「ありふれた奇跡」のありふれた心理誘導
「ありふれた奇跡」第五話を観ました。
以前は否定的ダブルバインドを中心に、加奈のコミュニケーションや、それに対する翔太の反応について書きましたが、今回は、短い会話の中に、分離法、驚愕法、友達のジョン話法、治療的ダブルバインド、ドアインザフェイステクニックなど、多くのテクニックが凝縮されたシーンがありましたので、ご紹介したいと思います。
加奈 「気になってたの」
翔太 「何するか判らない人だな」
加奈 「謝った方がいいと思って」
翔太 「あのときの俺にとっては、あれがベストだった」
加奈 「でも、謝った方がいいと思った」
翔太 「解るけど……」
加奈 「片がつくことは、片をつけておきたいの」
翔太 「うん」
加奈 「片がつかないことがあるでしょう。片をつけたくても」
翔太 「うん」
加奈 「だから、片がつくことは片をつけておきたい」
翔太 「うん」
加奈 「そうじゃないと、ストレスでいつの間にかへたばってくる」
これは、翔太の作業着が原因で言い合いになった喫茶店の店長に、加奈が謝罪した直後の会話です。
翔太にしてみれば、加奈に登らされた梯子を外された格好ですから、多少は複雑な心境だったのでしょう。「あのときの俺にとっては、あれがベストだった」と、自分はそんな気にはなれないことを告げていますし、加奈が謝ったことについて、「解るけど(謝る必要なんかないのではないか)」と、納得していない様子です。
加奈は「片がつくことは、片をつけておきたいの」と、自分の行動について説明しています。
これは分離法の一種だと思います。
分離法とは、本来、ひとつに見えているものを、あえて分離させることで、相手に受け入れやすくさせるテクニックです。
第二話でも解説しましたが、例えば、相手の「気持ち」が自分の気持ちと違う場合に、気持ちが違うことは認めつつ、「でも本心はそうではないんじゃない?」と言うことで、「気持ち」と「本心」を分離し、例え「気持ち」は違っても、「本心」は私と同じ意見なのだ、と相手に認めさせるような方法です。
つまり加奈は、店長に対する「悪かった」という気持ちもなければ、自分のしたことに対する後悔もないけれど、「(形だけ謝ることで)片がつく(=今後もこの店を利用できるようになる)ことは、片をつけておきたいの」です。
謝ってはいるけれど、それは形だけのこと、片をつけただけのことなのだ、と。
このように分離法を使われることで、翔太は加奈の行動に納得せざるを得ないのです。
翔太は「うん」と納得しているのですから、この話はここで終わっても良かったはずですが、加奈は「片がつかないことがあるでしょう。片をつけたくても」と話を続けます。
加奈はここで、「片がつかないことがある」とわざわざ強調することで、店長の話から、自分の中にある「片がつかないこと」に話をシフトしようとしています。しかし彼女は決して、自分からその「片がつかないこと」の話をしようとはしません。翔太の方からそれについて質問するのを、じっと待っています。
一緒にいる人が、「最近寝てないんだぁ」「睡眠時間が足りないと、疲れるよね」「本当はゆっくり眠りたいんだけれど」などと言っていたら、「どうして眠れないの?」と質問すると思います。本当なら、自分から眠れない理由を話してくれればいいのですが、自分からは決して理由を言わず、ただ「理由を聞いて欲しい」オーラを出しまくる人は結構いますね。
加奈もここで、それと同じことをしています。どうしてそんな回りくどいことをするのでしょうか。
実は、「どちらがその話題を始めたのか」というのは、相手と自分の上下関係を決める上では、とても重要なことなのです。
例えば、「自分の趣味」について話すとしても、自分から「私の趣味はね」と話し始めるのと、相手の「あなたの趣味は何ですか?」という質問を受けて答えるのでは、意味合いが全く違います。前者は相手の方が立場が上ですし、後者は自分の方が立場が上です。つまり、自分から話しはじめた方、もしくは、質問している方が、立場は下になるのです。逆に、話を聞かされる方、質問される方は、立場が上になります。
初対面の相手といるとき、どちらも話しかけないで気まずく沈黙してしまうことがありますが、これは、緊張しているからだけでなく、上下関係がグレーな段階で、自分から話しかけることでわざわざ自分の立場を下げたくない、と無意識的に思っているからでもあります。
加奈は翔太に、「片がつかないこと」について質問させることで、自分の立場を上に置こうとしています。
この「立場が上」というのは、上になれば良いという単純なものではもちろんありません。愛する人と愛される人では、愛する人の方が立場は下ですが、愛する人の方が幸せな場合は多々あります。
加奈は人と接するとき、自分の立場を上に置き、絶えず自分が状況をコントロールできないと、不安で仕方がないようです。
翔太 「何?」
加奈 「ん?」
翔太 「片がつかないことって」
加奈 「結婚したら……」
翔太 「結婚?」
翔太は、加奈の思惑通り、片がつかないこととは何のことなのか、質問をします。
この、加奈の「結婚したら……」ですが、驚愕法(混乱法)と呼んで良いと思います。
驚愕法とは、びっくりすると頭が真っ白になり、一時的に周りの影響を受けやすくなるという人間の性質を利用した、暗示を入れる方法です。
頭が真っ白になると、正常な状況判断ができず、次にどんな行動をすれば良いのか判らなくなってしまうことがあります。そんなときに、近くにその状況に飲まれていない人がいたら、自分の頭は使い物にならないわけですから、その人の頭(状況判断能力)をそのまま借りて、状況に対処しようとします。その人に対して無批判になるし、主導権をそっくり預けてしまいます。
見知らぬ外国でトラブルに見舞われたら、現地に長く住んでいる友人の意見には何でも従います。オレオレ詐欺で、家族のふりをしている犯人の「事故をおこした」「警察に捕まった」という言葉を信じてパニックになったら、言う通りにお金を振り込んでしまいます。これらはすべて、主導権を相手に預けた結果です。
ついこの前まで、加奈は翔太に対して「デートではなく会いたい」と、恋人になることを拒否していました。それが突然、恋人を通り越して結婚ですから、翔太は相当驚いたはずです。翔太の頭は一時的にオーバーロードし、立ち直るのに時間がかかります。そして加奈は、翔太の頭の復旧をまたずに、矢継ぎ早に次のしかけをしていくのです。翔太は加奈に、影響され、無批判になり、主導権を握られます。
加奈 「仮によ。仮に、誰かと結婚したら」
翔太 「うん」
「仮に、誰かと結婚したら」という言い方は、友達のジョン話法(マイ・フレンド・ジョン テクニック=my friend John technique)の一種です。
友達のジョン話法というのは、自分の意見を、まるで他人の意見や体験のように言うことで、相手に否定できなくさせるテクニックです。
例えば、「○○さんって、歌が上手いよね」と言われたら、○○さんは謙遜して「そんなことないですよ」と否定することができます。しかし、「僕の友達のジョンが、○○さんは歌が上手いって、感心してたよ」と言われたら、○○さんはそれを否定することはできなくなります。○○さんを褒めているのは僕ではなく、ジョンなわけですから、否定のしようがないのです。
ここで加奈が、「私と結婚したら……」という話をしたとしたら、翔太はその会話に、ストップをかけることも出来たはずです。結婚の話をする前に、この関係は一体何なのか、もう先に進んでも良いのか、その準備は加奈にできているのか、翔太には確認したいことがたくさんあるからです。
しかし加奈は、「誰かと結婚したら」と仮定することで、これらの質問をすべて回避しています。そして、回避しつつも、自分と結婚することを翔太にイメージさせることで、それを暗示しているのです。
加奈 「子供、6人は多すぎる?」
翔太 「6人?」
加奈 「じゃあ、5人は?」
翔太 「5人て、そんな甲斐性、俺ないし」
「子供、6人は多すぎる?」というのは、治療的ダブルバインドです。
「結婚したら、子供は欲しい?」という質問だったら、翔太は、子供が欲しいのか、欲しくないのか、欲しいとしたら、何人欲しいのか、自分の思ったことを答えることができたと思います。
しかし、「子供、6人は多すぎる?」という質問は、子供が欲しいか、欲しくないか、ではなく、6人は多いか少ないかを聞いていますので、子供を作ることが前提になっています。つまり、この質問に、YESと答えても、NOと答えても、翔太は子供が欲しいことを認めることになるのです。
更に、「6人」というのは、ドアインザフェイステクニックにもなっています。
ドアインザフェイステクニックとは、わざと大げさな提案をし、それを相手に否定させることで、相手に罪悪感を感じさせ、こちらの本当の要求を飲み込みやすくさせる方法です。
それほど親しくない会社の同僚に、「どうしてもお金が必要だから、10万円貸して欲しい」と頼まれたとします。10万円はちょっと貸すことができない、と断った後、「ならば、5千円でもいいから貸して欲しい」と言われたら、さすがに2回連続では断りにくいですよね。そして、「5千円くらいなら」と貸してしまうのではないでしょうか。
実際この後、翔太は「3人くらいなら何とか行けそうな気がする」と言っています。「でもこういうことは相手のある話だし、産むのは俺じゃないんだから、その人次第で、5人でも6人でもいい。子供、嫌じゃないし、俺は一人っ子で淋しかったから、子供は兄弟がいた方がいいと思ってる」と、子供を多く持つことに対し、積極的にさえなっているのです。
加奈は子供を産むことができません。
「罠にかけたようになって、ごめんなさい」と自分で認めているように、加奈は子供が産めないのに、「子供、6人は多すぎる?」と、翔太に鎌をかけていたのです。
彼女は翔太に「子供がたくさん欲しい」と言わせることで、何がしたかったのでしょうか?
この後のメールで加奈は、「子供を産めないこと、どうってことないって言ってくれたの、嬉しいけど、子供が好きで、5人でも6人でもいいとも言ったんですよ」と、翔太を責めています。でもこの主張は間違いです。翔太は自分の意思で「5人でも6人でもいい」と言ったわけではなく、加奈の誘導尋問でそう言わされたのです。そして、彼は一度も「子供が好き」とは言っていません。「子供、嫌じゃないし」と言ったのです。それがいつの間にか、加奈の中では「子供が好き」にすり替わっているのです。
加奈は、そんな必要は全くないのに、わざわざ翔太に失言をさせて、それを責めることで、改めて二人の関係の主導権を握ろうとしているように思えます。
もちろん、誘導尋問を潜り抜けて、「俺は子供なんて欲しくない」と翔太が答えることを、加奈は初めから期待していたのかもしれません。(ただ、これだけの心理誘導を使われては、例えその気がなくても、「いずれは子供が欲しい」くらいのことは言ってしまうと思います)
もしかしたら加奈は、自分でも自分が何をしたいのか、何を求めているのか、判らないまま、結果的に翔太を翻弄しているのかもしれません。
いずれにしても、興味深いのは、恋人ですらない二人が(事実はどうであれ、二人の間では、恋人ではないということになっています)、恋人になることや、結婚することを飛び越えて、子供のことでぎくしゃくしている、ということです。
そして、この状況自体が、大きな意味での治療的ダブルバインドになっています。ふたりはすでに「きれいだとか、そういうこと言う付き合いじゃない友達」では決してありません。恋人かどうかなどはすでに話し合いの議題にもならず、結婚するかどうかを考えていく段階、いや、それさえ通り越して、「片をつけられない問題」に対し、ふたりでどう折り合いをつけて一緒に生きていくのかを考えていく段階に来ているのだという空気が、二人の間にはあって、翔太は好むと好まざるとに関わらず、この状況から逃げ出すことすらできなくなっているのです。
この空気は、すべて加奈によって作られたものです。
加奈はまるで、自分で勢力や行き先を決める事の出来ない台風のように、翔太を有無を言わせず巻き込み、進んでいるように見えます。
観ていてちょっと恐ろしいのは、翔太のまっすぐな気持ちに比べると、いつまでたっても、加奈の気持ちは気まぐれに見えてしまうところです。
そこに巻き込めるものがあったから巻き込んでみた、誰でも良かった、そんな雰囲気がいつまでも消えないのは、彼女の美しさ故でしょうか。
加奈が、救いを求めているのは確かです。
しかしこのままでは、こんなにも優しい翔太でさえ、加奈を救えないかもしれないし、加奈が救われないだけでなく、翔太まで一緒に落ちて行ってしまうのではないかと思いました。
本来、この人生は、すべて自分のものです。
どんな風に生きても自由。どんな風に生きなくても自由。
やりたいことは何でもやっていいし、やりたくないことは、何もする必要はないはずです。
それが解っていても、自分の人生が、多くのしがらみや、逃げ出せない状況、理由なく背負わされている義務で埋め尽くされており、身動きが取れない現実に、呆然とすることがあります。
もし、そのような閉塞感を感じている方がいらっしゃったら、自分が誰かの無責任な台風に巻き込まれていないか、考えてみてください。
子供の話が出た途端に、翔太と加奈の関係が、翔太の意思とは関係なく、何段階も先に勝手に進んでしまったのと同じ様に、誰かによって作られた状況が、自分の心に勝手に刷り込まれ、自由な行動や発想を奪い、自分を行きたくない場所に行かせ、やりたくないことをやらせ、あたかもそれを、自分で選んでいるかのように錯覚させる。
そんなことが起こり得るのだということを、是非、覚えておいてください。
どんなに心地よい関係においても、いつでも逃げ出せる「非常口」を作っておくことは、自分を守るために必要なことだと、僕は思っています。
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