ひとりごと
<2005-2-28>
以前から育てていたブルーベリー(ダロー、ウエイマウス、バークレイ)を剪定し、初めての挿し木にチャレンジしました。
この時期にする挿し木を休眠枝挿しと呼ぶそうです。
順調に行けば二ヶ月くらいで発根するらしいのですが、それまで水が足りないと枯れてしまうし、多すぎると腐ってしまうので湿度管理が難しそうです。
増やしたところですでに植える場所もないのですが、植木鉢に植えて誰かにプレゼントしようかと思っています。
今回の挿し木は実験的な意味があり、これでうまく行ったら、来年は先日買ったサザンハイブッシュ系のブルーベリーの挿し木をして、こちらを増やしたいと考えています。
園芸をしていると、月日が流れるのが待ち遠しいです。
<2005-2-27>
「今がわかる時代がわかる世界地図」によると、日本の軍事費は、アメリカ、中国、ロシア、フランスについで第5位です。
もちろん国によって物価が違うので、これをして日本は世界で5番目の軍事大国とは言えませんが、それでもそんなにお金かけなくてもいいのにって思います。
<2005-2-26>
プラス思考の人間って、マイナス思考の人間よりも世の中に害を与えることが多い気がします。
何故かと言えば、必要な反省をしないからです。
落ち込んで、後悔して、クヨクヨする時間を過ごして初めて、人は経験から何かを学び、少しだけ人間が大きくなれるのです。しかしプラス思考の人間は、ときどきそれを飛ばしてしまいます。
1万円が財布に入っているとき、「1万円しかない」と考えるのがマイナス思考、「1万円もある」と考えるのがプラス思考と言われますが、何でも良いように考えればそれでいいわけではないのです。
状況によっては「1万円もある」等と悠長なことを言っていないで、「1万円しかない」という危機感を持つことは重要です。
大学の頃、「私は時間に縛られたくない」と言って時計を持ち歩かない教授がいました。
それはそれでひとつの生き方であり、多感な学生たちは「あの教授はやっぱり違う」的な尊敬の眼差しで彼を見ていましたが、彼の研究室の生徒たちは、彼が時計を持たないことでずいぶん苦労をさせられていました。僕はプラス思考という言葉を聞くと、いつもこの教授を思い出します。彼の「時間に縛られない」という生き方は、周りの人に迷惑を撒き散らすことによって守られていたように、プラス思考の人たちの送っている幸せな暮らしは、周りの多くの犠牲の上に成り立っているのではないかと、そんな気がするのです。
もちろんそんな風に周りをいい意味でも悪い意味でも巻き込める人間がいるからこそ、結果的に世の中がいい方向へ変わっていくことがあるのも事実です。でもそれは一握りの選ばれた人間だからこそできることであって、凡人のプラス思考はひとつ間違えれば秩序を乱すことにしかなりません。
プラス思考の人間って、カレーライスの中の福神漬けくらいの割合でいることが理想的。もしこの国の人間が全員プラス思考だったら、この国はとっくに滅びていたことでしょう。
僕はマイナス思考こそ素晴らしいとか、プラス思考はけしからんとか言いたいわけではありません。
大切なのは、プラス思考でもマイナス思考でもなく、目の前の状況をありのままで判断できる冷静な目だと思うのです。
あ、でも個人的にはプラス思考の人はちょっと苦手。マイナス思考の人といると何だか落ち着きます。
<2005-2-25>
あびる優の騒ぎの陰で、ひっそりとチューヤンが芸能界を引退し、香港へ帰って行きました。
チューヤンはこの国で何を学び、何を感じたんだろうと思うと、少し切ない気持ちになります。
<2005-2-24>
「今がわかる時代がわかる世界地図」という本をもらいました。
ひとりごとのネタがなくて困っていましたが、しばらくは世界地図ネタでいけそうなくらい、面白いです。
例えば各国のリーダーの年収なんていうのも載ってます。
小泉首相の年収は4165万円。安いのか高いのか微妙ですね。
アメリカブッシュ大統領は4284万円。小泉首相とほぼ同じです。
逆に安いところで言うと、チェコのグロス首相は676万円。どんな人なのかなぁと各国リーダーの顔写真を見てみると、グロス首相、中々の男前です。びっくりしたのが、彼はまだ34歳。僕とほぼ同い年なのです。
<2005-2-23>
日本でもサマータイムを導入しようという動きがあるそうです。
4月から10月まで、時計の針を1時間戻すそうですが、ちょっと面倒ですよね。
パソコンは自動的に時間を合わせてくれるでしょうが、その他の家電の時計を年に2回も調節しなければいけないなんて……。
だったら潔く、標準時を1時間早くしたらいいのに。
冬の朝が暗くなってしまいますが、その代わり夕方が今までより明るくなるからいいのではないかなぁ。
<2005-2-20>
今日のPRIDEは久しぶりに面白かったです。
何よりボブチャンチンが全盛期の強さを垣間見せたのが嬉しかった。
ヘビー級の選手達が軒並み体重を落として今後はミドル級で戦うというのは、ミドル級が楽しみになる反面、もうヘビー級では誰もヒョードルやミルコ、ノゲイラ、ハリトーノフを倒せないと諦めてしまっているようで、ちょっと残念です。
<2005-2-19>
荒川の河川敷に住んでいるホームレスの男性が飼っているウサギが50羽まで繁殖してしまい、大変なことになっているというニュースを読みました。
ウサギは一回に7〜8羽の子供を産み、メスは一年間で最大8回まで出産が可能だそうです。
ということは、単純計算で1羽のメスから1年で最高64羽生まれることになります。
山が野ウサギだらけにならないのは、生態系が守られているからなんですね。
<2005-2-18>
今更ながら、夏目漱石の「坊ちゃん」を読みました。
夏目漱石は高校生の頃、読書感想文のために無理矢理読まされた「こころ」がどうも後味が悪く、大して面白くもなく、それ以来敬遠していました。(どう考えてもあんなに長い手紙は有り得ないし、それを折りたたんで懐に入れることも不可能じゃないかと、そんなことばかり考えながら読んでいました。)
しかし去年、ある方から「夏目漱石が面白い」という話を伺い、それではと早速本屋で購入。「燃えよ剣」が終わったのを機会に読み始め、昨日終了。
感想ですが、すごーく面白かったです! 芥川とか太宰とかは結構読みましたが、彼らに比べると文章が読みやすく、親しみやすく、ストーリーは面白く、これぞ小説、という気がします。そりゃ未だに売れるはずだわ。
とにかく古くない……、というよりも何故か新しい。とても明治以前に生まれた人の書いた文章とは思えません。
僕はこの本を読みながら、主人公が「ライ麦畑」の「ホールデン」とダブって仕方がありませんでした。
今、「三四郎」を読み始めています。
<2005-2-17>
今日の「今日の一言」で紹介した言葉、大好きです。
<2005-2-16>
去年の大晦日に録画し、観るのを忘れていたビデオを今日観ました。
何だか「一年がんばろう」と身の引き締まる思いがしました。
<2005-2-13>
石田純一には幸せになって欲しいと思っています。
<2005-2-12>
お金の事を、理由なく「日本円」と呼ぶだけで、途端に旅行に来た気分になります。
「ごめん、今、日本円500円しかないんだ」
<2005-2-11>
日産LATIOのコマーシャルで、中年夫婦がジョン・レノンの「STARTING OVER」を仲良く口ずさんでいますが、僕はこのCMが好きではありません。
「どう? 私たち、人生楽しんでいるのよ。幸せなのよ」的な押し付けがましい雰囲気がなによりNG。
きっとこの夫婦は、週末には仲間と集まってバーベキューをして、夏にはキャンプに出かけたりするのでしょう。妙に優しい反面、妙にプライドが高く、決して怒らず、でもスマートにいなくなってしまうタイプ。(ごめんなさい、全部偏見です)
こういう人たちはどこから生まれ、どこへ行くのだろう。
よく解らないけれど、エリナリグビーが心の中に流れています。
<2005-2-10>
周りに「水曜どうでしょう」のファンが誰もいないので、自分で増やすことにしました。
まずは、こちらをご覧ください。
次に、こちらをご覧くださると、きっと好きになっていただけると思います。
<2005-2-9>
ドラえもんの道具の中で一番驚いたのは「宝の地図さがし機」です。
何故、素直に「宝さがし機」ではないのか?
未来人のシュールさが身に染みます。
<2005-2-8>
大塚愛は笑うと途端に庶民的な顔になります。
<2005-2-7>
最近すごく寒いですが、それでもブルーベリーやプルーンを見ると、少しずつ芽が膨らんできているように思います。
プルーンは短果枝が多く、今年こそ花が咲くのではないかと今から楽しみです。
<2005-2-6>
ドラマ「優しい時間」を毎週観ていますが、大竹しのぶの幽霊(?)が出てくるシーンがくると、なんか「あぁ……」と思って早送りしてしまいます。そこまでは面白いんだけれど、あのシーンから退屈な気分になり、お説教されている気分になり、今日も終わっちゃうなぁと意識します。あのシーン、もういらないんじゃないかな。
そう思っている視聴者が多いのか、回を重ねるごとに大竹しのぶのシーンが少なくなっている気がします。
<2005-2-5>
ときどき、ズボンの上にスカートを履いている女性を見かけます。芸能人だと、優香がそういうファッションを良くしています。(スカート・オン・パンツというそうです)
これって、女の往生際の悪さを良く表していると思うのです。
「スカートは履きたい、けど脚は見られたくない……」
そんな葛藤の中、苦肉の策として結果論的に生まれたファッションこそ、スカート・オン・パンツなのです。そしてそれを「オシャレな着こなし」と思い込む(周りにも思い込ませる)ことによって自分を誤魔化している姿は、トレーナーを裏返しに着て最先端を気取っていたかつての若者たちの焼き直しに他なりません。
寒かったり脚を見せたくないのならばズボンを履けばいいし、スカートを履きたいのならば履けばいい。ただそれだけのこと。両方してしまうのは「いいとこ取り」ではなくて「往生際の悪さ」なのです。
男がジーンズの上から半ズボン履いているのと原理は同じなのです。
<2005-2-4>
「燃えよ剣」を読み終わりました。
「竜馬がゆく」の8冊に比べると、「燃えよ剣」の2冊はあまりに短く、土方の人生こそ、8冊くらいの分量で書いて欲しいと思いました。
数年前に五稜郭を訪ねましたが、そのときにはそれほど新選組のことも、土方のことも知らなかったので、なんとなく観光して終わってしまいました。いつかもう一度しっかり見てきたいと思います。
<2005-2-3>
どうでもいい話ですが、「選りすぐり」の読みにはふた通りあって、「えりすぐり」でも「よりすぐり」でもいいみたいです。僕はどちらかと言えば「よりすぐり派」なので、テレビなどでアナウンサーが「えりすぐり」と言っていると一瞬「それって、よりすぐりって読むんじゃないの?」と不安に感じていましたが、今日からは「この人は『えりすぐり派』なんだ」と思うことにします。
<2005-2-2>
子供の頃、叔父がこんな事を言っていました。
「成功したいのならばふたつの事を心がけなさい。ひとつは、手が汚れる仕事を嫌がらないこと。もうひとつは、人を使うのをうまくなること」
それを聞いたとき、「手が汚れる仕事を嫌がらないのは努力で出来そうだけれど、人をうまく使うのは難しいよなぁ」と子供心に思いました。
実際に大人になり、いろいろな上司の下で働いてきましたが、確かにこの叔父さんの意見はあたっています。どんなに立場が上でも手の汚れる仕事を部下と一緒にやり、上手に部下を扱える人は皆から信頼され、愛され、成功していきます。逆に肝心なときに助けもせずに責め立ててばかりの上司は嫌われていましたし、結局いつまでたっても成功できません。
手が汚れる仕事をするということは、結局は自分の事は自分でする、ということに繋がると思いますし、人を使うのをうまくなるというのは、相手の立場になって物を頼む、ということなのではないかと思います。
<2005-2-1>
恋人を選ぶとき、見た目で選ぶか、性格で選ぶか、という判断基準があるように思います。
「見た目で選ぶ」と公言する人は、馬鹿でひどい人で薄っぺらで人間ができていないように思われますし、反対に「性格で選ぶ」と公言する人は、物事解っていて優しくて深くて人間ができている、とまでは思われないまでも、そう言わざるを得ない空気を本人も周りも感じているのではないかと思います。
時々テレビドラマなどで「私はあなたと違って人を顔で選ばないのよ!」的な発言をする女の子が出てきますが、この発言には暗黙の主張が感じられます。これ、「私はあなたと違って人を性格で選ばないのよ!」だとしたら、何の説得力もありません。
でも本当にそうなのでしょうか?
本当に顔で選ぶ人は悪い人で、性格で選ぶ人は良い人なのでしょうか? 性格で選ぶことはそんなに正義なのでしょうか?
世の中がこのような風潮にあるのは、人々が「見た目ではなくて中身で判断して欲しい」と思っているからに他ならず、何故そんな風に思うかと言えば、多くの人が、見た目にはそれほど自信はなくても、性格にはそこそこ自信があるからです。また、外見は持って生まれたもので変えられないけれど、性格は努力次第で良くも悪くもなる、と人々が本気で考えているのも理由のひとつでしょう。変えられないものではなくて、変えられるもので判断してくれ、と。
しかし僕は、性格だって持って生まれたものだと思うのです。もしかしたら、外見よりも変えるのはずっと難しいかもしれません。外見はダイエットやエクササイズ、化粧や肌のお手入れ、髪型、服装で変えられます。何なら整形手術という手もあります。でも性格を変えるには、自分の意思で一日に3つくらい魂にとって嫌なことでもしない限り、難しいと思うのです。
ここで2つの会話を考えて見ましょう。
会話1
A「会社の女の子に告白されちゃったよ」
B「どんな人?」
A「優しくていい人だよ」
B「それで?」
A「断ったよ」
B「どうして?」
A「だってブスなんだもん」
B「お前、ひどいな」
会話2
A「会社の女の子に告白されちゃったよ」
B「どんな人?」
A「すごい美人だよ」
B「それで?」
A「断ったよ」
B「どうして?」
A「だって性格悪いんだもん」
B「そりゃ、仕方ないな」
Bさんの反応通り、一般的には会話2のAさんの方が人間としてまっとうな印象を受けますね。しかし、外見が良くない人を愛せないのは間違っていて、性格が良くない人を愛せないのは相手の責任だから仕方がない、という考え方はナンセンスです。もし「人を外見で判断してはいけない」という命題が真であるならば、「人を性格で判断してはいけない」という命題も真であるべきです。外見も性格も持って生まれたもの、全くの等価なのです。
だから僕は、堂々と「見た目で選ぶ」と言ってしまう人の方が好感を持てます。そして実際にその人の選んだ相手を見ると、大して見た目で選んでいないんじゃないかなぁ(笑)なんて思いつつも、結構その相手は性格が良かったりもします。反対に、「私は顔では選ばない」と言っている人に限って好きになる人好きになる人、格好良かったりかわいかったりします。
何故そんなことが起こるのかと言えば、外見派の人は無意識的に、まずは外見が一定ラインを超えている人を候補に選び、その後性格を受け入れられるかどうかで気持ちが決まる(入口が外見で出口は性格)からで、性格派の人は、まずは性格が一定ラインを超えている人を候補に選び、その後外見を受け入れられるかどうかで気持ちが決まる(入口が性格で出口は外見)からではないでしょうか。
「性格で選ぶ」というのは考えようによっては全然偉いことではありません。だって性格で選ぶということは、性格の悪い人を受け入れられないし合わせられない、ということだからです。これはもしかしたら外見を否定されるよりもひどいことだし、相手にとっては辛いことかもしれません。逆に言うと「外見で選ぶ」という人は(もし本当に外見だけで愛せるのであれば)、もうめちゃくちゃ心が広いのではないかと思うのです。
「あなたのこと、顔はすごく好きなのよ。もうずっと見ていたい。……でもね、あなたの性格がどうしても受け入れられないの」
ちょっと言われてみたいけれど、実際に言われたらしばらく立ち直れないかもしれません。