低レベルのすすめ
高校1年の頃、偶然知り合ったふたつ上の他校の先輩が、自分の同級生についてこんな風に言っていました。
「うちのクラスはレベルが低すぎて話せるやつがいない。中学のときのクラスメートはすごいやつらばかりで、毎日レベルの高い話をしていた。今のクラスの連中は中学のときの俺たちよりもレベルが低い」
僕は彼がそう言うのを、話を遮らずに黙って聞いていましたが、聞き終わって、その歪んだ選民意識に、何とも嫌な気持ちになりました。
「レベル」という定量的に測定不可能な尺度で人を判断していることが納得できなかったし、たとえそれが彼にとっての事実であったとしても、「あいつらはレベルが低い」と言葉にしてしまう行為は、非常に恥ずかしい行為のような気がしたのです。
実際、彼はそれをすいた電車の中で、大声で話していたのですが、僕は周りの大人たちがこの発言を聞いて「わ、この高校生恥ずかしい」と心の中で思っているのではないかとヒヤヒヤしていました。
そもそも、レベルって何だよ、と僕は思いました。
彼が、「うちのクラスはみんな下品で話せるやつがいない」と言ったならまだ良かったのです。もちろんこの「下品だ」というのも主観ですが、言われている側には努力の余地があるからです。
仮に彼が僕に向かって、「君は下品だから話したくない」と言ったとしたら、僕は僕なりの品の良さを追及することができるかもしれない。
しかし、「君はレベルが低いから話したくない」と言われたら、僕はどうしたらいいのか判らないのです。品の良さを追求するより、レベルの高さを追求する方がずっと難しい。
もちろん彼は僕に対して「レベルが低い」と言った訳ではありませんが、こんな風に嫌な思い出として残っているのは、いつしか僕も「レベルが低い」とばっさり切られるんじゃないかと、無意識的に感じていたからだと思います。
それ以来、僕はこの「レベルが低い」という形容が大嫌いで、平気で「あいつはレベルが低い」とか、「あそこはレベルが低い」と言ってしまう人とは、仲良くなれないなぁって思います。まず、謙虚じゃないですよ。根拠なく自分を上に置いている。もし根拠があるなら、そんな曖昧な言葉を使うべきではないんです。自分の感じている優位性を理論的に、定量的に説明すればいい。それができないのであれば、わざわざ自分を上に置くのではなく、自分の優位性を歴史が証明するまで、黙ってみていればそれでいいんです。
僕は松本人志が好きですが、彼が「俺の笑いが通じないのは、俺の笑いのレベルが高すぎて視聴者が理解できないからだ。早く視聴者にこのレベルまで上がってきて欲しい」というようなことをラジオで言っているのを聞くたび、笑いを「レベル」というエンプティーワードで測ろうとしていることにがっかりします。
本当に視聴者のお笑いレベルが低いのであれば、それを高くするために、何を勉強すれば良いのか、何を訓練すれば良いのか、勉強でも訓練でもなければ、じゃあ何をすれば良いのか、はたまた、お笑いレベルは持って生まれたものだから、もう遅いのか、嘆く前にはっきりして欲しいのです。
「レベルが低い」と言い放つのは、自己満足に他なりません。
もしかしたらこの言葉を使いたがる人は、怖いのかもしれません。自分より下にいるはずの人が自分を追い越していくことが怖いのかもしれないし、実は自分は大したことがないという現実が明らかになるのが怖いのかもしれません。
不必要なプラス思考は、時に、不必要なマイナス思考よりもずっと害をなすのと同じで、自分はレベルが高いと思っている人ばかりが住んでいる国があったら、その国は、レベルが低いと思っている人ばかりが住んでいる国よりも、ずっとずっと住みにくい国なんじゃないかと思います。