「運のいい人」の作り方
テレビを見ていたら、アントニオ猪木さんがこんなようなことを言っていました。
「『この中で運のいい人、手をあげて』って言うと、恥ずかしそうに数人が手をあげるだけで、ほとんどの人は手をあげない。でも、こういうときに手をあげられるような人間にならないと、運は強くならない」
本当にそうだなぁと思いました。
私は、運などというものは、信じていません。この世の中に、運のいい人などいませんし、運の悪い人もいません。
しかし、良いことばかり起こる人生や、悪いことばかり起こる人生があるかと聞かれたら、間違いなく、それらはあります。
ですから、良いことばかり起こる人生を歩んでいる人は、「自分は運がいい」と感じるだろうし、周りも「あの人は運がいい」と思うことでしょう。
そういった意味では、運は存在すると言ってもよいのかもしれませんが、それは決して運ではないのです。
運を自分に引き寄せることなど不可能ですが、「運」を観察しようと思ったら、いつでも、簡単に出来ます。
例えば、1024人の人が、じゃんけんトーナメントをしたとしましょう。(じゃんけんの勝率は、純粋に50%と仮定します)
1回戦目で負けてしまった人を集めて、同時にビリ決定戦も行います。
そうすると、10回勝ち続けてこのトーナメントに優勝する人と、10回負け続けてビリになる人が、必ずひとりずつ出てきます。
このトーナメントを観戦している人からすれば、10連勝した人がいることは不思議でも何でもありません。そういうルールだったからです。
しかし、優勝者にしてみれば、10回も連続でじゃんけんに勝てるなんて、「今日はとっても運が良かった」と感じるはずです。
途中から負ける気がしなくなったかもしれませんし、その感覚通り、本当に優勝してしまったわけです。
反対に、10連敗してビリになってしまった人は、「今日はなんてついていない日なんだ」と感じるかもしれません。
でもそれは、本当は運ではありません。ただ、確率の1パターンを偶然に経験しただけです。
もちろん、10連勝して「運がいい」と感じている人に向かって、「それは運ではない」などと言う必要は全くありません。
本人がそう感じ、気分が良いのですから、その邪魔をするのは野暮です。
運など存在しません。しかし人は、どうしようもなく、運を感じることがあります。
そしてその運は、自己申告です。
周りから見れば不幸にしか見えない人が「自分は運がいい」と感じていることもあれば、逆もあります。
「感じた者勝ち」です。
だとしたら、自分の「幸運」にひとつでも多く気づいて、「自分は運がいい」と感じる人生を送ったほうが、ずっと幸せなのではないでしょうか。
私たちは、すでに多くの「幸運」を、偶然に受け取っています。
例えば、日本に生まれたことに対して、「当たり前」というシールを貼っていたとしたら、「幸運」というシールに張り替えても良いと、私は思います。
何の努力をしたわけでもなく、何か実力があったわけでもなく、自分で選んだわけでもなく、私たちは日本に生まれました。
もっと貧しい国や、もっと危険な国に生まれる可能性はあったのですから、世界的に見れば、日本に生まれたことを「幸運」と呼んでも良いでしょう。(もちろん、もっと「幸運」と思える国が他にあったとしても、です)
また、この時代に生まれたことも、「幸運」と思って良いかもしれません。
今日、ご飯を食べられたこと、今夜、屋根のある場所で眠れること、今、インターネットを使えていること、それらも決して「当たり前」ではありません。
「この時代の日本に生まれ、毎日食べるものにも、住む場所にも困らず、インターネットを使いこなせる環境も能力もある」ということは、自分にとっては当たり前すぎていちいち「幸運」とは感じないかもしれませんが、それだけでも、人類が誕生してから今日まで、この星に生まれたすべての人の人生の中では、間違いなく「超幸運」なグループに分類されるし、そこに自分が入っていることに、もっと驚いてよいのかもしれません。
それは奇跡的で、全くの偶然で、そうじゃない可能性の方がずっと大きかったはずです。
私は運など信じません。
しかし、それでも無限にある確率の中で、幸せな側にある1パターンをここまで生きてこられたことについては、当たり前だと思っていないし、「自分は運がいい」と感じても良いのではないかと思っています。