で観た方が良いのかも?、なんて思いました。
また、XpanDは、電子シャッターで右目の映像と左目の映像を切り替える方式のため、コマ数が足りていない感じがしました。
2Dの映画なら、多少カクカクしていても、それが映画っぽさでもあり、違和感はないのですが、3Dは非常にリアルなため、コマ数が足りないと世界が破綻する感じがします。
ゆっくりなシーンでは入り込めるのに、動きが早くなると映像がついていかなくて、「もっとちゃんと観たい!」と思わされます。
いろいろ書きましたが、それでも、3Dの説得力というか、迫力は圧倒的で、それは今までの映画にはない経験でした。
映画というメディアは十分洗脳的ですが、3Dにすることで、没入感が増し、更に洗脳的になるように思いました。
「アバター」のストーリーは、どこかで観たようなアイデア満載でしたし、ご都合主義過ぎではありましたが、ちゃんとハッピーエンドで良かったです。
何となく、「段数伊豆売るブス」じゃなかった、「ダンス・ウイズ・ウルブス」を彷彿とさせましたが、あちらは結末が悲しかったので、娯楽映画はこれで良いのだと思います。
そうそう、僕はいつも、映画は字幕派なのですが、3D映画は字幕を追っていては楽しめないと思い、吹き替えで観ました。
これは大正解だったと思います。
途中、吹き替え版でも字幕が出るシーンがあるのですが、字幕を読んでいると、映像を観る余裕がなくなります。
特に3Dの字幕は、字幕が浮いているように見えるので、一瞬、焦点を合わせる時間が必要な感じがしました。
全編字幕だったら、きつかっただろうなぁと思います。
これから観られる方は、吹き替え版がオススメです。
映画の後、府中の啓文堂で、「完全熟睡マニュアル」を探したら、平積みで置いてあるのを発見。
自分の本が並んでいるのを見るのは、やっぱり嬉しいです。
今日は深大寺のだるま市だったので、帰りに深大寺によって、お蕎麦を食べて帰ってきました。
家についてお茶を飲んだら、激しい睡魔に襲われて、気がついたらウトウトと1時間も寝てしまいました。
何だか密度の濃い一日でした。
<2010-3-2>
尾崎豊の「ドーナツショップ」という曲の中に、
「コンクリートの街並みが、さみしいんだよ、って、うつむいた」
という歌詞が出てくるのですが、僕はずっと、
「コンクリートの街並みが、斬新だよ、って、うつむいた」
だと思っていました。
田舎暮らしをしていた人が東京に出てきて、土も緑もない街の中で、「むしろ斬新!」って、感心している歌なのかなぁって。
そんなわけ、ないのだけれど。
<2010-2-24>
「死なないぞダイエット」という本を読みました。
この本は、いかに内臓脂肪を溜め込むことが体に良くないか、突然死や、死なないまでも、人工透析の辛さなどが豊富なデータとともに書かれており、心臓病や脳卒中、糖尿病についてよく知らない人にとっては、かなり衝撃的な内容になっています。
そして、働き盛りのお父さんが、大切な家族を残してそんな突然死で「死なない」ために、どうやったらダイエットできるのか、合理的な方法論が記されています。
今までの「食べたいけれど我慢する」「面倒だけれど運動する」という、我慢を前提としたダイエットではなく、毎日体重計にのって「体重が減る」という喜びをモチベーションに、楽しみながら、ゆっくりと、自然に、我慢なく、確実に痩せられる、非常に完成されたダイエット方法だと思いました。
この「計るだけダイエット」は、当然ですが、計るだけでは痩せません。計ることで、意識的にも無意識的にも、食生活が変わり、運動量が増えることで痩せていくのです。
本書の最初から最後までのすべてが、効果的な「暗示」になっており、無意識にも訴えるという意味においては、催眠的なダイエット方法だと思いました。
「食べる」喜びを、「体重が減る」喜びにすりかえるわけですから、毎日の体重の変化に気付けることが必要条件になります。
「計るだけダイエット」を実験した100人中、失敗した17人は、すべて、アナログ式の体重計を使っていたそうです。アナログ式だと、数値で体重が出ませんので、なかなか減った実感が沸きません。
同様に、デジタル式でも、200g や 500g 単位の体重計ですと、例え 50g
減っていたとしても、気がつけないので、「体重が減った喜び」を感じることができません。
ということで、著者は、50g や、最低でも 100g 単位で測定できる体重計を推奨しています。
うちの体重計も 200g 単位でしたので、早速 50g 単位の体重計を探したのですが、これがなかなかないんですよね。
ようやく見つけたのが、TANITA の「BC-306-PR」。
少し高いですが、毎日の測定結果が自動で記録されてグラフ表示ができたり、体重のほかに、体脂肪率、基礎代謝量、BMI、内臓脂肪レベル、筋肉量、体内年齢、推定骨量、体水分率が量れたり、表示部が取り外せて手元で確認できたりと、至れり尽くせりです。
早速注文してみました。
<2010-2-21>
いよいよ来週の日曜日、「催眠研究会」が開催されます。
「研究会」なんて言うと、とても難しそうに聞こえるかもしれませんが、参加者のほとんどが初心者の方で、お茶を飲み、お菓子をつまみながら、いろいろなお話をしています。
Derren Brown
という、イギリスの心理誘導を中心としたマジシャンの動画をプロジェクターで観ながら、何が起こっているのかを(解る範囲で)私が解説したり、皆さんで考えたりするのが中心です。
マジシャンの動画ですので、どうしてもエンターテインメントより、マジックよりの内容ですが、その分、わかりやすく、興味深いものが多いです。
また、人に影響を与えるコミュニケーション方法なども、動画の合間にお話していますので、もしかしたら、お仕事やプライベートに何かヒントになることがあるかもしれません。
参加費の1,000円は、あくまで茶菓代、資料代ですので、この会に関しては、仕事ではなく、私も趣味として行なっています。
ご興味のある方は、一度どんな感じが、のぞいてみてください。
ネット書店から在庫が消えていた「完全熟睡マニュアル」ですが、Amazon
と
セブンネットショッピング 以外は、在庫が回復しています。
ただ、広告のおかげで出版元に注文が殺到したらしく、現在、出版元の在庫がなくなってしまったそうです。(それ故、Amazon の納期がかなり遅くなっています)
ビーケーワン
などの他のネット書店ではまだ在庫がありますので、ご興味のある方は、なくならないうちにどうぞ!
紀伊国屋やジュンク堂などの大型書店では、今はまだ在庫があるようですが、初刷数が少なかったせいもあり、一度品切れすると、入手困難になる可能性もございますので、こちらも、ご興味のある方は是非。
<2010-2-18>
いまいち、どう使えば良いのか理解しないまま、twitterをはじめてみました。
今のところ、有名人のつぶやきを読んだり、ほとんど誰も誰も読んでいないのに、ときどきぼそっとつぶやいたりしています。
昨日新聞広告の載った「完全熟睡マニュアル」ですが、Amazon、楽天ブックス、boopleに続き、セブンネットショッピング、TSUTAYA
onlineでも在庫がなくなってしまいました。
これが、連邦軍のモビルスーツの威力……、ではなくて、読売新聞のサンヤツの威力なのか……、とびっくりです。在庫って、最初はどれくらいあったんだろう??
まだ、ビーケーワン、紀伊国屋
BookWeb、HMVには在庫があるようです。
なくならないうちに、是非!
<2010-2-17>
本日、2月17日の読売新聞の朝刊、1面に、「完全熟睡マニュアル」の広告が掲載されています。
全国紙に広告を出していただいて、出版元のこう書房さんには本当に感謝しています。
このスタイルの広告は、サンヤツと呼ばれるそうです。新聞の縦3段を使い、横は8等分したサイズなので、サンヤツ。
新聞の広告って、一体どれくらい宣伝効果があるのだろうと、昔から興味があったので、これから数日、売れ行きをチェックしてみようと思います。
広告の効果か、早速、Amazon、楽天ブックス、boopleでは在庫がなくなってしまいました。
ビーケーワン、紀伊国屋
BookWeb、セブンネットショッピング、TSUTAYA
online、HMVでは、まだ在庫がございますので、お早めに……。
下記、2/10、2/5のブログにもございます通り、大型書店でも購入可能ですので、書店にお立ち寄りの際は、どんな本か手にとってご覧くださいね!
<2010-2-15>
誰々の為、と平気で言ってしまう人は、偽善の匂いがプンプンします。僕はそういう人を信じません。
「人の為」と書いて「偽」と読むのは、「信者」と書いて「儲かる」と読むのと同じくらい、深いなぁと思います。
もちろん、結果的に人の為になることは素晴らしいことですが、そのときに「人の為にやっているんだ」という意識が少しでもあるのであれば、やめてしまえ、と思う。
「情けは人の為ならず」という言葉を、「情けは人の為にならない」と誤解している人がいますが、なんとも押し付けがましい誤解です。この言葉には、本来、「情けは人の為ではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」という意味があります。「すべては自分の為なんだ」、という認識こそ必要なんですね。
したいからそれをしている……。幸せに生きるために必要なことは、それ以上でもそれ以下でもありません。
自分が何かを選択し、実行していて、何故それをしているのかと問われたときに、「自分がしたいからだ」といつも答えられる人は幸せです。
「本当はしたくないけれど、自分がしないと○○さんが困るから……」などと言っている人は、「人の為」という言葉を使って自分の人生から逃げているだけです。
自分の為に生きられない人は、いつまでたっても幸せになれません。
「あなたのために○○したのに……」なんて言われたら、言われた方も重いです。頼んでないです。責任なんてとれません。
「喜ぶ顔がみたい……」という理由で淡い期待をする程度がちょうどいい。間違っても「喜ぶ顔」を強要してはいけない。
こんなことを書いていると、ずいぶん偏狭だと思われるかもしれませんし、全人類が「自分の為」だけに生きたら、大変なことになるのではないかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも、「人の為」という考え方は、「○○しなければならない」という考え方と並ぶ、二大悪のひとつだと思います。
自分の為だけに生きる、ということは、決して利己的に生きなさい、という意味ではありません。
自分のした選択に、すべて責任を負う、という意味です。「人の為」という言葉で逃げずに、自分の人生と向き合う、ということです。
誰もが自分の為だけに生きるようになったら、もしかしたら、今よりもずっと生きにくい世の中になるかもしれません。
けれども、それから20年くらい経ったころには、今よりも何倍も生きやすい世界に変わっているのではないかと、僕は思っています。
<2010-2-14>
先日、初代タイガーマスク、佐山サトルさんの道場へ遊びに行きました。
佐山さんは格闘技だけではなく、催眠も非常に熱心に研究されていらっしゃり、2年前から交流を持たせていただいています。
僕はプロレス黄金期に小学生でしたので、タイガーマスクの衝撃は今でもハッキリと覚えています。(休み時間になると、友達と一生懸命ローリングソバットの練習をしたものです)
その佐山さんと、個人的にお会いしたり、一緒にお食事をしたりするようになるとは、本当に夢にも思っていませんでした。
総合格闘技を日本で作り上げた、ファンにとっては雲の上のお方ですので、失礼があってはいけないと、初めてお会いしたときには緊張していたのですが、佐山さんの素敵な笑顔を拝見した途端に、その緊張も吹き飛びました。
佐山さんはお話が非常に面白くて、絶えず相手を笑わせ、楽しませてくれます。その冗談は、ときどき子供のように無邪気で、周りを否が応でも和ませてしまいます。
また、非常に聞き上手でもいらっしゃって、佐山さんとお話していると、まるで自分が面白いお話をしているのではないかと錯覚してしまうほど、全身で聞いてくださいます。
偶然にも、佐山さんも2月に本を出版されると言うことで、一冊プレゼントしてくださいました。
「佐山原理
新生武士道真陰」というタイトルで、「格闘技とは?」、「武士道とは?」について、佐山さんの熱い思いが語られています。
早速読ませていただきましたが、素晴らしい本です!
特に第一章では、今、なぜ武士道が必要なのかが、歴史を踏まえながらやさしく解説されてあり、何度もうなずきながら読みました。
日ごろ、心で感じていても、うまく言葉にならなかった思いを、佐山さんが痛快に語ってくださり、同時に、深く考えさせられました。
武士道について書かれている本ですが、闘い(これは格闘という意味だけではなく、護身や、精神的な意味も含めて)における、トランス(催眠)の役割や、戦闘生理学は非常に興味深く、内観法や呼吸法、自己催眠法についても言及されていらっしゃり、とても勉強になりました。
また、第七章では、掣圏真陰流の技術が解説されていて、こちらも格闘技ファンとしては、かなり面白かったです。今まで、いろいろな格闘技を観てきましたが、掣圏道のルールは非常に明確で、思想も合理的であり、はやく試合を観たいと思いました。
文章だけでなく、付属のDVDでは、内観法や呼吸法、催眠法を佐山さんが映像を通して解説してくださり、また掣圏真陰流の技術も、実際に映像で観ることができます。
護身術についての解説もあり、これはとても参考になりました。いざ、誰かに襲われたときに、対処法を知っているのと知らないのでは大違いですから、早速練習してみたいと思いました。
格闘技ファンも、催眠に興味のある人も、日本の行く末を案じている人も、是非読んでいただきたい一冊です。
<2010-2-10>
今日はお茶の水へ行く用事があったので、ついでに新宿、神保町、お茶の水で本屋さん巡りをして、「完全熟睡マニュアル」が売られているかどうか、チェックしてきました。
(しつこくてごめんなさい)
まずは、新宿にある、BOOK1st新宿店から。この本屋さん、初めて行きましたが、大きくて綺麗で見やすくて、とても良い本屋さんですね。
新宿西口の地下道を高層ビル群の方に向かって歩くと、スバルビルの「新宿の目」のすぐ先にあります。
Dゾーン53番の、生活実用売場、家庭の医学コーナー、症状別治療のところに置いてありました。
続いて、ルミネ1の中にある、BOOK1stルミネ新宿1店。
生活実用売場、家庭の医学コーナー、家庭の医学その他のところに置いてありました。
同じく、ルミネ2の中にある、BOOK1stルミネ新宿2店。
ビジネス・法経売場、ビジネススキル、自己啓発コーナー、自己啓発のところに置いてありました。
神保町にある三省堂書店神保町本店では、2階6列B家庭医学、棚番号06B-03に置いてありました。
最後に、お茶の水駅前にある、丸善でも見つけました。
新宿、神保町、お茶の水にお立ち寄りの際は、探してみてくださいね!
この本が青色なのは、元ヤクルトの捕手、古田選手のキャッチャーミットが青いことからヒントを得ました。
写真をみて、なんとなく、目だっている感じがしませんか?
<2010-2-8>
「ゲシュタルト崩壊」という言葉を何度も読み直してみても、決してゲシュタルト崩壊しないのは、気のせいでしょうか?
<2010-2-5>
今日は休みだったので、午後から新宿へ出かけて、「完全熟睡マニュアル」がどこで売られているのか、本屋めぐりをしてきました。
というのも、近所の駅の本屋さんでは見つけることができなかったからです。
まずは紀伊国屋新宿本店。
1階の「新刊」コーナーをさがしたところ、1F-D22で見つけました。
6階の「家庭医学」6F-D14にも置いてありました。
続いて向かいのジュンク堂書店。
こちらは、8階の「心の病気」8F-20にありました。
高島屋の中にある、紀伊国屋新宿南店では、2階の「家庭医学2」2F/13-02にありました。
最後に、小田急デパートの中にある三省堂では、「健康」B01-03にありました。
小さな書店ではなかなか見つけられませんが、今日行った限りでは、大型書店にはすべて置いてあり、ホッとしました。
「いつか本をだしたいなぁ」と昔から思っていましたが、そんなときはいつも、「本を出したら自分の本が売られているのを見るために、本屋さんをまわってしまうだろうなぁ」と思っていました。
今日、実際にそれをやってみて、ようやく、「本を出したのだ」という実感が沸いてきました。(なんだか素人感丸出しですみません。。。)
そして、「本が売られているのを見つけたら、小躍りくらいしちゃうんだろうなぁ」とも思っていましたが、もういい大人なので、小躍りはできませんでした。(^^;;
新宿にお出かけの際には、是非、書店に立ち寄って、パラパラとページをめくっていただければ幸いです。
いつごろまで新刊扱いで、このように平積みにしてもらえるのか判りませんが、少なくとも1週間くらいは、こんな風に並んでいると思います。
<2010-2-3>
この度、こう書房さんより、「完全熟睡マニュアル」という本を出版することになりました。
僕は高校生の頃、しばらく日記をつけていたことがあります。
ある日の日記に、将来かなえたい夢を書いたことがありました。
確か10個くらいの夢を書いたと思います。
当時は何気なく書いた夢だったのですが、例えば、「タイピングができるようになりたい」と書きました。この夢は、大学卒業後にすぐにかないました。就職先の会社の新人研修でタイピングがあり、ほんの数日練習しただけで、キーボードを見なくても叩けるようになったのです。
また、僕は中学くらいから近眼でメガネをかけていたので、「目が良くなりたい」とも書きました。そのときは、視力回復の訓練などをして、いつか視力を回復させたいという意味で書いたのですが、現実的に考えればそれは本当に「夢」でした。しかしこの夢も、2年前、レーシックの手術を受けることで現実となりました。裸眼で遠くのものが見えているというのは、20年近くメガネなしでは見えなかった経験からすれば、信じられないことで、未だに良く見えることが「夢」のようです。
そしてその夢のリストに、「自分で書いた本を出版したい」とも書いていました。
この夢は、ずいぶん前に、もうかなうことはないだろうなぁ、と諦めていたし、最近ではそんなことを書いたことさえ、忘れていました。
ですから今回、自分で書いたものが出版されることになり、嬉しい以前に、信じられないという思いです。
この本は、不眠に悩む皆様が、自己催眠を使って眠れるようになるための本です。文章だけでなく、付属CDには、催眠誘導がそのまま収録されていますので、聞くだけで催眠を体験できるようになっています。
また、催眠の原理やイメージ方法なども簡潔にまとめてありますので、催眠の入門書としてもお読みいただければと思っています。
詳しい内容については、こちらをご覧ください。
今は、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいなぁという思いで一杯です。
<2010-2-1>
親知らずを抜いてきました。
2003年に左上を抜いたのですが、今回は右上。
前回抜いたときには右上は生えていなかったのに、去年あたりから生えてきて、磨きにくいので抜くことにしました。
親知らずが大変なのって、下の場合なんですね。
今回も前回同様、簡単に抜けて、腫れもありませんでした。
<2010-1-30>
「坂」のイントネーションはどちらが正しいのか、未だに良く判りません。
「あの坂をのぼって……」というときの「坂」は、「坂田」の「坂」なのか、「坂本」の「坂」なのか……。
<2010-1-29>
「そういう意味で言ったんじゃないんだよ」と弁解する人のうち、おそらく半分くらいは、本当はそういう意味で言っています。
<2010-1-26>
先日セッションにいらっしゃった方から、メールをいただき、掲載許可をいただきましたので、体験談としてご紹介いたします。
---ここから---
セッション後、一週間が経ちましたが、あれからパチンコを
一切やっておりませんし、「やりたい・やらなくちゃ」と言う思いも
嘘のように私の心(意識)からなくなっています!
一週間前に受けたセッションを振り返ると、
先生が、ゆっくりと時間をかけてヒアリングをして下さり、
じっくりと親身に私の話に耳を傾けて頂き、「パチンコ依存症」と言う、
情けなくて誰にも打ち明けられずにいた悩みを聞いて頂いただけでも
精神的には随分と楽になり、リラックスしてセッションを受ける事が出来ました。
セッション中は、先生の心地良い声と誘導に安らぎを感じ始め、
その安らぎが全身に満ち溢れるのを実感出来、体が今にも浮いてしまいそうな…
そんな気持ちの良い感覚がずっと続いていました。
先生の誘導の中で、「解放される」を言う言葉を聞いた時、
「これで私は解放されるんだ」と言う、心からの安堵感が込み上げ、
同時に涙が溢れたのを覚えています。
その時は「ギャンブルから解放される」と言う意味での安堵感に思っ
ていましたが、
セッション後、先生のおっしゃって下さった、
私はお金への執着からギャンブル依存症になったのではなく、
夢追い半ばで断念してしまった事への後悔や未練…或る意味で「負け犬」的な
劣等感からギャンブル依存症になり、それから「解放される」事を心が望んでいて、
心が先生の言葉に感涙していたと言う事に気づかされました。
その心の劣等感を、ヒアリングの中で先生に見抜いて頂き、
誘導で解き放ってくれた事に本当に感謝しております。
セッション後、変わった事は、勿論
「パチンコに興味・関心がなくなり、やりたいと思わなくなったこと」
ですが、他にも
「自分自身を否定する心の言葉が格段に減ったこと」
「精神的に何事も前向きになった(ストレスを感じなくなった)こと」
「ギャンブル以外に意識や関心が向くようになったこと」
です。
セッション後2,3日は、やはり「パチンコやりたいなぁ」と言う思いが
込み上げて来ました。以前の私なら、そう思ったら絶対行かないと
イライラして何も手につかない状態でしたし、「行っちゃダメ!」と言う
思いが余計にパチンコに駆り立てましたが、セッション後は、
「パチンコたりやいなぁ」と思うのと同時に「パチンコ、やりたいならやっても
いいけど、お金も時間も、もっと他に使う事あるんじゃない?」と言う
声が聞こえてきて、「そうだよね」と素直に納得出来る自分が居ました。
カウンセリング中に、先生から「人はやっちゃダメだと言われると、それを
やりたくなる」と言う心理をお伺いし、それを誘導の中に組み込んで頂いた
のでしょうか…(誘導が余りに心地良かったので、誘導の言葉を断片的にしか
思い出せなくて済みません)パチンコをやりたいと思う自分は否定せずに、
かつ、疑問附で問いかけられると、本当に自分にそれが必要か否かを吟味する猶予が
出来るので、冷静に判断する事が出来て、結果、パチンコに行きたいと言う
思いは消えていきました。こうした心と感情の会話を繰り返すうちに、
「パチンコに行きたい」とさえ思わなくなり、他の物事に関心を持つように
なりました。
セッション後、今日が始めての休日だったのですが、以前の私は
必ずパチンコ店に入り浸っていたのですが、今日はパチンコの事を思う事すらなく、
時間を自分の為に使って、とても充実した休日を過ごす事が出来ました。
休日を、こんなに穏やかに過ごしたのは何年振りになるのか…
桜井先生の催眠療法をHPを通して2年も前から知っていたのに、
何故もっと早くに桜井先生の元に行かなかったのか…知った時に
先生の元を訪れていたら、何年もギャンブル依存症にもがき、無駄な
お金と時間を失う事もなかったのに…と、悔やまれてなりません。
そして、1回のセッションでここまで改善してくれた先生の素晴らしさと
温厚な人柄に、本当に言葉では言い表せない位に心から感謝しています。
---ここまで---
<2010-1-25>
僕は格闘技は見るばかりの素人なので、的外れな意見かもしれませんが、計量って、なんで前日に行なうのでしょうか?
本来、階級って、同じ体重の人同士が戦うためにあるわけですよね?
ということは、ゴング直前に計量するのが本来の姿なのだと思います。
計量後に体重を戻して、実際には階級以上の体重で戦うのは、おかしいのではないでしょうか。
そうなってくると、いかに1日で体重を増やすか、という、格闘技とは関係のないテクニックも勝敗に影響するようになると思います。
もちろん、減量している状態で試合をするのは危険だという意見もあるでしょうが、それは相手も同じ条件なわけですし、それを考慮して事前に体重は落としておくべきでしょう。また、最悪計量をパスできなくて、試合が中止になる可能性もありますが、それも直前計量というシステムに変更されれば、選手はプロなのですから、きっちり体重を合わせてくると思います。
格闘技は体重が重い方が有利だというのはわかりますが、だからといって、減量してまで、なるべく下の階級で戦うというのは、どこか間違っている気がします。何と言うか、そこまでして結果を求めるのは、格闘技の精神と矛盾するのではないかと。
そもそも、階級を体重でわけるのは何故なんでしょう?
体重じゃなくて、身長で階級をわければ、減量などしなくて済むし、いくら重い方が有利だからと言っても、無限に体重を増やしはしないでしょう。自ずとベスト体重と言うのが見えてくると思いますし、結局は同じような体重で戦うことになると思います。もし、そうならないとしたら、それは選手のイデオロギーの違いになってくるのでしょう。
また、リーチで階級をわけても良いと思います。リーチでわければ、ずっと公平になる気がする。だって、届かないって致命的だもの。
格闘技に詳しい方、正解を教えてください!
<2010-1-24>
「根拠レス」って、もっと使われても良い言い回しだと思います。
それとも、すでに死語なのだろうか。
<2010-1-23>
元気でなくたっていいじゃない。
<2010-1-21>
以前から一度行ってみたいと思っていた、世田谷にある等々力渓谷へ行ってきました。
空気がとても澄んでいて、あたりは静かで、平日のせいか、人も少なく、心地よい散歩を楽しむことができました。
湧き水をくめるポイントがあって、持参したペットボトルに入れて歩きながら飲みました。
階段の上は都会なのに、渓谷におりると自然が広がっており、自分が23区内にいるのだということがにわかには信じられないほど、良い雰囲気です。
この近くに住んでいたら、毎日散歩に来てしまうだろうな。
湧水はないけれど、井の頭公園付近の玉川上水沿いの道も、同じように自然の中を歩くことができます。
一度もしっかり歩いたことがないので、今度は玉川上水を歩いてみようと思いました。
<2010-1-20>
勝手にしなよ
♪君みたいな女の子と長い間 つきあってると
こっちは まるでソクラテスみたいな
哲学者に なっちまうぜ
バーガンディ・ワイン スキャンダル サキソフォン
淋しい目をしたウエイトレス
ここには あの娘の目の色 変えるものでいっぱい
高校の頃、初めてこの曲を聴きました。
大人になったら、ガールフレンドに向かって「君みたいな女のこと長い間つきあってると、こっちはまるでソクラテスみたいな哲学者になっちまうぜ」なんて言ったりするのかなぁと漠然と思っていたし、そういうことがサラッと言えるのが大人なのかもしれないとも思っていました。
もちろん、大人になってもそんなセリフを言う機会はとうとう訪れませんでした。
♪いつか君に しゃべった事かもしれない
愛して 生きて だけど いつでも君は自由さ
Do Do Do What you like
Do what you like and
You can go anywhere
どんなときでも、「いつでも君は自由さ」と言える人になりたいです。
<2010-1-17>
キンモクセイを好きになったきっかけは、ラジオでした。
ラジオCMで、「同じ空の下で」が流れているのを聴いて、「この曲を聴いてみたい!」と思ったのです。
すぐにアルバムを買って、ライブを観にいきました。
「さがみはら風っ子祭り」にも行きました。
歌謡曲風アレンジ、レトロな雰囲気、そしてしっかりとした音楽テクニックは、すべて心地よく、どこか懐かしくもあり、子供の頃の日曜の午後のような気持ちにさせてくれました。
熱狂的なファンというわけではありませんので、つい最近まで、キンモクセイが2年前に活動を休止していたのを知りませんでした。
もっと評価されても良かったバンドだと思います。
アーティストとして売っていくには、野心がなさ過ぎるし、人が良すぎたのかなぁ。
ただ良い音楽を作れば売れるわけではないんですよね。
本当に残念です。
<2010-1-16>
僕はシャンプーやハミガキなどにはこだわりはなく、いつもドラッグストアで安売りしているものを、適当に購入します。
今日、シャンプーがなくなったので、新しいのに代えたのですが、一度も使ったことのない銘柄でした。
普段は洗髪後の髪の匂いなど全く意識しませんが、シャンプーを交換した日だけは、新しい匂いに馴染むまで時間がかかります。
自分の髪の毛なのに、他人の髪の毛のように感じます。
すごくいい匂いに感じて、自分が自分でないみたい。
これから毎日この匂いなんだなぁって思うとウキウキするのですが、不思議なもので、数日すると全く匂いを感じられなくなります。
慣れてしまうんでしょうね。
シャンプーはいつもボトルで購入するので、このウキウキした感覚はしょっちゅう感じられるわけではありません。
今日はその感覚を満喫したいと思います。
<2010-1-13>
「恋人募集中!」というようなことを、言ったり書いたりしてしまう人がいますが、これはギリギリセーフな言い回しだと思います。
言っている本人は、ちょっと気の利いたことを言っているつもりなのだろうし、そういうことをサラッと言えてしまう自分が好きなのかもしれないし、冗談っぽく言いながらも、半分くらいは本気を混ぜているのかもしれません。
店に貼ってある「アルバイト募集中」の看板を見て、「働いてみようかな」と思う人はいたとしても、「恋人募集中」だからと、「じゃあ告白してみようかな」と気軽に思う人がいるとは思えませんが、少なくとも自分はフリーなのだということを宣言することはできますし、「偶然に」その人のことを好きな人がいたとしたら、肩を押すことにはなるかもしれない。
そしてそこからは、「募集中です」、「はい、応募します!」みたいなふざけたノリではなくて、普通に気持ちを伝えるのだろうし、それで断られたとしても、「募集中って言ったじゃないか!」などとナンセンスな切れ方をする人はいるはずもありません。大体、アルバイトだって、面接で落ちることはあるのですから。
今日、ラジオを聴いていたら、CMの中である男性アイドル(ミュージシャン?)が、本気なのか、言わされているのか、「誕生日プレゼントは365日受け付けています!」と、「気の利いたことを言っている」体で言っていました。
僕はその言い回しを聴いて、理由は良く判らないけれど、大脳基底核(?)が「アウト!」と叫んでいるのを感じました。
「恋人募集中」と言う人は、自分の言っている意味を理解しているし、どんな結果が起こりえるのかも理解しているし、それをどこかで期待している可能性もあります。
しかし、「誕生日プレゼント365日受付中」と言う人は、自分が何を言っているのか全然理解していないし、どんな結果が起こりえるのかを考えてもいないし、それを期待さえしていないのです。完全な「ノリ」です。いや、もしかしたら、すごくカジュアルに、物欲の延長で「何か貰えればラッキー」程度は思っているのかもしれませんが、それがやがてどんな事態を招くのかは、やはり全く考えていないと思う。
だって良く考えてみてください。
「誕生日プレゼント365日受付中!」って深く考えずに言ったのがきっかけで、全然関係のない日に誰かから「誕生日プレゼント」という名目で、何の役に立ちそうもないファンシーな小物をもらったところを。
少しの迷いもなく、誕生日と同じテンションで「ありがとう!」って言えますか?
「何歳になったの?」、「どんな年にしたい?」といった、儀式的な質問に、誕生日でもないのにしっかり答えてあげることはできますか?
面倒くさいなぁって思ったりしませんか?
誕生日プレゼントをくれた人に対して、「この人、本気にしちゃったよ」と、冗談が通じない人間を見るような目で見たりしませんか?
もちろん、中には「冗談で言ったのに本当にプレゼントをくれた!」と嬉しい気持ちになる人もいるでしょう。
しかしそんな喜びも、少しずつ「誕生日でもないのに誕生日プレゼントを買わせてしまった」という罪悪感にかき消されていきます。
多くの人にとってその体験は、「嬉しい!」「ありがとう!」よりも前に、「困ったな」「恥ずかしいこと言っちゃったな」という気持ちが先に浮かんでくる出来事になるのです。
あんなに良い関係だったのに、それをきっかけに、全然嫌いじゃないにも関わらず、関係がギクシャクしてしまうかもしれません。
こういうのは考えすぎかもしれないし、僕の心が偏狭だからかもしれませんが、「あー、この人、何も考えずにこういうこと言っているんだろうなぁ」って感じることがときどきあって、今日もまさに、そういう瞬間でした。
誕生日プレゼントは、「その日」だからこそ、「覚えていてくれたんだ!」という喜びがあるのだと思います。
<2010-1-10>
最近、「誤訳御免!!」というサイトを知り、読んでいます。
日本の文化やアニメ等を、外国人がどう思っているのか、その反応をまとめてあるサイトで、これがとても面白いのです。
日本人にとっては当たり前な事柄を、面白がっている人たちがいるというのは、日本人として、何だか嬉しく思いました。
どうも、これらの掲示板に書き込みをしている外国人は、日本のアニメやマンガが好きなようで、それ故、「アニメの中と同じような学生生活が本当にあるのだ!」というのが驚きのようです。
例えば、「日本の高校生が体育祭で競い合う映像の海外反応【YOUTUBE動画】」や「日本の高校生が教室でお弁当を食べる映像の海外反応【YOUTUBE動画】」では、「うわ〜、何かとっても漫画っぽいわぁ」、「彼らが学校の屋上で弁当を食べてる所が観てみたいな」という感想が書き込まれています。
また、「日本のハイテクトイレ(ウォシュレット)の海外反応」は、そこまで驚くことなのかなぁと思いましたが、外国人にとっては「操作パネルを開いて更に多くのボタンが出てきたときは発狂しそうになったぜ」ということなのでしょう。
<2010-1-2>
あけましておめでとうございます。
毎年、年末年始は大好きで、非日常的な気分を満喫するのですが、この年末年始は、秘密の(?)プロジェクトのために、ほぼ毎晩徹夜しており、まったく正月気分を味わえません。
正月だけは、街の雰囲気も違うので、否が応でも実感させられると思っていたのですが、家に閉じこもり、テレビもつけないと、普段となんら変わらない日々を味わえるのだなぁと、ちょっとした発見でした。
2週間遅れくらいで、社会がとっくに動き出した頃に、ひとりでお正月をしようと思っています。