【ケータイ版】はこちら

生きることに意味はあるのか?

 生きることに意味はあるのか?、という問いを、誰でも一度は考えたことがあると思います。
 自分の中で意味が感じられるのであれば、もし他人が「それは意味にはならない」と言ったところで、その人にとっては「意味」になると思いますし、「意味などない」という答えを出しつつ、日々を生きていくことも、「答えなどない」と、意味を探すのを諦めて、現実生活にフォーカスすることもひとつの生き方だと思います。また、「生きる意味が解るまで一歩も動けない」気持ちになって、生涯それを探究するのもまた、ひとつの生き方ですね。

 料理の上手な友達に食事に招かれて、ストレートにその腕を褒めたい場合、「美味しいね!」って言うことができます。でももしかしたら、言われた相手はその言葉をお世辞だと感じるかもしれません。
 お世辞ではなくそう思っていることを伝えたいのであれば、「美味しいね!」ではなく、「どうしてこんなに美味しく作れるの?」と質問してみるのが良いと思います。
 「美味しいね!」と言われると、「この料理は<美味しかった>のかもしれないし、<不味かった>のかもしれないけれど、たまたまこの人は<美味しい>という言葉を選んだ」、というニュアンスがあるので、お世辞に聞こえます。しかし「どうしてこんなに美味しく作れるの?」と言われると、美味しいか不味いかではなく「どうして美味しいのか?」が問われることになり、「美味しい」ことは前提となるので、言われた側は「美味しい」ことを否定できなくなるのです。
 このような、言いたいことを前提とする話し方を、ダブルバインドと呼びます。

 「生きることに意味はあるのか?」
 僕はこの問いも、ダブルバインドだと思うのです。
 「生きるか? それとも死ぬか?」を問うているのではなく、「生きることに意味はあるのか? それともないのか?」が問われていますね。「生きる」ことは前提になっています。

 生きることの意味を問うことは、何故か「死」、それも「自殺」を連想させます。「意味がないのならば存在してはいけない」というような切羽詰った感じがこの問いにはあるように思う。毎日毎日、「どうして生きているんだろう?」と口癖のように言っている人は、周りからは「この人は自殺してしまうのではないか?」と心配されてしまうでしょう。
 しかし、カミュが「シーシュポスの神話」の中で、「熟考の末に自殺する人はいない」と言っているように、自分の命と真剣に向き合おうとする人は、そう簡単には死なないように思います。何故かと言うと、「生きることに意味があるのか?」を考えれば考えるほど、「生きる」ことが前提になるからです。

 もし、料理を作って誰かと食べるとき、失敗して自分ではあまり美味しくないのにも関わらず、相手が「どうしてこんなに美味しく作れるの?」と大喜びしてくれたら、皆さんはどう感じますか? しかもそれが何回も続いて、「作り方を教えて欲しい」と本気で頼まれたらどうでしょうか。相手が一流レストランのシェフだとしたら、どうでしょうか。
 最初感じていた「あまり美味しくない」という感覚に、だんだん自信が持てなくなってきて、何が美味しいのかが判らなくなってしまうかもしれないし、その美味しくないはずの料理が、次第に美味しく感じられるようになるかもしれませんね。
 人間は、逃げられない状況(何回も同じことがある、一流シェフがそう言っている)で、矛盾するふたつのメッセージ(あまり美味しくないが、皆は喜んでいる)が提示されると、その矛盾を無意識的に解決しようとすることがあります。その結果、逃避(何が美味しいのか解らなくなる)することもあれば、洗脳(それが美味しいと感じられるようになる)されることもあります。

 人生がうまく行かなくて、「生きることに意味はあるのか?」と悩んでいるときも、これと同じ状況にあるのではないかと思います。
 「生きる」という逃げられない状況下で、人生に意味を感じられず、それ故、「意味がないのならば存在してはいけない」という矛盾を感じていると、何かに逃避したり、何かに洗脳されたりするようになる可能性が高くなります。
 逃避や洗脳が良いことなのか、悪いことなのかは、また別の話ですが、僕は、誰もが生きることに意味を感じていなくても良いと思っています。生きることに意味があってもなくても、それを追求していても、追及することを投げ出していても、逃避していても、洗脳されていても、とにかく生きていること。死なないでいること。それ以上に大切なことはないのではないかと思います。
 「とにかく生きていて下さい」と言うと、すぐに「何で生きていなければいけないのですか?」と、元の問いに戻ってしまいますが……。
 生きている限り、希望があるかもしれない。
 僕はそう思っています。 

催眠療法で癒しを体験してみる部屋