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パズル、或いは得体の知れない達成感について

 パズルって大好きです。
 最後にパズルをしたのは7年位前のことですが、この7年という年月は「たまたま」パズルをしないうちに7年過ぎてしまった、などという生易しいものではありません。
 怖かったんです。
 パズルを一度始めると、僕はもう、パズルのことで頭が一杯になってしまうから。
 途中でやめることができない。
 夜中何時まででもやってしまうし、人付き合いもどうでもよくなってしまう。
 僕にとってパズルとは、それくらい重いものです。そう、まさに麻薬です。
 だから新しいパズルを買うことができなかった。
 この7年間、何度もパズルが僕の心をとらえたけれど、僕は首をすくめてそれが通り過ぎるのをじっと待ちました。今はまだ、危険すぎる、と。
 わざわざ完成された絵や写真を切り刻んでバラバラにし、もう一度それを組み立てる。
 パズルという概念を持たずに成人した人にとって、その行為を理解することは不可能でしょう。
 何故パズルをするのか?
 パズルは僕らをどこへも連れて行ってはくれません。
 得られるのは完成したときに感じる得体の知れない達成感のみ……。
 しかしこの達成感は、大学合格にも匹敵する達成感なのです。
 パズルの魅力を一言で言うならば、この得体の知れない達成感にあると言えます。
 人はいろいろなものから達成感を感じます。大抵の場合、達成感とは、目的成就によって得られる副産物。しかし時には達成感があまりにも大きいため、そもそもの目的など、どうでも良くなってしまうこともあるのです。
 片思いだったときにはあれだけ好きだったのに、付き合い始めた途端に気持ちがさめてしまうことはありませんか? あれだけ欲しかったものなのに、苦労して手に入れた途端、それほど興味がなくなったものはありませんか? 希望の大学に浪人してやっと入学できたのに、目的を失ってしまう新入生はそこらじゅうにたくさんいるのです。
 パズルから得られる達成感はとても純粋。求めるべきものは完成されたパズルではもちろんなく、この達成感のみなのです。もし完成された絵や写真が欲しいのならば、素直にポスターや絵画を買えばよい。
 よく、完成したパズルをパネルに入れて飾っている人がいますが、そのような気持ちの悪い自己顕示欲は捨てるべきです。完成したパズルに用などないのです。
 パズルはひとりでするべき、孤独な作業です。誰かが既に始めているパズルを途中から手伝うなんて言語道断。全く意味のない行為です。それはひとりで乗り越えるべき試練であり、誰かの手を借りてしまうとせっかくの達成感も台無しです。
 断言しましょう。パズルに必要なのは情熱のみ。テクニックでカバーできる範囲はあまりにも限られています。早く完成できれば良いというものではない。いや、むしろ、完成までに時間がかかればかかるほど、費用対効果は大きくさえなるのです。
「この前、友達とパズルをしたの」
 高校の頃に付き合っていた恋人は僕にそう言いました。
 僕はその頃、無口なことがクールなんだと思っていたふしがあり、彼女もおしゃべりな方ではありませんでした。デートをしても、電話で話しても、ときどき沈黙が訪れ、その度に僕らは少しだけ居心地の悪い思いをしました。
 彼女がパズルの話題を持ち出したのは、そんな沈黙の後でした。
「パズル?」と僕は聞き返しました。
「そう。パズル、嫌い?」
 僕はパズルは大嫌いでした。イライラするし、時間がもったいない。パズルが好きな人の気が知れない。そのような忍耐力は、尊敬に値するとさえ思っていました。
「あまりしないな。パズル、好きなの?」
「好きかな。パズルすると間が持つのよね。話したいときはいくらでも話せるし、黙っていても不自然じゃないし……。だってパズルをしているわけでしょう」
 彼女の意見には不思議な説得力がありましたが、それが僕らの沈黙を解決するための提案なのか、ただの一般論なのか、最後まで僕にはよく判りませんでした。
 その彼女とは別れてしまいましたが、彼女のパズル談義はいつまでも僕の心に残りました。
 そしてその言葉はまるで呪いのように、大学に入った僕をデパートのパズル売り場へと導きました。
 パズルとの出会いは、まさに神の啓示だったのかもしれません。
 僕は大学時代からプー太郎時代まで、本当によくパズルをしました。
 その頃の僕は、することはなく、時間だけは腐るほどありました。決して比喩ではなく、実際に僕の時間の下の方はちょっと腐っていたのです。お金はなく、人ともあまり会いたくはありません。テレビを観ると虚しくなるし、本を読むと悲しくなりました。まさにパスルをするのにはうってつけの状況でした。
 パズルにとりつかれた僕には、もうパズル以外にするべきことはありませんでした。僕はパズルのために存在していたし、デパートに行儀よく並んでいるパズルは、すべて僕に組み立ててもらいたがっていました。
 来る日も来る日も僕はパズルをしました。
 いくつもの日が沈み、いくつもの朝がパズルとともに明けました。
 パズルだけが僕を理解していました。
 僕はもう孤独ではなかったし、退屈ではありませんでした。
 ただ、パズルが完成した後の激しい気持ちの振るえが収まると、次のパズルを始めるまでの少しの間、僕はどうしようもなくひとりぼっちになりました。
 パズルはある種、宗教的な行為です。
 BGMはなくても良いが、あれば尚よい。ショパンやベートーベンのピアノ曲などをチョイスしましょう。ついでに森永のチョイス・ビスケットがあれば尚可。
 仕事をしている人は金曜日の夜、お風呂に入り、パジャマ姿になってからパズルを開封しましょう。パジャマ姿こそ、パズルをするときの正装なのです。
 誰かからの週末の誘いには断る勇気が必要です。
「何か予定があるの?」と相手は聞くでしょう。
「ごめん、実は今、パズルをしているんだ」
 その一言で相手はもう、何も言ってはこないでしょう。
 友情のひとつくらいは失われるかもしれない。しかしそれでいいのです。
 パズルはそれくらい、危険と背中合わせな行為なのです。
 電気ポットがあれば完璧です。ときどき紅茶とビスケットでブレークしましょう。
 パズルを始めると時間の流れが歪曲します。気がつくと頭は真っ白になっているし、また気がつくと、遠い思い出の中を心が彷徨うことでしょう。パズルのピースがはまった瞬間、人生の意味が見つかるかもしれません。
 パズル……。
 この文章を読んで、パズルを無性にやりたくなった人が一人でもいるならば、この上ない喜びです。
 もしかしてふざけているのか?
 いえいえ、ちょっと頭がおかしそうに見えるかもしれませんが、僕は大真面目でこれを書きました。
 あぁ、僕はもう限界。
 7年ぶりに禁断のドアを開けてしまいそうです。 

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