ひとりごと
エッセイもお読みくださいね。
<2008-12-30>
エッセイをいくつか追加しました。
<2008-12-29>
子供の頃、給食などでシールつきのバナナが自分にあたると妙にテンションが上がりました。
シールって、何であんなに楽しかったんだろう?
シールだけでは飽き足らず、外枠まではがしてペタペタ貼った記憶があります。
きっと、「シール」っていうネーミングが素敵なのも、子供がシール好きな理由のひとつだと思います。
これ、シールじゃなくて、「貼り付け絵」とかいう、実用的な名前だったら、子供はこんなにも愛さないと思います。
以前、バナナマンの設楽が、本に挟む「しおり」について、「しおりって、何であんなに素敵なネーミングなんだろう?」と言っていました。それこそ、「ページ記憶紙」といった、「湯沸かし器」的なネーミングでも良かったはずです。
言われてみれば、確かに「しおり」って、素敵な名前ですね。名前をつけた人のセンスと、愛を感じます。
カニクイザルに、カニクイザルという名前をつけた学者は、見習うべきだと思います。
<2008-12-25>
趣味と言うほどのものでもないのですが、僕は高速道路のサービスエリアを巡るのが大好きです。
遠出するときは、必要以上にサービスエリアに寄って遊んでしまうので、なかなか目的地に着きません。
最近は遠出する機会も滅多にないので、わざわざサービスエリアに行くために高速に乗ったりもします。(本末転倒)
今日も、海老名サービスエリアまで行って来ました。
名物の肉まんや串焼き、メロンパンを食べて、帰りに稲城にある日帰り温泉でお風呂に入って帰ってきました。
どこに泊まったわけでもないけれど、「高速に乗る」「サービスエリアに寄る」「外でお風呂に入る」という行為が重なると、ものすごく旅に行った気分がします。
<2008-12-24>
毎年12月に入った頃から、なんとなくこちらなんかを聴いたりして、クリスマス気分を味わうのですが、今年は気がつくとクリスマスイヴ、という感じで、クリスマスと言う感じがしません。
穴を埋めるかのごとく、これから「Happy
Xmas (War Is Over)」とか、「Christmas
time in blue」とか聴こうと思います。
メリークリスマス!
<2008-12-23>
「寂しくないの?」
「慣れたのさ、訓練でね」
「どんな訓練?」
「僕は不思議な星の下に生まれたんだ。つまりね、欲しいと思ったものはなんでも必ず手に入れてきた。
でも、何かを手に入れる度に別の何かを踏みつけてきた。
わかるかい」
「少しね」
「誰も信じないけど、これは本当なんだ。三年ばかり前にそれに気付いた。
そしてこう思った。もう何も欲しがるまいってね」
「それで、一生そんな風にやってくつもり?」
「恐らくね。誰にも迷惑をかけずに済む」
「本当にそう思うんなら、靴箱の中で生きればいいわ」
〜村上春樹 『1973年のピンボール』
<2008-12-22>
27日の夜10時より、NHKで「人間60年 沢田研二スペシャル」という番組が放送されます。
僕は、大学の頃、沢田研二の2枚組みベストを偶然手にしたのをきっかけに、沢田研二を聴くようになりました。
オフコースの初期のアルバム(さすがに「僕の贈りもの」は古い感じがしますが、「ワインの匂い」辺りから)を聴いても全く古さを感じないし、今でも十分通用するように思うのですが、沢田研二の初期の曲は、アレンジが古く、残念ながら、今でも通用するとは言い難いです。何だか沢田研二とオフコースの間の微妙な時間差(実際はほとんど差はないのだけれど)に、音楽的には大きな溝があるのではないかという気がします。
でもねぇ、いいんですよ、沢田研二。
とにかく、かっこいい。
男くさくて、もしかしたら今ではこういったタイプはもてないのかもしれませんが、当時、ファンが熱狂したのも理解できます。
僕が一番好きな曲は、「ヤマトより愛をこめて」です。
阿久悠と沢田研二の組み合わせは最強ですね。
この曲の素晴らしさを書こうと思ってYoutubeの映像を観ていたら、ヤマトの懐かしい映像に、それどころじゃなくなってしまいました。(^^;;
佐渡先生、徳川機関長、土方艦長、山本、斉藤、加藤、真田さん……、みんな死んでしまったのですね。(; ;)
<2008-12-21>
「M-1グランプリ2008」を観ました。
毎年M-1は、観る側なのに妙に緊張し、なかなかリラックスして笑えないのですが、その緊張感がパンパンに膨れ上がったときにツボにはまると、苦しいくらいに笑ってしまいます。
2005年のブラックマヨネーズ、2006年のチュートリアル、そして去年のサンドウィッチマン……。どの組のネタをとっても、この爆発力みたいなのがあって、「やっぱりM-1は面白いなー」という気持ちで番組を観終わりました。
今年は去年までとは違い、初めからどの組もそこそこ笑えました。そのかわり、そのまま爆発することもなく、終わってしまった感じがします。
観終わった後、何だか不完全燃焼だったので、2005年のブラックマヨネーズのネタを観ました。
吉田がときどき「伝説の2005年M-1優勝者」みたいなことを言っていますが、確かに、異常に面白く感じました。
さて、いよいよ年末です。
<2008-12-19>
ようやく、携帯版サイトが完成しました。
実機で確認していませんので、もしかしたらうまく見られなかったり、フォームが送信できなかったりがあるかもしれません。
お気づきの点がございましたら、是非、携帯版のお問い合わせフォームから、お送りくださいね。
「ちゃんと見られたよ!」のひとことでも、いただけたら嬉しいです!
<2008-12-16>
ずっと読みたいと思っていた本があります。
1970年代に出版された「催眠名著シリーズ2」の、T・X・バーバー著「催眠」です。
出版元の宣伝文には、
「トランス」という実体のない媒介概念を仮定する従来の研究を批判し、一般心理学の概念を用い科学的方法に従って催眠現象を解明する。そして催眠行動は課題動機づけによって可能なことを多くの実験で示す。
とあり、とても興味深い内容です。
催眠状態とは何か、という議論がなされるとき、必ず引き合いに出されるのがこちらの本で、以前から読みたいと思っていたものの、すでに出版元では絶版になっており、地元の図書館にも置いてありませんでした。
いい加減、中古で手に入れようかなぁ、それとも、国会図書館に行って読んでこようかなぁと思っていた矢先、近隣の図書館にあることが判明しました。(自分の住んでいる市区町村でなくても、近隣の市区町村の図書館は利用できるのですね)
そして本日、めでたく借りてくることが出来ました。
年末年始を挟むので、貸し出し期間も通常より長く、じっくり読めそうです。
ついでに、「催眠名著シリーズ1」
R・ヒルガード著「催眠感受性」も、保存庫にあるということで、こちらも予約してきました。数日中には借りられそうです。参考までに、そちらの宣伝文も引用します。
催眠にまつわる偏見を払拭し、催眠の本質を科学的に解明するために多年にわたって行なった、実験的研究の豊富な資料を集大成したもので、催眠の発達相互作用説も試論されている。非常に興味深い名著の訳出。
催眠研究会で、これらの本の内容も、議論したり、検証したり、追試できたらいいなぁと思っています。
<2008-12-15>
僕の携帯は、純粋な電話としてしか使えません。いまどき、メールも、携帯でネットを見ることもできません。
もちろん、申し込めば使えるのですが、メールもネットもパソコンで十分だし、外にいるときまでメールやネットに縛られることが、何だか嫌で、ずっと申し込まずにいます。
ということで、このホームページも、あまり携帯版の必要性を感じずにここまでやって来たのですが、先日、知人の携帯でここを見たとき、レイアウトも崩れ、全く読めない状況を目の当たりにし、これじゃいかんと、今日から携帯版の作成を開始しました。
できたページを携帯で確認できないので、動作確認はエミュレータを使っています。やっぱりキャリアによって、そして端末によって、見え方って違うのでしょうか。少しだけ不安です。
<2008-12-14>
猫をみて思ったんだけれど、猫の髭と人間の髭って、全く別物ですよね。
動物の髭は、触覚器として役に立っていますが、人間の髭は、生やしたところでそういった目的では使えないし、動物は子供でもメスでも髭が生えていますが、人間はそうじゃないし……。
形状が違うけれど同じ機能を持ったものを同じ名前で呼ぶのは理解できますが、同じ様な場所にあるという理由だけで、本来、別のものを同じ名前で呼んでしまうというのは、どこか間違っている気がします。
<2008-12-13>
「近代デジタルライブラリー」で「催眠」と検索すると、明治時代や大正時代に出版された、催眠関連の本を読むことができます。
ざっとタイトルだけ眺めるだけでも、「遠距離催眠術」、「催眠術及千里眼透視術実践教授書」、「催眠術矯癖自在」、「催眠術独習」、「催眠術秘伝書」、「瞬間催眠術教授書」、「ダレデモデキウル催眠術」、「反抗者催眠論」、「魔術と催眠術」、「人身磁力催眠術」など、もうワクワクしてしまいます。(^^)
いくつかパラパラ読んでみたのですが、トンデモ本もありますが、反対に、催眠の本質を簡潔に述べているものも少なくなく、非常に興味深かったです。
凝視法を、「100年前の古臭い方法」と断言していたり、「明るくて風通しの良い部屋が一番良い」、「目をつぶらせて、開かない!、と言えばその通りになる。それで開いてしまうのは、相手が冷やかそうと思っているからだ」などなど、頷いたり笑ったりしながら読みました。
現在、催眠に関わっている人たちが議論しているのと同じ様な内容が、当時から議論されていたのだということを知るだけでも、面白かったです。
<2008-12-11>
「ザ!世界仰天ニュース 催眠術スペシャル」を観ました。
催眠がさらしあげられるのかと、ドキドキしながら観ましたが、意外に好意的(?)な作りで、ホッとしました。
紹介されていたのは、非常に古典的な催眠療法でした。
2度目の抜歯のシーンで、患者さんが痛がっていましたが、そもそも、催眠で感覚の麻痺が起こるのは、その場所に意識が向かないからです。2度目は日本のテレビカメラも入り、「絶対に失敗してはいけない」というプレッシャーから、意識を中世に集中させることが初回より難しかったのではないかなーと思いました。
暗示と言うのは常に、意識の向いていないところに働くものです。
例えば「手が固まる」という暗示も、現実の手が固まったかどうかに意識が向いている人にはうまく行きません。現実の手ではなく、「手が固い現実」に意識が集中している人には成功します。
「考えるな。感じろ!」なんですね。
<2008-12-10>
マザーテレサは生前、「世界中の貧困がなくなったら、どうしますか?」という質問を受けたことがあります。
「そうしたら失業ね」
彼女はニッコリ笑ってそう答えました。
僕はその映像を観て、何とも心が洗われる思いがしました。
仕事って、そうあるべきですね。
医者もそうだし、警備会社も、アンチウイルスソフトを作っている会社などもそうかもしれませんが、本来、そのような職業がなくても生きていける世界と言うのが、理想の世界だと思います。しかし、現実には病気があり、悪い人たちがいる。
建前ではなく、本気で「失業できたら本望」という意気込みでそれらの仕事をするのは、案外難しいように思います。現実的に、それで食べているわけですから。
ですから僕は、カウンセラーやセラピストも、この意気込みを持っているかどうかが、とても大切だと思うのです。
私はセッションの最後に、「次はいついらっしゃいますか?」というお話は一切しません。
一度のセッションで何も変わらないクライアントさんもいらっしゃれば、一度のセッションで人生を変え始めるクライアントさんもいらっしゃいます。また、残念ながら、セラピストと合わないクライアントさんもいらっしゃいます。ですから、まずは生活に戻って様子を見てから、改めて次のセッションに行くかどうかを考えれば、それでいいと思っています。
次回の予約を強制したり、「○○回くれば治ります」などと言う所は、どこか、「失業できたら本望」ではなくて、自分の生活のためにクライアントさんの気持ちを無視しているような気がしてなりません。もしくは、自分のしていることに自信がないのかな?
<2008-12-9>
ふと、午前中にテレビをつけたらやっていた「パパとムスメの7日間」を、最後まで観てしまいました。
舘ひろしに、そのままの格好で女子高校生を演じさせるのにもびっくりしましたが、そんなことより、佐田真由美が怖すぎです。
<2008-12-8>
「誰でも催眠に入れる誘導方法を見つけました」なんて書けば、お客様が増えるのかな?
<2008-12-7>
我が家の雑種猫「ゆず」(写真の黒い方)は、超ツンデレ系です。
撫でよう、抱っこしようとすると逃げ回って絶対捕まらないときもあれば、ゴロゴロ言いながら足にスリスリしてきたり、まるで人間が肩をポンポンと叩くように、前足でチョンチョンと「こっち向いて!」攻撃をしてきたり、行くところ行くところついてまわり、僕が座ればすぐに膝にのって、背伸びして顔を近づけてきたり、寝ていると隣に来てゴローンと体重をあずけてきたりと、末恐ろしい甘え方をします。
もう、二重人格(二重猫格?)なんじゃないかというくらい、ツンツンしているときと、デレデレしているときの性格が違います。
今のところ、何がきっかけでスイッチが入ったり切れたりするのか、まったく解りません。
ゆずが人間でなくて良かった。
こんな、アメとムチを使いこなし、気まぐれで心の読めない女の子が近くにいたら、宿命的な恋に落ちて、何も手につかなかい人間になっていたんじゃないかと思います。
<2008-12-6>
何を言っても、すべて、「でも〜」とか、「それは違うよ〜」と相手を否定し、言葉の表面的な部分につっかかってきて、中身を話させてくれない人とは、早めに関係を切らないと、病気になってしまいますよ。
何かを感じるって、素晴らしいことだと思うんです。例えそれが、誰かの目には間違った感じ方だとしても、自分がそう感じたのだから、感じた自分を責める必要はない。相手の目が間違っている可能性だってあるのですから。
理解してもらえなくて、否定ばかりされて、自分に自信がなくなってしまった皆さん。
そこにいてはいけません。
残念ながら、その相手はあなたを洗脳し、依存させ、病気にさせます。
もし、あなたにとってその人が、いなくなってしまっては困る人だとしたら、余計に危険です。
そのような逃げ出せない状況で否定され続けると、人格が壊れます。
特に、言っていることとやっていることが矛盾している場合に、注意して下さい。
意見を求めるくせに、それについて何か答えると、片っ端から否定するような相手は、あなたをコントロールしたいだけだし、相手を否定することで自分が気持ち良くなりたいだけです。
繰り返しますが、そういう相手と長い間一緒にいると、あなたは病気になります。幸い、病気にならなかったとしたら、あなたは洗脳されるか、相手に依存してしまうか、もしくはその両方です。
ひとりになる勇気を持ってください。
案外、その人なんていなくても、何とか生きていけるものです。
最初は戸惑うかもしれないけれど、タフな世の中で生きていくには、寂しさを乗り越えて強くなることも必要です。
残念ながら、人間関係は全て、「困っている人が負け」です。
だから、少し寂しい気もしますが、時には心の中で、相手に向かってこう宣言しましょう。
私はあなたがいなくても困らない。
何が何でも勝つ必要はありません。
ただ、いい加減に、負け続けるのはやめにしませんか?
<2008-12-4>
セミナーなどで、暗示に反応する原理とか、サブリミナルの影響とかを解説する機会が増えてきたせいか、今まで気がつかなかったところにも、意図的にしろ、そうでないにしろ、多くの心理誘導があることに気がつき、ハッとすることが多くなりました。
もうすでに、どなたかが指摘していらっしゃるかもしれませんが、Perfume が大ブレイクした背景にも、実は巧みな心理誘導があるのではないかと思います。
彼女たち3人のキャラクターやテクノサウンドももちろんブレイクの要因でしょうが、一番の要因は、あの独特なダンスにあると思います。
チョコレイト・ディスコの振り付けを観てそう思ったのですが、これなんかは、サブリミナルの塊ですね。単調なリズムとライティングでトランスに入る要素は十分ですし、これだけサブリミナルを散りばめられたら、暗示の効果はかなりあるのではないかと思います。
「バレンタイン」のところで指を「2・1・4」としたり、「男の子」のところで必ずこちらを指をさしたり、鏡越しにこちらを見ていたり、その他にも多くのジェスチャーで歌詞を立体的に表現しています。直接的過ぎると言われればその通りなのですが、ボディラングエージの使い方が見事。更には、青を上手にアンカーとして使っています。そういった狙いがあるのか、結果的にそうなのか判りませんが、特に「あーちゃん」を売りたいのだなぁと思いました。
コミュニケーションにおける言語の依存度は7%に過ぎない、という研究があるのですが、当然、非言語的な情報が多ければ多いほど、コミュニケーションはスムーズになり、意図は伝わりやすくなります。Perfume
のパフォーマンスが素晴らしいのは、音楽と言語だけでなく、ダンスやライティングも積極的に感情を伝える道具として使っているからだと思います。日本人だけでなく、外国人にも人気が出ているのは、非言語の93%で十分に魅力が伝わっているからでしょう。
安室奈美恵 でも EXILE でも
ジャニーズのグループでも誰でもいいのですが、他の踊りながら歌うアーティストの映像を観るとすぐに違いに気がつくと思います。彼らの踊りは非常に無機的で、歌詞とほとんどリンクしていません。しかし
Perfume
のダンスは非常に有機的でしっかり意味があり、作品の中の欠けてはいけない要素にまでなっていると思うのです。こういった意味のあるダンスをするアーティストは、もしかしたら、ピンク・レディー以来かもしれませんし、ピンク・レディーの異常な人気も、実はあのダンスによる所が大きかったのかもしれません。
僕自身、ラジオなどで Perfume の曲が流れていたときは心に留まりませんでしたが、PVを観てから急速に Perfume
が好きになりました。また、車の中などで Perfume を聴いていると、頭の中に踊っている彼女たちの姿がでてくるのです。
サブリミナルと言うと、映画のフィルムの中に、意識できない短さで文章を表示する、というものを連想される方も多いと思いますが(Wikipediaにも、それ以外の情報は出てきません)、それはサブリミナルの一形態に過ぎません。
部屋の中に「みかん」がひとつあるだけで、それは十分、サブリミナルになり得るんですよね。
<2008-12-3>
生きることに意味はあるのか?、という問いを、誰でも一度は考えたことがあると思います。
自分の中で意味が感じられるのであれば、もし他人が「それは意味にはならない」と言ったところで、その人にとっては「意味」になると思いますし、「意味などない」という答えを出しつつ、日々を生きていくことも、「答えなどない」と、意味を探すのを諦めて、現実生活にフォーカスすることもひとつの生き方だと思います。また、「生きる意味が解るまで一歩も動けない」気持ちになって、生涯それを探究するのもまた、ひとつの生き方ですね。
料理の上手な友達に食事に招かれて、ストレートにその腕を褒めたい場合、「美味しいね!」って言うことができます。でももしかしたら、言われた相手はその言葉をお世辞だと感じるかもしれません。
お世辞ではなくそう思っていることを伝えたいのであれば、「美味しいね!」ではなく、「どうしてこんなに美味しく作れるの?」と質問してみるのが良いと思います。
「美味しいね!」と言われると、「この料理は<美味しかった>のかもしれないし、<不味かった>のかもしれないけれど、たまたまこの人は<美味しい>という言葉を選んだ」、というニュアンスがあるので、お世辞に聞こえます。しかし「どうしてこんなに美味しく作れるの?」と言われると、美味しいか不味いかではなく「どうして美味しいのか?」が問われることになり、「美味しい」ことは前提となるので、言われた側は「美味しい」ことを否定できなくなるのです。
このような、言いたいことを前提とする話し方を、ダブルバインドと呼びます。
「生きることに意味はあるのか?」
僕はこの問いも、ダブルバインドだと思うのです。
「生きるか? それとも死ぬか?」を問うているのではなく、「生きることに意味はあるのか? それともないのか?」が問われていますね。「生きる」ことは前提になっています。
生きることの意味を問うことは、何故か「死」、それも「自殺」を連想させます。「意味がないのならば存在してはいけない」というような切羽詰った感じがこの問いにはあるように思う。毎日毎日、「どうして生きているんだろう?」と口癖のように言っている人は、周りからは「この人は自殺してしまうのではないか?」と心配されてしまうでしょう。
しかし、カミュが「シーシュポスの神話」の中で、「熟考の末に自殺する人はいない」と言っているように、自分の命と真剣に向き合おうとする人は、そう簡単には死なないように思います。何故かと言うと、「生きることに意味があるのか?」を考えれば考えるほど、「生きる」ことが前提になるからです。
もし、料理を作って誰かと食べるとき、失敗して自分ではあまり美味しくないのにも関わらず、相手が「どうしてこんなに美味しく作れるの?」と大喜びしてくれたら、皆さんはどう感じますか? しかもそれが何回も続いて、「作り方を教えて欲しい」と本気で頼まれたらどうでしょうか。相手が一流レストランのシェフだとしたら、どうでしょうか。
最初感じていた「あまり美味しくない」という感覚に、だんだん自信が持てなくなってきて、何が美味しいのかが判らなくなってしまうかもしれないし、その美味しくないはずの料理が、次第に美味しく感じられるようになるかもしれませんね。
人間は、逃げられない状況(何回も同じことがある、一流シェフがそう言っている)で、矛盾するふたつのメッセージ(あまり美味しくないが、皆は喜んでいる)が提示されると、その矛盾を無意識的に解決しようとすることがあります。その結果、逃避(何が美味しいのか解らなくなる)することもあれば、洗脳(それが美味しいと感じられるようになる)されることもあります。
人生がうまく行かなくて、「生きることに意味はあるのか?」と悩んでいるときも、これと同じ状況にあるのではないかと思います。
「生きる」という逃げられない状況下で、人生に意味を感じられず、それ故、「意味がないのならば存在してはいけない」という矛盾を感じていると、何かに逃避したり、何かに洗脳されたりするようになる可能性が高くなります。
逃避や洗脳が良いことなのか、悪いことなのかは、また別の話ですが、僕は、誰もが生きることに意味を感じていなくても良いと思っています。生きることに意味があってもなくても、それを追求していても、追及することを投げ出していても、逃避していても、洗脳されていても、とにかく生きていること。死なないでいること。それ以上に大切なことはないのではないかと思います。
「とにかく生きていて下さい」と言うと、すぐに「何で生きていなければいけないのですか?」と、元の問いに戻ってしまいますが……。
生きている限り、希望があるかもしれない。
僕はそう思っています。
<2008-12-2>
オトナグリコのコマーシャル、面白いですね。
「仕事&屋台篇 ライバルバージョン」のイクラちゃん、すごくかっこいいです。
<2008-11-23>
ほとんど誰も観てないと思われる番組を、僕はときどき観てしまうのですが、今、はまりつつあるのが「Perfumeの気になる子ちゃん」という番組です。(ご覧になっている方、いらっしゃいますか?)
日常生活の中の気になることをひたすら言い合う番組なのですが、ときどき、おお!、という視点があり、面白いです。
僕も混ざって、「気になる子ちゃーん」って踊りたい。
こちらのページで、過去に出てきた話題が読めます。
山に登ったときの、ヤッホーって、そういう意味だったのですね。
<2008-11-22>
昨日のセミナーで皆様にご記入いただいた、アンケートの内容を一部掲載いたしました。(前々回のセミナーのアンケートも載せていなかったので、載せました)
こちらの、こちらからご覧下さい。
<2008-11-21>
「催眠の基礎セミナー」が無事に終了しました。
今回はワンコインセミナーだったせいか、今までの中では最速で満席になり、参加人数も、過去最多でした。
参加者、おひとりおひとりが真剣に聞いて下さって、終わった後、何とも言えない幸せな気持ちで会場を後にしました。
多くの皆さんが、次回以降も参加したいとおっしゃってくださったのも、とても嬉しかったです。
本日、僕がお話した内容は、催眠やNLPの王道から見れば、もしかしたら邪道なのかもしれません。
でも、できることはできるし、できないことはできない、という認識は、とても大切だと思っています。
次回は、「こんなに使えてこんなに使えない催眠セミナー」というのをやろうかと思っています。
本日は皆様、本当にお疲れ様でした。
<2008-11-20>
紅葉を観に、桧原村までドライブに行ってきました。
今年、桧原村を訪れるのは3回目で、夏に一回、そして11月の始めに、紅葉を観ようと一度行っています。
前回訪れたときは、まだ紅葉にも早く、「あと2週間くらいかなぁ」という感じでした。
今回は天気もよく、ちょうど見頃で、とても綺麗でした。
<2008-11-14>
「ショーマンシップ」という言葉があります。
辞書を引くと、「見物客を喜ばせようとする芸人としての心掛け」とあります。
なんとなく、ニュアンス的には「見せ方」「ショーアップの仕方」みたいな意味があるんじゃないかと、勝手に思っています。
このショーマンシップ、もしかしたら、テクニックよりもずっと大切なんじゃないかと最近思うようになりました。
下手でもすごく「聞かせる」歌手もいれば、上手いのにあまり伝わってこない歌手もいます。
ショーマンシップの重要性を理解している人、そういうのを無駄だと思わずに、時間とお金をかけられる人が、結局は成功しているし、認められているんじゃないかな。
僕はあまり歴史は詳しくありませんが、ヒットラーなんかは、ショーマンシップの塊のような気がします。
彼の「優性民族思想」は、決して難しい事を言っているのではなく、一言で言えば、「ゲルマン民族は優れている」という、根拠があるのかないのか判らないような、単純な主張のゴリ押しな訳ですが、それが体系化され、ショーアップされると、大衆を熱狂させて戦争に向かわせることまでできたわけです。(間違っていたらごめんなさい)
大切なのは、何を語るかではなく、どんな風に語るか、なのですね。
<2008-11-11>
21日のセミナーですが、予想外の反響で、すでに当初予定していた定員は一杯になりました。(やっぱり、ワンコインだから参加しやすいのかなぁ。)
もう少し席を増やせそうということで、まだお申し込み可能ですが、それでもあと数人だと思います。
迷っていらっしゃる方は、お急ぎくださいね!
<2008-11-5>
久しぶりにセミナーを開催することになりました。
今回のセミナーは私の主催ではなく、日本催眠心理学会で定期的に開催されている催眠心理研究会の一環として、催眠の基礎についてお話します。
受講料も、会場代実費の500円のみと、参加しやすくなっていますので、ご興味ある方は、是非、いらしてください!
詳細はこちらをご覧ください。
<2008-11-3>
以前は、セッションにいらっしゃった方に、体験談を書いていただくようにお願いすることがあったのですが、最近は、こちらからお願いしたのでは、書きたいことも書けないだろうと思い直し、こちらからお願いするのをやめていました。
それでも、セッション後に経過をメールしてくださる方も多く、今回、ある方に、WEBに掲載することをご了承いただきましたので、久しぶりに体験談を紹介させていただきたいと思います。(ダイエット目的でいらした方の体験談です)
------ここから------
セッションが終わり帰宅途中に「あれ?」と思うことがありました。
新宿駅でエスカレーターを使わず階段を上ったのですが、いつもよりずっと足取りが軽かったのです。
そして新宿で昼食をとりました。
頼んだフォーのセットは量がやや少なめだったのですが、桜井さんに言われたように、1/3が暗くなったイメージをして食べ始めました。
食べてる途中ではおいしくて「やばい、全部食べちゃいそうだ」と思ったのですがゆっくり食べているうちにお腹がいっぱいになり、麺を半分くらい残してしまいました。
とっても不思議な感覚です。
翌日は会社でした。いつもは仕事中お腹が空いてパクパクお菓子をつまんでいるのですが、この日からはお腹が空きにくくなり、空いてお菓子に手を出したものの、少し食べたら「もういいかな?」という気分になりました。
水曜から今日までの夕食はいつもの2/3〜半分くらいで満足しました。
昼食も少なめです。
なにより空腹感を感じるのが遅くなり、空腹になっても「お腹空いたからなにか食べなきゃ!」といった考えが出てこなくなりました。
食べること以外に関しては、毎朝駅まで歩くことに対する抵抗があまりなくなったように思えます。
また、セッション後から肩こりが軽減したように思えます。あまり凝っている感覚がありません。
すべて気のせいかもしれないとは思います。私自身セッション中に不思議な体験をいくつもしましたが、「実は科学的根拠がある現象なのかもしれない」とも思います。
しかし、暗示によって私の意識が変わりダイエットやストレス解消につながったのですから、セッションを受けて本当によかったと思っています。
------ここまで------
<2008-10-31>
催眠を勉強し始めて辿るコースは大体決まっていて、まずは古典催眠から入り、古典催眠に限界を感じると、やがて現代催眠、NLPに惹かれ、知識やウンチクで頭がいっぱいになっても一向に理屈通りにいかない現実に、初めて、「もしかして、突き詰めると日常のコミュニケーションはすべて催眠なのではないか?」ということに気がつきます。
それこそ、子供に昔話を聞かせることも催眠だし、意図的な話題の転換だって催眠なわけです。
以前、エッセイの「思考のブーメラン現象」でも似たようなことを書きましたが、ぐるっと一周して、催眠ってなんでもないことだし、誰でも無意識に使っているんだって解ってくると、逆に、じゃあ催眠誘導って必要なのか、みたいなことにもなってくるわけです。
心理療法もそれと同じかなぁと、最近思うようになりました。
プラス思考になろう、成功するイメージをしよう、ネガティブな感情を捨てよう、とにかく自分を肯定しよう、等々、いろいろな方法論を追求していくうちに、それでも変われなかったり、無理をするようになったり、変わったとしても、以前よりも不自然な人間になってしまったりする現実にぶつかり、「もしかして、マイナス思考もネガティブな感情もすべて含めて、ありのままでいることが結局は一番人間らしい生き方だし、うまく行く生き方なのではないか?」という結論に達することがあるように思います。
答えは初めから、風に吹かれているのかもしれませんね。
<2008-10-21>
以前「完成された曲」でご紹介した「カ・ケ・ヒ・キ・27」は、こんな曲です。
「でも待って、タイミングだってあるでしょ」と言っておきながら、最後には「いつまでとぼけたふりしてるの!」とせかす様子は、お逃げなさいと警告しつつ、後からついて来る「森の熊さん」を彷彿とさせます。女心は難しいですね。
ライブ映像を観るのは初めてでしたが、バンドメンバーのステップが揃っているところなんか、プロだなぁって思いました。こういったプロ意識みたいなものがを、最近のアーティストからどんどんなくなっている気がします。
それにしても、「雨にキッスの花束を」の物語性と、この曲の能天気さは対照的ですね。
ちなみに「桜」はこんな曲です。
<2008-10-17>
サバンナ・八木真澄の書いた「女の魅惑帳・男の魅力帳」という本を買いました。
この本は、「告白して10回連続フラれた僕がその悔しさからつくったノートを本にしたもの」らしく、基本的には、彼の勝手な意見を、時に笑いながら、時に「アホな」とツッコミながら読む本だと思っていましたが、読み始めると、なかなかどうして、「なるほど」と思わせる意見も少なくなく、すっかり八木ワールドに引きずり込まれました。
例えば「女の魅惑・17 ガム」にこうあります。
「女はたえず鞄にガムを入れておかないとダメ。
男は急にガムが食べたくなる。
そのときの一枚が他の女と差をつける。
ガム一枚の勝利はある」
更に、「女の魅惑・35 新聞」にはこうあります。
「女はある程度、世間でおこっている事件、政治状況をおさえておいてほしい。
ただ政治について深くほり下げられてもつらいものがある。
そこで新聞は見出しだけ読む。
内容は男に訊くべし。
あまった時間はファッション雑誌にあてる」
こんな感じの「女の魅惑」が55カ条、更には「男の魅力」が55カ条、収録されています。
お笑い芸人に本物と偽物があったとしたら、彼は本物だと思います。
<2008-10-12>
彼は間違いなく天才です。
オリジナルはこちら。
<2008-10-6>
「急がば回れ」と言いますが、気がつけば、ずっと回りっぱなしです。
<2008-10-5>
M-1を観ても、R-1を観ても感じることですが、こういったコンテストの緊張感は、笑いの邪魔になるのだなぁと、今日のキングオブコントを観ても思いました。
普通にネタをやってくれれば気軽に笑えるのに、何故かこっちまで緊張してしまって、何が面白いのか、ここで笑っていいのか、一瞬考えてしまいます。
その緊張が極限まで高まったときに自分のツボを突かれると、一気に爆発して面白いのだけれど、今日は最後まで不発で終わってしまいました。
「あらびき団」を見ていた方がずっと笑っているなぁって思いながら観ていました。
せっかくコントの一番を決めるのだから、東京03とか、エレキコミックとか、インスタントジョンソンとか、キングオブコメディとか、(出ないだろうけど)ラーメンズとか観てみたかったです。
でも、「メールハトレス」は面白かったです。(^^)
<2008-10-4>
「それは理屈だ!」と言う人、嫌いです。
理屈が通っているのなら、本来うまく行くはずだし、もし、理屈通りに行かないのであれば、それはその理屈が間違っているのです。
いつまでもうまく行かないときに、今までの考えをスパッと捨てられるか、それとも、今までの考えに縛られて「理屈はあっているが現実はそうはいかない」というダブルスタンダードを認めてしまうかで、生き方が大きく変わってしまいますね。
実践的であるかどうかって、すごく大切だと思います。
<2008-9-26>
この年になると、だんだん、「夢」と呼べるようなものはなくなってきて、どちらかというと現実的な「予定」だったり、「希望」だったり、「計画」だったりするのですが、久しぶりに、10代の頃のような夢を抱きました。
僕はずっと、ピアノが弾けたらなぁと思っていました。でも、ピアノは難しそうだし、バイエルから始めるのも飽きてしまいそうだし、ピアノ教室に通ってピリピリした(すみません、偏見です)ピアノ教師に駄目だしされるのも凹みそうなので、とっくに諦めていました。
先日、「幻想即興曲ってどんな曲だっけ?」と思って Youtube を検索していたら、ピアノを始めて2年の人が演奏している動画を発見し、衝撃を受けました。2年でここまでできるのなら、是非、僕もがんばってみたい。
早速電子ピアノを調べてみたところ、今はそれほど高くないようだし、好きな曲を練習するなら、独学でもいけるんじゃないかという気持ちになりました。
ということで、ピアノで幻想即興曲を弾くことが、僕の夢になりました。
何年かかるかわからないけれど、40歳になる頃には弾けるようになりたいなぁ。
まずはピアノを買わなければいけませんね。
<2008-9-20>
噂の「週刊ニュース新書」を初めて見ました。
この番組は普通のニュース番組なのですが、意味なく(?)スタジオに猫が放し飼いになっています。出演者は猫を相手にせず、淡々と番組を進めるのですが、ときどき猫が鳴いたり、テーブルの上にのってしまったり、出演者のお茶を飲んでしまったりと、猫好きはニュースどころではない番組らしいのです。
出演している猫は、アメショーのま〜ごちゃん。
いつもそうなのか、今日はたまたまなのか、ま〜ごちゃんの出演は、思ったよりずっと控えめでしたが、その分、ときどきアップになると、とてもありがたい気持ちになりました。
<2008-9-19>
人によって、判断基準って違うように思います。
合理性で判断する人、感情で判断する人、科学で判断する人、結果で判断する人、歴史で判断する人……。
誰かと解り合えないときって、この判断基準がお互いに違うので、いつまでたっても平行線なのかもしれませんね。
僕にとっての判断基準は何かというと、恐らく、「潔さ」です。
間違っているけれど潔い人と、正しいけれど潔くない人がいたとしたら、圧倒的に、間違っているけれど潔い人に共感します。
逆に言うと、正しいか、正しくないかという判断基準は、僕にとってあまり大切じゃないのかもしれない。
もちろん、そのような判断基準が良いか悪いかで言ったら、良くないのだけれど、冷静に考えると、そういう性分なのだと思う。
そして、真理とか正義というのは、本当は、求めれば求めるほど、潔くない世界にしか存在しないのではないかと感じています。
<2008-9-17>
久しぶりに、笑い、感動し、癒されました。
こちらと、こちら。
フットボールと大相撲、このまま大晦日にやってくれないかな。
「としぼう」が個人的にはツボでした。
<2008-9-15>
頭のいい人と、頭の回転の速い人というのは、似て非なるものだと思います。
頭の回転は速いけれど頭の悪い人もいるし、頭の回転は遅いけれど頭の良い人もいますね。
<2008-9-14>
音に「オクターヴ」という概念があるの、すごく不思議です。
音は、高い、低いだけではなく、ある程度高くなると(つまり、オクターヴ高くなると)、高いけれど、また振り出しに戻るわけです。
こんなシステム(?)があるのは、音だけだと思うんですよね。
確かに色にも、「もうワントーン上」という概念はありますが、素人が想像するワントーン上は、人によってばらばらな気がします。しかし音は、オクターヴ上はオクターヴ上。誰でも同じ音を想像します。
音以外には、オクターヴのような概念はありませんね。オクターヴ上の甘さとか、オクターヴ上の匂いとか、オクターヴ上の痛みとか、そういった表現はありませんし、仮にあったとしても、それは単に、信号の強弱を表しているだけで、音のオクターヴとは本質的に異なる気がする。
同じメロディーを違う音の高さで演奏しても違和感がない、ということ自体、とても不思議です。
絵で、一箇所だけワントーン上の色を使ったら、印象がガラッとかわってしまうし、場合によっては、絵が台無しになってしまうと思うんです。
しかし、音の場合、男性の曲を、女性が1オクターヴ高く歌っていても、まったく違和感はありませんし、女性の曲を男性が1オクターヴ低く歌っても、まったく違和感はありません。更に、男女が同じ曲を、オクターヴ違いでユニゾンで歌っていても、これまた違和感がないんです。
大して音楽を勉強したことがなくても、簡単にオクターヴ下やオクターヴ上で歌を歌うことができるのも不思議。
そんなことを考えていると、ちょっと怖くなってきて、夜、夢の中にオクターヴが出てきそうです。(^^;;
<2008-9-13>
バカリズム、大好きです。
数少ない、職人気質のお笑い芸人だと思います。
トツギーノを始めてみたときの衝撃は、それはそれはすさまじいものでした。
<2008-9-12>
この頃の森高千里が一番好きでした。
前奏から炸裂している彼女独特のステップ、フワフワしている髪の毛もたまらないし、「決〜め〜た〜!」のところ(57秒付近)で見事にカット割りが決まった後に一瞬見せる、「してやったり顔」もたまりません。
バブルという時代背景ももちろんあるのでしょうが、それを差し引いて考えても、今の、感動させることか共感させることしかできないミュージシャン達には、音楽にはこういった可能性もあるのだと、気づいて欲しいなぁと思います。
「二人は恋人」の動画のコメントに、「国の宝です」というコメントがありますが、全くその通りだと思います。
<2008-9-11>
僕の周りに、未だに大江千里のファンという人はほとんどいません。
大江千里が好き、と言うと、昔は変人扱いされたりもしましたが、今はそれさえもされなくなりました。
彼のアルバムは、「未成年」から「SENRI HAPPY」まで聴いていました。
個人的には、「1234」辺りが絶頂期だったと思います。特に、「サヴォタージュ」、「帰郷」、「昼グリル」という流れは、アルバムはヒット曲の寄せ集めではないのだということの象徴のような展開で、コンセプトアルバムと言っても過言ではないでしょう。
どのアルバムも思い出深いですが、好きとか嫌いではなく、一番心に焼き付いているアルバムは「AVEC」です。
中学から高校へと、一番多感な時期に聴いたからかもしれませんし、アルバムとしての完成度が、前2作や後2作と比べていまいちなので、その分、好きになろうと必死で良さを探しながら聴いていたので心に焼き付いてしまったのかもしれません。
1曲目の「きみと生きたい」は、10代の頃はあまり好きではありませんでしたが、今聴くと、やはり名曲だと思います。
<2008-9-10>
以前にも書きましたが、僕は「ゲシュタルトの祈り」が大好きです。
何だか、セラピーに必要な要素のすべてが、ぎゅっと詰まっているような気がします。
なかなかこんな風には生きられませんし、もしかしたら、日本の風土には、このようなドライな考え方は合わないかもしれないけれど、それでも、このようなしっかりとした境界線を持つことは、とても重要なことではないかと思います。
「ゲシュタルトの祈り」
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
<2008-9-9>
モチベーションがあがらないときがありますが、逆にモチベーションしかあがらないときもあって、結局それだけじゃ駄目なんだなぁと思います。
<2008-9-8>
音楽ってすごいですね。
これを観ていたら、鳥肌が止まりませんでした。
<2008-9-7>
テレビでやっていた「ターミナル」を観ました。
何となくハッピーエンドでしたが、あのインド人のおじいちゃんはどうなったのかとか、彼を助けた友達や空港職員は解雇されなかったのかとか、彼女との恋の行方はあれで良いのかとか、いろんなことが気になって、終わってからもすっきりしませんでした。
浜田省吾が、「テレビのナイトムービー、お決まりのエンディング、俺が観たいのは、その後のストーリー」と歌っていますが、まさにそんな気持ちです。
<2008-9-6>
「お手柔らかに」という言葉ですが、「オテヤワラ・カニ」に聞こえることがあります。
どんなカニなんだろう?
やっぱりハサミが柔らかいんだろうか? そうなると、カニとしての存在理由が……。
<2008-9-5>
お笑い芸人の「もう中学生」。
あれ、どこまでがキャラで、どこからが素なのでしょう?
楽屋でタバコを吸いながら、入ってきた先輩芸人に「おつかれっす」とすかして言ってたりしたら、ちょっと残念です。
いや、いいんですけどね、別にそれでも。
<2008-9-4>
今日は「櫛の日」。
だから何だと言われると、とても困るのだけれど、一応、そう定められています。
きっと櫛の日だということを意識して過ごす人は、そう多くはないのだろうな。
僕もだからと言って、櫛に感謝したりするかといえば、全然そんなことはなく、それ以前に僕は今、櫛を1本も持っていません。(ブラシならありますが)
ちなみに4月15日は「ヘリコプターの日」です。
記念日って何なのか、非常に深く考えさせられます。
<2008-9-3>
学生の頃、この曲が大好きでした。
近所のラーメン屋さんに入ったとき、有線で流れているのを聴いて、すごく心地よく、すぐに好きになりました。
ハッピーとか、ラッキーとか、キャッチーという言葉がたくさん出てきて、大して韻を踏んでいるわけでもないし、当たり前の言葉だけれど、連発されると何だかとても楽しい気分になれました。
確かに良い時代だったのだと思います。
<2008-9-2>
いつも冷静な人って、ときどき、非常に冷静に間違ったことをするので怖いです。
<2008-9-1>
小麦粉をふるいに入れて振ると、中の小麦粉がすべて落ちるまでに、多少の時間がかかります。
眠れない夜もそれと同じで、日中、たくさんの情報や解決すべき問題が頭の中に溜まり、寝るまでにその処理が終わっていないので、布団に入ってからも延々とそれを続けているのではないでしょうか。
だから眠れないときは無理をして寝ようとしないで、少しでも早く、小麦粉がふるいわけられるよう、ただじっと待っているしかないのかもしれません。
小麦粉の量によって、眠れるまでの時間は変わってくると思いますが、いつか必ず小麦粉はなくなります。
<2008-8-31>
昔から、「○○に似てるね」と言われることがあります。
今、思い出せるだけざっと書いてみると、エスパー伊藤、爆笑問題田中、お天気の森田さん、山口良一、藤井隆、鈴井貴之、石橋保、真田広之、等々。
「似てる」と言われると、僕の中の何がそう言わせているのか、とても不思議に思います。自分でも「似ている」と思うことはほとんどないからです。
それでも、真田広之と言われたときはかなり嬉しかったし、エスパー伊藤と言われたときはかなりショックでした。
ちなみに、真田広之といわれたのは15年位前で、エスパー伊藤と言われたのは1年位前ですので、今は圧倒的にエスパー似なのでしょう。
大きいバックでも買って、中に入る練習でもしようかな。(^^;
<2008-8-29>
昨夜はすごい雨でしたが、今はもう、セミが鳴いています。
雨が降っているとき、セミはどこにいるんでしょう?
セミぐらい大きくなると、葉っぱの裏に隠れるとかも難しいだろうし、昨日みたいな豪雨だと、雨を防げる場所なんて容易には見つからないと思うんですよね。
意外に雨なんてへっちゃらで、どこかにしがみつきながら、ひたすら雨がやむのを待っているのかな?
<2008-8-28>
昔から、ギルバート・オサリバンの「Alone Again」という曲が大好きでした。
でもこの曲は、ビートルズみたいに、歌詞がスーッと入ってくることはなくて、発音も聞き取りにくく、内容を理解するのは諦めていました。それでずっと歌詞の内容は知らないまま、音楽だけを聴いて、「いい歌だなぁ」と思っていたんです。
先日、Youtube
で彼が歌っている映像を観て、感動して歌詞も検索し、ここやここを発見しました。
正直、ここまでシリアスな歌だとは思っていなかったので、意外でした。曲調から、もっと都会的な空虚感みたいなものを歌っているのかと思っていましたが、何というか、真正面からぶつかって、何も救いがないような歌ですね。でもその正直さが、この曲の魅力なのかもしれません。
この雰囲気、何かに似てるなぁと思ったら、ビートルズの「Eleanor
Rigby」ですね。
"What do we do?" という問いは、"All the lonely people where do they all belong?"
という問いに繋がると思いました。
<2008-8-27>
「くれた」という考え方をすると、少しだけ人生が楽になるかも、と思います。
来た → 来てくれた
怒った → 怒ってくれた
会った → 会ってくれた
食べた → 食べてくれた
話した → 話してくれた
もちろん、何でもかんでもは無理です。 殴った → 殴ってくれた くらいは言葉の響き的にはギリギリセーフですが、 裏切った → 裏切ってくれた とかは理屈が破綻していますね。
「くれた」をつけるだけで、何だか相手の行動が自分のためみたいに思えてくるし、逆に誰かが自分の行動に「くれた」をつけてくれると、感謝されている気になります。
<2008-8-26>
昨日の続きです。
この話題、あまり需要がないかもしれませんが、記録に残す意味でも思いついたら書いていこうと思います。
さて、今日心に響いた心地よい単語は、
「トリスタンとイゾルデ」 と 「エポキシ樹脂」
です。
だんだん、自分のツボが解ってきました。
どうも僕は、クラシック音楽と化学製品に弱いみたいです。
<2008-8-25>
単語って、意味を表せばそれで良いという物ではないと思います。
意味が通じれば良いだけならば、それこそ、人類はとっくに二進数で会話をするようになっていたのかもしれない。
でも、実際には単語には響きがあって、その意味に関わらず、心地よい響き、きれいな響きの単語もあれば、逆にあまりきれいに響かない単語もある。
僕は心地の良い響きの単語に出逢うと、つい、声に出して言ってしまいます。
場合によっては、一日何度も、その単語を呟いてしまったりもします。
最近、心地よさに気がついた単語が二つあって、
「ベルガマスク組曲」 と 「高濃度茶カテキン」
です。
どうも僕が心地よさを感じるのは、カタカナと漢字で構成されている単語に多いような気がします。
他にも心地よい単語を発見された方がいらっしゃいましたら、是非、教え下さいね。(^^)
<2008-8-24>
結局ファーストガンダムの中で、ホワイトベースを一番苦しめたのは、シャア・アズナブルでもガルマ・ザビでもランバ・ラルでもなく、ハモンさんの小部隊だったんですね。
<2008-8-23>
漢字って、とっても深いときがありますね。
例えば、「人の為」と書いて「偽」だったり、「信者」と書いて、「儲かる」だったり。
先日、ふと、「毒」という漢字を見たとき、「お? もしかして、『主に母』と書いて『毒』なのかも!」と気がつき、ひとり、「わ、漢字すげー」と興奮してしまいました。嫁姑問題とかを想像しながら、毒なことって、結局は母が原因なのかも、と勝手な妄想を膨らませていました。
それで改めて調べてみたのですが、毒は、「生(くさの芽生え)+母(子を産む)の会意兼形声文字で、もとは生殖強精剤として調合された薬草のこと。刺激が強く,常用すると害を及ぼしたことから毒物の意を生じた」という成り立ちだそうです。
「主に母」説は間違いでした。
全国のお母様方、変な誤解をしてごめんなさい。(^^;;
<2008-8-19>
今日、3年ぶりに、プールで泳ぎました。
近所のコミュニティーセンターにプールがあり、利用したことはなかったので、初めて行ってみました。
25mの小さなプールで、子供と付き添いの親と老人ばかり。
プールの半分は子供用、1コースは老人が歩く用、2コースは25mを泳ぎたい人用になっているのですが、25mのコースはほとんど人がいなくて、貸切みたいな感じだったので、ひたすら往復し、1km泳ぎました。
疲れたけれど、気持ちよかったです。
<2008-8-15>
まだ今年は終わっていませんが、元旦に予言した通り、元猿岩石の有吉がプチブレーク中です。
有名人の人生って、些細な出来事が原因で決まってしまうことがありますが、有吉の場合は、アメトーークで品川に「おしゃべりクソ野郎」とあだ名をつけたことが、ブレークのきっかけになったのではないかと思います。
<2008-8-11>
一昨日、魔法瓶について書きましたが、2004年4月に全く同じことを書いていますね。
すでに僕は、頭の中の思考を全部ここに書いてしまったのかもしれない。
さっき、レベッカ「プライベートヒロイン」に出てくる「彼女の髪はブルネット、ふーん、確かに綺麗だけど、それがどうしたって言うのよ!」という歌詞について書こうとしたのですが、こちらも既に、2003年11月に書いてました。
きっと他にも、気がつかないだけで、同じことを何度も何度も書いているんだろうな。
<2008-8-10>
以前にも紹介しました、松任谷由実の「よそゆき顔で」という曲に、「私は明日から変わるんだから」というフレーズがあります。
うまく行かないことが続くと、頭の中にこの曲が思い出されることがあり、そうだ、明日から変わってみよう、と心に決めます。
ただ何となく、ではなくて、はっきりと意思を持って何かを決めることは、とても大切なことだと思います。
例えば初対面の人と会ったときに、ただ何となく自己紹介をしたのではすぐに名前を忘れてしまいますが、「覚えよう」と意識するだけで、全然結果が違ってきます。
関係ないけど、「海猿」で環菜ちゃんが出てくるたびに、「カンナ8号線」を思い出します。
<2008-8-9>
「魔法瓶」という命名の仕方も、どうかと思います。
<2008-8-8>
ときどき、マクドナルドのソフトクリームを食べます。
最近発見したのですが、コーンの中までちゃんとソフトクリームを入れてくれる店舗と、コーンの中は入っておらず、コーンの上からソフトクリームを巻いているだけの店舗があります。
やっぱりコーンの中までしっかり入っていると、ちょっと得した気分になります。(^^)
<2008-8-6>
以前、石原良純が、「どんなに暑い日でも、雲を見上げて、あそこはマイナス40度なんだと思うと涼しくなる」とテレビで言っていました。
それ以来、暑いときは空を見上げることにしています。
夏のモコモコとした雲が僕は大好きで、それを見ながらマイナス40度の雲の中を想像してみると、確かに少しだけ涼しい気持ちになります。
<2008-8-4>
時代とともに、言葉って変わっていきますよね。
例えば、「コンサート」→「ライブ」という具合に。
以前の言い方で通じないわけではないけれど、少し古さを感じる。
「スパゲティ」→「パスタ」とか、「バーゲン」→「セール」とかもそうかもしれません。
ちょっと前にも書いた「ビフテキ」→「ステーキ」や、「ピザパイ」→「ピザ」、「ライスカレー」→「カレーライス」なんかもそうですが、これらは、以前の言い方では古いを通り越して、片足を死語の世界に踏み入れている感じがします。
「活動写真」→「映画」における「活動写真」なんかは、完全に死語ですね。
この「少し古い」という感覚ですが、「以前の言い方」を自分がしていた時代があるからこそ(もしくは、その意味が解るからこそ)古さを感じられるのであって、例えば今後、「スパゲティ」という言葉を知らない子供たちが出てきたとしたら、彼らには「スパゲティ」=「少し古い言い回し」という感覚はそもそもなくなってしまうのではないかと思うのです。(厳密に言えば、「スパゲティ」は「パスタ」の部分集合なのですから、「スパゲティ」の方が正確な気もしますが、それはまた別の話です)
というのも、「アベック」→「カップル」という変化は、僕にとっては「カップル」→「アベック」だったからです。
僕はもともと、恋人たちを表す言葉は、「カップル」だと思っていました。「アベック」という言葉の存在は知りませんでした。僕が「アベック」という言葉を知ったのは中学生の頃で、大江千里が「AVEC」というアルバムを出したのがきっかけです。当時、「AVEC」の意味が解らず、辞書をひいて「男女の二人連れ」のことであることを知りました。
「AVEC」という言葉の響きもさることながら、それがフランス語であるということ、また、大江千里がアルバムのタイトルにしてしまったことで、中学生の僕はこの「AVEC」が、非常におしゃれな言葉であるように感じました。この言葉が、今は誰も使わないような古い言葉だとは知るよしもありませんでした。むしろ、逆に「カップル」という言い方の方がどこか古臭く、恥ずかしい言い回しのような気がしました。そしてそれ以来、「カップル」という言葉を使うとき、ちょっとだけ恥ずかしささえ感じるようになってしまったのです。
だから僕は、ときどき「アベック」という言葉を使ってしまって、まわりから「アベックて〜」と突っ込まれても、恥ずかしい素振りをしつつも、心の奥底では全くピンと来ず、やはり自分があっているような、アベックの方がおしゃれなような気がしてしまうのです。
<2008-8-1>
昔から、おかずに入っているフルーツが許せません。
酢豚の中のパイナップルとか、ソーメンの中のみかんとか、ポテトサラダの中のリンゴ、生ハムのメロン。
フルーツの美味しさも楽しめなければ、おかずの味も甘みが邪魔して決して良くなっておらず、奇をてらうことしかできない料理人が勢いだけで入れて、周りが不味いと言えなかったことから始まった、悲しい習慣な気がしてなりません。いや、むしろ呪いと言っても良いかもしれない。
更に、不味いだけじゃなく、「私、本当はこんなとこにいちゃいけないんだけれど……」みたいな雰囲気がこちらにも伝わってきて、食べながらとても緊張します。
やっぱりフルーツはフルーツとして食べたいです。
もうみんなで我慢しないで、「これは違うよ」って言ってもいい頃じゃないかな。
<2008-7-28>
先日、狭山丘陵を訪れましたが、そのときは適当にドライブしただけだったので、今回はホームページを調べて、六道山公園へ行ってみました。
ホームページの雰囲気から、お土産屋さんがあるような、しっかりした観光地をイメージしていて、無料駐車場には車がいっぱいなんじゃないかと心配していたのですが、行ってみると駐車場はガラガラ。近所の子供が遊んでいるばかりで、他に観光客も見当たらず、ちょっと拍子抜け。
公園はものすごく広くて、とても一日で周れる広さではなさそうなので、今回は展望台まで歩いてみました。
園内に入った途端、空気がヒヤッとして、ヒグラシの鳴き声や、鳥の鳴き声が聞こえました。もちろん、遊歩道が木陰だから涼しかったというのもありますが、地面が土で、これだけ植物が豊かだと、真夏でも暑くないのだということを、身をもって実感しました。
東京にいることをすっかり忘れてしまうくらい、ひたすら森、山、そしてマムシに注意の看板。
のんびり癒されるスポットを見つけた気分です。
<2008-7-26>
「ビフテキ」って言葉の響き、嫌いじゃないです。
<2008-7-24>
本当にどうでもいいことですが、ドラえもんに出てくるしずかちゃんは、源氏の末裔だそうです。
<2008-7-20>
近日、催眠研究会を定期開催しようと思います。
催眠のワークショップでもなく、セミナーでもなく、参加者の皆さんと、現在の手法の有効性や、新しい手法の研究をしていけたらと考えています。よって、僕が何かを教える会ではありません。
2週〜月に一度開催予定。
参加費は無料ですが、いくつかの条件を作ります。
当研究会での研究内容を勝手に発表、利用しないこと。毎回参加すること。(開催日は相談の上、決定します) 研究会では、参加者の全員に、誘導する側、される側をしていただきますので、それをご了解いただけること。研究の性質上、極端に被催眠性、被暗示性が低いと研究が進みませんので、事前に面接をさせていただき、簡単な被暗示性のテストをさせていただきます。場合によっては、その段階で参加をお断りする可能性がありますので、それをご理解いただけること。催眠の知識は問いませんが、これを機会に、勉強したい気持ちがある方。また、勉強中の方は、自分の知識を出し惜しみしない方。
場所は当カウンセリングルームです。(京王線つつじヶ丘下車徒歩2分)
日時ですが、金曜日の夜か、土曜日になります。1回2時間〜3時間程度。
年内に、5〜10回程度開催できたらと思っています。
募集人数は2−4名。
参加者が集まり次第、開催します。
内容ですが、例えば、こちらのビデオの1分過ぎからのようなことを実際にやってみて、どのような変化が起こるか、等を予定しています。ラポール形成時の呼吸の調和が与える影響とか、アイアクセシングキューの検証、サブリミナル効果、タイプ別誘導方法、自己啓発セミナーや宗教で利用されているトランスの研究なんかもできたら面白いですね。
ご興味のある方は、「お問い合わせ」より、ご連絡ください。
当然、参加者の入れ替わりがあると思いますし、定員を超えても、開催日を増やす等、可能ですので、この書き込みを読んでご興味がある方は、いつでも問い合わせてみてください。(ご期待に添えなかったらごめんなさい)
<2008-7-19>
テレビでトトロを放送していたので、触発されて、トトロの森と呼ばれている狭山丘陵まで車で行ってみました。
先週に引き続き、2週連続でドライブです。
多摩湖を縦断する道路を渡り、狭山湖、野球場、西武園の辺りを巡りました。
映画に出てきたような自然がこの辺りには色濃く残されており、家からは1時間ほどの距離でしたが、遠くまで夏休みの旅行に来たような、そんな気分になりました。
特に、多摩湖を縦断する道路は圧巻で、両側に見渡せる湖の景色が素晴らしく、次回は時間をかけて、ゆっくり景色を楽しみたいと思いました。
ラピュタにも都市伝説がありますが、実はトトロにも、ちょっと怖い都市伝説があります。
検索すればたくさんヒットしますが、映画が台無しになってしまいますので、ファンの方は読まない方がいいでしょう。
あと、怖いのが苦手な人も、読まないでくださいね。怖くてトイレに行けなくなったり、数日間憂鬱な気持ちになっても僕も責任がとれませんので。
僕はこの都市伝説を知り、改めて昨日の放送を観たのですが、その視点で見ると、確かにそう見れないこともなく、もしかしたら本当に、宮崎監督はそういう意図で作ったのではないかという気がしないでもありませんでした。
というのも、初めてトトロを観たとき(都市伝説のことは知りませんでした)、あのトウモロコシのくだりは僕自身、納得できなかった記憶があり、都市伝説の視点で見た方が、よっぽど説得力があるからです。
反論として、サンダルのことや影のこと、エンディングの映像のことなどがあげられていますが、そんなことは些細なことだと思います(子供向きの映画として成立させるためには、むしろ当たり前だと思われる)。
それよりも、あれだけたくさんのヒントが隠されていると(猫バスの行き先とか、メイの発見場所とか、夫婦の会話とか)、むしろそういった意味を読み取って欲しいと宮崎監督が思っていたのではないかとさえ、思います。
ある事件との関連性も指摘されており、これは少々、こじつけなような気もしますが、僕はこの事件のことを知らなかったので、調べるうち、この事件の不可解さも気になりだしました。これ、トトロの都市伝説どころではない、ミステリーですね。人間って、恐ろしいです。
<2008-7-14>
「にわか雨」は、「ニワカ・アメ」というよりも、「ニワ・カーメ」という感じがします。
<2008-7-13>
昨日、思い立って、学生時代に一人暮らしをしていた街に車で行ってみました。
大学やいつも使っていた和田町の商店街、更には足を伸ばして、よく遊んでいた関内周辺、ランドマークタワーとか、中華街とか、山下公園とか、港の見える丘公園を巡りました。
横浜を離れてから15年。
それが長いのか、短いのか判りませんが、当時の知人と昔のように会わなくなった今となっては、失われた時代のようにも感じますし、街はあのときのままで、ついこの前のような気もしました。
自分だけがどんどん遠くへ押し出されているような、そんな感じもしました。
一番印象的だったのは、ずっと住んでいたアパートが今も取り壊されずに残っていたこと。
僕が暮らしていたとき、すでに築30年くらいのボロアパートでした。お風呂もなくて、家賃が3万円ちょっとだったと思います。
そのアパートは坂の途中にあり、窓からは横浜の町並みや高速道路なんかが見えました。夕暮れにアパートの窓から見る夜景は切なく、当時はクラシックに目覚めた頃だったので、ショパンのノクターンなんかを聴きながら、これから自分はどこへ行くのだろうと、何時間もぐるぐると考えていました。どうしてわざわざそんなことをしていたのか、今では思い出せません。夜景を眺め、クラシックを聴きながら漠然とした気持ちに浸ることが、何かかっこいいことだと勘違いしていたのかもしれません。
アパートの前から横浜の町並みを見下ろすと、ずっと忘れていた思い出が、あっという間に心に広がりました。
その記憶は頭の中から出てきたのではなく、その土地に染み付いていたような、そんな気がしました。
当時より更に色あせたアパートの外壁が、ひとつの時代が完全に終わってしまったことを告げているようでした。
<2008-7-12>
「ゲド戦記」をテレビで観ました。
僕は基本、映画は娯楽作品が好きなので、面白かったですが、ちょっと難しかったです。最初のシーンの竜が結局何だったのかも良く判らなかったし。
ジブリ作品では、やはり「ラピュタ」が最高傑作なんじゃないかな。「もののけ姫」あたりから、見終わった後の爽快感がなくなった気がする。
ジブリ作品じゃないですが、「トイ・ストーリー」はもっと評価されてもいい、ある意味完成された作品だと思います。
<2008-7-7>
ジュディ・オングの「魅せられて」。
幼心に、英語の歌詞を覚えていて、この年になってふと「あれ、もしかしたら、Wind is blowing from the Asia
って歌ってたのかも」と気がつきました。
この曲が流行ったのは、確か僕が小学校低学年の頃で、そのときは英語の知識もなかったので、フィーリングでこの文章が頭の中に入っていたということになります。
しっかりヒアリングできていたなんて、すごいなぁと我ながら感心していたのですが、今日、この歌詞が間違っていたことが発覚。
正確には、「Wind
うーん、惜しい!
<2008-7-3>
知らない、ということは、素晴らしいことだと思います。
もし、生まれるときに、神様の前で、この人生はどんな人生なのか、どんな苦難や挫折や痛みがあるのかを全て告知され、それでも生まれたいかどうか、自分で選択できるとしたら、もしかしたら半分くらいの人は、生まれることを選ばないのかもしれません。
だけど、何も知らないからこそ、今日、笑っていられるし、希望を持って生きていけるし、突然の辛い出来事もなんとかやり過ごせるのだと思います。
聖書の中に、「明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります」という言葉があります。
この「明日は明日が心配する」という言い回しは、頓知が利いていて大好きです。
<2008-7-2>
「理由ある太郎」という番組で、「No1ホストがNo1な理由」というのをやっていました。
実際にホストが接客する様子をVTRで見ながら、心理学者に解説してもらうというものでした。
3人のホストがでてきたのですが、男性の僕には、いまいちピンと来ませんでした。
ただ、二人目のホストが、やたらとNLPっぽいことをしていたのに、心理学者はまったくそれには触れなかったのが、何だか面白かったです。心理学者はNLPなんて眼中にないのかな。
最初は偶然かとも思いましたが、散りばめたり、アンカー打ったり、選択肢の幻想を使ったり、相手に思い込ませたりと、恐らくこのホストは、石井裕之の本でも読んで、忠実にひとつひとつ、実践しているのでしょう。
実践的であるか、というのは非常に大切なことだと思います。
どんなに知識があっても、実践で使わなければ意味がないし、実践で使えなければ意味がありませんね。
<2008-6-29>
テレビでやっていたT2をみて思ったのですが、サラ・コナーは、ヴァンダレイ・シウバに似ていますね。
<2008-6-26>
最近のDAIGOの露出ぶりはすごいですね。
全く嫌味がなく、害がなく、人気が出るのは納得という感じです。
表裏がない感じが、視聴者に安心感を与えるのだと思います。
<2008-6-25>
ミラーリングというテクニックがあります。
簡単に言うと、相手と同じ行動をすることで、相手と自分の気持ちが同調していき、警戒感が解け、心が通じやすくなる、というようなテクニックです。
逆に、誰かと心が同調していくと、自然と行動が同じようになっていくこともあります。
ミラーリングのポイントは、ミラーリングしていることを相手に悟られないこと、というのが基本のようです。
自分の真似をされていることを相手が気づくと、相手に不快感を与えてしまうからです。
それでは、両者が意識的にミラーリングを続けるとどんなことが起こるのでしょうか?
こちらのビデオの1分過ぎから、そのような実験が行われています。
これはあくまで、バラエティのショーですから、どこまでが真実か、解りません。
ただ、無意識的な行動がすべてコミュニケーションの手段だと仮定すれば、それを真似ることで無意識的にそのメッセージを受け取ることもありうるのかもしれないと思いました。
<2008-6-24>
夜、あまりにも外が爽やかだったので、近所を1時間ばかり散歩しました。
学生の頃は、お金がなくて、時間ばかりあったので、することと言えば、「昼寝」、「散歩」、そして「日向ぼっこ」でした。
この3つは、趣味とまでは言えませんが、お金のかからない究極の時間つぶしでした。
散歩をしていると、近所とはいえ、やはり知らない道を歩いてみたくなり、まだ入ったことのない路地に入ってみては、そこで暮らしている人の生活を感じ、ときどき外国に来たような、すごく一人ぼっちな気持ちになります。
今日は近くの川沿いを歩き、団地の真ん中の公園を横切って帰ってきました。
この街に越してきて7年になりますが、まだまだ僕は、この街に馴染んでいない気がします。
<2008-6-22>
今、日本で一番楽しく生きているのは、森泉なんじゃないかと思います。
<2008-6-21>
Windowsについてくる、スパイダソリティアは、カードを並び替えるだけの単純なルールですが、それ故、かなりの中毒性があります。
もうやめよう、とクリアする度に思うのですが、やめることができません。
カードを動かしながら、自分がスパイダソリティアの奴隷になったような気さえします。
<2008-6-18>
Youtubeを観ていたら、オフコース「ワインの匂い」のセルフカバーを見つけました。
オリジナルよりも更に切なく、洗練された感じで、さすが小田さんという感じです。
♪ 私はもう 誰も好きになることもない 今は
ありがとう あなたはいい人 もっと早く会えたら ♪
この曲に出てくる「ワインの好きなその娘」は、ユーミンのことだという噂が昔流れました。
<2008-6-14>
子供の頃からしょっちゅう見ているし、今でもブルーベリーの葉にとまっているのを良く見る、黄色い虫がいます。
あまりにも当たり前のようにいる割には、害虫のような嫌な感じはせず、かといって、トンボとかセミのような季節感があるわけでもなく、子供の時には捕まえて遊びたいという衝動も感じなかったため、ついに今日まで、名前を知りませんでした。
誰かとこの虫の事を話すことはありませんので、名前を知らなくても困らなかったし、正確な名前を使ったところで、相手がその名前を知っている可能性はかなり低い気がして、調べる気が起きなかったのです。
ただ、この虫を見るたびに、心のどこかで「なんて名前なんだろう?」という気持ちが一瞬湧き上がるのも事実で、その度に「いつか調べなくちゃ」と、まるで宿題を出されたような気持ちになりました。
なかなか調べられずにいたのは、どうやって調べればいいのか判らなかったからです。
口で説明しても伝わらないだろうし、伝わったところで、本当に相手が想像している虫が同じかどうかも判らない。第一、誰がこの虫の名前を知っているのかも判らない。
人に聞くのも限界がありそうですが、昆虫図鑑をそのために借りて、1ページ1ページ探すのも、何だかそこまでするのも違うんじゃないかという気がする。
インターネットで探せばいいとも思いましたが、以前、道路脇に咲いていたオレンジ色の花の名前がなんなのかをネットで検索したとき、なかなかヒットせず、その花が「ナガミヒナゲシ」という名前だと判るまでには、結構な時間がかかりましたので、検索する気もなかなか起きませんでした。
しかし今日、このまま逃げてちゃいけないと思い、とりあえずネットで「黄色い虫 名前」と検索してみました。
ヒットしたページを順番に呼んでいたら、ある方のブログの中で、すぐに名前を発見することができました。(ナガミヒナゲシのときよりもずっと簡単でした)
僕が知りたかった黄色い虫の名前は、「ツマグロオオヨコバイ」です。
歩くときに横に歩くので「横這い」から「ヨコバイ」。
セミ類に近い昆虫で、学名も「小さなセミ」という意味があるそうです。
俗称はバナナ虫。
俗称って言われても、俗称も本当の名前も全くの初耳です。
ひそかに、知っている名前で「あぁ、これってこの虫のことだったのね」という展開を期待していたのですが、ちょっと期待はずれでした。
でも、ずっと気になっていたので、すっきりした気分です。
この虫を見つけたら、「あ、ツマグロオオヨコバイだね」って何気なく言うと、すごく博識に見られそうです。
<2008-6-14>
ラズベリーに続いて、ブルーベリーの収穫も始まりました。
この時期にとれるブルーベリーは、ハイブッシュ系といわれるブルーベリーです。
ハイブッシュ系は冷涼な地方に向く品種なので、東京での成長はいまいち。よって、ほんのお味見程度の量しか収穫できません。
収穫のメインは、ラビットアイ系という暑さに強い品種の収穫が始まる7月下旬以降になります。
写真は、パトリオットという品種です。
とてもフレッシュな味わいで、美味しかったです。
先日こちらでご紹介したラズベリーは、日ごとに収穫量が増え、日持ちがしないので無理して食べています。
ラズベリーにそろそろ飽き始めた頃の収穫で、更に、量も少ないので、何だかブルーベリーはとてもありがたい気持ちになります。
<2008-6-7>
はじめてマクドナルドのソフトクリームを食べました。
思っていたよりずっとまともで、美味しかったです。
あれ、100円で売ってしまって大丈夫なのかな。
<2008-6-6>
今年も、ラズベリーの収穫シーズンになりました。
ラズベリーは、ブルーベリーとは違い、実をつけた翌年には枯れてしまいます。その代わり、毎年春になると、地面から新しい木が生えてきて、それが次の年には収穫できます。
古い木の整理が多少面倒ですが、それを除けば、ほぼ何もしなくても、毎年飽きるほど収穫が出来ます。
実際、シーズンの後半は飽きてしまって、実がなっていてもとらずに落ちてしまうこともしばしばです。
これほど家庭園芸向きの果樹はないのではないかと思います。雑草のような生命力なので、土を選ばず、日当たりがちょっと悪くても、肥料をやらずとも、ちゃんと育ちます。
木は地下茎で増えるので、気をつけないと、どんどん増えて、藪のようになります。それも面倒と言えば面倒かな。
ラズベリーをレンジで即席ジャムにして、バニラアイスクリームにかけて食べると、とても美味しいです。
<2008-6-5>
先日、何故奇跡の話を書いたかと言うと、ふと、旧日本海軍の駆逐艦「雪風」のことを思い出したからです。
雪風は、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦い、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、戦艦「大和」の水上特攻等、16回以上の主要な作戦に参加し、ほぼ無傷で終戦を迎えた奇跡の船です。(Wikipedia情報)
特に終戦間際の大和の水上特攻の際などは、航空機の援護のない中、丸裸同然での出撃にも関わらず、無事だったのです。
当然、乗組員が優秀だったのでしょうし、艦長も優秀だったのだとは思いますが、歴代の艦長は6人もいましたし、他の同型駆逐艦はいずれも戦没していることから、やはり強運だったのでしょう。
運って、なんなのでしょうね。
運が味方についている人は、きっとすごく生きやすいし、運のない人の気持ちなんて解らないのだろうなぁと思います。
<2008-6-2>
さだまさしが年始の特番で、「全く起きるはずのないことが起こることが奇跡っていうんではないんです。ここで起きるわけないだろうっていうのが起きるのが奇跡っていうんです」と言っていました。
とてもいい言葉だと思います。
そういった視点で世の中を見ると、すべては当たり前で、そしてすべては奇跡なのですね。
<2008-5-31>
以前録画しておいた「フライド・グリーン・トマト」という映画を観ました。
1940年代のアメリカ南部を舞台にした、笑いあり、涙あり、サスペンスありのドラマなのですが、最近は「24」以降の、次回が待ち遠しいタイプの海外ドラマばかり観ていたので、とても新鮮な気持ちで観終わりました。
なんというか、心をえぐられるような、見終わった後に余韻がいつまでも残る感じの作品で、完全に別世界に心が行ってしまいました。
主人公のイジーという女性が、貨物列車に忍び込み、中にあった食料を線路沿いに住んでいる貧しい人たちにばら撒くシーンがあるのですが、一緒にいたルースはイジーに「何しているの?」と訊ねます。
「これも施しよ」とイジー。
「でもあなたの物じゃないじゃない」
「だから何よ。教会に行く連中って、みんな同じ。お祈りをするだけで何もしないんだから」
僕はイエスの語った「不正の富で友達を作りなさい」とは、こういうことなのではないかなぁと、映画を観ながら思いました。
<2008-5-28>
つらい、と、からい、は、両方とも「辛い」と書くんですね。
普段は意識していなかったけれど、改めて考えると、不思議です。
<2008-5-27>
目の前に、サイコロがあるのをイメージしてください。
そのサイコロを右手の人差し指と親指でつまんで下さい。(ちょうど、OKサインのような感じで)
つまんだら、サイコロを目の前に持って行き、見つめながらできるだけくっきりイメージしてみてください。
イメージが出来たら、それを机の上に転がします。
さて、何の目が出たでしょうか?
ここで一度読むのをやめて、実際にやってみてください。(この後に解説を書きますので、やる前に読まないように)
これは、島田紳助司会の「テッパンノート」という番組でやっていた心理誘導です。
実際にゲストがこれをやっていたのですが、半数がさん(答がパッと目に入らないように平仮名にしておきます)の目が出たと答えていました。
紳助は得意気に、「心理誘導でさんを選ばせた」「もうかかってんねん」と言っていました。
彼の理論によると、人は悩めば悩むほど、真ん中のものを選ぶ傾向にあるそうです。
つまり、サイコロをイメージさせてから、実際に振らせるまでに、時間をかけるのがポイントらしい。
僕はゲストがサイコロを振る前に、多分さんと言わせたいのだろうなぁと思いましたが、紳助とは全く違う理由でそうなると思っていました。
「え? そんなことまで紳助は意識してやっているの? それ、テレビで言っちゃっていいの?」と、びっくりしたので、解説を聞いて、がっかりというか、ホッとしたというか、ちょっと複雑な気分でした。
皆さんはどんな結果でしたか? (よろしければ、お問い合わせより、結果を教えてくださいね!)
<2008-5-26>
吉野屋に張ってあった、「おいしいが元気のもとになる」という松井のポスター。
見事なダブルバインドです。
<2008-5-25>
「丸い」や「四角い」という形容詞はあるのに、どうして三角を表す「三角い」という言葉はないのでしょうか?
<2008-5-24>
今日は、皆様にお願いしたいことがあります。
人の心の傾向を調べたいと思っているのですが、
スペード クラブ ハート ダイヤ
これから目をつぶり、↑ の4つのマークのうち、初めに心にふっと浮かんだマークを、鮮明にイメージしてみてください。
イメージしたら、何をイメージしたか、下記フォームより、教えていただけないでしょうか?
ある程度回答が集まったら、こちらでも結果を発表したいと思います。
ご協力、よろしくお願いいたします。
<2008-5-21>
テレビで ふかわりょう が、「何故、人は怒ると物を投げるのか?」という話をしていました。
彼の出した答えは、「人は怒ると、飛びたくなるのではないか。けれども、実際には飛べないので、そのかわりに物を投げるのではないか」というものでした。
実際に彼は、イライラしたときに、その場でジャンプしてみたそうです。
すると、不思議と、ふっと気持ちが楽になったそうです。
僕は、飛ぶ代償行為として物を投げるという説が正しいのかどうかはよく判りませんが、イライラしたときにジャンプをすると気分が良くなる、というのは、あり得る話だと思います。
特に彼は、自分で仮説を立てているのですから、それがそのまま自己暗示ですし、例えそのような考えがなくても、例えば喧嘩の最中に大きな地震があって、それで喧嘩がどうでもよくなってしまうのと同じように、飛ぶという行為が、自分の中の他の感情を引き出すトリガーになるのかもしれません。
今度、何かに頭に来たら、その場でジャンプして、気分の変化を観察してみます。
<2008-5-18>
佐野元春「アンジェリーナ」が名曲なのは、「望みをなくしたポップコーンガール」に尽きます。
恐らく誰もが、人生で初めて聞いたであろう、「ポップコーンガール」という単語。
もちろん、ポップコーンもガールも意味も解るけれど、ポップコーンガールとなったところで人々の想像力は爆発します。
誰もがこの言葉に、プロムナードにたむろしている望みをなくしたポップコーンガールの姿を心に思い描き、そのイメージは一瞬のうちに、心に焼きついてしまったのではないでしょうか。
そもそも伏線は、「トランジスタラジオでブガルー」の段階で十分張られていた気がします。
トランジスタラジオでブガルー?
マジンガーZに出てくる「マジンゴー」という意味不明の造語を耳にしたときと同じようなクエスチョンマークが心に広がります。
彼はこの手法を得意としており、例えば「ガラスのジェネレーション」には「この街のクレイジー・プリティ・フラミンゴ」そして「この街のクレイジー・ミッドナイト・カンガルー」が登場します。(しかし、あまりにも「つまらない大人にはなりたくない」というメッセージが強烈なため、ポップコーンガールに比べてインパクトは控えめ)
渡辺美里の「センチメンタルカンガルー」も、もしかしたら佐野イズムなのかもしれません。
<2008-5-17>
佐野元春「SOMEDAY」が名曲なのは、「傷の手当もせず」という一節から受ける共感が半端ないからなのではないかと思います。
窓辺にもたれ、夢のひとつひとつを消してゆくのは確かにつらいし、素敵なことは素敵だと無邪気に笑える心は僕も好きですが、やはりそれは、傷の手当をしないという圧倒的リアリティがあればこそ、です。
「手おくれ」と言われたときに、いつか口笛で答えてやろうと昔から目論んでいるのですが、なかなかそういう状況が訪れません。
<2008-5-13>
我が家の猫たちですが、同じ猫なのにマロンとゆずは全然性格が違います。
マロンはボイスレスキャットで、ほとんど鳴きません。鳴くときにも、小さな声で、にゃー、という感じ。
一方のゆずは、何かにつけ、ピーピー鳴きます。
面白いのは、トイレの中に入ると、用をたしながらずっとピーピー鳴き続けること。
ボランティアさんの話では、生後すぐに保護されたときから、ずっとそうらしい。
また、マロンは水が嫌いで、お風呂場も濡れていると絶対中に入ってきませんが、ゆずは濡れようがおかまいなしで、僕がお風呂に入っているとドアの外から「開けろー!」とピーピー鳴きます。
開けると勢いよく中に入ってきて、風呂場をウロウロ徘徊します。
ゆずはまだ、子供だからかもしれませんが、野良猫という感じ。マロンは反対に、血統の猫のような感じがします。
<2008-5-10>
「ガソリン、300円時代に突入か」というニュース記事を読みました。
原油が毎日のように最高値を更新している現状ですから、300円はオーバーだとしても、年末までには200円を超えているかもしれません。
CO2削減が叫ばれて、エコバックを持ち歩いたり、ペットボトルをリサイクルに出したりしている昨今ですが、実はそんな努力をするよりも、全国民が自動車に乗る回数を1割でも減らせば、桁外れに効果があるんですよね。
ガソリンの値段が高くなるのは苦しいですが、その分、必然的に自動車に乗る回数が減ったり、燃費の良い車が選ばれるようになったり、新エネルギーの研究がさかんになったり、電気代の節約を意識する人が増えるのであれば、長い目で見て良い事なのではないかと思います。
17世紀、オランダではチューリップの球根が投機の対象となり、ブームが最高潮の時には、球根ひとつが、現在の日本円に換算すると4千万円くらいで取引されていたそうです。
原油高のニュースを読みながら、1個4千万円の球根を育てる気持ちというのは、どういうものだったのだろうと、そんなことを考えました。
<2008-5-2>
何回観ても、カリオストロの城はいいですね。
「奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」
<2008-5-1>
今日、京王線に乗っていて、アナウンスを聞いてびっくりしたのですが、5月18日に、国領駅付近において不発弾処理をするため、列車が一部運休になるそうです。
立体交差工事のため、地下を掘っている際に見つかったそうで、1トン爆弾だそうです。
1個あるということは、もっとあるんじゃないかという心配もあるし、国領で見つかったのなら、我が家の下にあってもおかしくないわけで、地震とかのショックで爆発したりすることはないのだろうか。
地下鉄が環八の外側に作られないのは、どこも不発弾だらけでとても掘れたものではないから、という都市伝説がありますが、案外本当なのかもしれませんね。
<2008-4-30>
今年も、ナガミヒナゲシの季節になりました。
調べたところ、ヨーロッパが原産だそうです。
僕はこの花が大好き。
アルカリ性を好むということで、コンクリートだらけの都市部の道路と相性がぴったりだったのでしょう。
都市雑草などと呼ばれているようですが、きっとこの花も、栽培が難しければ(つまり、雑草化しなければ)、普通にホームセンターで売られるような花だったと思います。
これだけ増えちゃうと有り難味もないのかな。
僕はこういった、身近に当たり前のようにある自然に心惹かれます。
同じ理由で、雲も好き。
山も川も海も何も見えなくて、ビルだらけだとしても、空を見上げると、雲だけは、自然のまま、手付かずに残っているような気がするのです。
<2008-4-28>
道を歩いていて、行きの道よりも、帰りの道の方がずっと時間が短く感じることがときどきあります。
特に、初めて行く所や、久しぶりに行く所の場合、その傾向が強い気がします。
時間が短く感じるということは、時間の歪曲が起こっているわけで、これはもう、立派な催眠現象ですね。
<2008-4-27>
先日放送された、「アメトーーク エヴァ芸人」を観ました。
エヴァはずっと観ていなかったのだけれど、改めてこうやって紹介されると、また観たいなぁという気持ちになって、新劇場版を観てみました。
テレビシリーズをうまくまとめつつ、テレビシリーズとは違う部分もあって、とても面白かったです。初めての人でもすーっと入っていけるんじゃないかな。
綾波レイの戦闘美少女ぶりが、時を経て、更にパワーアップした気がしました。
<2008-4-24>
久しぶりに NLP Weekly
を開いてみたら、サイトの雰囲気がだいぶ変わっており、昔の記事が見られなくなっていました。どうも、現在、サイトのリニューアル中みたいです。
http://www.nlpweekly.com/
<2008-4-16>
爆笑問題のラジオに、「語れ!音楽論」というコーナーがあるのですが、3月のテーマは、「イントロの格好いい曲」でした。
いろいろな曲が寄せられましたが、僕は「ピアノマン」、そして「ミス・ブランニュー・デイ」かな。
「SOMEDAY」も格好いいですね。
<2008-4-14>
生まれて初めて、忘れ物をしないために、手に文字を書いたときのことを、今でも覚えています。
小学生のとき、先生が、「明日はコンパスを持ってきてください」と言いました。
隣に座っていた友達はそれを聞いて、ボールペンで手に「コンパス」と書いていました。
「何してるの?」とたずねると、「こうやって書いておくと、忘れないですむんだよ」と、彼は少しだけ得意気に言いました。恐らく彼も、最近それを覚えたのでしょう。
僕はときどき忘れ物をしていたので、なるほど、と思い、真似をして手に「コンパス」と書きました。
その夜、僕は手など見なくても、「手に書けば忘れ物をしなくてすむ」というパラダイムシフト(?)が強烈だったため、コンパスのことを覚えていて、忘れないよう、ランドセルに入れました。
翌日、隣の友達はコンパスを忘れていました。
「どうして? 手に書いていたのに」と僕は聞きました。彼の手を見ると、薄く、「コンパス」の文字がまだ残っています。
彼は恥ずかしそうに、「安心して忘れちゃった」と言いました。
僕はそのとき、幼心に、「手段というのは時に、目的を超えてしまうことがある」ということを、漠然と感じたのだと思います。
だから、「○○のために」というのが忘れられて、手段ばかり注目されるのは、あまり好きではないのだと思います。
<2008-4-13>
夢の中に、ピーター・ペトレリが出てきたのですが、彼のかっこ良さは異常ですね。
<2008-4-12>
2002年から使っていた携帯電話が、いよいよ充電してもすぐに電池がなくなってしまうようになり、新しい携帯に買い換えました。
6年で買い換えるのは早いのか、遅いのか良く判りませんが、僕は携帯でメールもネットもしないため、通話が出来れば満足ですので、こういう事がなければずっと買い換えなかったのだろうなぁと思います。
新しい携帯はカメラが以前のものとは比較にならないほど高性能なので、気軽にいろんな写真を撮れればと思っています。
ということで、今日のマロンです。
<2008-4-11>
アクセス解析でみなさんがどのようなキーワードを検索してこのHPにいらしているのかを確認できるのですが、圧倒的に多いのが、エッセイに書いた「ラピュタ都市伝説」と「午後12時」です。
ラピュタについてはさておき、午後12時について多くの人が疑問を感じていることに、ちょっとだけ安心しました。
<2008-4-6>
ずいぶん昔にも同じことを書きましたが、定期的にコーヒー牛乳の魔力にやられます。
僕は食べ物や飲み物で、「○○がないと生きていけない」というのはほとんどないし、コーヒーも特に好きではないのですが、コーヒー牛乳だけは、許されるものならばいつまでも飲んでいたいと思うことがたまにあります。
出来合いのコーヒー牛乳も好きですが、加糖のアイスコーヒーと牛乳を買って、若干多めの牛乳で割ったコーヒー牛乳がたまりません。
<2008-3-29>
「万能ねぎ」というネーミングは、「サラダ菜」と同じくらい、便宜的で、適当に名づけた感丸出しで、食材に対する愛を感じません。
どの辺が万能なのかも、不明です。
<2008-3-28>
ある討論番組を見ていたら、相手の話を全く聞かず、逆に相手に「あなたは人の話を聞けない人だ!」と憤慨している人が出ていました。
多かれ少なかれ、討論番組では、誰もが自分の言いたいことを言うことしか考えていませんので、どうしても聞き手が不在になりますし、話は平行線のまま、まとまることはありません。また、人間は誰でも、基本的には自分が一番正しいと思っていますから、納得のいく説明を、納得のいく角度で、納得のいくタイミングでされないと、なかなか自分の間違いに気がつきません。(もちろん、僕自身、そういうところがあります)
ただ、それを差し引いて考えても、コミュニケーションの取れない相手というのは存在するのだと、その番組を見ながら思いました。
コミュニケーションは技術ですが、技術ではどうしようもない場合も多々あり、それは誰のせいでもないと思います。
持って生まれた偶然の相性以外、乗り越えることはできないし、乗り越えられないものを、無理をする必要もないのかもしれません。
<2008-3-22>
「ショートショートの広場
(20) 」に、学生の頃に書いて、数年前に投稿したショートショートが掲載されました。
こんな形で自分の作品が活字になるなんて、学生の頃からすれば夢のようです。
いつか、自分の書いた作品が本屋さんにならぶといいなぁと思っています。
<2008-3-20>
なんとなく、なんですけど、「最低」という言葉は、男性よりも圧倒的に女性の方が好んで使う言葉ですね。
「もう、最低!」って感じで。
「一番最低」という二重形容は、嫌いじゃありません。
<2008-3-16>
カウンセリングルームが新しくなったということで、このサイトの名前とロゴも変えてみました。
2002年以来、まったくいじっていないページもいくつかあり、読み返すと、今の考えと違う部分もありますので、それらも少しずつ、書き直していきたいと思っています。
ひとりごとも毎日更新とはいきませんが、4月の半ばころには落ち着けるかな。
新しいカウンセリングルームのキッチンが水漏れで、今週、キッチンごと交換になりました。
面倒だけれど、新しいものに変えてもらえるのは嬉しいです。
悪いこともあるけれど、それがきっかけで良いこともあり、トータルで見ると、ちょっとよい事の方が多い……、そういうのが人生なのかもと、水漏れしたキッチンの板を見ながら思いました。
<2008-3-10>
新カウンセリングルームへの移転、ほぼ終了しました。
今週より、予約受付を再開いたします。
<2008-3-2>
今日は、新しいカウンセリングルームに家具を運び込みました。
ここ数日、ホームセンター巡りばかりしています。
今週中には、形になるかな。
<2008-2-25>
新しいカウンセリングルームの鍵を受け取ってきました。
先日のセミナーで、セラピスト志望の方が多かったので、勉強会と、セラピスト養成スクールの、ちょうど中間のような集まりを始められたらなぁと、そんなことを考えています。
<2008-2-24>
無事、セミナー終了しました。
1日2回のセミナーはさすがに疲れましたが、アンケートを読ませていただくと、皆さん、楽しんでくださったようで、ホッとしました。
風の強い中、参加してくださった皆さん、本当にありがとうございました。
<2008-2-22>
いよいよ明日、高円寺にて、催眠療法体験セミナーが開催されます。
今回は1日に2回行うため、まだ残席がございますので、当日参加が可能になりました。
お申し込みが間に合わなかった方は、明日の12時もしくは15時までに、直接会場までおこしください。
受付にて、当日参加である旨をお伝え下さい。
皆様にお会いできることを楽しみにしています!
<2008-2-20>
日がのびてきたり、ブルーベリーの花芽が膨らんできたりするのを見ると、春はもうすぐそこという感じがします。
<2008-2-17>
「笑うなよ。兵が見ている」
ガルマ・ザビの持っている空気感、嫌いじゃありません。
<2008-2-16>
今日、山手線に乗っていたら、目の前の座席に4人の老人(全員男性)が並んで座っていました。
右から、凄く怒りっぽそうな顔の老人、ひげをたくわえて仙人のような老人、気の弱そうな老人、めちゃくちゃハンサムな老人、でした。
4人とも黙ったままでしたし、ふと気がついたらその4人が座っていたので、果たして彼らは何かのグループで、一緒にどこかに出かけようとしているのか、それとも全くの他人で、偶然が引き合わせた4人なのかは不明です。
電車内を見渡しても、これだけおじいちゃん率が高いシートは他にありませんでしたので、当たり前のような光景に見えて、僕にとっては奇跡のように見えました。
僕の好きな言葉に、「枯れ木に花咲くに驚くより、生木に花咲くに驚け」という言葉があるのですが、人と人とのめぐり合わせというのは、当たり前のようでいて、全てがあり得ない確率の奇跡なのではないかと思います。
ひとつ何かが違っていれば、出逢うはずのなかった人たちと、こうしてすれ違うのですから。
「当たり前」という感覚って、感じる心を邪魔しますね。
子供にとって一日が長いのは、何もかもが当たり前じゃないからだと思います。
大人になって、全て解った気になって、日常にただ流されてしまうのは悲しいことです。
今日の山手線老人4人組は、僕に驚ける心を思い出させてくれました。
<2008-2-15>
催眠療法体験セミナーまであと1週間です。
まだ空席がございますので、ご興味のある方は、是非、いらしてくださいね。(^^)
僕は催眠誘導が上手ですから(笑)、きっと楽しめると思います。
<2008-2-9>
長い間、カウンセリングルームでのセッションをお休みしていましたが、3月から再開できそうです。
新しい場所は、京王線のつつじヶ丘駅のすぐ近く。
以前のカウンセリングルームより若干広いので、セッションだけでなく、少人数のセミナーやワークショップもそこでできたらと思っています。
詳細は、決まり次第、お知らせします。
<2008-2-7>
ふと気がつくと、スピードワゴンが消えそうです。
<2008-2-5>
コンビニに行ったら、駐車場の隅に猫を発見しました。
近づいていくと、猫もこちらに近づいてきて、僕の脚にスリスリ。
撫でてあげるとゴロゴロととても人懐っこく、毛並みも綺麗でしたので、もしかしたら、近所の飼い猫がお散歩していたのかもしれません。
抱っこをしようとしたら、お腹がとても大きいことに気がつき、抱っこをやめました。
どうやら、もうすぐ子猫が生まれるようです。
<2008-2-4>
友人のセラピストと話していて、「催眠術」という言い方は怪しいよねぇ、という話になりました。
世の中の催眠療法家は、どうにかこの怪しいイメージを払拭しようと、「催眠」に変わる宣伝文句を模索しているように思います。
僕は「催眠」という言葉が誤解を生んだり、怪しいと思われたりしたところで、「催眠」という言葉を使うのが結局は一番良いのではないかと思っていますが、もし、他の言葉を使う必要があるのであれば、あえて、もっと怪しい言葉を使った方がインパクトがあるのではないかと思いました。
メスメリズムとか、動物磁気術とか、暗示術とか、注意術とか……。
まぁ、インパクトがあればいいってものでもありませんけれど。(^^;;
<2008-2-3>
23日のセミナーの準備を少しずつ始めています。
今回は、催眠を体験することに加え、自分で自分の問題にアプローチできる、簡単なテクニックをお教えできたらと思っています。
お手軽に催眠に触れることの出来るチャンスですので、迷っていらっしゃる方は、迷ったままのお気持ちで結構ですので、是非いらしてくださいね。(^^)
<2008-2-2>
今日は久しぶりに本屋に行きました。
最近はもっぱら、本はアマゾンで購入していましたが、本屋ってやっぱりいいですね。
平積みされている本を眺めるだけでも、今のブームが解るし、思いがけず面白そうな本にも出逢えます。
映画の予告編が、時として本編よりも気分がワクワクするのと同じで、面白そうな本を見つけて購入し、カバーのかかった綺麗な本を抱えて家路を急いでいる途中って、もしかしたらその本を実際に読んでいるときよりも気分のいいものかもしれません。
<2008-2-1>
自分にどれだけ投資できるかって、大切だったんだなぁと、この歳になって実感します。
一見無駄に思えることでも、時間とお金をかけてチャレンジすることで、少し世界が広がり、少し生きやすくなる。
人生はその連続で出来ているのかもしれませんね。
もちろん、義務感で何かをするのは心のために良くないし、勉強したことも身につきませんが、興味があるのに何かに遠慮しているのだとしたら、思い切ってやってみるのが吉だと思います。
あ、なんかポジティブなこと書いちゃった。(^^;
<2008-1-31>
髪を切りに行ったら、HEROESのネイサン・ペトレリみたいな髪型になってしまいました。
僕は髪を切りに行って、「どうしましょう?」と聞かれるたびに、毎回同じリクエストをするのですが、毎回仕上がりが異なります。(^^;;
同じ人に切ってもらわないからそうなるのですが、人によって受け取りかたがこうも違うのかと、感心します。
<2008-1-30>
ときどき、ひとりごとのネタに困って、昔はどんなこと書いていたんだろうと、過去の日記を読み直すのですが、自分で言うのもなんだけれど、初期の日記のほうが明らかに面白いですね。
2004年の1月、2月、3月を読み直してみたけれど、こういった感覚で最近日記が書けないのは、ネタ切れなのか、感受性が鈍くなっているのか、疲れているのか、はたまた刺激が足りないのか……。
きっと、全部なんだろうな。
子供の頃は、前の年より全てにおいて成長しているのが当たり前でした。
体力も、知識も、感性も、毎年成長を実感できました。
けれど、いつからだろう、全部とは言いませんが、いくつかの領域で、明らかに過去の自分に勝てなくなり始めました。
昔歌えていた曲の高音部の声が出なかったり、昔書いた文字が今よりもずっと綺麗だったのを発見したり、そんなことからして、喪失感を覚えます。
僕が80歳になって、もう人生も終わろうとするとき、一体なにが残っているのだろう?
<2008-1-29>
我が家の先住猫、マロンは、あまりゴロゴロいいません。
もちろん、寝る前など、ゴロゴロいうことはあるのですが、体が大きい割にはゴロゴロは小さめ。
一方、新入りの ゆず は、遊びモードではないときだと、2,3回撫でてやるだけで、すぐにゴロゴロいいはじめます。
しかもそのゴロゴロがすごく大きくて、振動がはっきりと伝わってきます。
もし神様がいて、人間を見ているとしたら、やっぱり2、3回撫でてやるだけで、大きなゴロゴロを言う人間がかわいいんだろうなぁと思いました。
<2008-1-27>
私は時折 苦しみについて考えます
誰もが等しく抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
いまの自分と
さだまさし「防人の詩」
<2008-1-25>
季節の匂いってありますね。
生暖かい春風の匂いを嗅ぐと、春だなぁ、とか、蚊取り線香の匂いを嗅ぐと、夏だなぁ、とか、タンスから出したセーターの匂いを嗅ぐと、秋だなぁ、とか。
で、冬の匂いって何かというと、灯油が燃える匂いだったり、おでんの匂いだったりするのですが、僕が一番冬を感じるのは、かまぼこ です。
しかも、うどん や そば の中の熱い汁にひたひたに浸って、少し湾曲して、表面が若干かたくなったような かまぼこ の匂い。
まぁ、匂いの90%くらいは めんつゆ の匂いなのですが、ただの めんつゆ の匂いではあまり冬という感じはしません。熱い めんつゆ に かまぼこ
が入って、初めて冬の匂いという感じがします。
風が強くて寒い日に、外を歩いていて、お蕎麦屋さんの前からこの匂いがしてくると、もうたまりません。
<2008-1-24>
偉い人たちが言った言葉、「無知の知」とか、「死に至る病とは絶望のことである」とか、「神は死んだ」とか、「男は狼なのよ、気をつけなさい」とか、いろいろありますけど、デカルトの言った「我思う、ゆえに我あり」という言葉以上に真実な言葉はないのではないかと思います。
例えそれが、実生活には何の役にも立たない真実であったとしても、僕にとってこの言葉、そしてこの事実は、非常に恐ろしいものです。
<2008-1-23>
ブルボン、バタークッキーの美味しさは異常です。
これで100円は安すぎ!
<2008-1-22>
リメイク版のヤッターマンを観ました。
おだて豚とか、びっくりドッキリメカとか、とても懐かしくて楽しい時間を過ごしました。
当時は気がつかなかったけれど、ドロンジョ様の声って、のび太の声と同じなんですね。
個人的には、ボヤッキーの流れ弾のくだりがツボでした。
毎週観る必要はないけれど、まだ観ていない方は、是非一度ご覧下さい。(^^)
<2008-1-19>
例外はたくさんあると思いますが、お笑いコンビって、顔が整っている方がボケで、そうじゃない方がツッコミの方が成功している気がします。その方が、見ている側としては笑いやすいのかもしれませんね。
ザブングルは、ボケとツッコミが逆の方がいいんじゃないかと思いました。
<2008-1-18>
結局美味しいのはチーズなんですよね。
<2008-1-17>
ゴールが見えているかどうかというのは、大切なことだなぁと思います。
自分が最終的に何をしたいのか、どこに行きたいのか、相手に何をして欲しいのか……。
漠然としたゴールではなく、はっきりとしたゴールがあり、目的意識があるとき、自ずと行動は決まってくるし、その行動を当たり前のようにすることで、ゴールに着実に近づくことができるのだと思います。
しかし、現実には、はっきりとしたゴールが見えている瞬間はあまり多くなくて、毎日の生活に追われ、忙しさや義務の重荷に潰されそうになりながら探しているゴールはあまりにも遠く、不鮮明なのではないでしょうか。
誰かと意見が合わなかったり、議論が続いてしまうときなどは、大抵、このゴールが見えていないときではないかと思います。ゴールが見えず、その場の思いつきで発言し、行動し、疲れるだけで何も残らない。
ゴールが見えていれば、ひとりでも進んでいくことはできるのですから。
「ノルウェイの森」に出てくる永沢さんというエリートは、「自分の行動規範は、紳士であること」と言います。
「紳士って何ですか?」という問いに対する、「したいことをするのではなく、するべきことをするのが紳士」という彼の答は、僕の心にとても響きました。
自分が今、何をしようとしているのかに自信を持てる人は、とても幸せだし、既にそれを得ているのかもしれません。
<2008-1-16>
愛には実態がありませんね。
愛している思いを取り出して見せることは出来ません。
かといって、状況をして愛と呼べるのかといったら、それも思いが伴っていなければ愛とは呼べなさそうです。
高価なプレゼントをくれたら愛なのか、優しい言葉をかけてくれたら愛なのか、もちろん、愛ゆえの行為かもしれませんが、それだけで愛とは言えないようにも思います。
もちろん、愛の定義なんてできないと思いますが、だからと言って何でもかんでも愛というのも違うでしょう。
色々考えてみたのだけれど、愛を受け取る側の視点から見れば、「気が利く人」というのは、限りなく「愛のある人」に見えるのではないかなぁと思いました。
しかも、好きな人だけに、頑張ってする気の利いた行動ではなく、まったく素の状態で、当たり前のように、誰にでも気の利いた行動が出来る人は、愛があるように見えるんじゃないかなぁ、と。
「気が利く」と、「優しい」は違いますね。
気が利かないけど優しい人と、優しくないけど気が利く人では、もしかしたら後者の方が優しく見えるのではないかと思います。
<2008-1-15>
一休さんみたいに、目を閉じて瞑想するだけで、ポク、ポク、ポク、ポク、ポク、ポク、チーン!、と頓知が閃いたら、人生もっと生きやすいだろうなぁと思います。
悩んだら、ちょっと席を外して、ポク、ポク、ポク……。
<2008-1-14>
甲州街道を走りながら、カーステレオで中島みゆきの「ファイト」を聴いていました。
過去にももちろん、聴いたことがあった曲ですが、歌詞をしっかり聞き取ろうと、詩の内容を追っていたら、魚のくだりで涙が止まらなくなりました。
こんな風に、曲を聴いて涙がこぼれたのは、さだまさしの「償い」以来でした。
こういった魂に訴えかけてくる曲をかける人は、もう、僕等の世代や、僕らより若い世代にはいないのではないかと思いました。
<2008-1-10>
我が家にマロン(雑種オス猫・5歳)がやって来て、3年が経ちました。
室内で飼っているので、人間の目から見れば、いつも退屈そうで、ひとりぼっちでは寂しいのではないかと思っていました。
何度も、もう一匹飼おうかと思ったのですが、新しい猫が来て、果たして僕の愛情は分散せず、平等に愛せるだろうか?、ということが心配で、踏ん切りがつきませんでした。
新しい猫が魅力満載で、マロンのことが2番目になったらマロンがかわいそうだし、逆に新しい猫に全くかわいげがなくて、マロンのように愛せなかったら、それもかわいそうです。
また、猫同士で仲良くなりすぎて、人間との距離が出来てしまうことも心配でしたし、逆にいつまでも仲良くならなくて、喧嘩ばかりでもかわいそうです。
考えすぎなのは解っているのですが、せっかくのマロンとの関係が、新しい猫の登場で壊れてしまうことがとにかく心配でした。
……と言いつつも、ときどき里親募集のページを開いては、もらっちゃおうか、やめようか、という葛藤を続けていました。
昨年の11月頃、ふっと、2匹目をもらうことに対する心配から解放されて、アントニオ猪木の言葉にあるように、「迷わず行けよ。行けばわかるさ」という心境になりました。
それから毎日のように里親募集ページを読み、何度も里親会に出かけました。
里親会では、里親を待っている猫がたくさんいて、その中から一匹を選ぶことがどうしてもできませんでした。(昨年12月6日のひとりごとが意味不明なのはそのためです)
里子にもらいたい猫には条件がありました。
里親ボランティアをしている人の話しによると、統計的に、オスの先住猫がいる場合は、メスの猫をもらった方がよいということだったので、メス猫。そして、子猫の方が適応能力が高いので、できれば1歳未満の猫。あとは、マロンはクールな猫なので、今度の猫は、できれば膝に載ってくるような甘えん坊が良いなぁ、と思っていました。
そんな条件の下、里親募集ページを探したのですが、載っている猫達はオスの方が多く、なかなか、これだ!、という猫が見つかりませんでした。
何回か、条件に合った猫に問い合わせてみたのですが、やはり子猫は人気が高く、ふられっぱなし。
そんなこんなで里子さがしにも疲れ始めた頃、再び条件ぴったりの子が掲載されていました。
かわいそうなことに、生まれたてで、まだへその緒がついた状態で紙袋に入れられ、ホッチキスで封をされた状態でスーパーのゴミ箱に捨てられていたそうです。
ボランティアさんが助け出し、ミルクをあげて育てたということでした。
早速メールをして、すぐにお見合いに行きました。
さすが子猫、希望者が16人もいたそうで、その場では決定しなかったのですが、後日、里親に選んでいただくことができ、12月22日に、無事に我が家にやってきました。
冬至の日にやってきたことを記念して、「ゆず」と命名しました。
まだ子猫のせいもあるのでしょうが、ゆずはとにかく御転婆娘で、マロンがいかに静かな猫か、改めて実感しました。
御転婆な分、とても甘えん坊で、パソコンをしているとやって来て、膝に載ろうとしますし、載せてあげるとゴロゴロいって、寝てしまいます。
心配していたマロンとの相性ですが、マロンが優しい性格のせいか、初めはマロンが逃げている感じでした。
ゆずはとにかく、遊んで欲しくて、マロンを追い掛け回し、逃げていたマロンも、次第に自分の方が強いことが解ったのか、怖がらなくなりました。
ときどきじゃれあっていますが、喧嘩と言うよりは、スパーリングという感じで、とても静かに、ばた、ばた、と柔道のような音をさせながらじゃれています。
猫が威嚇するときの「フー」とか「シャー」とかいう声を、マロンは初日に一度出しただけで、それ以来はじゃれているときも全くの無言。
ゆずの方は、1週間ほど、じゃれているときに「シャー」という声を出していましたが、それも今はなくなりました。
マロンが来たときはすでに大人の猫でしたので、僕にとって、ゆずは初めての子猫です。
子猫の魅力は、もう反則と感じるほどで、それと同時に、マロンの魅力にも改めて気づかされている、今日この頃です。
<2008-1-9>
「第2回 催眠療法体験セミナー」の詳細をアップしました。
セッションを受けるのは抵抗があるけれど、催眠に興味がある、という方々が、気軽に催眠に触れられる機会になればと思っています。
僕は会場のスタジオKの雰囲気が、何故か大好き。
週末の空気と、スタジオKの薄暗い照明がとても心地よいんです。
あそこにいるだけで、不思議とトランスに入っていく気さえします。
セミナーについては、こちらをご覧下さい。
ご興味のある方は、是非、いらしてくださいね。(^^)
(内容についてご質問がある方は、遠慮なく、お問い合わせよりメールください)
<2008-1-8>
セミナーですが、2月23日(土)になりました。(ほぼ確定)
案内や申し込みのページは、近日中にアップします。
<2008-1-7>
2月(3月?)に、セミナーを開こうと思っています。
まだ日時も内容も決まっていませんが、今回は催眠誘導のワークショップではなく、参加者がトランスを体験できるような内容にしようかと思っています。
もし、内容についてリクエストがあれば、お気軽に「お問い合わせ」より、ご連絡くださいね。
<2008-1-1>
あけましておめでとうございます。
年末年始は、一年を振り返ったり、これからの一年について考えなくてはいけない空気があって、そういうのはどうも苦手なのですが、平凡に一年を過ごせたらなぁと思っています。
昨年の元旦に、「ぐっさんの相方、平畠がブレークする」と予言して見事に外れましたが、今年もひとつ、予言します。
今年は元猿岩石の有吉がブレークします!