ひとりごと
<2003-3-31>
昨日、BSで井上陽水のライブを観ました。
K-1がはじまるまでの時間つぶしのつもりでしたが、すっかり見入ってしまいました。
「最後のニュース」を久々に聴いたのですが、陽水、歌いながら泣いているんですよ。
サングラスの下から涙が伝っていました。
僕は学生の頃、学園祭でこの曲を弾き語りしたことがあります。
狭い教室で、お客さんもほとんどいなかったけれど、ステージに立つごとに、いつも一曲目には「最後のニュース」を歌いました。
その頃を思い出し、とても懐かしい思いがした。
関係ないけれど、今は「大きな古時計」と言えば平井堅ですが、あの頃はPSYSが、FMのダイキンのコマーシャルで「大きな古時計」を歌っていたんですよ。平井堅よりもずっとアレンジがシンプルで、胸に訴えてくるものがありました。初めて聴いたときには、全身に鳥肌が立ちました。(だから平井堅ではあまり感動できませんでした。) この曲も学園祭で歌いました。
<2003-3-30>
セミは土の中で7年間生活し、地上では7日間しか生きることができません。
これを人間に当てはめると、70年もの間ひとりぼっちで土の中で暮らし、やっと地上に出ても2ヶ月ちょっとで死んでしまう計算になります。
そう思うと、むしろ土の中でじーっとしている方こそ、セミの本当の人生なのかもしれません。
地上でミンミン鳴いたり、子供にオシッコをひっかけたりするのは、彼らの人生にとっては、死ぬ前の老人ホームでの生活みたいなものなのかもしれない。
いや、でも違うのかな。やっぱりその2ヶ月が、彼らにとっては人生のすべてな気もする。やっと好きなところに行けるようになり、繁殖相手も見つけ、カラスに追われるスリルも味わい、だんだんと力が衰えて飛べなくなる……。
2ヶ月なんて、あっという間ですよね。忙しさのうちに気がつくと2ヶ月経ってしまうことなんてよくあります。でも、もしセミならば、それが人生のすべてなのです。
もし人類がセミと同じライフサイクルで生きていたとしたら、文明は今とは全く違った形をしていたことでしょう。
その方がみんな、ずっと幸せだったのかもしれませんね。
辛い時期は誰にでもあると思いますが、まずは2ヶ月我慢してみましょう。
そして2ヶ月経ったらこう思いましょう。
あぁ、セミだったら、もうこれで終わりだったのだな、と。
<2003-3-29>
一昨日書いた、エレベータのキャンセルの話ですが、今日実験したところ、ダブルクリックというのは嘘でした。
正確には、一度押すと点滅、その後もう一度押すと消灯しました。
つまりは、ゆっくりダブルクリック、ですね。
<2003-3-28>
昨日の「スポーツえらい人グランプリ」で、神社(?)を一周まわる競争で、ずっと3番目を走っていた人が、ゴール直前で1番目と2番目の人が転んだため、1位になったシーンが放送されました。
1番目の人が転んだのはアクシデントだと思いますが、2番目に転んだ人は、1番目の人の転倒に「つられて」転んだように思います。
これはまさに、ミラーリングですね。
人は知らないうちに周りの人と同調しようとします。仲の良い恋人を見ていると、同じリズムで呼吸をしています。近くの人が欠伸をすると、自分も欠伸をしたくなります。友達が大笑いをしていると、おかしくもないのに笑ってしまいます。お茶を口に運ぶと、一緒にいる人もお茶を口に運ぶことがあります。気がつくとふたりとも腕を組んでいるときがあります。
2番目に走っていた人は、無意識のうちに1番目に走っていた人に同調していたのでしょう。脚を出すリズムから呼吸まで、ぴったりとあっていたのだと思います。だから1番目の人が転んだとき、引きずられるように自分も転んでしまったのでしょう。
催眠でもこのミラーリングというのは非常に重要です。相手が自分にどれだけ同調しているかを知ることもできますし、逆に同調していないときは同調させていくこともできます。
誰かの気持ちを理解したいのなら、まずはその人と同じ呼吸をしてみて下さい。呼吸の場所(胸、お腹)、呼吸の深さ(長さ)を合わせていくと、次第にその人の感情に自分の感情も近づき、相手の言葉に共感できるようになります。
<2003-3-27>
ここ数年完成したビルのエレベーターって、間違った階を押してしまったらキャンセルできるの、知ってました?
もし間違った階を押してしまったら、ダブルクリックの要領でその階のボタンを押し、表示が点滅したのを確認してからもう一度押してみて下さい。これで、不要な階で扉が開くのをふせげます。
<2003-3-26>
最近暖かいですね。
ユスラウメはだいぶ満開に近づいてきました。
プランタのイチゴも、小さなつぼみをつけ始めています。
ブルーベリーもリンゴも、芽吹く直前。
園芸をやっていると、この時期が一番わくわくします。
今年こそ、大収穫!
<2003-3-25>
学生時代、好きな女の子の女友達に一度でいいから
「あなたって、相当鈍感ね」
って、言われてみたかったな。
<2003-3-24>
「スピードワゴン」の小沢さん、面白いですね。
ハリガネロックとかアメリカザリガニは好きじゃないです。
「ますだおかだ」だったら「おぎやはぎ」かな。
<2003-3-22>
昨日は「サスケ」を観ました。
TBSのこの手の番組って、だらだら観てしまいます。
最近やらないけど、「フードファイト」とかもやっていると観てしまいますね。
そして観終わった後、必ず変な虚しさを感じます。
すごく時間を無駄にした気がする。
いや、いつも下らない番組たくさんみて笑っているんだけれど、そういう番組ではこういった虚しさは感じない。
出演者のこれからの半年とかを考えちゃうからかもしれません。
<2003-3-21>
これは果たして戦争なのでしょうか?
戦争って、もっとこう、戦争っぽいのではないかと思うのです。
高校生が幼稚園児を殴っているのを見て、「喧嘩だ!」って思う人はいないでしょう。
イラク攻撃もそれと同じで、ここまで持っている武器が違うと、戦争というより、ただの殺人ではないかと。
「広島、長崎級の破壊をもたらす攻撃を、核兵器を使わずに行う用意がある」とアメリカの報道官が伝えていましたが、死ぬ側にしてみたら、どっちでも同じですね。
<2003-3-20>
今回のイラク攻撃には、英国、オーストラリア、ポーランドなどが参戦を表明している、とニュースで読みました。
ポ、ポーランド?
<2003-3-19>
いつもここから著「悲しいとき2」を読みました。
とても面白かったです。
ネタもよかったけれど、インタビュー、そして日記もよかった。菊池ってなんていい奴なんだろうと思いました。
本屋さんで平積みされていると思いますので、まだお読みでない方は、是非。
<2003-3-18>
どこどこの何々がおいしい、という話をよく聞きます。
一日限定何個しか作らないとか、何分も並ばないと買えないとか。
時々そういうのを貰うことがありますが、正直、苦手です。
なんかね、食べるときに緊張して落ち着かないんです。
その一口に、何分も並んだ苦労とか、一日何個の貴重さとかを感じてしまってリラックスできない。
さらに、そういう理由がちょっと押し付けがましい。
本当においしいのか、めったに食べられない気持ちがおいしく感じさせているのか判らなくなってしまう。
僕はあまり食べるものに執着ってないんですよ。
昔ダウンタウンの松ちゃんが、何かの番組で、「もし明日、世界が終わるとしたら、最後の食事はぺヤングソース焼きそばがいい」って言っていたのですが、その気持ち、よく判る。
そういうのと全く同じ理由で、旅行とかディズニーランドとかも、僕、ダメなんです。
「楽しまなくては……」って気負ってしまって全然リラックスできない。
大してきれいじゃない景色でも、「きれいだなぁ」って思わなくては来た意味がなくなってしまうように思う。それで「きれいだなぁ」なんて実際に言うと、周りからは「そう? 思ったよりしょぼくない?」なんて言われたりして。「この人、あまり見る目ないみたい」なんて思われたりして……。
大して乗りたくもない、「カリブの海賊」に並んでいる自分も切ないですね。
なんかディズニーランドのアトラクション乗ると、天井見ちゃうんですよ。どこも天井だけはあまり作りこまれていなくて、学園祭みたいな雰囲気があるんです。ディズニーランド、必死だな、というか……。
何でこんな文章を書いているかというと、先日たまたま辿り着いたホームページを読んでいたら、「最近どこどこの何々にはまっている」、というようなことが書いてあったんです。でね、その文面から、実際にはその人はそれにはまっているわけでもなんでもなく、必死でそのような「こだわり」を持とうとがんばっているだけなんだろうなぁって思っちゃったんです。
「あぁ、多分この人、そのお店でそれ食べながら、そういうこだわりを持った自分に酔っているんだろうなぁ。わ、何かキモっ!」って。
だってさぁ、まるでグルメ雑誌の紹介記事をそのままぱくったみたいな書き方で、全然その人の思いが伝わってこないんですよ。店長がひとつひとつ仕上げているから一日何個しか作れないとか、契約農家から産みたて卵を毎朝送ってもらっているとか、だから何?って思う。
僕、おいしければ工場で大量生産でも近所のスーパーで買ってきた特売の卵でも全く関係ないですけどね。
結局この人にとっては「味」が問題なのではなく、そのプロセスやこだわり、ウンチクが大切なのかなぁ、と。もちろん味というのは主観的なものなので、そのような事前情報によって「おいしく」感じるというのはあると思いますが、その文章では肝心な味については「とにかくおいしい」という一言で片付けてしまっているところを見ると、やはり味は問題ではなかったのでしょう。
こだわりを持った人って、なんか苦手。真っ赤な顔で怒られそう。
「これじゃなきゃダメだ」という考え方は、自分の人生を自分で狭くしていることになるし、そういう雰囲気をして「自分は本物を知っている」とうそぶいている姿は、とても薄っぺらく感じます。肩をポンポンと叩いて、もっと気楽にやりなよ、って言ってあげたくなる。(すみません、お節介です)
カシオペアのギタリスト、野呂一生はレコーディングでアメリカへ行ったとき、ふらっと入った楽器屋さんに置いてあった一番安いギターを買って、それでレコーディングしたそうです。
本物って、そういうことじゃないかな。
関係ないけど、さっき「うみたてたまご」で変換したら、「産みたてた孫」って第一候補で出てきました。(^^;;
<2003-3-17>
ヒョードル強すぎ!
昨日のPRIDEは、ほぼ応援していた方が勝ったのでとても楽しく見ることができました。
ランペイジジャクソンも、いつもの面白いファイトではなかったけれど強かったです。是非シウバにも勝って欲しいな。
桜庭はもう限界ですね。PRIDEの日本陣営はもっと新しい人にチャンスを与えて欲しいです。
横井もまた見たいし、坂田、耕平(?)もどこまでやれるのか見てみたい。
<2003-3-16>
何だか3月になっても全然暖かくなりませんね。
せっかく洗車したのに雨降りそうだし……。
今日はこれからPRIDEです。
<2003-3-15>
「コラボレーション」って言葉、最近よく聞くけど、なんかこの言葉を聞くと背中がゾクっとします。
ええかっこすな、って思う。
なんかこう、歪んだ選民意識みたいなのを感じてしまうんですね。
すみません、全部偏見です。
<2003-3-13>
今度の日曜日はPRIDEがあります。
一番PRIDEにはまっていたときは、何日も前からこのイベントが楽しみで、とても特別な日でした。でも森下社長も死んでしまったし、感情移入できる日本人選手もいないし、ボブチャンチンもいなくなっちゃったし、以前の熱は完全に冷めてしまった。
真剣勝負はアタリハズレがあるからかもしれません。本当に熱狂できる試合って、ひとつかふたつだし。
PRIDEの先行きも怪しいですね。もしかしたら、今度の興行が最後になってしまうのかもしれません。
<2003-3-12>
「海辺のカフカ」を読み終わりました。
正直、全然面白くなかったです。
「さくら」は重要人物なようでほとんど出てこないし、戦争中の子供たちが意識を失った事件の真相もよく判らない。カーネルサンダースは都合が良すぎるし、白い訳のわからないものを殺すくだりも、筆者の情熱が空回りしている気がしました。
思い切り消化不良です。
村上春樹、というネームバリューがなければとても売れなかったでしょうし、こういう小説がもし内容だけで売れているとしたら、それはそれでこの国の将来は危ういのではないか、と思います。
これ、本当に村上春樹が書いたのかな?
どうも村上春樹は、ワープロで原稿を書くようになってから急速につまらなくなっている気がするのですが……。
<2003-3-11>
鉢植えで育てているユスラウメの花が咲き始めました。
まだまだ寒いけれど、少しずつ春が近づいているんですね。
<2003-3-10>
パズルって大好きです。
最後にパズルをしたのは7年位前のことですが、この7年という年月は「たまたま」パズルをしないうちに7年過ぎてしまった、などという生易しいものではありません。
怖かったんです。
パズルを一度始めると、僕はもう、パズルのことで頭が一杯になってしまうから。
途中でやめることができない。
夜中何時まででもやってしまうし、人付き合いもどうでもよくなってしまう。
僕にとってパズルとは、それくらい重いものです。そう、まさに麻薬です。
だから新しいパズルを買うことができなかった。
この7年間、何度もパズルが僕の心をとらえたけれど、僕は首をすくめてそれが通り過ぎるのをじっと待ちました。今はまだ、危険すぎる、と。
わざわざ完成された絵や写真を切り刻んでバラバラにし、もう一度それを組み立てる。
パズルという概念を持たずに成人した人にとって、その行為を理解することは不可能でしょう。
何故パズルをするのか?
パズルは僕らをどこへも連れて行ってはくれません。
得られるのは完成したときに感じる得体の知れない達成感のみ……。
しかしこの達成感は、大学合格にも匹敵する達成感なのです。
パズルの魅力を一言で言うならば、この得体の知れない達成感にあると言えます。
人はいろいろなものから達成感を感じます。大抵の場合、達成感とは、目的成就によって得られる副産物。しかし時には達成感があまりにも大きいため、そもそもの目的など、どうでも良くなってしまうこともあるのです。
片思いだったときにはあれだけ好きだったのに、付き合い始めた途端に気持ちがさめてしまうことはありませんか? あれだけ欲しかったものなのに、苦労して手に入れた途端、それほど興味がなくなったものはありませんか? 希望の大学に浪人してやっと入学できたのに、目的を失ってしまう新入生はそこらじゅうにたくさんいるのです。
パズルから得られる達成感はとても純粋。求めるべきものは完成されたパズルではもちろんなく、この達成感のみなのです。もし完成された絵や写真が欲しいのならば、素直にポスターや絵画を買えばよい。
よく、完成したパズルをパネルに入れて飾っている人がいますが、そのような気持ちの悪い自己顕示欲は捨てるべきです。完成したパズルに用などないのです。
パズルはひとりでするべき、孤独な作業です。誰かが既に始めているパズルを途中から手伝うなんて言語道断。全く意味のない行為です。それはひとりで乗り越えるべき試練であり、誰かの手を借りてしまうとせっかくの達成感も台無しです。
断言しましょう。パズルに必要なのは情熱のみ。テクニックでカバーできる範囲はあまりにも限られています。早く完成できれば良いというものではない。いや、むしろ、完成までに時間がかかればかかるほど、費用対効果は大きくさえなるのです。
「この前、友達とパズルをしたの」
高校の頃に付き合っていた恋人は僕にそう言いました。
僕はその頃、無口なことがクールなんだと思っていたふしがあり、彼女もおしゃべりな方ではありませんでした。デートをしても、電話で話しても、ときどき沈黙が訪れ、その度に僕らは少しだけ居心地の悪い思いをしました。
彼女がパズルの話題を持ち出したのは、そんな沈黙の後でした。
「パズル?」と僕は聞き返しました。
「そう。パズル、嫌い?」
僕はパズルは大嫌いでした。イライラするし、時間がもったいない。パズルが好きな人の気が知れない。そのような忍耐力は、尊敬に値するとさえ思っていました。
「あまりしないな。パズル、好きなの?」
「好きかな。パズルすると間が持つのよね。話したいときはいくらでも話せるし、黙っていても不自然じゃないし……。だってパズルをしているわけでしょう」
彼女の意見には不思議な説得力がありましたが、それが僕らの沈黙を解決するための提案なのか、ただの一般論なのか、最後まで僕にはよく判りませんでした。
その彼女とは別れてしまいましたが、彼女のパズル談義はいつまでも僕の心に残りました。
そしてその言葉はまるで呪いのように、大学に入った僕をデパートのパズル売り場へと導きました。
パズルとの出会いは、まさに神の啓示だったのかもしれません。
僕は大学時代からプー太郎時代まで、本当によくパズルをしました。
その頃の僕は、することはなく、時間だけは腐るほどありました。決して比喩ではなく、実際に僕の時間の下の方はちょっと腐っていたのです。お金はなく、人ともあまり会いたくはありません。テレビを観ると虚しくなるし、本を読むと悲しくなりました。まさにパスルをするのにはうってつけの状況でした。
パズルにとりつかれた僕には、もうパズル以外にするべきことはありませんでした。僕はパズルのために存在していたし、デパートに行儀よく並んでいるパズルは、すべて僕に組み立ててもらいたがっていました。
来る日も来る日も僕はパズルをしました。
いくつもの日が沈み、いくつもの朝がパズルとともに明けました。
パズルだけが僕を理解していました。
僕はもう孤独ではなかったし、退屈ではありませんでした。
ただ、パズルが完成した後の激しい気持ちの振るえが収まると、次のパズルを始めるまでの少しの間、僕はどうしようもなくひとりぼっちになりました。
パズルはある種、宗教的な行為です。
BGMはなくても良いが、あれば尚よい。ショパンやベートーベンのピアノ曲などをチョイスしましょう。ついでに森永のチョイス・ビスケットがあれば尚可。
仕事をしている人は金曜日の夜、お風呂に入り、パジャマ姿になってからパズルを開封しましょう。パジャマ姿こそ、パズルをするときの正装なのです。
誰かからの週末の誘いには断る勇気が必要です。
「何か予定があるの?」と相手は聞くでしょう。
「ごめん、実は今、パズルをしているんだ」
その一言で相手はもう、何も言ってはこないでしょう。
友情のひとつくらいは失われるかもしれない。しかしそれでいいのです。
パズルはそれくらい、危険と背中合わせな行為なのです。
電気ポットがあれば完璧です。ときどき紅茶とビスケットでブレークしましょう。
パズルを始めると時間の流れが歪曲します。気がつくと頭は真っ白になっているし、また気がつくと、遠い思い出の中を心が彷徨うことでしょう。パズルのピースがはまった瞬間、人生の意味が見つかるかもしれません。
パズル……。
この文章を読んで、パズルを無性にやりたくなった人が一人でもいるならば、この上ない喜びです。
もしかしてふざけているのか?
いえいえ、ちょっと頭がおかしそうに見えるかもしれませんが、僕は大真面目でこれを書きました。
あぁ、僕はもう限界。
7年ぶりに禁断のドアを開けてしまいそうです。
<2003-3-9>
近所のラーメン屋さんへ行って、ラーメン食べてきました。
そこは替え玉が無料なので、替え玉を頼んだら、予想以上にお腹一杯になってしまった。
日曜の夜は、なんか憂鬱です。
<2003-3-8>
マイケルジャクソンの反論番組を観ました。
前回日本テレビで放映された番組があまりにもすごかったので、今回は比較的冷静に観られました。
残念なのは、日本語訳の声優さんが日テレと違ったこと。
今回のマイケルの声ははっきりし過ぎていて違和感がありました。
やっぱり前回の、あのふわふわした語り口じゃないとなー。
インタビューって難しいですね。
切ったり張ったりするだけで、まったく同じ素材からまったく違う印象の番組を作ることができる。
僕たちがいつも観ているテレビ番組、そういった作為的な編集ばかりなのでしょうね。
僕は今回の反論番組がすべて正しくて、前回のものがすべて間違いだとは決して思いません。
だけど、マイケルを擁護するならば、せっかく1年にも渡って心を開き、協力してきた結果があの番組だとしたら、そりゃ誰だって怒りますよ。
<2003-3-6>
今、村上春樹の「海辺のカフカ」を読んでいます。
ちょうど上巻が読み終わったあたりですが、春樹ファンの人たちにとって、この路線は「あり」なのでしょうか?
確かに面白いけれど、僕の好きだった村上春樹はこれじゃないんですよね。
無意味に残酷で、無意味に女の子が都合よくて、無意味に主人公が悩んでいる。表現が直接的でひどく下品。
初期の作品もそういう無意味さで溢れていたけれど、そこには何故か変な説得力があった。だけど最近の作品は、すべてがプロットに見えてしまう。
村上春樹自身が、自分の初期の作品のパロディをやっちゃっている気がする。そして全然そこに近づけていない。
「ねじまき鳥クロニクル」でも思ったけれど、こういう書き方で世の中が残酷であることを訴えたいのかもしれませんが、読者はそんなことどうでもいいのです。
例えば「1973年のピンボール」にでてくる、荷物をまとめて田舎に帰る女の子が食器一式をくれるくだりとか、「中国行きのスロウボート」で山手線の反対周りに女の子を乗せてしまうくだりの方が、よっぽど訴えてくるものがあると思う。
芸術家の才能が枯渇していく様子を見るのは、辛いものです。
<2003-3-5>
先日の内村プロデュースからの1コマ。
「修学旅行のときに持って行くものといえば?」
「まず、行くという意思」(ドランクドラゴン 塚地)
<2003-3-4>
昨日の夜も今日も風が強いですね。
春一番らしいです。
僕は「季節風」って言葉、好きです。季節風が吹き荒れる国が好き。
モンスーンもハリケーンもサイクロンもウイリーウイリーもヤマセも春一番も好き。ついでにタレントの春一番も嫌いじゃない。
名前のついちゃう気象状況って、風しかないですよね?
いや、「梅雨」とかもあるけど、漢字の中に「雨」が入っているから説明くさい。
それに比べると……、
モンスーン、なんか暖かく湿ってそう。
ハリケーン、チョップとか出しそう。
サイクロン、純粋に強そう。
ウイリーウイリー、荒くれ者っぽい。
ヤマセ、ナマハゲみたいな顔で迫ってきそう。
春一番、雪がとけて川になって流れて行きそう。
なんだか風って、動物扱いのような気がするんです。だから好きなのかもしれない。名前で呼んであげるだけで、そこに意思のようなものの存在を感じる。古き良き時代の、人間と地球との親密な関係が、そこにだけ残されているような気がするのです。
関係ないけど「風」っていう漢字、よく見ると、睨まれているような気がしてきません?
漢字って不思議ですよね。記号として書いているときは何も考えずに書いたり読んだりしているけれど、同じ漢字を何度も何度も書いていると、だんだんとそれが気持ち悪くなってくる。この漢字、あってるっけ?って悩みだす。この字を他の人も同じように読んでくれるのか不安になってくる。変な気恥ずかしささえ感じる。
「風」という漢字を書くたび、僕は何故か、他の文字とは違って、この文字は生きているように感じます。今は呪われて紙の上に、そしてディスプレイの上にへばりついているけれど、へばりつきながらも、こちらをじーっと睨んでいるような、そんな気がしてしまいます。
<2003-3-2>
もう3月なんですね。
3月って、何かが終わりそうな空気と、何かが始まりそうな空気で落ち着きません。
何故かこのままじゃいけない気がする。
無意味に年を重ねている気がする。
関係ないけど、大江千里の「平凡」っていう曲、とても好きです。