セラピスト語
MXTVで放送している「松嶋X町山
未公開映画を観るTV」で、以前、「スーパー・ハイ・ミー」という映画を放送していました。
この映画は、マクドナルドの商品だけを食べ続けたらどうなるかを実験したドキュメンタリー映画「スーパーサイズミー」のマリファナ版で、マリファナを30日間吸い続けたらどうなるかを実験したドキュメンタリー映画です。
映画の内容はさておき、自ら実験台となったダグは、定期的に医師の診断を受け、マリファナの影響を記録するのですが、そのなかで、精神的な影響がでていないか、カウンセリングを受けるシーンが出てきます。
カウンセリングを受けた後のダグが、こんなことを言います。
「だからカウンセリングは嫌いなんだ。
"セッションの前に一服したいのかな?"とかさ。
それに言い方がまわりくどい。
"私がハイになる時は君にもなって欲しいと君が思ってることに気づいてほしいのかな"
ワケわかんないよ」
僕はこのシーンを観て、思わず笑ってしまいました。
エリクソンの影響なのかどうかは解りませんが、何でもかんでも許容語で話さなければいけないという風潮が、もしかしたらアメリカのセラピストの間ではあるのかもしれませんね。
……と言いつつ、全然僕も人のことは言えなくて、↑この文章も、「もしかしたら」「かもしれない」と、逃げまくりなわけです。(^^;;
翻訳物の文献を読むと、"私がハイになる時は君にもなって欲しいと君が思ってることに気づいてほしいのかな"的な訳文がたくさん出てきて、翻訳が悪いのか、それとも原文を読んだアメリカ人も同じ違和感を覚えるのか、ダグの言っている通り、言い方の回りくどさが尋常ではありません。
抵抗を回避するための許容語が、逆に「あんたいったい何が言いたいんだよ!」と相手を苛立たせてしまったら、本末転倒です。
なんでこんなことを書いたかと言うと、先日、ある方に、「あなたのしゃべり方はフワフワしている!」と指摘されたからです。
そのときは「フワフワしていたらまずいのかな?」と心の中で思ったりもしたのですが、冷静に考えると、僕も知らないうちに、まわりくどい「セラピスト語」を話すようになってしまったのかもしれません。(あ、また「かもしれません」って言っちゃった)
まぁ、僕が「セラピスト語」を話す理由は、エリクソンの影響もありますが、それだけではなく、心のどこかで、人は理解しあえない、と認めているからだと思います。(もう、面倒なのでツッコミません・笑)
理解しあえなくても、相手がそう思っていること自体は尊重したいし、否定したくない。
同じく、自分の意見も、理解してくれなくていいから、そのままで許して欲しい。
そうなってくると、許容語を多用するしかなくなるわけです。
「太陽が地球の周りを回っているのだ!」と主張する人に出会ったら、何が何でも地球の方が回っていることを理解させたいとは、僕は思いません。
同じ信念体系を相手が持っているのなら、説明して理解してもらえる可能性もありますが、そうでない場合は、どんな武器を持ってしても、相手の考えを変えることなどできないからです。もちろん、もっと生死に関わるような、重大な意見の相違でしたら、出来る限り説明しようとするかもしれませんが、太陽と地球のどちらが回っていようと、その人との関係で何かが変わるわけではないし、自分の信じていることを、ひとつひとつ科学的に証明しろと言われたら、その場ではほとんどできないのではないかと思う。
ですから、そこで相手の意見を正すよりは、「ふうん、あなたは太陽が地球を回っているって思っているんだね」と、それを真実だと認めないまでも否定しない、このようなしゃべり方をするしかないのではないかと思うのです。
などと書きながらも、僕のことを知っている人は、「そうでもねぇよ」って思ってるかもしれない。
以前、「ゲシュタルトの祈り」について書いたことがありますが、できるだけそんな風に、そのままの相手を尊重したいという意思はあって、それが中途半端にでてきて、時々フワフワして見える、というのが本当のところでしょうか。
「直喩と暗喩」で書いたように、あえてズバッと言うこともあるのですが、この辺りのバランス感覚は難しいですね。
もちろん、相手との信頼関係が進んでいって、小さな違いなんて何でもないとお互いが感じられる状態だったり、心底共感している場合などは、セラピスト語なんて不要です。
僕は、人と人とが解り合うことよりも、解り合えないままで楽しくやっていける事の方が、ずっと大切だと思っています。
あれ、もしかして、こういった文章自体がフワフワしているのかな?
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