純粋な散歩
世の中には、散歩をする人と散歩をしない人がいます。
僕は散歩が学生の頃から大好きで、まぁ、人生を通して、ずっと暇人だからかもしれませんが、ちょっと歩いてこようかな、という感じで、用が何もなくても歩くためだけに外に出ることがあります。
散歩をしはじめた頃って、やっぱりどこか緊張していて、何か自分はひどく間違ったことをしているのではないか、という気持ちになったものです。
無理に例えるならば、缶ジュースをあけて、飲まずにそのまま流しに捨てるみたいな、そんな罪悪感じみたものを感じました。
缶ジュースをあけて、飲まずに捨てるのは、全くの無意味だし、かといって飲もうが捨てようが自分の自由のはず、だけれど悪いことをしている気分……。
散歩って、まさにそんな行為です。
何でこんなに散歩が好きなのか、自分でもよく解らなくなることがあります。あるいは自己を罰しているのかもしれません。
フワフワした雲でも浮かんでいようものなら、空を見ながらどこまでも歩いてしまいます。
趣味を訊かれたときに、一瞬の迷いもなく「散歩です」と答える人に逢ったことはありませんが、そんな人に逢える日を、心のどこかで楽しみにしている自分がいます。
「散歩」に似た概念は他にもありますが、あくまで「散歩」が好きなのです。
「ウォーキング」は、「あわよくば」という感じがとても下品に感じます。
「ハイキング」は、目的意識が強すぎて、散歩とは対極の概念です。
「登山」もしかり。
同じ散歩でも、「犬の散歩」には、義務感しか感じられません。
「徘徊」は、本人的には散歩ですが、周りがそう認めてくれないところが辛いところです。
純粋な「散歩」って、なかなか難しいのです。
恐らく、生まれてから一度も散歩をしたことがない(全く目的のない外出をしたことがない)人も結構いるのではないかと思う。
散歩をしたことがない人は、散歩をする人の気持ちなど、きっと理解できないのだろうな。