ひとりごと
<2003-5-29>
僕はいまいち人気のないお笑い芸人が結構好きです。
ふかわりょう とか、出川哲郎とか。
自分のポジションをちゃんと理解して、プロだなぁと思う。
(あ、でも、山崎邦正はあまり好きじゃないです。)
ところで、ふかわりょう って、仲根かすみ に似てません?
もちろん、顔が。
<2003-5-28>
「めざましテレビ」に椎名林檎が出ていました。
「男の性の対象になるのが嫌で、デビュー当時はスカートも履きたくなかった」と語っていましたが、この人ミュージシャンになる前にアイドルのオーディション受けて、審査で水着まで着ていたのに、それはないんじゃないかなぁと思ってしまった。
以下、僕の勝手な思い込みですので、みなさんと意見が合わないこともあると思いますが……。
アーティストには大きく分けて、天才型と凡才型がいると思います。
椎名林檎は間違いなく、天才型だと思うけれど、それは「型」であって、決して本物の天才ではない。
インタビューの言葉を聞いて、普通の女の子が一生懸命、どうやったら受けるかを考えながら試行錯誤しているんだなぁって思いました。
彼女がすごかったのって、「無罪モラトリアム」と「勝訴ストリップ」だけだと思う。この2枚はホンモノ、完成度はすごく高いし、こういったアルバムはそうそうあるわけじゃない。
でも勢いはそこで完全に止まってしまった。きっと、自分で自分を超えられないのを意識してしまってから駄目になってしまったのでしょう。
天才型のアーティストって、そういう人たちが多いように思う。
例えば尾崎豊。やはりみんな、「十七歳の地図」「回帰線」「壊れた扉から」までが強烈に好きだったのではないかな。その後の「街路樹」も「誕生」も、遺作となった「放熱への証」も、決して悪くはなかったけれど、はじめの3枚に比べると足元にも及ばない。
小沢健二もそう。結局、小沢健二は「LIFE」なんだと思うのです。
これら天才型のアーティストは、簡単に燃え尽きてしまう。言葉は悪いですが、今までの人生でコツコツと溜めてきた才能を、デビューと同時に無駄に撒き散らしてそれでおしまい。はじめは本人も周りも、彼/彼女の中には無尽蔵に才能のかけらが詰まっていると信じていますが、結局無尽蔵ではない。作品をつくり上げるのではなく、自分の中に溜まったものを切り売りしているだけなので続かないのです。
中身が空っぽになった後も、ファンに期待されているイメージに応えようと無理をするのだけれど、もうニセモノしか出てこない。
一方、凡才型のアーティストというのは、才能の切り売りをするのではなく、非常にシステマティックに作品をつくり上げていく。天才型のアーティストのように、周囲に過度の期待を持たれることもないけれど、ちゃんとヒット作も生まれるし、ファンの望む物をコンスタントに世に送り出すことも出来る。職業的アーティスト、と呼んでもいいと思います。
浜田省吾とか佐野元春とか大江千里とかはこの範疇じゃないかな。(小沢健二は、フリッパーズギター時代、および「犬は吠えるがキャラバンは進む」までは凡才型だったと思う)
中には、非常に数は少ないですが、本物の天才もいると思います。まるで永久機関のように、天才的な作品をつくり続けることができるアーティスト。ジョンレノン(およびビートルズの面々)なんかは間違いなく天才でしょう。
音楽ではないですが、村上春樹は天才型ですが、決して天才ではない。(本人が読んだらすごく怒りそうだけれど)
天才なんてそうそういるもんじゃありませんし、ホンモノなんて、星が燃え尽きるみたいに天才型のアーティストの才能と引き換えにしかお目にかかれない。
でもね、矛盾して聴こえるかもしれませんが、最近の音楽がつまらないのは、決して天才がいないからでも天才型のアーティストが少ないからでもないです。一番の問題は、質の良い職業的アーティストが激減しているからじゃないかな。
天才型ばかり崇拝される傾向があり、継続的に良い作品をつくり続けることのできるプロが育っていないのではないかと。
それがホンモノかどうかは別として、ちょっと才能があれば、天才型的な手法でそこそこの作品を世に出すことは可能なのかもしれません。だからスピードの速い現代社会では、誰も時間をかけてアーティストを育てようとしない。話題先行でバーっと売れて、スーッといなくなってしまう。昔からそういう人たちはいましたが、最近、特にその傾向にあるように思う。
話は戻りますが、椎名林檎のようにイメージが確立しているアーティストは、インタビューなんかに答えてはいけませんね。幻想は情報が少なければ少ないほど、守られ、膨らむもの。
素顔を見たいファンもいるでしょうが、それで底が見えてしまうのは非常に残念。
アーティストは、作品で語ればそれでいいと思うのです。
<2003-5-27>
近所のホームセンター内にあるペットコーナーで、ミニブタというのが売られていました。
普通に育てれば25〜45キロくらいになり、餌をあげすぎると80キロくらいなるそうです。
値段は約18万円。
ブタはとても頭が良いそうで、ちゃんと人にもなつくらしい。
飼ってみたいなぁと一瞬思ったけれど、間違いなく、散歩しているときに人が集まってくるのでちょっとそれが面倒。
豚肉も食べられなくなっちゃうしなぁ、などと思いつつ、店を後にしました。
でも、ぶーぶー言っている姿はとてもかわいかったです。
<2003-5-26>
友達から、ホワイトクリスマス、というバラの苗をもらいました。
僕は園芸が趣味といっても、もっぱら収穫のあるものばかり育てているので、花を育てるのはなんだかとても新鮮な気分。彼はバラに詳しく、肥料から剪定の方法まで、一通り教えてくれました。
僕はバラの香りが大好きです。
このホワイトクリスマスも、とても香りの強い品種だそうで、開花が楽しみです。
<2003-5-25>
最近、武藤敬司の方がどんどん神奈月のものまねの武藤敬司に似てきていると思うのだけれど、気のせいでしょうか。
<2003-5-23>
16日の「ひとりごと」で、二千円札について、「未だにつり銭で受け取ったこともなければもちろん使ったこともありません」と書きましたが、そう言っていた矢先、昨日お釣りで二千円札をもらってしまいました。
ホームセンターで一万円を出したら、何のためらいもなくレジのおばちゃんは二千円札でお釣りをくれました。
僕にとって、二千円札を受け取るのはちょっとしたイベントでした。恋人にふられたほどのイベントではないにせよ、「学級閉鎖」くらいのインパクトは間違いなくありました。それに僕の中では、二千円札って「出来の悪い末の弟」みたいなイメージがあったので、それが渡されるとき、「二千円札でいい?」という確認や、「二千円札でごめんね」というような断りがあるのかと勝手に思っていました。
だからそのおばちゃんが、まるで当たり前のように(いや、当たり前のようにするのが当たり前なんだけれど)無表情に二千円札を差し出したのはちょっと期待はずれというか、この瞬間、もっと盛り上がりたかったなぁと、変な残念感がしばらく僕から離れませんでした。
まじまじと見る二千円札は、伊藤博文の旧千円札をなんとなく髣髴とさせ、古臭い感じがしました。
これ使うの、ちょっと恥ずかしいなぁ。
実際に二千円札を手にして、僕の疑問はさらに大きなものになりました。
結局二千円札って、手にした人の多くは違和感を感じ、早く財布からなくしたい、という心理になるのではないかと思うのです。財布に入っているだけで、「あぁ、この二千円札をどこで使おう」と考えちゃうかもしれない。千円札が財布に入っていてそんなことを考える人はいませんが、二千円札にはまだまだ、庶民を一瞬考えさせる力がある。
アンケートの謝礼などで図書券をもらうことがありますが、図書券を財布に入れていると、「図書券あるけど、どんな本を買おう?」って考えてしまうし、なぜかはやく使ってしまわないと落ち着かない。二千円札もそれと似たような感覚だと思う。
だから二千円札が財布に入っている期間って、千円札よりもずっと短いと思うのです。ガムひとつ買うのでも、僕なら二千円札を使って、一刻でも早くこのおもちゃみたいな紙幣を現金化しようとするでしょう。(いや、もちろん二千円札も現金なんですけどね)
スーパーのレジの人も同じで、二千円札をストックするスペースってレジにはないんじゃないかな。おそらく、千円札の上かなんかにおいておいて、お釣りで二千円札を渡せるチャンスには積極的にそれを使っているのではないかと。
つまり二千円札って、千円札よりもずっと少量にもかかわらず、お金の動きはずっと速いと思うのです。それにもかかわらず、発行から3年経っても未だに受け取ったことがない人がいるのって何故なんだろう?
改めて思いました。
二千円札普及を邪魔しているのは一体誰?
もしかして、「七ならべ」で6と8をとめている人?
<2003-5-21>
催眠誘導用にZIPPOライターを買いました。
僕はタバコを吸わないので、ZIPPOを買ったのは初めてなのですが、このライターオイル、ナフサ使っているんですね。
ナフサというのは、ガソリンよりもさらに引火性の強い油で、飛行機の燃料もこのナフサです。
ZIPPOで火をつけた後の匂いって、空港で飛行機を降りたときの匂いに似ているんですよ。
これってナフサが燃える匂いなのですね。
<2003-5-20>
僕は以前から、「○○と○○って似てない?」っていうのが得意(?)です。(そしてほとんどの場合、誰からもその感性を理解されません)
さて、今日見つけたそっくりさん。
観月ありさ と 天才卓球少女の愛ちゃん って似てません?
ふてぶてしいところが……。
<2003-5-19>
昨日のひとりごとで、「フリーセル」は必ず解けます、と書きましたが、どうやら僕の思い込みのようです。
こちらのサイトを見ると、#11982は未だに誰も解けていない様子。
僕がフリーセルを始めてから数年が経ちますが、今まで一度も解けなかった番号がなかったので、「絶対解けるように並べられているんだ」と思っていました。(一日近く悩んだことは何回かありましたが……)
昨夜、#11982をチャレンジしてみましたが、桁違いの難しさでした。
でも解けないものはゲームにしないんじゃないかなぁ。
……と思って上のサイトをもう一度読んだところ、#11982は解決不能であることが証明されているそうで、フリーセルのヘルプにも、「フリーセルでは、どのゲームでも勝つ可能性があると信じられています
(証明されてはいません)」と、解けない可能性があることが示唆されていました。
あやうく、数日間を無駄にするところでした。(^^;;
<2003-5-18>
Windowsに「フリーセル」というカードゲームがおまけでついているのですが、とても面白いです。
「マインスイーパ」も一時期はまりましたが、あれは運に左右されるので、せっかくいいところまで行っても解けないこともしばしばありました。
しかし「フリーセル」は、必ず解けます。
遊んだことのない方は、ぜひ遊んでみてください。
僕はこれで、ときどき寝不足になってしまいます。
<2003-5-17>
若手のお笑いが面白い、ということで、今日ご紹介するのはだいたひかる。
「ど〜でもい〜ですよ♪」は、いつもここからの「悲しいとき〜」や、テツandトモの「なんでだろう?」のようなシリーズネタ。
適度に力が抜けていて、多くの若手(アメリカザリガニや田上よしえ)を見るときに感じる「こいつら必死だな」という切ない気持ちを感じさせず、気楽に見られます。
彼女の日記もなかなか面白い。
19日と24日にテレビ出演するみたいなので、見たことのない方は是非。
関係ないけど、ダンディ坂野はつまらないですねぇ。
実力以上に評価されちゃって、当人も困っている気がする。
今年は持ったとしても、来年あたり消えちゃうんじゃないかな。ついでにテツandトモも。
<2003-5-16>
二千円札って、このまま無くなってしまうのでしょうか。……というか、もう無くなっちゃったのでしょうか?
発行からはや3年。未だにつり銭で受け取ったこともなければもちろん使ったこともありません。
紙幣って、好き嫌い関係なく使われるものなので、普及させるもさせないも、国のさじ加減ひとつだと思うのだけれど、なんで国はもっとじゃんじゃん二千円札を刷らないのだろう?
いつの間にか新500円硬貨は普通に使われるようになったし、夏目漱石や福沢諭吉や新渡戸稲造だって結構短い期間で伊藤博文と聖徳太子を駆逐したように思う。
二千円札普及を邪魔しているのは一体誰?
国民の財布に、千円札並みにとまで言わないけれど、五千円札並みに普及すれば、自動販売機なども次第に対応していくだろうし、毎日使えば馴染みも出てくると思うのだけれど……。
<2003/5/15>
僕は学生の頃は熱狂的なヤクルトファンでした。そして日本一になったのをきっかけにヤクルト熱が去り、今度は熱狂的な横浜ファンになりました。
時間はかかりましたが、横浜もめでたく日本一になりました。
それ以来、野球熱自体がなぜかどこかへ行ってしまいました。
現在の、佐々木も谷繁も波留もローズもいない横浜は僕の応援していた横浜とはだいぶ変わってしまいましたが、昨日の巨人戦で、おさえのデニーが、ストライク先行で簡単に2アウトをとったにもかかわらず、高橋にびびってストレートのファーボールを与え、しかも盗塁を許し、ヒットで同点、一本でれば逆転負けという巨人ファンにとっては最高の山場、横浜ファンにとっては「おいおい、またかよ」という状況を作ったのには、相変わらずの横浜野球を見る思いで、ちょっと胃が痛かったです。
意外にも(?)デニーは後続をピシャリとおさえ、試合に勝つことが出来ましたが、横浜ファンをやめられないのって、毎試合がこんな風にハラハラドキドキ、1勝がものすごい価値あるものに感じられるからなのだろうなと思いました。
<2003/5/14>
ユースケ・サンタマリアって、何となく雰囲気が磯野貴理子に似ていると思うのは僕だけでしょうか。
<2003/5/13>
心が何だか切なくなる瞬間。
サザエさんの終わりの歌。
ドライブしながら聴く、「JAL SAUDE! SAUDADE」
見送りしたあとの成田空港。
<2003/5/12>
イチゴの収穫は今が旬みたいで、昨日は16個、今日は18個とることができました。
真っ赤になったものをとりたいので、赤くなったイチゴをさらに一日置いてから収穫したいのですが、そうするとマルチング(保温用のビニール)に触れている面がちょっとやわらかくなってしまったり、ナメクジに先を越されたりするので、今日とるか、明日に延ばすか、いつも悩んでしまいます。
イチゴをはじめてから4回目の春……。
毎年ろくに収穫が出来ず、イチゴは僕の園芸生活にとっては鬼門でしたが、なんとなくコツがつかめてきた気がします。
<2003/5/10>
昨日の「ひとりごと」について、ホームページの読者の方から、「私も考えました」と、こんなメールを頂きました。
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「どうしても憎めない単語 パ行」
パンダ
ピーナッツ、ピカチュー
プリン
ペコちゃん
ポッキー、ポリンキー
「なぜかスカッとする単語 サ行」
サイダー
しあわせ
スキップ
背負い投げ
壮快
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なかなかうまいですねぇ。
ポリンキー、確かに憎めない……。
サイダー、確かにスカッとする……。
<2003/5/9>
TBSラジオで木曜深夜3時から放送しているスピードワゴンの番組で、井戸田潤が「ゴボウって、語に勢いがあるよね」と言っていました。
ゴボウ……。
なるほど、確かに勢いがあります。
ゴボウの他に、どんな単語が語に勢いがあるかなぁと考えてみたのですが、どうも「ガ行」ではじまる単語はその傾向にあるように思う。
ガイネン(概念)。
ギガヘルツ(GHz)。
グイノミ(ぐい飲み)。
ゲドクザイ(解毒剤)。
ゴゾウロップ(五臓六腑)。
逆に、語に勢いのない単語って、「ハ行」に多い気がします。
はす(蓮)。
ひめくり(日めくり)。
ふるえ(震え)。
へそ。
ほねつぎ(骨接ぎ)。
だから何?、って言われると辛いのだけれど……。
<2003/5/8>
中学の頃、合唱コンクールで歌った「大地讃頌」。
いい歌だったように思うけれど、冷静に思い返すと、この曲、雰囲気だけで引っ張っている曲ですねぇ。
雰囲気でいったら「地上の星」にも勝るとも劣らない気がする。
だけど少なくとも、歌詞に共感なんかできない。あんた一体何が言いたいんだよ、って。
人の子ら〜、人の子ら〜、って繰りかえされても……。
あんな壮大なメロディーに載せて、土に感謝せよ〜、って言われても……。
な〜んて、ツッコミを入れつつネットで検索していたら、こんなの見つけました。
http://www.enanishi-j.ed.jp/PAGE-DATA/2gyouji/gassho/h13-g.html
で、これ聴いたら、不覚にもものすごく感動してしまった。
前奏を聴いただけで、僕の心は中学時代にタイムスリップしていました。
曲の前半はいろいろなことを思い出しながら、そうそうこんな感じだった、という風に聴いていました。早朝練習を何度もさせられたなぁ。自由曲は「モルダウの流れ」だったっけ。ところでピアノの伴奏をしていた女の子は、自分だけ歌えないで疎外感を感じなかったのだろうか……。
しかし「静かな〜大地を〜」のところからだんだんボルテージが上がっていきました。もう何年もの間、ずっと感じることのなかった合唱という形式の感動が、一遍に噴き出してきたのです。
そして一瞬男子が旋律になる「われら〜人の子〜の」のところでは、良く判らないけれど「勇気」という言葉さえ心に浮かんできました。後ろで絡んでくる女子のパート、「恩寵〜の〜ゆたか〜な、ゆたか〜な〜大〜地」も、「あなた、しっかり!」と良妻が励ましているような、そんな優しさに満ち溢れていました。
さらに畳み掛けるかのごとく、「母なる〜大地を〜」のところでは夜明け前のような静けさ……。今後の盛り上がりを期待させ、その期待にしっかり応えるかのように「たたえよ〜土を〜」と続きます。僕はここで思わず、「そうなんだよ!」と膝を叩いていました。(ちょっとだけ誇張表現)
そして最後の「たたえよ大地を あ〜」のところでは、ついに昇天……。
曲が終わった後も、しばらくの間、重く、深い余韻が僕の中から去りませんでした。
僕はこの文章を、「思ったほど大地讃頌っていい歌じゃないよね」っていうスタンスで書くつもりでした。
ただ土を褒め殺してるだけの曲……。
だけど恵那西中学校三年生の歌声を聴いて、やっぱりこの曲、すごいと思った。
何がすごいって、大地なんて誰もが讃頌したいわけじゃないのに、これだけ人々を感動させるのですから。
<2003/5/7>
ふと思ったのですが、「一生のうちで一番〜」っていう言葉、ありますよね。
あれって、とっても珍しいこと、貴重なことを形容するための言葉だと思うんだけど、考えてみれば人生って、「一生のうちで一番〜」の連続なような気もするんですよね。
例えば、間違いなく、一生のうちで一番体重が重かった日っていうのがありますね。
一生のうちで一番よく寝た日、
一番の長電話、
一番の腹痛、
一番泣いた映画、
一番ムカついた上司、
一番高かった買い物、
一番待たされた待ち合わせ、
一番の銀行の残高、
一生のうちで一番……。
こんな風に考え始めたら、いくらでも「一生のうちで一番〜」を思いつけそうな気がするし、いくらでも思いつけるのなら、毎日そういうのがひとつくらいあってもいいような気もする。
それをちゃんと認識できたなら、毎日がずっとスリリングで生き生きすると思うんだけれど、普通はそんなことを考えながら生きてはいないし、考えていたとしても正確なことはよくわからない。
で、それを知ることができる、「MAX発見機」なるものが発売されたら、これは欲しいぞ、と僕なんかは思うわけです。
例えば、誰かと待ち合わせをしていて、2時間待っても相手が来なかったとします。家に電話をかけても留守電。携帯にかけたら「電波の届かない所にいるか、電源が切れています」。すると、鞄の中から「ピピッ」って音がきこえる。
そう、MAX発見機が鳴っているんですね。
「そうか、これが一生のうちで一番の待ちぼうけか。ってことは、もう二度とこれ以上誰かに待たされることはないんだな」
そんな風に考えられたら、人生楽になるだろうなぁ。
イライラも吹き飛んで、楽しい気分で待ち合わせた相手と出かけることができると思うのです。
せっかくの休日、朝から晩まで昼寝しちゃって、起きたらすっかり夜。
すっかり自己嫌悪……。
そんなときにも「ピピッ」って鳴るんです。
「なるほど、これが一生のうちで一番長い昼寝か」
そう思ったら、とっても貴重な経験をした気になって、頭切り替えて、てきぱきと動き始められるような気がする。
話はちょっとずれますが、映画の中とか、小説の中とか、コンサート、そういったある区切った時間の中にも、MAXってありますよね。
つまり、一番それが楽しかったり、感情移入していたり、感動していたりする瞬間のことです。
例えば、「ドラゴンボール」(古い話で恐縮です)のMAXはどの瞬間だったかというと、人造人間17号と18号が町で大暴れをしていて、だけど悟空たちは彼らの居場所が特定できないシーン。
そこでヤムチャ(テンシンハン?)かなんかが、
「人造人間だから気がないんだ!」
と言うシーンだったんじゃないかと思うわけです。
つまり、悟空たちは今まで、相手の存在を「気」で感じて闘ったりしてきたんです。
が、今回は町が大変なことになっているのにそれを感じることができなかった。
それで上の発言につながるわけです。
大いなるパラダイムシフト。僕はこのセリフを読んだとき、文字通り鳥肌が立つくらいゾクっとしました。そうか、人造人間だから気がないんだ!、と。
その後、セルとか魔人ブウとかでてきたけど、人造人間17号、18号の衝撃はついに超えられなかった。
ついでに起動戦士ガンダム(こちらも古くてすみません)のMAXはと言いますと、赤い彗星とまで呼ばれたシャア・アズナブルが、シャアゲル(シャア専用の赤いゲルググ)のコックピットの中で、仮面の下に涙をいっぱい流しながら、
「今の私にガンダムは倒せん(T T) 」
と泣くシーンなんじゃないかと思うのです。
唸らされるようなシーンはその前後にもたくさんありました。
「ザクとは違うのだよ。ザクとは!」(ランバ・ラル)
「脚なんか飾りです。偉い人にはそれが解らんのですよ!」(ジオング整備兵)
「貴様だって、ニュータイプだろうに!」(アムロ・レイ)
「クルーザー級のスペースグライダーのライセンスが役に立つとは思いませんが、私でよければ」(ミライ・ヤシマ)
……が、今まで決して弱音をはかなかったシャアが言ったこのセリフの衝撃は計り知れません。勝手にニュータイプ能力を覚醒させ、勝手にそれを伸ばして行ったアムロって一体……?
話を元に戻しますが、このMAX発見機、いい事に関しては鳴らないで欲しいものですね。
恋人と付き合い始めた直後に「ピピッ」って鳴っちゃったら、せっかくのムードもぶち壊しです。
<2003/5/5>
今年は気合を入れていたイチゴですが、昨日あたりから収穫できるようになり、今日は6個も取ることができました。
去年はうどん粉病に苦しめられましたが、今年はその気配は全くなし。どうも去年は近くに植えていたトマトやキュウリが悪かったようです。
近所のイチゴ畑に比べると、ひとつの苗から出ている実の量が全然少ないのですが、年を重ねるごとにイチゴ栽培のコツが解ってきたように思う。
いつの日か、毎朝ボール一杯に収穫できるようになることを夢見ています。
<2003/5/4>
先日ご紹介した「チクワチーズ醤油」ですが、さらにおいしい食べ方を発見!
チクワの穴にチーズを入れたものを、衣をつけて油であげ、ケチャップをつけて食べると、今度は洋風なおいしさになります。
是非お試しください。