一人暮らしの夕暮れ
この2月で、祖母が亡くなって10年になります。
祖母は明治生まれ。祖父の仕事の関係で台湾に転勤後、祖父を兵隊にとられ、終戦間際には同じ日本人町の人たちと、集団自決する寸前まで追い込まれた、戦争に人生を狂わされた世代のひとりです。
4人の子供と、11人の孫に恵まれ、祖父も終戦後、無事に帰ってきましたが、祖父に先立たれ、晩年は一人で多くの時間を過ごしました。
亡くなるまでの1年ほどの間は、私は毎週1度、金曜日の夜に祖母を訪ね、一緒に食事をし、色々な話をしました。祖母はとても優しい人で、祖母と過ごした時間の中に、嫌な思い出はひとつもありません。私が子供の頃は遠くに住んでいましたし、自分がおばあちゃん子だという自覚もなく、孫の中で特別に可愛がられたわけでもありませんが、私は祖母が大好きでした。
明治の女ですし、戦争で辛い思いをたくさんしてきた人なので、昭和生まれの私とは比べ物にならないくらい、芯の強さがあり、亡くなるその日まで、自分の脚でトイレに行ったほどです。物事の悪い面に目を向けても何も変わらないことを人生を通して学んできたのでしょう、基本的に弱音を言うことはありませんでした。
それでも体が不自由になり、昼間は孤独と闘い、することも、するべきこともない日々が長く続くと、ときどき「はやく死にたい」と言うことがありました。祖父が亡くなってから15年も経っており、趣味だった庭仕事もできなくなり、ただ、庭を眺め、ときどき鳥がやってくるのをじっと待っているような、そんな毎日でした。
子供たち(私の母とその兄弟)は、祖母がそんな弱音を言うと、「そんなこと言うものではない」と全力で励まし、長生きさせようとしていましたが、私は毎週祖母に会っていると、祖母の気持ちがとてもよくわかったので、祖母が「死にたい」と言うたびに、その気持ちを否定しないで、祖母の思いをすべて聞いていました。
祖母が亡くなったとき、お葬式ではたくさん泣きましたが、それよりも、「おばあちゃん、良かったね」という気持ちの方がずっと大きく、大好きな人が死んでしまった喪失感は全く感じませんでした。祖母はその日に亡くなったわけではなく、1年間、会うたびに少しずつ、あちらの世界へ近づいていっているのを感じていましたので、私の中では、十分な準備ができていたのだと思います。
祖母は几帳面で、日記をつけており、それとは別に、何かあるたびに、和歌を作っていました。お葬式の前日、記念になるものを作りたいと思い立ち、祖母の日記と和歌、そしてアルバムをあずかって、徹夜をして記念誌を作りました。
先日、ふとしたきっかけで、10年ぶりにその記念誌を読み直しました。祖母は10年前に亡くなりましたが、その中ではまだ、元気に生きていました。私は読みながら、お葬式では感じなかった、大きな喪失感を覚え、何度も胸がつまりました。
最期の1年間、十分、祖母の話を聞いてきたつもりでしたし、後悔はありません。それでも、1日でもいいから祖母が生き返って、もう一度お話ができたらどんなに素敵なんだろうと、そんなことを思いました。
記念誌の中の一部をご紹介します。
「一人暮らしの夕暮れ1」というタイトルがつけられている散文で、これは祖母が80歳のときに書かれたものです。(祖母は92歳で亡くなりました)
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「一人暮らしの夕暮れ1」 (昭和63年5月6日)
老いて一人暮らしの夕暮れ、大きな「クシャミ」が連続3回。
よい噂かな? 悪い噂かな? まあ、どちらでもかまわない。なぜなら……
この世で誰か私を話題にしていて呉れる人が居ると思っただけで、私は喜ぶのである。
今日もよく働いた。趣味に生きる毎日は素晴らしいことなり。
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